第1章 第19話:揺れる光と小さな訪問者
セリアとの出会いから一夜。
まだ朝の空気は冷たく、街には静けさが残っている。
そんな中、リオナの家に思いがけない訪問者が現れる。
その小さな足音は、まだ弱いけれど——
確かな未来の気配を運んできた。
朝霧が薄く漂い、草の露がきらりと光る。
リオナは水庭にしゃがみ、睡蓮の葉につく水滴をそっと弾いていた。
昨日は深い感情に触れ、胸の奥にまだ余韻が残っている。
心の奥に硬いものと柔らかいものが同時に息づいているような感覚。
その間を揺れる静かな波紋に、身体も心もまだ馴染んでいない。
「……セリアさん、大丈夫だろうか」
独り言のように空に投げた思いは、霧に溶けた。
そのときだった。
控えめなノック音が扉を叩いた。
「リオナさん……いますか?」
幼い声。
小さくて、それでいてどこか必死な響き。
リオナが扉を開けると、そこには街の広場でよく見かける少年——ルーフが立っていた。
茶色の髪。大きな目。
まだ背は低くて、リオナの胸ほどしかない。
けれど、その小さな瞳には不安が宿っていた。
「……どうしたんだい、ルーフ?」
少年は口をぎゅっと結び、両手を握りしめる。
言葉がうまく出せないようで、喉が震えていた。
リオナは優しく視線を合わせ、膝をついた。
「ゆっくりでいいよ。何か困ったことがあるんだね?」
ルーフはようやく言葉を紡ぐ。
「……妹が……泣きながら寝てるんです。
起きなくて……声をかけても、返事がなくて……
母さんも泣いてて……どうしていいか、わからなくて……」
声が震え、涙が滲む。
その涙は恐怖ではなく、
“守りたい気持ち”の叫びだった。
リオナの胸に、微かな痛みと温かさが同時に灯る。
昨日見た“黒い夢”。
セリアの涙。
そして今ここにある、小さな兄の震える拳。
(また……夢の層が揺れている)
リオナは少年の肩に手を置いた。
「……君のお母さん、今も妹さんのそばに?」
「はい……おばさんが見てくれてます。でも……」
ルーフは喉を詰まらせ、言葉を止めた。
「怖いんです……。
あのまま、夢から戻れないんじゃって……」
リオナは深く息を吸い、静かに頷いた。
「わかった。僕が行こう」
ルーフの顔に、わずかに光が戻る。
「ほんとうに……?」
「もちろん。観測士として来たんじゃない。
“誰かをひとりにしたくない”人間として行く」
言いながら、自分の中の覚悟が静かに固まるのを感じた。
夢を見ることは、生きている証。
だが同時に、夢に囚われる心もある。
昨日のセリアと同じように、
今日のこの小さな妹も薄い境界の上に立っているのだ。
リオナは水庭から小さな瑠璃色の石を拾い上げた。
水面の光を吸い込んだ小石。
夜明け色の輝きを持つそれは、彼がこの街に来たときからそっと置いていた“静かな護符”だった。
「これを持って行こう。水の音は、夢を優しく呼び戻すから」
ルーフは石を見つめ、涙で曇った目をこすりながらうなずいた。
「……はい」
リオナは家の鍵を閉め、ルーフと並んで歩き始めた。
霧の中、街の家々が目を覚まし始める。
パンの焼ける香り、パン職人の掛け声。
日常が静かに息を吹き返していく。
その中を、二人の影が少し急ぎ足で進む。
街の奥、角を曲がった先に、木造の小さな家が見えてきた。
窓には布が垂れ、空気は重く沈んでいる。
リオナはそっと息を整えた。
(夢の中から手を伸ばしている小さな光。
僕はその声をただ……聴く)
扉の向こうにいるのは、
眠りに囚われた少女と、祈り続ける家族だ。
夢の揺らぎは、また新しい波紋を描こうとしている。
リオナは静かに扉を叩いた。
夢に迷う子どもを助けてほしいという、兄の願い。
それは戦いではない。
けれど、心の世界で迷う者にとってはきっと、戦いよりも孤独な道。
リオナはまだ何も知らない。
ただ、寄り添う覚悟だけを抱えて踏み込む。
それだけで、十分なのだと信じながら。




