94話 南ヌビア討伐軍、出陣
ヌビアの行政中心アニバに、ラムセス王が滞在してから一か月が経過していた。乾いた風に混じって、遠くからは水を流す音と石を削る音が響く。かつて静寂に包まれていたアニバは今や喧騒に満ち、砂の都から生きる都へと姿を変えつつあった。
周辺の族長たちは次々とアニバを訪れ、ラムセス王に忠誠を誓っている。彼らは王の前にひざまずき、エジプトの恵みと引き換えに、灌漑工事への協力を約束した。ナイル川を遡上してきた大船団には、木材・石材、そしてエジプト各地から召集された技術者たちの姿もある。その光景を見て、茜は思わず息を呑んだ。
「すごいな……。古代国家の命令系統って、ここまで即効性あるんだ。ラムセス王の言葉一つで、数百キロ先の国がこうやって動いてるんだから。」
日差しの下、砂塵の向こうに並ぶ船団と、測量具を抱えて忙しなく動く人々。茜の目には、まるで巨大な生命体のようにうごめく国家の姿が映っていた。
灌漑工事は、まずアニバの北方――エレファンティネとの間に広がるヌビア北部のナイル西岸から始められた。測量隊はすでに杭を打ち、導水路の線を描き始めている。青銅の器具を操る技術者たちの動きは精密で、ラムセス王が国家を「建設によって統べる」ことを何より重んじているのが伝わる。
一方で、もうひとつの大事業――神殿の建立はまだ着手されていなかった。
その計画は、アニバよりさらに南の高台に“太陽神ラーと女神ハトホルの御座”として建てられる予定だが、場所の選定すら行われていない。
茜は、王の執務室で報告書を見ながら尋ねた。
「ラムセス王、灌漑の方は既に始まっているみたいだけど、神殿の方はどうするの?」
ラムセス王は腕を組み、静かに頷いた。
「やはり最初は実利のある灌漑工事からであろう。水こそ民の命。神々も、飢えた信徒からは祈りを受け取れぬ。」
その言葉に、茜は笑みを浮かべてうなずいた。
「たしかに……まずは実利優先。神殿は、余裕ができてからでもいいよね。」
ラムセス王も口元をわずかに緩める。
「だが、場所だけは早めに決めておこう。いずれは、ヌビアの地に太陽と風が並び立つ聖域を築くことになるのだから。」
「えっ、風って……もしかして私?」
「もちろんだ。ラーの隣には、女神ハトホルだけではなく、風の神アカーネの座も置こう。」
茜は顔をしかめて両手を上げた。
「うへぇ……。エジプトだけじゃなくて、ヌビアでも神様扱いか……。もう神格過剰で身がもたないよ……。」
そんな茜のぼやきに、ラムセス王は愉快そうに笑う。
「それほどそなたの存在が必要なのだ。民も、風の恵みと共にある繁栄を求めておる。」
その言葉に茜は少しだけ誇らしい気持ちになった。
「……神様扱いは気恥ずかしいけど、私の存在が誰かの明日を運んでるなら、それも悪くないかもね。」
アニバの空は、黄金の光に包まれていた。
数日後の朝――。
アニバの宮殿に、砂塵にまみれた一人の伝令が駆け込んだ。その姿を見た神官たちがざわめき、警備兵が道を開ける。伝令は玉座の間にひざまずき、乾いた声で報告した。
「ファラオに申し上げます。南方の族長より急報――クシュの上流域において、反抗的な部族が兵を集めているとのこと。」
ラムセス王の表情が一瞬で引き締まる。背後に控えていた茜とエンへドゥアンナも、思わず息を呑んだ。
「反抗的な部族、だと?」
王の声は低く、しかし鋭かった。伝令は砂まみれの手でパピルスを差し出す。
「はい、陛下。報によれば、その部族は若き族長を中心に勢力を拡大しております。族長の名は“マアニ”。南ヌビア…すなわちクシュ地方の奥地の族長の一人にございます。彼は『ラーの神の加護ではなく、我らの祖霊こそクシュを守護する』と唱え、周辺の不満を持つ部族を糾合しているとのこと。」
ラムセス王は書状を受け取り、じっと目を通す。沈黙の中、玉座の間には緊張が走った。やがて、王は静かに問う。
「数は、どのほどか。」
「はい。現在把握できている兵はおよそ四千、あるいは五千。さらに上流のクシュ地方からも援軍を得ており、またヌビア北東のメジャイ地方から傭兵も雇い入れている模様。おそらく最終的には六千から七千の戦力になりましょう」
その言葉に、周囲の将軍たちがざわつく。
「メジャイまで…!」「あの砂漠の戦士どもが動くとは…!」
