92話 晩餐と密談、未来を変える夜
数日後、アカーネ神殿に使者が訪れ、茜はラムセス王から宮殿への招待を受けた。王家主催の晩餐会――豪華な食事と煌びやかな場に、茜は「やった!絶対ご馳走いっぱいだよね!」と子どものように喜び、即座に参加を決める。
その横で、ミラナが手を挙げて「私も行く!贅沢したい!」と駄々をこねだした。ユカナがすかさずため息をつきながら、「……ミラナさん、その欲に忠実なところ、最近だんだん茜に似てきてない?」と突っ込む。「だって、たまには私だって贅沢したいから!」とミラナはキラキラした目で言い張り、結局茜に同行することとなった。
そんな浮かれた二人を見ながら、エンへドゥアンナは袖を押さえ、静かな声で告げる。「……しかし、これはただの宴席ではないと思います。おそらく、ラムセス王から重要な密談があると思います。それにミラナ様だけでは心もとないでしょうから、私も参加しましょう。」だが茜は気楽な笑顔を浮かべて、「まぁ、美味しいものを食べながら、軽く話すだけでしょ~」と、完全にお気楽モードだった。
リュシアは半眼で、「主、あまり羽目を外さないようにしてくださいね」とぴしゃり。
アルタイも腕を組み、「とはいっても、主が何もやらかさないっていうのは想像できないけどな」と肩をすくめる。
極めつけにガルナードまでが「主殿……今までの行動を考えれば、信用されぬのもやむなしでございましょう」と淡々と追撃する。
「ちょっと!そんなに私、信用ないの!?」
不満げに頬をふくらませながらも、茜は一行を率いて神殿を後にし、煌びやかな宮殿の門へと向かっていった。
宮殿の大門が開かれたとき、茜たちの前に現れたのは――なんとラムセス王その人であった。燦然と輝く黄金の首飾りと白衣をまとい、王自らが門口に立ち迎える姿に、随行の者たちは息を呑む。エンへドゥアンナは思わず心中でつぶやいた。
(王自ら出迎えるなど……シュメールの王妃として、これがいかに異例のことかはよく分かります。まさに、アカーネは彼にとって国宝そのもの……)
しかし、肝心の本人はというと――。
「ラムセス王!今日はエジプト王家主催の晩餐会なんでしょ?私、すっごく楽しみにしてるんだ!」
茜は屈託のない笑顔で手を振り、場の荘厳な空気を軽く吹き飛ばしてしまった。ラムセス王は苦笑を漏らしつつも、どこか満足そうに頷く。
「アカーネに期待されるとなれば、余も嬉しく思うぞ。」
やがて王は声を低め、少しだけ鋭い視線を向ける。
「……ところで、先日ネフェルタリを連れてぺル=ラムセスの商人の晩餐会に赴いたそうだな。王妃の話では、そこで出されたシュメール料理が、そなたの舌には合わなかったと聞く。」
「えっ!ネフェルタリそんなこと言ってたの!?いやいや、すごく美味しかったんだよ!ただ、ほんのちょっと風味が違っただけで……」
慌てふためく茜に、王は穏やかに頷いた。
「案ずるな。実は本日の晩餐会の余興として、その商人が再びシュメール料理を献上することになっておる。ぺル=ラムセスの商人として、そなたを満足させられる料理を出せれば、自らの面子も立つ。さらには、それを機に新たな商機を広げることもできよう。」
「なるほど……そういうことか。さすが商人さんだね!」
茜はほっと胸を撫で下ろし、同時に「悪いことしちゃったかな」と気まずそうに口をすぼめたが、王は首を振る。
「そなたの率直な感想こそ、彼らにとっては何よりの糧となるのだ。気に病むことはない。」
その言葉に、茜はぱっと表情を明るくし、「そっか!じゃあ、今日も楽しみにしてるね!」と笑顔を返すのだった。
ラムセス王は、同行していたエンへドゥアンナとミラナに一瞥をくれると、静かに口を開いた。
「実は、晩餐会までの間に少しアカーネと話がしたい。そなたたちには別室に飲み物を用意してあるゆえ、しばし待機していてくれぬか。」
エンへドゥアンナとミラナは顔を見合わせ、王の声音に逆らえず頷く。召使に導かれて去っていく二人を見送り、茜は小首をかしげながらも王の後に従った。
