第1章 第20話:眠りの小部屋と水音のまじない
眠りに囚われた少女。
その小さな手を握りしめる家族の祈り。
観測士として、リオナは“夢に触れずに寄り添う”という難しい選択を迫られる。
救うのではなく、気づくのを待つ。
その静かな強さが、世界に光を落とす。
ルーフの家は静かな路地の奥、
古い木の軒先が朝露を飲み込んで輝いていた。
扉を開けると、泣き腫らした目の母親と、心配そうな祖母がいた。
「……リオナさん、来てくれたんですね」
母はかすれた声で言った。
疲れと希望が、同じ場所に宿っている目だった。
「お邪魔します。状況を見せてください」
小さな部屋。
窓は半分だけ開けられている。
光が差し込むそのベッドで、少女が静かに眠っていた。
髪は柔らかな栗色、頬は薄く赤い。
呼吸はしている。胸が上下している。
しかしその顔には、夢の奥で泣いている影が見えた。
リオナは少女の枕元に置かれたコップの水に目を落とした。
水面は、かすかに揺れている。
(心が波立っている……)
ルーフが不安げに袖を掴んだ。
「……妹、ユナは……昨日からずっと、ねむったままで……」
リオナは微笑んで頭に手を置いた。
「君はずっとそばにいたんだね。偉いよ」
ルーフは涙をこらえて頷いた。
その手は小さいのに、必死で支えようとしていた。
リオナはゆっくりと少女のそばに座る。
夢晶を取り出すが、決して覗かない。
彼はただ、それを枕元に置いた。
母が不安そうに尋ねる。
「……観測士様、どうか助けて……」
リオナはゆっくり首を振る。
優しく、でも確かな声で。
「僕は夢に入りません。
引っ張る力が強ければ、かえって心が傷つくから」
母は驚き、祖母は胸に手を当てた。
「では……どうすれば……?」
リオナは水庭から持ってきた瑠璃の石を、そっと水の中に沈めた。
水面が淡く光り、小さな波紋が広がる。
「水音は、夢の帰り道を照らしてくれます。
川の音や、風が木々を通る音は、眠る心に道を作る。
だから……静かに聴いてあげてください」
リオナは窓辺に手を伸ばし、風鈴を吊るした。
透明な音が部屋を震わせ、空気がわずかに澄んだ。
ふわり、と少女の指が動く。
母が息を呑む。
リオナは低く囁くように言う。
「ユナちゃん。
大丈夫。
ここはあたたかい場所。
帰る家は、すぐそばにあるよ」
風鈴が、また優しい音を立てた。
そのたび、少女の表情が少しずつ柔らぎ、
やがて——まつげが震え、薄く目が開いた。
「……ママ……?」
母が堪え切れず、涙を溢れさせながら娘を抱き寄せた。
ルーフも声を詰まらせ、唇を震わせて泣いた。
ユナはぼんやりと兄と母を見たあと、リオナに目を向けた。
「……ずっと、暗かったの。
でも……お水の音がして……帰れるって思ったの……」
リオナは笑い、静かに答えた。
「おかえり。
ゆっくり休んでいいからね」
少女の手は暖かかった。
夢の奥で泣いていた心は、確かに戻ってきた。
リオナは立ち上がり、帽子を軽く押さえた。
「では、僕はこれで。
また何かあれば呼んでください」
母は深々と頭を下げ、祖母は涙を拭いながら手を握ってきた。
「……言葉にできない感謝を……あなたに」
リオナは首を振る。
「僕はただ、扉の前に立っていただけです。
開けたのは……ユナちゃん自身です」
外に出ると、朝の光が街を照らしていた。
リオナは空を見上げ、そっと息を吐く。
(観測とは、見守ること。
寄り添うこと。
そして……信じること)
彼の胸の奥で、柔らかい光が揺れた。
人の心は戦場ではない。
誰かが勝つ場所ではなく、戻る場所。
リオナは夢に触れなかった。
それでも——少女は道を見つけた。
観測士の力は光ではない。
揺れる心をそっと支える静けさだ。