ラムセス王はしばらく黙したまま、視線を落とした。その横顔には、怒りではなく、冷徹な計算が浮かんでいる。やがて、王はゆっくりと立ち上がり、玉座の段を降りた。
「余に挑むというのだな。ならば――余は、ファラオとして、受けて立ってやろう。」
その声は玉座の間を震わせ、臣下たちは一斉に頭を垂れた。茜は隣で小さくため息をついた。
「やっぱり……完全に平和裏ってわけにはいかないんだね。」
彼女の言葉に、エンへドゥアンナが静かに応じる。
「一部に繁栄が広がれば、それにより均衡が揺らぎます。それもまた、この時代の宿命なのでしょう。」
茜は窓の外に目を向けた。アニバの街では、灌漑工事のために運び込まれた資材が山のように積まれ、測量隊の姿があちこちに見える。杭を打ち、縄を張り、土地の高低を測る声が絶え間なく響き、船からは青銅の工具や食糧の袋が次々と降ろされていた。人々の顔には疲れが見えながらも、どこか誇らしげな活気が宿っている。まだ水は流れていない――それでも、この地には始まりの鼓動が確かにあった。
茜はその光景を静かに見つめながら、エンへドゥアンナの言葉に答えた。
「ヌビアの北部には、もうエジプトの富が流れ込み始めている、そして南の一部にもね。でも、南の奥地の人たちにはまだそれが届いていない。反乱の本当の理由は、武力よりも――この差が生まれ始めていることなのかもね。」
アニバの宮殿の軍議室――。
壁には太陽神ラーの紋章とナイルの地図が掲げられ、中央の長卓にはラムセス王と将軍たち、そして茜が並んでいた。砂の国にしては珍しく、外は朝霧に包まれている。空気には緊張が漂っていた。
ラムセス王は報告のパピルスを机上に広げ、ヌビア各地の族長から届いた報告を確認する。
「敵の予想兵力、六千から七千。我が国の一個軍団を少し超える数だが、奴らはクシュの各地から集められた寄せ集めだ。統率もままならぬ軍勢に過ぎぬ。」
王の声には、どこか確信めいた強さがあった。茜は椅子に腰かけたまま、(まぁ、そう考えるのも分かるけど……)と内心で呟く。沈黙を破ったのは、第三軍団のバトラー将軍だった。
「ファラオ、油断はなりませぬ。」
王の眉がぴくりと動く。将軍は姿勢を正し、続ける。
「たしかに寄せ集めであるのは事実でしょう。しかし今回の反乱は、一人の若き族長が旗を掲げたことから始まったと聞きます。ならば――それだけで人を動かす力を持つ者です。その指導力を軽んじるのは危険かと。」
軍議の場が静まり返る。ラムセス王の瞳が鋭く細められ、しばし沈黙が流れた。
(あ、ちょっとムッとしてる……)
茜は内心でひやりとする。しかし次の瞬間、ラムセス王はふっと目を伏せ、何かを思い返すように小さく息を吐いた。
「……将軍の言葉、一理あるな。」
その声には、かつてのラムセスにはなかった冷静さが宿っていた。茜は思わず驚きの表情を浮かべる。ラムセス王は続ける。
「寄せ集めといえど、侮るべからず。カデシュの戦でも、余は油断により神々に試された。今回の戦は、同じ過ちを繰り返すわけにはいかぬ。」
その言葉に、バトラー将軍は深く頭を下げた。
「恐れながら――それをお聞きできて安堵いたしました、ファラオ。」
茜はそのやり取りを静かに見つめながら、心の中で呟く。
(ラムセス王……成長してる。あの時の戦で、本当に多くを学んだんだね。)
会議室の空気は少し和らいだ。ラムセス王は、地図の上に手を置いたまま、しばし思案していた。やがて顔を上げると、低く呟く。
「……今回、余自らが出るのはいかがなものか。」
その言葉に、軍議の場がざわめいた。だが、すぐに第三軍団のバトラー将軍が一歩前に出て、深く頭を下げる。
「おっしゃるとおりです、ファラオ。今回の戦は、たかが辺境の反乱。ファラオ自らが前線に立たれるようでは、かえってエジプトの威信を損ないます。ここは我ら第三軍団と――アカーネ様の部隊にお任せください。」
茜は椅子からずり落ちそうになった。
「えっ、私!?」
場の視線が一斉に彼女へと向く。ラムセス王はそんな茜の反応に小さく笑みを浮かべた。
「アカーネ、そなたが戦上手であることは余もよく知っている。バトラーの第三軍団はすでに兵を分け、エレファンティネとアニバの補給線確保に動いておる。また第一軍団はここアニバ周辺での防衛と灌漑事業の護衛を担う。よって、反乱に対応できるのは――そなたと第三軍団残余の兵だけだ。」
