第2章 第112話:返すために選ぶ影
受け取ることに慣れてくると、次に生まれるのは“返したい”という気持ちなのかもしれない。
けれど、返すというのは簡単ではない。
何を返せばいいのか。
どうすれば怖がらせずに、ちゃんと届くのか。
それを知らないままでは、せっかくの気持ちも形にならない。
この日、シオンは初めて、受け取るだけではない“選ぶ”という時間に立ち止まることになる。
朝の庭は、静かなのに、どこか落ち着かなかった。
風はやわらかい。
花はいつも通りに揺れている。
麻紐の線も、門の前の小道も、昨日までと変わらない。
それなのに、シオンだけがいつもより長く、動かずにいる。
胸元には白い花びら、桃色の花びら、押し花、白い布花。
足元にはノルの木の実。
少し離れたところに、エマの白い糸の輪。
それらをシオンは、何度も、何度も見ていた。
「……今日は、よくみてるね」
リオナが水差しを置きながら言う。
リナライもシオンの横顔――正確には横顔と呼べるほど定まった顔ではないけれど、その“向き”を見つめていた。
「……えらんでる、みたい」
ぽつりとそう言う。
「選んでる?」
「……うん。たぶん」
たしかに、そんな感じがした。
ただ眺めているのではない。
白い布花を見て、木の実を見る。
押し花に視線を戻し、次に白い糸の輪を見る。
違いを確かめ、並べ、何かを決めようとしているような揺れ方だった。
シオンの灯りが、小さく明滅する。
「……ちがう」
かすれた声が落ちる。
「うん」
リナライが頷く。
「ちがうね」
「……でも……」
その先は続かない。
リオナは、少し考えてからしゃがみこんだ。
「返したいのかな」
その言葉に、リナライがはっとする。
「……かえす」
「もらったものが増えたから。もしかしたら、シオンの中でも何かあるのかも」
シオンは答えない。
けれど、灯りは少しだけ強くなった。
受け取る。
覚える。
違いがわかる。
そしてその次に“返す”が来るのだとしたら、それはとても自然なことのように思えた。
「でも、何を返すんだろう」
リオナが呟くと、リナライは少しだけ困った顔をする。
「……シオン、もの、あんまりもってない」
「そうなんだよね」
「……はな?」
「花を渡す?」
リオナは花壇を見た。
白い花、桃色の花、細い葉を揺らすハーブ。
どれもきれいだ。
でも、花を摘むことが返すことになるのかは少し迷う。
この庭では、咲いていることそのものも大事にしてきたからだ。
その時、シオンの胸元から白い花びらがふわりと浮いた。
麻紐の方へ進む。
けれど、線の手前で止まる。
「……あ」
リナライが小さく声を上げる。
シオンは花びらを見ていた。
渡そうとしているのか。
でも、その先をまだ知らないのか。
そんなふうに見えた。
リオナはゆっくり立ち上がる。
「試してみようか」
「ためす?」
「うん。返したいなら、どうしたら返せるか、一緒に考えよう」
その言葉に、シオンの灯りが静かに揺れる。
拒んではいない。
むしろ、少しだけ待っていたようにも見えた。
午前のうちに、最初にやって来たのはハルだった。
今日も門の前で足を止め、いつものように言う。
「おはよう」
その声はもう、ずいぶん自然だ。
“ちゃんと近づく”を身体が覚え始めているのだろう。
シオンの灯りが揺れる。
「……お……は……」
まだ最後までは届かない。
でも、返そうとする気配は確かにある。
ハルが微笑む。
「うん。おはよう」
そのやり取りのあと、リオナが門の方へ歩いた。
「ハル、ちょっとお願いしてもいい?」
「え?」
「シオンが、何か返したいのかもしれない」
ハルの目が丸くなる。
「返す?」
「うん。でも、どうしたらいいかまだわからないみたいで」
「……おれに?」
「最初は、慣れてる相手の方がいいかなって」
ハルは少し緊張した顔になったが、すぐに真面目に頷いた。
「……わかった」
その返事が、いかにもハルらしかった。
リオナは麻紐のすぐこちらにしゃがみ、シオンの方を向く。
「シオン」
灯りが揺れる。
「ハルに、何か返してみる?」
シオンはハルを見る。
次に胸元の白い花びらを見る。
やがて、花びらが一枚、ふわりと浮く。
麻紐の手前まで進む。
でも、そこで止まる。
向こうへ行くには、まだ少し怖いのかもしれない。
「……だいじょうぶ」
リナライが小さく言う。
「ハル、まってる」
ハルは門の前で動かなかった。
手も出さない。
呼びもしない。
ただ、その場で待つ。
その“待ち方”が、きっといちばん大事だった。
シオンの灯りがゆっくり明るくなる。
白い花びらが、ほんの少しだけ麻紐を越えた。
揺れる。
戻りかける。
それでも、完全には戻らない。
「……いける」
リナライが息を潜める。
花びらは、風に押されたみたいにふらふらと進み、ついに麻紐の向こうへ出た。
そして、そのままハルの足元の近くへ、ひらりと落ちる。
