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93話 ヌビア遠征――栄光と恩恵の征服

二か月後。


夏の光がナイルを金色に照らすころ、テーベの大地には二つの軍旗が翻っていた。

第一軍団――アメンの象徴たる青と金の旗。

第三軍団――プタハ神の紋章を掲げる赤と黒の旗。


テーベの都は熱気に包まれていた。王都から集結した兵士たちは整然と野営地を築き、各神殿からは祈祷の煙が立ち昇っている。いままさに、ヌビア遠征軍が出発する前夜だった。


ラムセス王の立案した作戦は明快で、かつ雄大だった。まず第一軍団アメンが先陣として進み、続いて茜の部隊が中央を担う。そして第三軍団プタハが後詰と補給線の防衛を担当する。行軍はナイル川を遡上し、国境の都市エレファンティネを経て、さらにヌビア支配の中心都市アニバに入城。そこで軍を展開し、反抗的な部族を鎮圧しつつ、友好的な部族を用いて灌漑工事を進め、ヌビアを豊穣の地へと変える。そして、ナイル西岸に新たな神殿を建設し、ラー神とハトホル女神を祀ることで、エジプトの威光を示す――それがラムセス王の大計であった。


挿絵(By みてみん)


茜は、王の説明を聞きながら、思わず目を輝かせた。


「これって……もしかして、あのアブ・シンベル大神殿になるやつじゃない?」


未来の世界遺産の建設の切欠を目前にできることに、彼女は子どものように喜び、ミラナが「アカーネの観光旅行…」と呆れ顔をするほどだった。


軍議の場では、ラムセス王自らが全軍の前に立ち、威厳ある声で指示を下す。


「第三軍団プタハのバトラー将軍、今回の遠征では、将軍の部隊を後詰として任ずる。余の第一軍団が先陣、中央はアカーネの軍、最後尾を将軍が守れ。」


「謹んでお受けいたします、ファラオ!」


バトラー将軍は胸に拳を当て、力強く応える。そのやり取りを聞いていた茜は、少し眉をひそめてぼやいた。


「つまり、私の軍が真ん中ってことは……前と後ろを分断するために一番狙われやすい場所じゃない?」


周囲の将官たちが苦笑する中、ラムセス王は涼しい顔で答えた。


「当然だ。最も危険な場所には、最も強力な軍を置く。それが戦の理だ。」


「……神使いが荒いってば……」


茜が小声でぼやくと、軍議の場にはどっと笑いが広がる。


だが、ラムセスの表情は冗談めかしつつも真剣だった。


「アカーネ。今回は余を助けると思って、頼むぞ。」


茜は少し照れくさそうに笑い、肩をすくめた。


「分かった。私に任せて。ちゃんと中央を守るから、安心して先陣を進んでね。」


「うむ、頼もしい。」


王の声が響くと、軍議は締めくくられた。


その瞬間、テーベの空には夕陽が差し込み、赤い光が二つの軍旗を染め上げた。ヌビアへ――新たな遠征の幕が、静かに上がろうとしていた。テーベの野営地にはまだ夜の冷気が残っていた。だがその静寂の中でも、兵たちは槍を研ぎ、荷駄を積み込み、舟の帆を整える音が途切れることはない。ラムセス王の命により、遠征の準備が本格的に始まっていた。


その中で、茜は第三軍団プタハの司令幕舎を訪れていた。テーベからアニバへ向かう補給路の確保という重要任務が、第三軍団に課せられたためである。その任務に伴い、第三軍団の半数が、補給路防衛のためナイル沿いに展開することになった。実際に遠征の主戦場へ進軍できるのは、残る半分の兵力に過ぎない。


茜は地図を見ながら、隣で説明するバトラー将軍に向かって言った。


「戦力が半減するのは仕方ないけど、私の部隊と将軍の残存部隊を合わせれば、ちょうど一個軍団分くらいになるわね。数的には充分よ。」


その言葉に、バトラー将軍はわずかに微笑んで頷く。


「たしかに、アカーネ様の軍勢と第三軍団の残余を合わせれば、およそ一個軍団……。しかし、その質は通常のエジプト軍をはるかに凌ぐものでございますな。なにせ、アカーネ様の軍は神の軍――その士気と統率は我が軍の兵たちにも伝わっております。」