「ちょ、ちょっと待って!それってつまり、私も出るの!?」
バトラー将軍が穏やかに頷く。
「アカーネ様ほど、戦というものを理解されている方はおりません。それに、我らにアカーネ様の加護があれば間違いないかと。」
茜は苦笑を浮かべ、頭をかきながら小声で呟いた。
「いやいや、神の加護って……そんなのに頼れないって……。」
だが、やがて顔を上げて息を整える。
「まぁ、バトラー将軍の第三軍団の残りだけだと、今回は兵力的にちょっと厳しいのは確かだし。補給線さえ確保できてるなら、なんとかなる……かな。分かった、私も出るよ。」
ラムセス王は満足そうに頷き、玉座から立ち上がる。
「頼んだぞ、アカーネ。余に代わって、ヌビアの南を鎮めてくれ。」
「なんか上手に使われているような気がしないでもないけど、別にいいよ。私も行くから」
茜は軽く敬礼をして見せる。バトラー将軍も続いて言葉を添えた。
「アカーネ様、この度も共に戦えること、光栄に存じます。」
軍議はその後、詳細な作戦確認へと移った。茜とバトラー将軍の連合軍はナイル西岸を南下し、反乱部族と正面から交戦。補給は第三軍団の分遣隊と、ナイルを遡上する物資船団によって確実に維持される――。茜は地図上の線を指でなぞりながら確認した。
「遠征地での戦いだけど、補給線がしっかりしてるなら、安心して戦えるよ。」
ラムセス王は笑みを浮かべ、静かに答える。
「今回、余が先頭に立たぬからといって、軍の補給を軽視するなどありえぬ。ファラオの軍は、常に万全だ。」
その言葉に、軍議の場の空気が引き締まる。茜は深く頷き、立ち上がった。
「なるほどね……あとは私達が上手く戦うだけってことね。」
ナイルの方角から吹き込む風が、彼女の髪を揺らす。その風はまるで、これから始まる戦の予兆を運んでいるかのようだった。
茜の居室――。
全体での会議が終わったあと、茜の居室にバトラー将軍を始めとする第三軍団の幹部も集まり、臨時の作戦会議が開かれようとしていた。バトラー将軍が堂々と立ち上がる。
「アカーネ様。今回の反乱討伐、第三軍団の指揮権はすべてアカーネ様にお任せいたします。我ら第三軍団、すべてアカーネ様の指揮下に入ります。どうぞ存分にお使いください。」
その場にいた第三軍団の将官たちも一斉に立ち上がり、右拳を胸に当てて一礼する。
「アカーネ様のご指揮に従います!」
突然の大合唱に、茜は一歩引いて目をぱちくりさせた。
「え、えぇぇぇ!? ちょっと待って!? 将軍の方が経験豊富だよね!?私が将軍の指揮に入るほうが自然じゃない!?」
困惑する茜の横で、ガルナードが静かに腕を組み、理屈っぽく言う。
「主殿。今回の戦、兵力的に間違いなく主殿の部隊が主力となりましょう。であれば、全体の指揮を執るのは主殿が理に適っております。」
「理に適ってるって……そういう問題じゃないでしょ!?」
バトラー将軍も真面目な表情で頷く。
「私もガルナード殿と同意見です。それに、アカーネ様はカデシュの戦いの際も、我らには出来ないやり方で戦を終わりに導きました。今回も我らをお導きください。」
さらに追い打ちをかけるように、リュシアが淡々と補足した。
「先ほどの軍議でもあった通り、指揮系統は統一しておくのが賢明です。ここは主の出番でしょう。」
「うへぇ……責任重大すぎる……。」
茜がぼやくと、すかさずアルタイが苦笑まじりに言い放った。
「将軍も主の指揮下に入るって言ってるんだから、もう決まりだな。」
「……いや、だからって全員そんな即決しなくても!?」
しかし、誰一人として撤回する気配はない。茜は両手を広げて訴える。
「ちょっと! 私の味方、誰もいないの!?」
ガルナードは咳払いしながら「理に適っております」と再び繰り返し、
リュシアは冷静に「主は日ごろから好き勝手やっているのですから、
これくらいの責任があってもよいのでは?」と軽くいなす。
「ぐぬぬぬ……!」
茜の歯ぎしりが聞こえる中、後方からさらにお気楽な声が響いた。
「茜~、がんばってねぇ~! 信仰ボーナス、期待してるから!」
「そうそう、ここで勝てばヌビアでも私たちの信仰増えるでしょ?つまり私のボーナスステージ継続ってやつ!」
――ユカナとミラナである。
あまりに軽い声に、茜はがっくり肩を落とした。
