第1章 第27話:朝靄と訪問者 ― 予感の足音
影は声にならない声をこぼし、夜風に消えた。
そして朝。
街はいつもどおりに始まる——
パンが焼ける香り、子どもの笑い声、洗濯物が揺れる音。
ただ、今日はひとつ違う。
扉を叩く音が、いつもより慎重だった。
そこに立つのは、新たな“揺らぎ”の持ち主。
朝靄が薄く漂い、光が青白く庭を染めていた。
水庭の睡蓮の葉に露が丸く乗り、
リオナは指先でひと粒そっと弾く。
昨夜の影の声が、まだ心の奥底で震えていた。
言葉にならない震え。
けれど、確かな命の証。
(……ちゃんと聞こえた。あれは“生まれかけた心”)
そのとき——
コン……コン……コン……
控えめだが、深く響くノック。
急ぎでも、怯えでもない。
何か“決めて来た”人の音だ。
「はい、どうぞ」
扉を開けると、そこにはひとりの若い男が立っていた。
茶色の外套、端正な顔立ち、神妙な表情。
見た目は店の店主か学徒だろうか。
だが彼の目は、心に迷いを抱えた者のそれだった。
「……観測士、リオナ様でしょうか」
「リオナでいいですよ。どうされました?」
男は胸に手を当て、深く頭を下げる。
「私はハルトと申します。
妹が……夢の中で“光を見た”と言っております。
その光が怖くて、眠れないと」
(光を……怖がっている?)
昨夜の影とは逆。
“影ではなく光”に怯えている揺らぎ。
ハルトは続ける。
「誰かに呼ばれるような……でも、暖かくて……
それでいて涙が止まらないのだと。
医師も祈祷士も、理由が分からず……」
声が震える。
姉弟の絆の深さが滲んでいた。
リオナは穏やかに頷く。
「妹さんを、少し見せてもらえますか」
ハルトは安堵の息を漏らし、しかしすぐに問いかけた。
「……干渉しない、のでしょう?」
リオナは優しく答える。
「ええ。“触れる”必要があるとき以外は、見守ります。
でも、見ることと寄り添うことは違いますから」
男の瞳に、少し光が戻った。
それは“信じたい”という心の開き方。
「……お願いします」
ちょうどその時——
庭の竹垣の向こうに、かすかな影が揺れた。
昨夜の小さな気配。
見守るように、怯えるように。
しかし今日は——
そこに別の気配が重なっている。
白い霧のような、
音も色もない、淡い揺らぎ。
(……二つ目の存在?)
リオナは誰にも気づかれぬよう、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
力を使わず、ただ“感じる”。
片方は、昨夜泣きかけた小さな影。
もう片方は——
光に似た、でも満たされない“空白”の揺らぎ。
(この街で、心が揺れる人が増えている……?)
風が庭を抜け、睡蓮の葉がざわりと揺れた。
水面に朝の光が跳ね、
一瞬、影と光が交差するように見えた。
リオナは静かに顔を上げ、ハルトに微笑む。
「行きましょう。
どんな揺らぎも、まずは“知る”ことです」
ハルトは深く頷き、道案内のため歩き出した。
リオナは水庭に一度振り返る。
睡蓮の上で、朝露がひとつ弾けた。
(光を怖がる心と、影のまま泣きそうな心。
どちらも、いま世界の端で震えている)
歩き出す背へ、風が優しく触れる。
リオナは小さく息を吸い、静かに呟く。
「大丈夫。
焦らなくていい。
光も影も、帰る場所はあるから」
朝靄の中、
二つの揺らぎがゆっくりと溶けていく。
人は影に怯えるだけでなく、
光にも怯える。
それは弱さではなく、
心がまだ形を探している証。