茜は少し照れくさそうに肩をすくめた。


「もう、そういう言い方はやめてよ。こっちは普通にやってるだけなんだから。」


そこへ、背後から豪快な声が響く。


「ははは、謙遜するな、アカーネ!」


ラムセス王である。金色の胸甲を身に着け、陽光を受けてまぶしく輝くその姿は、まさしくファラオの威光そのものだった。王は地図を一瞥し、二人のやり取りに満足そうに頷く。


「将軍の言う通りだ。今回の遠征は、形式上は二個軍団だが――質的にはそれ以上だ。アカーネの部隊は神威を帯び、第三軍団は忠義と誇りで固められておる。これほどの軍が揃えば、ヌビアにエジプトの武威を示すことができよう。」


バトラー将軍は膝をつき、深く頭を下げた。


「ファラオのお言葉、身に余る光栄。必ずやそのご期待に応えてみせましょう。」


ラムセス王はうなずき、広間に響くように声を張った。


「明朝、我が軍はテーベを発ち、エジプトとヌビアの境界にある城塞都市エレファンティネへ向かう!各軍は支度を怠るな。――これは新たな繁栄を築くための遠征である!」


その声が響くと同時に、軍議の場にいた将官たちは一斉に胸に拳を当て、「ファラオに栄光を!」と唱和する。その中で、茜は静かに息を吸い、ナイルの流れを思い浮かべた。


****


翌朝――テーベの空は澄み切り、夜明けの金色がナイルの水面にきらめいていた。


河岸には、無数の船が整然と並んでいる。大きな軍船、補給船、そして兵を運ぶ平底船。そのすべてが、ラムセス王の号令を待っていた。


ナイルの流れは静かでありながら、そこに立ちこめる緊張は凛として張り詰めている。第一軍団アメン、第三軍団プタハ、そして茜の部隊――すでに全軍が乗り込み、いつでも出航できる状態だった。残るはただ、ファラオの姿を待つのみ。やがて、ラムセス王が金の戦装束を身にまとい、聖剣を携えて港に姿を現す。陽光がその剣身を照らし、まばゆい閃光がテーベの空へと放たれた。


「――我はこれより、風の神アカーネと共にヌビアに遠征し、彼の地にエジプトの光を降らせることを、アメン=ラーに誓う!」


ラムセス王の声はナイルを渡り、城壁に、神殿に、そして人々の胸に響いた。その後、王は剣を高く掲げ、力強く叫ぶ。


「風の神と共に南へ! 我がエジプトに、永遠の栄光あれ!」


その瞬間、港に詰めかけた兵士たちと民衆が一斉に歓声を上げた。神官たちは香を焚き、巫女たちは青い花弁を撒きながら祈りの詩を唱える。ナイルの風が舞い上がり、聖なる香煙と花弁を天へと運んでいった。茜も出発のために乗船口へ向かう途中、ネフェルタリ王妃が近づいてきた。王妃は白衣の上に黄金の首飾りをまとい、その瞳には深い祈りが宿っていた。


「茜、夫を、ラムセス王を――どうか、よろしくお願いします。そして、あなたもご武運を。」


茜は足を止め、穏やかに笑う。


「ラムセス王なら絶対に大丈夫だよ、ネフェルタリ。でも、本当に大変なことになったら、私が守るから。安心して待っててね。」


王妃は静かに頷き、そっと茜の手を取る。その手は温かく、言葉よりも深い想いが伝わってきた。


「ありがとう、茜。――あなたがいてくれること、それが何よりの守りです。」


茜は照れたように笑い、そっと手を離した。そして、風を背に受けながら船に乗り込む。ラムセス王が再び聖剣を掲げると、太鼓が鳴り響き、船団の帆が一斉に開いた。ナイルの風がその帆をはらませ、白い列がゆるやかに動き出す。


挿絵(By みてみん)


神官たちの詠唱と民の歓声が交錯し、香煙が金色の朝日に溶けていく。こうして、エジプトの栄光を掲げた大船団は、風の神と共に南へ――新たな歴史を刻む航路へと、ゆっくりと漕ぎ出していった。茜が乗り込むと同時に、船員たちが素早く帆を張り、舵を確かめる。テーベの港に繋がれていた縄が解かれ、茜を乗せた船はゆるやかにナイルの流れへと身を任せた。


