第1章 第25話:揺れる影と夕暮れの灯
日常は戻り、街に風が満ちる。
リオナもまた、穏やかな時間を噛みしめていた。
けれど夕暮れは、影が伸びる時間。
静かに寄り添っていた小さな気配が、
今夜、初めて「形」を求める。
夕陽が屋根を紅く染めていた。
リオナは縁側に腰を下ろし、今日も水庭の前で小さく息を整える。
昼間の風見鳥のこと。
子どもたちの笑顔。
街のざわめき。
どれもが心地よく、胸の奥があたたかい。
(ああ……こういう日が続けばいい)
その願いは、本当に素直なものだった。
戦うことでも、偉大なことでもない。
ただ“今日が明日へ続く”ことを祈る気持ち。
風が水を撫で、睡蓮が揺れる。
そのとき——
玄関の方から控えめにノック音がした。
トン……トトン……
不思議なリズム。
急いでいない。
でも、待ちわびているような音。
リオナが扉を開けると、そこに立っていたのは——
セリアだった。
昨日よりも顔色が良く、
けれどその瞳はまだ揺れていた。
「……リオナさん。
勝手に来て、ごめんなさい」
「いいえ。来てくれて嬉しいですよ」
セリアは手に小瓶を持っている。
中には透明な水と、薄紫の花弁が一枚。
「これは……?」
「夢を、怖がらずに眠れると聞いて……
昔、母が作ってくれていたものなんです。
でも、誰に渡せばいいかわからなくて……
ふと、あなたの家の前に立っていました」
迷いのある声。
でも、前を向こうとする意思があった。
リオナは小瓶を両手で受け取る。
その瞬間——
背後で、かすかな気配が揺れた。
音は無い。
でも、空気がひとしずく落ちたような感覚。
(……まただ)
リオナはそっと視線を横に動かした。
家と庭の境目、竹垣の陰。
薄い影が、かすかにうずくまっている。
セリアも気づいたのか、肩を震わせた。
「……誰か、いますか?」
「怖がらなくていい。
悪意は、ない」
リオナは確信していた。
あの影は、夜に泣いた少女にも、道を迷った風にも似ている。
“壊す”ためではなく、“戻りたい”ために寄ってきている影。
しかし——影は、今日いつもと違った。
霧のような揺れではなく、
黒い輪郭がうっすらと見えた。
小さな肩。
うずくまった背。
指先が膝を握りしめている。
子ども……?
いや——心の形なのかもしれない。
リオナは低く優しい声で言った。
「出てきても、いいよ」
影は震えた。
そして、ほんの少しだけ——
草の上に、黒い“足音”だけを落として後じさった。
セリアが震える声で言う。
「……もし、私の影だったら……どうしますか?」
「抱えろとは言わないよ。
でも、逃げなくていい。
影は、光があるところにいる。
あなたが生きてる証です」
セリアの瞳にまた涙が滲んだ。
だが、今回は少し違う。
泣き崩れるのではなく、ほどける涙だった。
「……ありがとう」
夕陽が沈み、空が群青色に染まる。
街の灯りがつき始め、遠くから子守歌の声が聞こえる。
影はやがて薄れ、消えた。
今はまだ、姿を求めきれない。
寄り添うだけの、迷える存在。
リオナはセリアに微笑む。
「また来てもいい。
あなたの影も、あなた自身も——
ここに居場所がある」
短い沈黙の後、セリアはうなずき、夜の街へ帰っていった。
扉を閉め、リオナは水庭の前に戻った。
睡蓮が夜露を吸い、静かに光る。
(影が形を求め始めている……
それは、悪いことではない)
ただ、次に出会うとき——
“寄り添うだけ”では済まないかもしれない。
そんな予感が、風の奥に潜んでいた。
影は逃げなかった。
そしてまだ、泣かなかった。
それは——戻ろうとする心の、最初の震え。
リオナは寄り添う。
セリアは少しだけ前に進む。
影はまだ、輪郭を探している。
すべてが静かに動いている。




