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夢紡ぎの街 ―感情と日常の異世界スローライフ―  作者: たむ


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第2章 第114話:持ち帰られたやさしさ

何かを受け取った時、人はそれを自分の中だけに留めておけないことがある。

嬉しかったこと。

驚いたこと。

ちゃんと覚えていてくれたのだと知った時の、胸のあたたかさ。

そういうものは、誰かに話したくなる。

そして話された言葉は、受け取ったものそのものとは違う形で、また別の場所へ届いていく。

この日、庭から返された小さなひとひらは、村の中でも静かにひろがり始めていた。

朝の市場は、昨日までとは少し違うざわめきをしていた。


前までは、

“四つ目の影がいるらしい”

“線を引いているらしい”

そんな、遠くから眺めるような話が多かった。


けれど今、人々の口にのぼるのはもう少し近い言葉だった。


“花びらを返されたんだって”

“名前を呼ばれたらしい”

“ちゃんと覚えていたって、本当か”


噂はまだ噂のままだ。

けれど、その色合いは前よりずっとやわらかい。

珍しさや不安だけではなく、受け取った誰かの実感が混じり始めているからだ。


ミレナは焼きたてのパンを並べながら、何人目かの「本当に返してくれたの?」という問いに、少し困ったように笑っていた。


「返した、というか……ちゃんと届いた、の方が近いかもしれません」

「どう違うんだい?」

近所の主婦が首をかしげる。


ミレナはしばらく考えてから答えた。


「“お返しをしなきゃ”って感じじゃなかったんです」

「うん」

「ただ、こっちが置いたものを覚えていてくれて、それで、自分からひとつ寄せてくれたっていうか……」

「覚えて、ねえ」

「はい」


彼女は胸元に手を当てる。

そこには、昨日もらった白い花びらを挟んだ小さな紙包みが入っているらしい。


「わたし、それがすごく嬉しかったんです」


その言い方には、飾りがなかった。

だからこそ、聞いていた人々も軽く流せなかった。


一方、仕立て屋のエマの店先では、白い糸と押し花の話が静かに広がっていた。


「影に名を呼ばれたって?」

布を選んでいた客のひとりが驚いたように聞くと、エマは恥ずかしそうに頷く。


「まだ、ちゃんとはっきりじゃないんですけど」

「でも、呼ばれたんだろう?」

「……たぶん」

「どんな気持ちだった?」

その問いに、エマは少しだけ手を止めた。


針先のように細い沈黙のあと、彼女は小さく笑う。


「見てもらえた、って感じでした」

「見てもらえた?」

「はい。糸の軽さとか、形とか、たぶん全部理解してるわけじゃないと思うんです。でも、ただ“白いもの”じゃなくて、わたしが持ってきたものとして見ようとしてくれた気がして」


