第1章 第15話:光層の裂け目と観測者の報告
夜に現れた「影の少女」を見送った翌朝。
リオナの庭には、今までにない“異常な静けさ”が訪れていた。
そこへ、再びやってくるのは観測士クローディス。
彼女が携えていたのは、ある報告書――
「あなたの力が、この世界の“層”を揺らがせている」という警告だった。
夜明け前の空は、まだ淡い青のまま。
リオナは眠れぬまま、パンの発酵を見守っていた。
窓の外には、昨夜光を放った庭が広がっている。
花々は穏やかに風に揺れていたが、どこか違和感がある。
――音が、ない。
鳥の声も、葉の擦れる音も聞こえなかった。
世界そのものが一瞬、息を止めているような静けさ。
(まるで……時間が止まってるみたいだ)
その瞬間、扉が叩かれた。
乾いた音が、空気を割る。
リオナが扉を開けると、そこに立っていたのはクローディスだった。
彼女は夜明け前にもかかわらず、観測士の黒衣をまとい、目の下にわずかな疲労を浮かべていた。
「……朝早くに、すみません。緊急です」
リオナがうなずくと、彼女は部屋に入り、手にした革の筒を机に置いた。
そこから取り出されたのは、魔術紋が刻まれた羊皮紙――“共鳴記録”だ。
クローディスはそれを広げながら、低い声で言った。
「昨夜、あなたの庭を中心に“光層の裂け目”が観測されました」
「裂け目……?」
クローディスは頷く。
「この世界は幾つもの“層”で構成されています。時間、記憶、感情……それぞれの層が重なり、世界を形作る。
でも昨夜、あなたの発した光が――それらの層を一時的に“貫いた”のです」
リオナは息をのむ。
「それって……壊してしまったということ?」
「いえ。むしろ、貫通したことで、上位層――“観測層”に一瞬接触した」
クローディスは指先で羊皮紙の中央をなぞった。
そこには波紋のような模様が広がっており、中心から淡い光がにじんでいる。
「あなたの力は、“記憶”を癒すだけではなく、“層の壁”そのものに干渉している可能性がある」
リオナの胸の奥に、昨日の光景が蘇る。
少女ミルナの微笑み。
あのとき確かに、光は月へ伸びるように空を照らしていた。
「……あの少女、ミルナは、僕が呼んだ記憶の一部でした」
クローディスの瞳がわずかに光る。
「やはり……。“影の具象化”現象ですね。通常、忘却された記憶が形を取ることはありません。
それができるのは、“観測層”に触れた者――つまり、あなたのような“転位者”だけです」
「転位者……?」
「はい。あなたのように“他の世界”から来た存在は、この世界における座標が不安定なんです。
だからこそ、あなたの意識が光を通して“層の間”を行き来できる。
あなたはこの世界のどの層にも属していない――だから、干渉できる」
リオナはしばらく沈黙した。
パンの香りが漂う中、その言葉の重さを噛みしめる。
「それは……危険なんですか?」
クローディスは視線を逸らし、少しの間黙った。
やがて、彼女は静かに答えた。
「今はまだ、観測レベルです。ただ、問題が一つ。
――“裂け目”は閉じていないのです」
「……え?」
「通常、層の歪みは数秒で修復される。けれど昨夜、あなたの庭に発生した裂け目は今も残っている。
小規模ですが、まるで“内側から”維持されているように」
リオナは急いで外に出た。
クローディスも後を追う。
庭の中央――昨夜少女が立っていた場所に、うっすらと揺らめく光の線が残っていた。
まるで空間が、そこだけ水面のように波打っている。
リオナが手を伸ばすと、指先が淡い抵抗に触れた。
空気ではない。
――膜だ。
その向こうに、微かに何かの“影”が見えた。
「……誰か、いる?」
クローディスが息を呑む。
「触れては駄目です! そこは、“観測層の反射域”です。
もし向こう側の存在がこちらを認識すれば、境界が崩壊します」
リオナはすぐに手を引っ込めた。
膜は微かに波紋を残して静止する。
クローディスは手帳を開き、淡い光でその場を封印した。
「応急処置をしました。これで数日は安定するはずです。
でも……このままでは、いずれ裂け目は拡大する」
「どうすれば閉じられる?」
「あなたの“光”が再び均衡を取る必要があります。
けれど今のあなたは、力を制御できていない。
このまま光を使えば、裂け目を閉じるどころか――“開く”可能性がある」
リオナは唇を噛んだ。
ミルナを救いたいという思いで使った光。
それが、世界を傷つけているのかもしれない。
クローディスは静かに手を置いた。
「リオナ。あなたの力は破壊ではなく、“再結合”の光です。
しかし、どんな光も影を生みます。
今、世界はその影を受け止める準備ができていない」
リオナは小さく頷く。
「……僕は、どうすれば?」
「まずは観測庁に来てください。
“光層の裂け目”を安定化させる儀式を共に行います。
そして、あなた自身の“記憶の座標”を特定する」
「僕の……記憶の座標?」
クローディスは微笑んだ。
「はい。あなたがどの層から来たのか――それを突き止めることが、すべての始まりになります」
リオナは庭を見つめた。
花々は静かに揺れていたが、その奥に、確かに光の裂け目がある。
その中心から、微かな声が聞こえた気がした。
“また……会おうね”
ミルナの声。
リオナは胸に手を当て、そっと目を閉じた。
「わかった。僕も……自分の“場所”を見つけに行こう」
朝の光が、庭に差し込んだ。
それは、夜の闇を静かに溶かしながら――新しい一歩を照らす光でもあった。
夜の“影”から始まった出来事は、世界の根幹――「層の構造」へと繋がり始めた。
リオナは自らの力がただの癒しではなく、世界と記憶を繋ぐ媒体であることを知る。
「観測庁への招待 ― 記憶座標の儀」
クローディスと共に都へ向かうリオナ。
そこでは、世界を見守る観測士たちと、彼の“存在理由”に迫る試練が待ち受けていた。




