第1章 第18話:黒夢の住人と涙の灯
夢の残響地図を描いた夜。
リオナは、あの“黒い夢”の家の前に立つ。
観測士として、触れてはならない。
それでも——「孤独な声」を聞いてしまった者は、ただ通り過ぎることはできない。
これは、手を差し伸べるのではなく、寄り添うための物語。
朝。
薄い霧が街の屋根を包み、鳥の声も小さく眠っていた。
リオナは夢晶と地図を鞄に入れ、静かに家を出た。
昨日見た“黒い残響”。
あれは恐れでも怒りでもない。
もっと静かで、沈んだ、深い寂しさの色だった。
観測士の戒律は理解していた。
干渉はしてはならない——
だが、声を聞いてしまった以上、目を逸らす方が不誠実だと思えた。
街の路地を歩き、角を曲がる。
朝露が石畳に反射し、淡く光る。
昨日見た座標に辿り着くと、小さな家があった。
古い木造の扉、擦り切れた布のカーテン。
けれど、庭にだけは一輪の花が残っていた。
それは枯れかけながらも、必死に光を吸い、立っていた。
リオナはそっとベルを鳴らした。
しばらくして、扉が静かに開く。
そこに立っていたのは、長い黒髪の少女だった。
年の頃は十七、十八ほど。
だが、瞳はそれよりずっと深く暗い湖のようで、
覇気を奪われたように光を宿していなかった。
「……どなた、ですか」
小さな声。
風が吹けば消えてしまいそうな、弱い音。
リオナは微笑んだ。
「観測庁の者です。少しお話を伺えますか?」
少女は戸惑いを見せたが、やがて静かに頷いた。
――――
中は整っていた。
暖炉には火があり、テーブルには整然とした茶器。
しかし、どこか“空虚”だった。
生活の形はあるのに、心の温度が感じられない。
少女は名を名乗った。
「……セリアと言います」
リオナは座り、夢晶を出さずに、ただ話した。
「最近、眠りはどうですか」
セリアの指がわずかに震えた。
目を伏せたまま、淡い声で言う。
「……夢を、見ない日が続いています。
何も浮かばないまま朝を迎える日と、
…時々、何かが沈むような夢だけ」
リオナは静かに頷いた。
(やはり、黒い残響は彼女のものだ)
「眠りが怖いですか?」
セリアは息を呑んだ。
目の奥が揺れる。
「怖い……というより、虚しいだけです。
目を閉じても、何も無いのに。
世界から、音が消えてしまったみたいで」
声は震え、今にも崩れそうだった。
リオナはそっと問いかける。
「悲しい夢を見た日も……ありますか」
少しの沈黙。
そして、ぽたりと、テーブルに涙の音。
「……あります。
光が遠くで揺れていて……でも、触れられない夢。
何か言おうとしても声が出なくて……
誰も、私を見つけられなくて……」
言葉と一緒に、涙が溢れる。
静かで、痛ましい泣き声。
リオナは手を伸ばさない。
触れない。
干渉しない。
ただ、言葉をそっと置いた。
「セリアさん。
その光は……あなたの心が、まだ歩いている証です」
少女は涙越しに顔を上げた。
絶望の中で揺れる瞳。
「……歩いている?」
「ええ。
完全に止まっていたら、何も揺れません。
光も、影も、生まれない」
リオナは自身の胸に手を当てた。
「揺れるということは、まだ“誰かを呼んでいる”ということ。
心は、まだここにあります」
セリアの呼吸が乱れ、涙が頬を流れる。
けれど、どこか少しだけ、目に温度が戻った気がした。
リオナは立ち上がり、深く頭を下げた。
「今日、私は何もできません。
ですが……また来ます。
観測士としてではなく、一人の人間として。」
セリアは驚いたように目を開いた。
その瞳に、微かな光が宿る。
「……また?」
「ええ。
あなたが“何も見えない夜”を過ごすなら、
私は“何も言わない朝”を一緒に迎えます」
少女の唇が揺れ、小さく震えた声で言った。
「……ありがとうございます」
外に出ると、風が吹いた。
庭の枯れかけた花が揺れる。
だが――その花びらの端に、薄く光が差しているように見えた。
リオナはそっと呟く。
「夢はひとりで見るものだけど……
孤独に堕ちる必要はないんだ」
夢晶は使わなかった。
だが彼の心には、もう地図が描かれていた。
一人の少女が、静かに助けを求める“記憶の座標”。
それは観測士ではなく、
優しい人間として守りたい光だった。
観測とは、触れず、ただ見つめること。
でもそれは、“寄り添ってはいけない”という意味ではない。
リオナは初めて、観測士としてではなく
ひとりの人間として心に触れる選択をしました。
影の夢は、まだ消えない。
だがその中心には、確かに小さな光があった。