リュシア、ガルナード、アルタイ、ユカナ、ミラナ――長い戦いの旅を共にしてきた仲間たちが甲板に並び、それぞれの持ち場から茜を見守っていた。リュシアは、航路図を見つめながら小さく息をつく。


「主、すでに主の意見がエジプト王国の国策に取り入れられつつあります。……もう後戻りはできませんよ?」


茜は少し顔を上げ、ナイルの流れを眺めながら静かに答える。


「うん、分かってる。正直ちょっと怖いけどね。でも……この国でこんなに楽しく過ごさせてもらったから、やっぱり応えたいと思うんだ。少しでも、このエジプトの平和を長く続けたいって。」


その言葉に、ガルナードが頷きながら笑う。


「主殿にも“責任感”というものが芽生えたようですな。」


茜はむっとして、ほっぺを膨らませる。


「ちょっとガルナード、それどういう意味? 私は昔から責任感の塊だよ?」


甲板の後ろから、アルタイがひょいと顔を出し、にやりと笑う。


「主は“欲望の塊”だとばかり思っていたんだけどな。」


「失礼な! まぁでも、この遠征に成功すれば……またご褒美、あるかもだけど。」


冗談めかして言う茜に、ガルナードはわざとらしく肩をすくめる。


「主殿の照れ隠し、というやつですな。」


「もー! あんたたちってほんとに!」


茜は両手を腰に当て、思わず声を張り上げた。


「――もういい! 出発するわよ、出発!」


その号令と同時に、太鼓が鳴り響く。水夫たちが櫂を押し出し、ゆっくりと船体が前へ滑り出す。茜の部隊を載せた船団が、ナイルの上流――ヌビアへの道を遡上し始めた。岸辺にはまだ多くの人々が残っており、見送るように歓声が沸き起こる。その波のような声は、ラムセス王の船団が出発したときと同じ熱を帯びていた。


「すごい声援……。カデシュの戦いのときの出陣もそうだったけど、やっぱりすごいね。」


茜が感嘆まじりに言うと、リュシアは真顔で答える。


「それだけ主も、この国に期待されているということです。」


ユカナは少し頬を紅潮させ、歓声に手を振りながら言った。


「何度もこうやって導き手と旅してきたけど……こんなに大きな声援は初めてかも」


ミラナは満面の笑みで群衆に向かって両手を振り、「これこれ、こういうのを私は望んでいたのよ!」と大はしゃぎ。それを見た茜が呆れ顔で言う。


「あんた上位神でしょ? こういうの慣れてるんじゃないの?」


ミラナは一瞬きょとんとしたあと、しょんぼりと肩を落とした。


「……こんな歓声、初めてなんだけど……。」


茜は思わず吹き出し、仲間たちも笑い声を上げる。その笑いが、ナイルの水面に波紋のように広がっていった。


数日後――ナイル川を南へと遡上した大船団は、ついにエジプトとヌビアの国境に位置する城塞都市、エレファンティネへと到着した。強い陽光が白い石の城壁を照らし、川面は金色に輝いている。古くから交易と防衛の要衝として栄えたこの都市は、今まさにエジプト遠征軍の新たな拠点として息づこうとしていた。


船が港へ着岸すると、甲板の上から見下ろす兵たちの間にざわめきが広がる。各軍団はそれぞれの任務に応じて動き始めた。まず、ラムセス王率いる第一軍団アメンが先行部隊として西岸を南へ進む。茜率いる部隊はその後方――第一軍団アメンの後続として、西岸を南へ進む。そして第三軍団プタハはナイル東岸に展開し、舟団と補給路の護衛を担当することになった。茜は上陸の準備を進めながら、少し感心したように呟いた。


「ラムセス王、けっこう慎重に動くんだね。もっと一気に行くタイプかと思ってた。」


その隣で、地図を見つめていたリュシアが静かに頷く。


「一見すると大軍による示威行動に見えますが、これは非常に理に適った布陣です。一応エジプトの影響下とはいえ、ヌビアにはまだ反抗的な部族もいます。物資を満載した舟を守るためには、河を挟んで両岸を押さえるのが最も安全な方法です。……戦術・兵站、そして政治的な安定――すべてを考慮した展開ですね。」


