第1章 第22話:上位観測室 ― 静かなる注視
寄り添い、見守り、揺らぎを抱きしめたリオナ。
その姿は、遠くから観測されていた。
三日後。
リオナは観測士として初めて、“世界の記憶に触れる塔”に足を踏み入れる。
そこには、善悪では測れない視線が待っていた。
三日間は驚くほど静かに過ぎた。
リオナは水庭の水を替え、街のベーカリーで小さな丸パンを買い、
夕暮れには丘の上で子どもたちの凧が空を切るのを眺めた。
日常は、誰かが望まなくても続く。
その温度を忘れないまま、リオナは旅支度を整えた。
朝、観測庁の馬車が迎えに来た。
クローディスは変わらず静かで、どこか誇らしげでもあった。
「今日は、地図も夢晶も置いていきましょう。
“観測しに行く”のではなく、見定められに行くのですから」
その言葉に胸の奥がわずかに緊張で波打つ。
だがリオナは笑った。
「大丈夫。僕は……いつもの僕で行きます」
馬車が街を離れ、長い坂を登る。
白い霧が流れ、石畳が静かに濡れてゆく。
やがて――
雲の上に突き出る巨大な塔が姿を現した。
音がない。
鳥の影すらない。
ただ、世界の“深い呼吸”だけが静かに響いている。
「ここが、上位観測室です」
扉は重く、黒曜石のような質感。
クローディスが軽く叩くと、音は吸い込まれ、静寂の波が広がった。
扉が開く。
中は白く、何もなかった。
広い空間に柱すらない。
ただ、中央に一本の長い光の線が浮かんでいた。
(なにも、ない……けれど、満ちている)
リオナは一歩踏み込む。
足音が吸い込まれる。
息が、少し重い。
「あれは……?」
「“記録軸”です。
世界の根源に流れる観測の線。
過去と未来、存在と忘却を隔てる境界」
光の線はゆっくり揺れていた。
触れれば、時間そのものが波打つような気配。
ふいに――
空間に影が立った。
座っていた。
最初からそこにいたように。
年齢も、性別も、輪郭も曖昧。
ただ、“見る”という意志だけが濃密に存在していた。
「ようこそ、リオナ・エリン」
声はやわらかく、だが底が見えない。
音ではなく、“意志が耳に触れた”感覚。
リオナは静かに礼をした。
「招いていただき、ありがとうございます」
その存在はゆっくりと形を変える。
老いた姿から若者の姿へ、女性から男性へ、
その間を揺らぎながら、やがて少年のような形に落ち着いた。
「あなたの観測は、古い原則に触れている。
寄り添うだけで導く。
手を伸ばさず、ただ灯す。
失われつつあった“静かなる観測”。」
リオナは胸を抑えた。
言葉が、静かに心を震わせる。
「それが……間違いでなければいいのですが」
少年の形をした観測者は、笑った。
やさしく、どこか寂しさも滲む笑み。
「正しいかどうかは、世界が決めること。
だが――静かに寄せた手は、時に剣より強い」
リオナの胸に温かなものが灯る。
その瞬間、空間が淡く揺れた。
「ただし、覚えておきなさい」
言葉の色が変わる。
優しさの裏に、世界の深さを抱く声音。
「光があれば、影も寄ってくる。
あなたが灯すなら、誰かが暗闇を形にしたくなるだろう」
リオナの指先が震えた。
昨夜の黒い夢が脳裏をよぎる。
観測者は続けた。
「だから、いつか迷ったとき——
“見守るだけ”では足りない瞬間がくる。
そのとき、あなたは何を差し出すのか」
胸の奥に重い問いが落ちる。
リオナはゆっくりと息を吐く。
「……そのときになって、悩みます。
今は、今守れる光を見ます」
観測者は満足げに目を細めた。
「それでいい。
観測は、始まりであり、祈りだから」
光が強まり、塔の空間が淡く震えた。
クローディスが静かに頭を垂れる。
「リオナ・エリン。
あなたは“静かな観測者”として認められました。
これより、深層観測の許可を与えます」
胸に暖かな印が灯った。
焼けるようでも、優しい輝き。
リオナは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
塔を出ると、空が晴れていた。
風は清らかで、街が遠くに見える。
小さな家々、子どもの笑い声、パンの香り。
変わらぬ日常。
「……帰ろう」
静かに呟いて、リオナは坂を下り始めた。
その背後で、塔の影がわずかに揺れた。
遠くで、誰かが囁く。
「光が歩き始めた。
ならば――影もまた、目を覚ます」
リオナはまだ知らない。
その歩みが、“静かな世界”に波紋を広げていくことを。
光は静かに認められ、
世界の深みが少しだけ開かれた。
しかし同時に、
“観測される存在”となったリオナ。
優しさは力となり、
力は影を生む。