「本当にあんたたち見てると、神様ってろくでもないのばっかりだと思うよ……。」
その言葉に、周囲の軍幹部たちは苦笑し、バトラー将軍すら思わず口元を緩めた。こうして正式に、エジプト第三軍団と茜の部隊は一つの連合軍として編成される事が決まった。
「それでは、まず、兵力総数を確認しましょう。」
バトラー将軍がパピルスを広げ、全員の前に示した。
「アカーネ様の軍勢――約三千。第三軍団の残存兵――約三千。合わせて約六千、想定されている敵の数を考えても、十分に対応可能です。」
茜はうなずきながらも、どこか複雑そうな表情で地図を見つめた。
「こうして数字で見ると、いよいよ本格的な戦争って感じがするね……。」
ガルナードが前に出て、茜に伝える。
「主殿、エジプト王国の歩兵部隊は我が指揮下に置かれます。第三軍団の中装槍兵と我らのポプリタイを統合します。兵の錬度は高く、正面戦にも十分耐えうるかと。」
「了解。ガルナード、前線は任せたわ。」
次にリュシアが滑るように一歩前に出て報告する。
「弓兵部隊は私が統括します。第三軍団の弓兵と私達の複合弓兵隊を統合し、私の指揮で戦う予定です。戦力や練度を考えれば、初撃で敵戦列を乱せるでしょう。」
「さすが、リュシア。」
茜が感心してつぶやくと、リュシアは少し照れくさそうに微笑んだ。
その横で、アルタイが軽く手を挙げる。
「騎兵部隊はいつも通り、俺が率いる。偵察と追撃、どちらでも動けるように機動戦重視の構成にしておく。ただ、クシュの地形は岩と砂が混じる。馬の蹄鉄を軽く加工しておいた方がいい。」
「了解、そこは後方の職人に頼んでおくね。」
会議は順調に進み、最後にバトラー将軍が締めくくった。
「第三軍団の戦車兵は、アカーネ様の機動戦力とは機動力が違い過ぎますので、統合はいたしません。また今回は前線に出さず、司令部直属の総予備として配置いたします。」
「えっ、第三軍団の戦車まで私が見るの? 司令部の規模も大きくなってきたな……。」
茜が苦笑する。
「当然です。」
バトラー将軍は静かに言い、深く頭を下げた。
「私も副将として、アカーネ様を補佐いたします。どうぞご安心を、アカーネ様。」
地図の上では、槍兵・弓兵・騎兵・戦車――それぞれの配置線が整い、約六千の軍勢が一つの意志として形を成していく。
茜はしばらくその地図を眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……もう逃げられない、か。責任って、重いなぁ……。」
その独り言に、ガルナードが静かに笑う。
「主殿が逃げるなど、天地が逆さまになってもあり得ませぬ。」
茜は半眼で睨みながらも、結局笑ってしまう。
「はいはい、どうせやるなら、ちゃんとやるよ。」
ランプの灯がゆらめき、外では夜風が幕を揺らした。こうして――茜を総指揮官とする“南ヌビア討伐軍”が正式に発足したのである。
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数日後の朝――。
アニバの街に、太鼓の音が鳴り響いた。乾いた風の中を、兵たちの鬨の声がゆっくりと広がっていく。
「報告! ナイル上流域の反乱軍、北上を開始!」
伝令の叫びが、アニバの宮殿に響いた。
その報せを受けて間もなく、アニバの西門前には出陣の隊列が整っていた。槍兵が列をなし、弓兵たちは弦の張りを確かめ、戦車兵たちは青銅の車輪を磨き上げる。そして、その中央に――ヒッタイトの高位巫女装束の茜の姿があった。
ラムセス王はその光景を見つめ、静かに頷いた。
「アニバの者たちよ、聞け!この軍を率いるは、古の風の神アカーネなり。彼女の導きによって、我がエジプトとヌビアは新たな繁栄へ至るであろう!」
王の言葉に、周囲のヌビアの族長たちがどよめいた。女性の指揮官というだけでも異例だが、その存在が『古の風の神』と紹介されるや、一斉に頭を垂れる。ラムセス王の背後で、エンへドゥアンナが小声で呟く。
「見事な演出ですね、ファラオ……神話と政治の融合です。」
ラムセス王はわずかに微笑み、「これも国を治める術の一つよ」と返す。
茜はというと、緊張と照れとで顔を引きつらせていた。
(ちょ、ちょっと待って……ヌビアでも私の事を神って言っちゃったよ、この人!? これもう、失敗できないじゃん!)