茜は感心したように息をつく。


「なるほどね……。両岸に軍を分けることで、現地の部族にも“逃げ場がない”って印象を与えるんだね。やっぱりファラオって、戦略家なんだね。」


「ええ、王としてだけでなく、将としても優れています。」


リュシアがそう答えると、茜は微笑み、ナイルの向こう岸――陽炎の向こうに見える第三軍団の旗を見つめた。川面には無数の帆が並び、ナイルの流れに沿って南へと延びるその光景は、まるで巨大な蛇が砂漠を貫いていくかのようであった。やがて茜は仲間たちに振り返り、軽く手を挙げる。


「よし、私たちの部隊も出発。行くよ!」


その声と同時に、号令の太鼓が鳴り響き、茜の部隊は西岸を南へと進み始めた。


ナイルを南へと遡るエジプト軍は、やがてより温かな空気の中へと入っていった。周囲には見渡す限りの砂丘と灌木が続き、時折、乾いた風が帆をはためかせる。しかし、その厳しい大地にも人々の営みは息づいており、川沿いの村々にはヌビアの部族たちの姿があった。


ラムセス王は、これら友好的な部族との関係を何より重視していた。王の命を受けた兵士たちは、舟から穀物や塩、銅器、織物、香油などを運び出し、村人たちに分け与える。配布の場は笑顔と歓声に包まれ、子どもたちがパンを掲げて喜び、女性たちは兵士たちに水を差し出して感謝を示した。


「ファラオに栄光あれ!」


そんな言葉が自然と上がり、ヌビアの地にエジプト語と現地語の歓声が入り混じって響く。この寛大な施しによって、エジプト軍は敵意ではなく信頼を得た。各部族の長たちも続々とラムセス王の陣へと姿を現し、やがて彼ら自身がアニバへの同行を申し出る。その列に豪奢な装飾を施した馬や、金で飾られた部族旗が加わり、軍勢の行進は次第に壮大なものとなっていった。


茜は、自軍からその光景を見て、ぽつりとつぶやく。


「すごい……まるでお祭りの行列みたい。でも、これって政治なんだね。見せることで、支配じゃなく“繁栄”を印象づけてる。」


その隣で、鎧姿のガルナードが満足げに頷いた。


「まさしく“威を以て和を成す”、というやつですな。武力を誇示しつつも、物資を分け与え、豊かさを見せる――戦わずして服すのが理想の遠征というもの。」


茜はその言葉に思わず笑みを浮かべる。


「やっぱりラムセス王、伊達に偉大なファラオって呼ばれてないね。」


風が吹き抜け、行軍の旗が一斉に翻る。金色の陽光に照らされながら、エジプト軍とヌビアの友好部族がともに進むその光景は――まるで神々の祭礼のような荘厳さを帯びていた。その隊列の先頭で、ラムセス王の戦車が砂を巻き上げる。その背に続く無数の兵と民――その流れこそが、のちに「黄金の進軍」と語られる壮麗な遠征であった。


太陽が南天を越え、赤金の光が砂漠を照らすころ――エジプト軍の大行列はついにヌビア支配の中心都市、アニバへと到達した。街の周囲には石造りの防壁がめぐらされ、その内側にはすでに親エジプト派の族長たちが集っていた。城門の上では、アニバの民達が大歓声で遠征軍を迎える。


ラムセス王の行列が城門をくぐると、太鼓と角笛の音が鳴り響き、アニバの広場には群衆が波のように押し寄せる。その中央に設けられた玉座の間では、族長たちが跪いてファラオを迎え、ラムセス王はゆっくりと壇上に進み出た。茜やリュシア、ガルナードたちも王の左右に並び、その荘厳な場を見守る。


