第1章 第29話:揺らぎの兆し ― 街の片隅で聞こえた咲かない声
影は声を探し、
光は涙を覚えた。
その間にあるのは、
咲こうとして、咲けない心。
声にも泣き声にもならず、
ただ世界の端で震えている“芽”のような存在。
リオナは今日、
その静かなかすれを拾い上げる。
少女の家を出て歩く道は、
昼の光と、朝の余韻がまだ混ざる時間帯だった。
遠くで子どもが走り、
パン屋の鐘が軽やかに響く。
洗濯物が風に揺れ、白い布が空を切る。
“いつもと同じ日”
——のはずなのに、
リオナの耳には、まだあの子の声と涙が残っていた。
「ありがとう……は、いま言えた」
小さなその言葉は、風鈴の音のように胸に残る。
(光も影も、心が形を探しているだけなんだ)
そう思うと、世界が少しだけ切なく見えた。
その時だった。
……かさ……
微かな揺れ。
音というより、思いの擦れ合う感触。
リオナは歩きながら、路地の影に目を向ける。
そこには、小さな空き花壇があった。
木箱の中に土はあるが、花は咲いていない。
枯れているのではない。
ただ、“芽吹いていない”。
(……誰かが植えたけれど、忘れた?)
リオナはしゃがんだ。
手を土に近づけると、微かに“気配”が触れた。
揺れ、ため息、
けれど涙にはならない。
「……うまれたい」
耳ではない。
心の奥に、そっと触れた気持ち。
(芽……?
まだ咲けずに、ここにいたんだね)
リオナは土を優しく撫でる。
何も起こらない。
光も揺らぎも出ない。
けれど温度が、伝わる。
土は冷たくなく、どこか寂しげな温度だった。
「焦らなくていい。
誰にも急かされなくていい。
ここにいるってことだけで、もう芽がある」
風が通り、埃が光にきらめく。
その瞬間、土の中から小さな音。
……ぽとり……
露のような滴が一粒、土を湿らせた。
涙ではない。
それは——
芽が心の中で呼吸した音。
(いまは、これで十分)
リオナは土をそっと整え、木箱の位置を日向へ寄せた。
「誰かが水をやる日が来たら……
きっと君は、それを迎えられる」
土は静かに震え、
答えの代わりに、風が花壇の端を撫でた。
リオナは立ち上がった。
遠くで子どもの笑い声が聞こえる。
光の涙。
影の声。
そして今日、
“咲かない声”とも出会った。
世界は静かに揺れている。
優しさと孤独は隣り合い、
それでも、歩みは続く。
(光も影も、芽吹く時を選ぶ。
僕ができるのは——見守り、聞くだけ)
そんな思いで歩き出した時、
屋根の上から小さな影がそっと顔を覗かせた。
昨日の“影の子”だ。
だが今日は、もうひとつ小さな気配が寄り添っている。
リオナは空を見上げて、穏やかに笑う。
「……ここにいればいい。
君たちの歩幅で」
風がまた吹き、
花壇の土を柔らかく揺らした。
ひとつの涙、ひとつの影、ひとつの芽。
光と影の間には、芽吹けない心がある。
それは不幸でも失敗でもない。
ただ、準備がまだ整っていないだけ。
世界は急がない。
心も急がなくていい。
そしてリオナはただ、
耳を澄ませ、そっと寄り添う。




