第1章 第21話:観測庁からの報せ ― 波紋は広がる
眠りに囚われた少女を見守り、
涙と共に朝を迎えた翌日。
リオナの心には、まだ柔らかな余韻が残っていた。
だが穏やかな日常は、静かに変わり始めている。
観測庁から届いた一通の知らせが、光の水面に小さな影を落とす。
朝の風は柔らかく、木々の葉を揺らしていた。
リオナは庭の睡蓮の水面を覗き込み、そっと手をかざす。
光が水面に触れ、白い輪が広がる。
昨日の出来事が、まだ胸の奥に残っていた。
——眠りの淵で泣いていた少女。
——それを案じ、涙を堪えていた兄。
(寄り添うだけで、誰かが戻ってこられるなら……それでいい)
心に芽生えるのは、不思議な満足と不安。
“触れなかった”という事実が、正しかったのかどうか——まだ答えは出ていない。
その時、影が庭の入口に立った。
薄い灰の外套。青銀の瞳。
クローディスだった。
「リオナ。昨日の夢の揺らぎについて、聞きました。」
リオナは少し驚いた。
「……もう観測庁に?」
「夢層は繊細です。あなたが干渉を試みたか、確認が必要でした」
静かな声。だが、その奥にわずかな緊張がある。
「干渉はしていません。ただ……そばにいただけです」
クローディスは少し息をつき、ほっとしたように微笑む。
「ええ、報告にもそう書かれていました。
あなたは“観測士としての線”を守った——それは大切なことです」
しかし、次の言葉は重かった。
「……けれど同時に、多くの観測士が揺れました」
「揺れた……?」
クローディスは頷く。
「夢の層に寄り添う者は多い。ですが、あなたの“在り方”は珍しい。
救おうとせず、ただ帰り道を照らす——
それは観測庁の古い理念そのものです。」
リオナは目を瞬いた。
「理念……?」
「“観測は灯火なり、導きは風なり、触れずとも帰り道は生まれる”
庁の古文にある言葉です」
風が庭を抜け、睡蓮が一輪ひらりと揺れた。
「あなたの行動は、忘れられつつあった思想を呼び起こした。
だから、波紋が広がっています。
喜ぶ者も、恐れる者もいる」
リオナの胸が静かにざわめく。
(僕の選択が……何かを揺らしてしまった?)
クローディスは手紙を差し出した。
封蝋には観測庁の印章。
しかし、その下に小さく、もう一つ別の印が押されている。
黒い円と、細く伸びた一本の線。
見たことのない紋だった。
「これを……?」
「庁の“上位観測室”からです。
“あなたに会いたい”とのこと」
リオナの指がわずかに震えた。
「上位観測室……?」
クローディスはゆっくりと頷く。
「世界の記憶を最も深く読む者たち。
あなたの力と在り方が、彼らの関心を引きました」
空気がひんやりと冷たくなる。
重い議場、無数の観測の目が向けられる光景。
まだ見ぬ世界の奥底を覗くような感覚。
「……行くべきでしょうか」
問いに、クローディスは静かに答える。
「あなたが望むなら。
ただし、一歩踏み出せば、もう“ただの日常”には戻れない」
リオナは庭を見た。
睡蓮が静かに光る。
昨日救われた小さな命、兄の涙——あたたかな世界。
(それをただ守りたいだけなのに)
しかし、心の奥底で別の声が響く。
——“この世界をもっと見たい”
——“揺らぎの意味を知りたい”
リオナは手を伸ばし、封蝋に触れた。
「……行きます。
僕が見てきた光と影が、意味を持つなら」
クローディスは静かに微笑む。
「そう言うと思っていました。
では、三日後に。都の北塔へ。
そこが“上位観測室”です」
風が吹き、睡蓮の水面が揺れる。
光の粒が散り、遠くで鐘の音が響いた。
リオナは小さく息を吐いた。
(これはきっと、はじまりだ)
小さな家と庭、眠る街、息づく風。
それらが変わらずそこにあるのを確認しながら——
彼は静かに拳を握った。
小さな救いが、大きな波紋となる。
リオナは意図せずして、観測庁の「忘れられた理念」を呼び覚ました。
寄り添う者、触れない者、見守る光。
それは優しさでもあり、時に揺らぎを生む。