その言葉は、仕立て屋らしく細やかだった。

物そのものだけではなく、選び方や作り方にまで気持ちが宿ることを知っている人の言葉だ。


それを聞いていた年配の客が、ゆっくり頷いた。


「それなら、ただの影じゃないねえ」

エマはすぐには答えなかった。

けれど、その頷きだけで十分だった。


一方そのころ、庭ではいつも通りの朝が流れていた。


リオナは土を整え、リナライは花壇の端の雑草を抜いている。

ナリは静かに脈打ち、ノアは窓辺に薄く広がり、レンは石畳を細く走る。

シオンは麻紐の近くにいて、胸元の灯りをやわらかく揺らしていた。


昨日返した花びらがいくつか減ったせいか、その周りの景色は少しだけすっきりして見える。

だが、寂しい感じはしない。

むしろ、渡った先のことまで含めて、この庭の一部になっている気がした。


「……かえしたの、へってる」

リナライがぽつりと言う。

「うん」

リオナは頷く。

「でも、増えたものもあるよ」

「……なに?」

「たぶん、“この庭のことを話してくれる人”かな」

リナライは少し考えて、それから小さく頷いた。

「……そっか」


その時、門の前に控えめな気配が止まる。


今日はミーナでもノルでもない。

見れば、雑貨屋の主人だった。

以前ルーカスを連れてきてしまった時の、あの少し気まずそうな顔つきのままだが、今日は手ぶらで、しかも門の外から動かない。


「おはようございます」

「おはよう」

リオナが返すと、主人は深く頭を下げた。


「少しだけ、話をしてもいいでしょうか」

「もちろん」

「……今日は、何かを見に来たわけじゃありません」

その言い方が、前のことをちゃんと意識しているようで、リオナは少しだけ表情をやわらげた。


「この前の件、あとから何人かに聞かれましてね」

「ルーカスさんのこと?」

「ええ。それもありますが……その後の話も」

主人は麻紐を見る。

「それで、気づいたんです。私は“珍しいものがいる”っていう話しか、最初は見ていなかった」

「……うん」

「でも今、市場で広がっているのは“返してくれた”とか“名を覚えていた”とか、そういう話なんですよ」


彼はそこで少し言葉を切った。

まるで、自分の中でもまだ整理が終わっていないのだろう。


「正直に言うと、まだ全部はわかりません」

「それでいいと思います」

リオナが言うと、主人は少しだけ肩の力を抜いた。

「……ありがとうございます」

「わからないまま見て、わからないまま気をつけてくれるだけでも十分ですよ」

「そういうものですか」

「たぶん、この庭ではそういうものなんです」


雑貨屋の主人はしばらくシオンを見ていた。

じろじろ見るのではない。

ただ、麻紐の向こうにいる影の小さな灯りを、静かに受け止めるみたいに。


やがて、彼はぽつりと言った。


「……この前は、見方が悪かった」

その一言は、言い訳ではなく、本当にそう思った人の声だった。


リナライがシオンを見る。

シオンもまた、主人の方を見ていた。

灯りがゆっくり揺れる。

返すものは、もう手元に多くはない。

それでも、何かを確かめるみたいに、白い布花の近くを漂う小さな押し花の欠片がふわりと浮いた。


「あ……」

リナライが息を呑む。


欠片はほんの小さい。

きれいな一枚ではなく、押し花の端からこぼれたくらいの、ささやかな欠片だ。

それでもシオンは、それをそっと麻紐の方へ運ぼうとする。


雑貨屋の主人は動かない。

ただ、受け取る側としてじっと待つ。


欠片は麻紐を越えきれず、線のすぐそばに落ちた。

ほんの少しだけ足りない。


けれど主人は、すぐには取らなかった。

線を越えず、その場で静かに頭を下げた。


「……十分です」

その声に、シオンの灯りが小さく、でも確かに明るくなる。


リオナはその様子を見て、胸の奥で静かに頷いた。

こういう受け取り方もある。

全部届ききらなくても、途中まで来たものの意味をちゃんと汲み取る。

それがもう、この庭では大事な作法になりつつあった。


主人はもう一度頭を下げる。


「今日は、ありがとうございました」

「こちらこそ」

リオナが返すと、彼はそれ以上何も聞かずに去っていった。


その背中を見送りながら、リナライがぽつりと呟く。


「……ちゃんと、うけとった」

「うん」

「とどききってなくても、ね」

「……そういうのも、あるんだね」

「たぶん、それも“ちゃんと近づく”ってことなんだろうね」


昼すぎには、ベルドも顔を出した。

今日はノルはいない。

市場が忙しいのだろう。


老人は麻紐の前で止まり、いつものように庭を見回す。


「市場、だいぶ落ち着いてきたぞ」

「よかった」

「落ち着いたっつーより、“話し方が変わった”って方が近いかもな」

「話し方?」

「ああ。“影がいる”じゃねえ。“返してくれた”とか“名を呼んだ”とか、そっちが先に来るようになった」

リオナはその言葉を、静かに反芻する。


存在そのものより、関わり方が先に語られる。

それはたぶん、とても大きな変化だった。


ベルドは髭を撫でながら続ける。


「人ってのは、得体の知れねえもんをそのまま受け入れるのは苦手だ」

「うん」

「だが、“自分の知ってる誰かが、こうされた”って話になると、急に考え方が変わる」

「……実感があるから?」

「そういうことだろうな」


その時、シオンの灯りが揺れた。

ベルドの方を見ている。

足元にはもう返せる花びらも少ない。

白い布花も、白い糸の輪も、木の実も、ここに留まるものとして残っている。


しばらく見つめたあと、シオンは何も送らなかった。

ただ、かすかな声で言う。


「……べる……」

ベルドの目が少し細くなる。

「……ど」

完璧ではない。

でも、それだけで十分だった。


ベルドはふっと笑った。


「おう、ベルドだ」

その返事は、まるで孫に呼ばれた時みたいにやわらかかった。


シオンの灯りが、安心したように穏やかに明滅する。


「……べるど」

今度は少しだけ、はっきりしていた。


リナライが嬉しそうに笑う。

リオナも、思わず頬がゆるむ。


返すものがなくても、返せるものはある。

名を呼ぶこと。

覚えていると伝えること。

それもまた、ひとつの返し方なのだと、庭の空気がそっと教えてくれた気がした。


夕方になるころ、門の外を通る人たちの会釈が少しだけ増えていた。

立ち止まらなくても、麻紐を見て、庭に目を向けて、小さく頭を下げていく。

それはまだ深い理解ではない。

でも、ただの好奇心とも違う。

この庭に何かしらの“意味”があると認め始めた人たちの動きだった。


リオナはその光景を見ながら思う。


持ち帰られたやさしさは、元の形のまま広がるわけではない。

話す人の声に変わり、聞いた人の解釈に変わり、時には短い会釈や立ち止まり方の違いになって現れる。

でも、それでいいのだろう。

大事なのは、ここで生まれたやわらかな関わり方が、少しずつ外にも根を張っていくことなのだから。


夕陽が庭を染める。

麻紐が光り、白い花が揺れ、四つの影が長く伸びる。


シオンは、もう一度だけ小さく呟いた。


「……ベルド」

「おう」

門の外から、まだ帰りきらずにいたベルドが短く返す。


それだけの往復に、リナライはくすりと笑った。

リオナも、胸の奥で静かにあたたかいものが満ちていくのを感じる。


返されたひとひらの意味は、

もうその一枚だけの中には収まらなくなっていた。

今回は、シオンが返したものや名を呼んだことが、庭の外で“受け取った実感”として広がり始める回でした。

返された花びらや押し花そのものも大切ですが、それ以上に、その体験を持ち帰った人たちの言葉が、村の空気を少しずつ変えていっています。


また、シオンは返せる物が少なくなっても、名を呼ぶことで関係を返せるようになり始めました。

それはとても静かで、それでいて大きな変化です。

物ではなく、“覚えている”ことそのものが返し方になる――そのことに、シオン自身も少しずつ触れ始めているのかもしれません。


次は、この庭の外へ広がったやさしさが、また別のかたちで戻ってくるかもしれません。

返すこと、持ち帰ること、その往復はまだ静かに続いていきます。

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