第1章 第24話:街の朝と風見鳥 ― 光は静かに根を張る
塔での緊張が解け、
リオナはふたたび、自分の場所へ帰った。
街の朝は変わらない。
パンの香り、子どもの声、風に揺れる布。
ただ一つ違うのは、
彼の心の奥で、静かに灯が根付いたということ。
翌朝の街は、やわらかな光に包まれていた。
縁側に腰を下ろし、リオナは水庭を眺める。
睡蓮の葉に落ちる朝露が、ゆっくり滑り落ちる。
(昨日は、長い一日だったな……)
肩の力を抜くと、ふわりと胸が軽くなる。
風が水面を撫で、薄い輪が広がった。
「今日は……何を見に行こう」
そのとき、扉を軽く叩く音がした。
「リオナさーん! いますかー!」
やや高い子どもの声。
外へ出ると、昨日助けたルーフと、近所の子どもたちが立っていた。
ルーフの顔は、もうしっかり笑っている。
「おはようございます、リオナさん!
あのね、今日は広場の風見鳥が止まっちゃってて……
風占いができないの! だから見てほしくて!」
広場の風見鳥。
風向きを読み、旅人や商人が天気占いに使う、街の習わしだ。
リオナは微笑んだ。
「風見鳥の具合が悪いのかな。行ってみようか」
「はいっ!」
子どもたちが元気よく走り出し、
リオナはその後をゆっくりとついていく。
街の広場に着くと、
中央の石柱の上にある風見鳥が止まっていた。
鳥の形をした鉄細工が、風を受けても微動だにしない。
近所のパン屋の主人が苦笑いしていた。
「朝からずっとこのままでな。
どうやら風を見失ったらしい」
リオナは風見鳥を見上げた。
そこには金属の冷たさとは違う、
“何かが迷った痕跡”のような揺らぎが見える。
(昨日……影の気配がついてきた。
あれは、恐怖ではなく“迷い”だった。
この風見鳥も——少し似ている)
「登ってみます」
脚立が運ばれ、リオナは上に上がる。
鳥の側面に指を当てると、ひやりとした感触。
次の瞬間、金属の奥に弱い風の記憶が残っているのを感じた。
(風が……迷ってる……?)
リオナは小さく囁いた。
「風は、どこに帰るべきか知ってるよ。
焦らなくていい。
ただ、一度止まって、思い出せばいいんだ」
指先にそっと意志をのせる。
光ではない。ただ**気持ちという“温度”**を。
風見鳥がわずかに揺れた。
そして、ふっ——と回り始める。
風が広場を横切り、
旗がなびき、木の葉が舞った。
子どもたちが歓声をあげる。
「わぁ! 動いた! リオナさんすごい!」
「パン屋さん! 東風だって! 今日は雨こないね!」
パン職人も笑った。
「助かったよ、観測士さん。礼にパンを持って帰りな」
リオナは笑い、軽く首を振る。
「ありがとう。でも、ただ指で触れただけです」
「それを“できる”のが大事なんだよ」
広場には、またいつもの空気が戻った。
子どもたちは走り回り、
店の人々は声をかけ合い、
風は街の屋根を軽やかに滑っていく。
リオナは石畳を歩きながら、空を見上げた。
(守る、じゃない。
変える、でもない。
ただ“流れを思い出させる”)
その時、風の中に、微かなざわめきが紛れた。
——かすかな、泣き笑いの声。
リオナは立ち止まる。
振り返ると、昨日感じた小さな影の気配が
屋根の上で一瞬揺れた。
だが次の瞬間、影は風に溶けた。
(また……来ている)
怖くはない。
ただ、迷子の心のようだった。
「……来るなら、ゆっくりおいで。
急がなくていい」
リオナは囁き、再び歩き出す。
パンの香りが強くなる。
温かい空気に包まれ、
陽光の中にささやかな幸せが広がる。
世界はまだ穏やかだ。
その穏やかさを守るように、
リオナはそっと息を吸い込んだ。
風見鳥は、未来を占うためではなく、
迷った風に道を思い出させるためにある。
リオナの優しさは小さな形で世界に沁み込み、
子どもたちの笑顔とともに、光の根を張りはじめた。
だが、風の影はまだそっと寄り添っている。
それは敵ではない。
ただ、“探している”だけ。