ラムセス王は一度、広場を見渡す。強い陽光が彼の黄金の王冠に反射し、まるで太陽神そのものが地上に降り立ったかのように輝いていた。


「ヌビアの族長たちよ、聞け!」


ラムセス王の声が響くと、広場のざわめきが静まり返る。


「余はこれより、ヌビアの繁栄と永続のため、二つの大いなる事業を行うことを決めた。これはヌビアを豊かにし、そなたらに栄光をもたらすための“祝福”である。」


族長たちは顔を見合わせ、ざわめきが広がる。ラムセス王は手を掲げ、続けた。


「第一に――ナイル流域に灌漑工事を施し、農地を拡大する。これまで牧畜を生業としてきたヌビアの民にも、エジプトと同じように大地の恵みを授けよう。ナイルの水が新たな命を運び、この地は穀倉地帯となるであろう。」


族長たちは驚いたように顔を上げた。彼らの中には代々牧畜で生きてきた者も多く、変化への不安が表情に滲む。だが、ラムセス王はその動揺を見抜いたように微笑むと、さらに高らかに宣言した。


「第二に――余はこの地に“神の座”を建てる。ナイルの上流、太陽が昇る地にラー神とハトホル女神、そして風の神アカーネの神殿を建立し、永遠の加護を祈るのだ。神々の祝福のもとでこそ、この地は真の繁栄を得るであろう!」


その言葉が放たれると同時に、広場の空気が変わった。族長たちは互いに視線を交わしながらも、やがて一人、また一人と立ち上がり、右手を胸に当てて誓う。


「ファラオよ、我らはあなたに従おう。」

「神々の加護のもと、我らも豊かさを望む。」


彼らの声は次第に合わさり、やがて歓声となってアニバの空へと昇っていった。茜はその光景を見つめながら、小さく息をついた。


「…まさに“力と恩恵”の政治。抵抗するより、従う方が希望を持てるってわけか。それにこの地にも私の神殿が出来るんだ…」


ガルナードが深く頷き、静かに言葉を添える。


「繁栄を与える支配――それもまた、王の器量でございましょうな。」


ラムセス王はそんな二人のやり取りを耳にしてか、満足げに微笑んだ。アニバの族長たちはおおむねラムセス王の施策に賛同したものの、その中の一人――顔に深い皺を刻んだ長老族長が、慎重に手を挙げる。


「偉大なるファラオよ……。我らはあなたの威光を疑う者ではありません。しかし、ヌビアのすべての族長が同じ心を持つわけではございません。いまだあなたの支配を認めぬ者もおります。彼らは山岳地帯に籠り、交易を拒み、あなたの名を口にすることさえ恐れぬ者たちです。」


会場の一角がざわついた。他の族長たちは視線を交わし、誰もがその“従わぬ者”たちの存在を知っているらしかった。ラムセス王は、しばし沈黙したのち、壇上からゆっくりとその視線を巡らせる。その瞳には、砂漠を見渡す太陽のような光が宿っていた。


「ヌビアの地において、余は戦いを望まぬ。だが――」


彼は腰の剣を抜き、掲げた。金の装飾が光を反射し、壁の象形文字にまで光の帯が走る。


「余は自らここへ来た。神の血を引くファラオが、この地に足を運んでいるのだ。それでもなお挑みたい者がいるのなら――余は喜んで受けて立とう!」


その言葉は大広間の石壁に反響し、まるで雷鳴のように轟いた。近くにいた族長たちは息を呑み、誰もがその威圧と気迫に圧倒される。


やがて、沈黙。

次の瞬間、全員の族長たちが一斉に頭を垂れた。その動きは、もはや服従というより“崇拝”に近かった。その光景を少し離れた場所から見ていた茜は、腕を組みながら小声でつぶやく。


「……これはもう、話し合いというより“圧力外交”だね。」


隣のリュシアが淡々と応じる。


「ですが、これほど効果的な外交もそうはありません。ファラオの権威を実感させた瞬間です。」


茜は苦笑しながら肩をすくめる。


「うん、間違いなくラムセス王、やり手の交渉人だよ。」


その時、広間の中央では、ファラオの前に跪いた族長たちが再び誓いの言葉を述べていた。


「我らはラーの御子、ラムセスの命に従い、ヌビアの地を繁栄へ導くことを誓う!」


ラムセス王は満足そうに頷き、手を掲げてその誓いを受け入れた。


こうして――

ヌビア統治の骨組みは、ここアニバにおいて完成を迎えた。それは征服ではなく、威光と恩恵によって築かれた支配の始まりであった。

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