第1章 第31話:灯火と影法師 ― 吊り灯りの下で
湖で揺れた声。
生まれかけた影。
そして夜。
街の灯りは人を照らし、
影はその下でそっと息をする。
影は、まだ名前がない。
けれど——今日ははじめて、立ち止まる。
夕暮れが深く沈み、
街の吊り灯りがひとつずつ灯りはじめた。
パン屋の前、
広場の角、
子どもたちが昼間遊んだ水場のそば。
温かな光が柔らかく揺れ、
それを見守るように夜風が流れる。
リオナはゆっくりと歩いていた。
水庭の掃除をしてから、
気持ちを沈めるように、
ただ街を感じるための散歩。
灯りの下で人々が笑い、話す。
小さな子が母の手を握り、
商人が店を閉じ、
老人が椅子に座り夜風を楽しむ。
(この街は、今日も穏やかだ)
そう思えた瞬間、
やわらかな音が響いた。
しゃん……
風鈴のような、鈴のような、
小さく、かすかで、寂しさの滲む音。
リオナが立ち止まると、
ゆらり——吊り灯りの影が揺れた。
そしてその足元に、
昨日まで“ただ寄り添っていた影の子”が
そっと現れた。
小さな背。
うずくまりではなく、立っていた。
怯えでも徘徊でもなく、
「そこにいる」意志を持った立ち姿。
影は、灯りの少し外側にいた。
光に触れず、でも離れすぎず。
リオナは声を出さず、
そっと近づき、灯りの下で立ち止まった。
影はわずかに揺れた。
逃げない。
消えない。
ただ、迷っている。
リオナは静かに問いかける。
「痛い?」
影は小さく震える。
涙も声もない。
けれど“胸の奥が軋む”気配だけが
はっきりと伝わった。
「光が眩しい?」
影はゆっくりと否定するように揺れた。
(光が怖いわけじゃない……
でも、光に入る勇気がまだない)
灯りの下、
人々の影が地面に長く伸びている。
その中に、影の子の輪郭は
ほんの少しだけ混ざりそうで、混ざれない。
リオナはそっと、つぶやく。
「混ざらなくていいよ。
無理に形にならなくていい」
影がふるりと震えた。
その揺れは、安堵の揺れだった。
リオナは灯りの下に手をかざし、
指でそっと空気を撫でる。
影はゆっくり近づいた。
灯りの輪の境目——光と闇の境界線で止まる。
そして——
「……ここ、でも……いい……?」
かすれた声。
とぎれとぎれで、
それでも確かに言葉。
リオナは微笑んだ。
胸の奥に、静かな光が灯る。
「もちろん。
ここでいい。
君が心地いい場所なら、どこでも」
影は少しだけ背筋を伸ばした。
灯りに入らず、でも輪の外でもなく、
境界線という“居場所”を選んだ。
その姿は、
泣きもしない、笑いもしない。
ただ、ここに“いる”。
風が吹き、吊り灯りが揺れる。
影は、もう逃げなかった。
リオナは空を見上げる。
星が滲み、夜が深まる。
(名前はまだいい。
形もまだいい。
今日の“ここにいたい”という一歩だけで、十分だ)
影はやがて薄れ、夜気に溶けた。
けれど、消えたのではない。
この街に、残った。
リオナはそっと胸に手を当てた。
「……ありがとう。来てくれて」
吊り灯りの下、
影はもういなかった。
でも、“存在の温度”だけは、確かにそこにいた。
影は今日、立った。
消えず、怯えず、
ただそこに“いていいか”と尋ねられた。
光の端、影の端。
その境界線で立ち止まることは、
逃げでも停滞でもない。




