第1章 第17話:夢の残響地図と眠れる声
観測庁にて正式に観測士として認められたリオナ。
その初任務は、戦いでも調査でもなく――人々の眠りの中に現れる**「夢の残響」**を記録することだった。
夢はもっとも儚い“記憶の雫”。
だが、それは未来の可能性に触れる唯一の窓でもあった。
観測庁から渡された封筒を開くと、淡い光を宿した一枚の紙片が現れた。
触れると薄く震え、かすかな音が手のひらに響く。
紙というより、光の膜をそのまま薄く伸ばしたような質感だった。
――初任務:街の「夢の残響地図」を作成せよ。
リオナは小さく息を吸った。
夢。
それは、彼がこの世界に来てから幾度も目にしてきた「光のさざめき」の源だ。
草木が眠るとき、家々が灯を落とすとき――空気の底で、よく似た揺らぎを見たことがある。
観測庁の案内人が静かに説明してくれた。
「夢は“意識の層”に宿る、もっとも脆く流動的な残響です。
人は眠りの間、未来の糸と繋がる。
それを地図に描く――それがあなたの役目です。」
リオナは頷いた。
力を使うことに、少しずつ“責任”を感じはじめている。
「夢の揺らぎを見るための道具をお渡しします」
差し出されたのは、透明な水晶でできた小さなレンズ。
指ほどの大きさで、縁には古い文字が彫られている。
「“夢晶”です。
これを覗けば、人々の眠りの上に揺れる残響を可視化できます。」
リオナは慎重に受け取った。
その瞬間、レンズが微かに震え、柔らかな光が指を包む。
――まるで親しげに挨拶してくれているようだ。
◇◇◇
夜。
街の明かりが次第に消え、屋根の上に静けさが広がる。
家々の窓から弱い灯りが零れ、それもやがて月に吸い込まれていった。
リオナは街の小高い丘に立ち、夢晶をそっと目元に当てる。
すると――
街の上に、淡い光の糸が幾筋も浮かび上がった。
家から家へ、屋根から空へ、ゆっくりと繋がり、揺らいでいる。
青い線、淡金色の粒、薄桃色の波――それぞれが静かに脈打つ。
(これが……人々の夢)
光はどれも穏やかで、温かい。
幼い子の夢は丸く、弾むように見えた。
年老いた人の夢は細く長く、古い思い出の息づかいのようだった。
リオナは胸がそっと満たされるのを感じた。
戦のためでも、魔を討つためでもない。
ただ人々の夢を見守り、世界の呼吸を描き留める――
それは、彼が望んだ“日々の守り方”そのものだった。
夢晶を下ろし、地図の紙に指を触れると、光の粒が紙面へ吸い込まれ、細い線が描かれていく。
「これで……夢の残響地図が」
だが――
そのとき。
ふいに視界の端で、黒い揺らぎがゆらりと動いた。
まるで夜の水面に、墨が一滴落ちたような影。
光ではなく、暗色の糸が、ひとつの家の上で震えている。
リオナは夢晶を傾けた。
何度見ても、そこだけ他の夢とは違う。
冷たい、硬い、途切れそうな黒い線。
(……悲しみの夢? それとも、恐れ?)
胸が少しだけ重くなる。
だが、観測士は「触れず、ただ見る者」。
手を伸ばしてはならない――それが観測庁の戒律。
リオナは震える息を整えた。
その瞬間、黒い夢の中心から、かすかな声がした。
『――助け……て……』
ささやきのような、泣き声のような。
あまりにも弱く、けれど確かに届く。
リオナは目を見開いた。
夢晶が震える。
紙の上で描かれかけた光の線が、黒いしずくの影に触れた瞬間――
地図の端が、淡く揺らいだ。
「……干渉が始まる」
リオナは紙を押さえた。
光と影がぶつかり合うように、淡い粒子が舞う。
“見るだけ”――それが原則だった。
けれど、声がしてしまった。
助けを求める声が。
リオナの手は震えた。
意志が揺れる。
だが、ゆっくり息を吸い、紙の上に掌をそっと置く。
(観測する。触れずにただ、見つめる)
光は静かに収まっていった。
黒い糸も、やがて揺れを止める。
空気が静かに戻り、リオナは夜空を見上げた。
「……夢は、ただの影じゃない。
そこに、心がある。」
観測士として踏み出した最初の夜。
世界は優しく、そして確かに揺れていた。
リオナは筆を走らせ、地図に静かに記した。
“黒の残響:不安定。位置座標保留。
必要時、再観測。”
風が吹き、星がひとつ流れた。
それは眠る街を照らす、微かな光の道しるべ。
夢の残響地図――それは人々の未来と希望、そして不安を記す静かな地図。
リオナは初めて“触れてはならない心”に出会い、観測士としての矜持を試されました。
けれど、彼は見逃さなかった。
光だけでなく、影もまた“存在の声”であることを。