静かな沈黙。
ハルはしばらく動かなかった。
落ちた白い花びらを見つめ、それからゆっくり顔を上げる。
「……これ、くれたの?」
シオンの灯りが、小さく、でもはっきりと揺れた。
リオナの胸が熱くなる。
これは偶然ではない。
線のこちらから向こうへ、シオンが自分で選んで送り出した一片だ。
ハルはしゃがみこんで、その花びらをとても丁寧に拾い上げた。
そして、麻紐を越えないまま胸の前で大事そうに持つ。
「……ありがとう」
その一言に、シオンの輪郭がふるりと揺れる。
「……は……る」
かすかな声が漏れた。
ハルの顔が、一気にほころぶ。
「うん。ハル」
「……はる」
今度は、少しだけはっきりしていた。
リナライが嬉しそうに笑う。
リオナも思わず息をつく。
返したもの。
受け取った相手。
その相手の名。
それらが、いまこの瞬間にひとつの流れとしてつながった。
「すごい……」
リナライが呟く。
「ちゃんと、かえした」
「うん」
リオナは静かに頷く。
「シオン、自分で選んだんだ」
ハルはしばらくその花びらを見つめていたが、やがて少し照れたように言う。
「……これ、持って帰っていい?」
リオナはシオンを見る。
シオンの灯りは落ち着いていた。
不安そうな揺れではない。
「たぶん、大丈夫だと思う」
そう言うと、ハルは嬉しそうに頷く。
「じゃあ、大事にする」
その言葉がまた、シオンの灯りをやわらかく明るくした。
昼すぎには、その話を聞いたノルも飛んで来た。
もちろん途中でちゃんと速度を落とし、麻紐の手前で止まる。
「聞いた!」
「まずは落ち着いて」
リオナが言うと、ノルは口を押さえながらも目をきらきらさせた。
「シオン、返したの?」
シオンはノルを見る。
次に足元の木の実を見る。
ノルはすぐに姿勢を正した。
いつもの勢いのまま手を出さないあたり、ちゃんと学んでいる。
「……おれにも、いつか?」
その問いに、シオンはしばらく揺れていた。
やがて、木の実のそばにあった桃色の花びらが、ふわりと浮く。
白ではない。
桃色。
ノルが目を丸くする。
リナライも、少し驚いた顔になる。
「……ちがうの、えらんだ」
ぽつりと彼女が言う。
たしかにそうだ。
ハルには白。
ノルには桃色。
偶然かもしれない。
でも、シオンが“相手ごとに違うものを選ぶ”ように見えてしまうくらいには、その動きは自然だった。
桃色の花びらは、今度は昨日より少しだけ迷いなく麻紐を越え、ノルの前へ落ちる。
「うわ……」
ノルは大声を出しかけて、慌てて押し殺した。
「……もらった」
リナライが嬉しそうに言う。
「……うん」
ノルは頬を赤くしながら何度も頷く。
「もらった」
彼はその花びらを、昨日の木の実と同じくらい大事そうに両手で包んだ。
その後も、シオンは何度か“返す”を試した。
いつも成功するわけではない。
線の手前で止まることもある。
途中で戻ってしまうこともある。
でも、それでいいのだと、今日は皆が自然に思えていた。
返したい。
でも怖い。
届けたい。
でもどうすればいいかわからない。
その迷いの中で少しずつ前へ出ること自体が、もう十分に大事な変化だったからだ。
夕方、庭にはいつもより静かな充足感が残っていた。
リナライは花壇の脇に座り、今日のことを何度も思い返しているらしい。
リオナは水をやりながら、麻紐の向こうとこちらを見比べた。
受け取る庭。
届ける庭。
そして今日からは、返すことを覚え始めた庭。
それはたぶん、ただ一方的に守られていた場所から、少しずつ“関係が行き来する場所”へ変わり始めたということなのだろう。
シオンは胸元の残った花びらを見て、かすかに言う。
「……かえす」
リナライが顔を上げる。
「……うん。かえしたね」
「……かえす」
「そうだね」
リオナもやわらかく答える。
「もらうだけじゃなくて、返せるんだ」
その言葉に、シオンの灯りが夕暮れの中で静かに揺れた。
まるで、自分でもそのことを確かめるように。
今回は、シオンが初めて“選んで返す”ことをはっきりと形にした回でした。
受け取るだけではなく、相手を見て、線の向こうへ自分から送り出す。
それはとても小さな動きですが、この庭の関係が一方通行ではなくなったことを示す、大きな変化でもあります。
ハルには白い花びら、ノルには桃色の花びら。
偶然かもしれませんが、相手ごとに違うものを返したように見えるその動きには、シオンなりの“選ぶ”感覚が育ち始めているのかもしれません。
そして何より、返すことを通して相手の名がさらに結びついていく様子は、シオンが少しずつ関係の中で生き始めている証にも見えました。
次は、この“返す”という新しい動きが、子どもたちだけでなく、また別の誰かとの関係をどう変えていくのか。
静かな庭のやりとりは、さらにもう一歩深いところへ進んでいきそうです。