族長たちは砂の上に額をつけ、戦を見送る祈りの言葉を唱える。茜は肩に風を受けながら、軽く手を挙げて応えた。
「アニバのみんな、ヌビアの未来はここから始まる!必ず勝って戻るから、期待してて!」
その瞬間、太鼓が再び鳴り響き、旗手たちが軍旗を掲げた。先陣の中装槍兵が砂煙を上げて動き出す。その背後を、茜の部隊がゆっくりと進む。ナイル河には補給船団が並走し、太陽の光を反射して帆が黄金に輝いていた。
その壮大な光景に、ヌビアの族長たちは息を呑む。誰もが心の中で、風の神の加護を祈っていた。茜はその視線の重さを感じながら、内心で小さくぼやく。
(いやもう……プレッシャーがすごいんだけど!)
それでも彼女の目には、決意の光が宿っていた。砂塵の向こう、ナイルの流れの先に――反乱の地、南ヌビアが待っている。こうして、茜率いる“南ヌビア討伐軍”はアニバを出陣した。
補給線は万全に保たれていた。ナイルの河面を進む物資船団が背後を支え、東岸の第三軍団分遣隊が絶えず警護を続けている。そのため、茜率いる連合軍の行軍は驚くほど滑らかだった。兵たちの足並みは揃い、補給も滞らない。砂漠の陽光を反射する槍と盾が、まるで流れる川のように連なっていた。
数日後――。
茜たちがナイル西岸の高地に到着したころ、南方の地平線に砂煙が立ち上っているのが見えた。風の流れに乗って、太鼓のような低い響きがかすかに聞こえてくる。
アルタイが馬上から報告する。
「主、偵察が戻ったぞ。南方の丘陵地帯に反乱軍。すでに北上を開始してるようだな。おそらく七千前後――ほぼこっちと同数だ。」
「同数、か……。」
茜は小さく息を吐き、風になびく髪をかき上げた。
「私の部隊が主力となって完全に正面から同数の軍団規模でぶつかるのは、初めてだよね。でも反乱鎮圧ってなると、勝てばいいだけじゃなくて見せ方も大事なんだよね。」
その言葉に、リュシアが横で穏やかに微笑む。
「主でも、少しは不安に思うことがあるのですね。」
「そりゃあるよ。私は人間なんだから。いつのまに神様に祀り上げられちゃってるけどさ」
茜が苦笑すると、リュシアは首を横に振って静かに言った。
「ご安心を。主の軍は、この時代の軍勢とは隔絶した存在です。戦術、練度、装備――いずれを取っても、必ずや圧勝いたします。」
茜はその言葉に小さく笑みを返す。
「ありがと。……ほんと、頼もしいね。」
彼女の前方では、ガルナードが槍兵や重装歩兵達を展開し、リュシアが弓兵を丘の上に配置している。アルタイの騎兵は側面を固め、戦車隊とトーションカタパルトは茜の周辺に待機。まさに、戦いの構図が静かに完成しつつあった。
その様子を、少し離れた岩陰でエンへドゥアンナが見つめていた。筆を取り、彼女は茜の立つ姿を見ながら紙に文字を刻んでいく。
――「風、北より来たりて、砂を払う。神の軍は、静寂の中に息づく。」
その筆跡は、やがて後の世に残る神話の序章となるのだろう。書き終えたエンへドゥアンナが顔を上げると、茜と目が合った。
「また私を祀り上げる準備?」
「ええ、今回も茜の姿をしっかり神話に残させてもらいます」
茜は額を押さえ、ため息をつく。
「もう……神話にされるの、慣れてきたかも。」
遠くで太鼓の音が響いた。砂塵の向こう――南ヌビアの地平に、反乱軍と思われる集団が姿を見せつつあった。