辿り着いたのは、豪奢ながらも静謐な執務室。壁には戦勝の浮彫、机の上にはパピルスが整然と積まれ、窓からはナイルの流れが見渡せる。すでに人払いがされ、室内には茜と王だけが残された。
――空気が一変した。
茜は椅子に腰掛けつつ、(これは……ただの食事の前座じゃないな)と珍しく背筋を正した。ラムセス王は沈黙ののち、静かに頭を垂れる。
「アカーネ様。このたびのヒッタイトとの和平、余はエジプトの王として深く感謝している。」
その声音は、神を演じるファラオではなく、一人の王としての率直な礼であった。茜は一瞬きょとんとし、それから柔らかく笑う。
「別に気にしなくていいのに。それより、ヒッタイト王国との約定はうまくまとまりそう?市場にはもう、ヒッタイトの商品がたくさん並んでるけど。」
「うむ。これは余の国だけでなく、互いに利のある取引だ。ヒッタイトも積極的に進めており、作物や工芸品はすでに行き交っている。この流れは止まらぬであろう。」
王の言葉に、茜は満足げに頷いた。しかし次の瞬間、王の瞳に影が差す。
「……アカーネ。そなたは以前、我が治世の後、異民族の侵入により王国の屋台骨が揺らぐと予言したな。今ここで問う――何かそれを避ける手立てはないのか?」
茜は唇を噛む。やはり、今日の真の招待の理由はこれだった。
「なるほどね。今日の晩餐会は、その答えの“代金”ってわけね。」
ラムセス王はわずかに笑みを浮かべる。
「安すぎる報酬か?」
「いや、あなたからはもう色んなものをもらってるから、十分よ。」
茜が肩をすくめると、王は深く頷いた。やがて茜は真顔に戻り、低く告げる。
「異民族侵入は確かに大きな要因。でも、それだけじゃないの。あなたの治世の後、ヒッタイト王国周辺で飢饉が続くのよ。エジプトは隣国として救援に作物を送ることになる。その負担でエジプトも疲弊する。その隙をついて異民族である“海の民”がナイルを遡上し、ぺル=ラムセスに攻め込もうとするわ。」
ラムセス王の表情が険しくなる。
「ヒッタイトの事情まで絡むのか……」
「そう。そしてその時、ヒッタイトも疲弊しているから援軍は望めない。エジプト軍は独自に戦わざるを得なくなる。でもね……その頃の軍制改革は失敗していて、軍は弱体化したまま。不利な条件で戦うことになってしまうの。」
茜の声は静かだったが、重みを帯びていた。王は長い沈黙ののち、深く息を吐く。
「……なるほど。飢饉と援助、異民族の侵入、そして軍の弱体化――それらが重なり、我が国は衰退へ向かうのか。」
そして顔を上げ、真剣な眼差しで茜を射抜く。
「アカーネ、今の余であれば、対抗策を出せるのか?」
茜は頷く。
「今のエジプトには余裕がある。今から準備すれば、少なくとも数十年は命脈を延ばせるよ。」
「数十年……それでも短いものだな。」
落胆の響きを含む王の声に、茜はにやりと笑った。
「でも、その数十年の繁栄が民にどれだけの安心を与えるか、考えてみてよ。歴史に名を刻む偉大な王として、それは十分すぎる価値があると思わない?」
ラムセス王の瞳が再び燃える。
「……確かに。ならば、余は尽力しよう。アカーネ、具体的には何をすれば良い。そなたなら、すでに策を持っているのだろう?」
茜がしばらく考え込むように目を細めると、執務室の空気が静かに張り詰めた。
「うーん、私は政治のことは専門じゃないけど……飢饉対策なら、今からでも収穫量を増やす手はあるはずだよ。例えば、ヌビア地方ってまだ牧畜中心の地域でしょ? ナイル沿いの流域だけでも灌漑を施してやれば、農地に転換できるんじゃないかな。ヌビアの産出が上がれば、ヒッタイトへの支援をしても、食料は足りるはずよ」
ラムセスは静かに茜の言葉を受け止め、窓の外のナイルを見やった。彼の瞳には即断力が宿っていた。
「ヌビアか……分かった。アカーネの提案は理に適っている。よって、余の代でヌビアに灌漑工事を行わせよう。そのためにも、ヌビアを安定させるために遠征が必要であるな」
茜は思わず声を上げた。「えっ、えっ、そんな簡単に決めちゃっていいの?」
「余はファラオである。余が決すれば、それが方針となるのだ。」
王の言葉は揺るぎなかった。茜は内心で(流石、古代国家の王様だ……)と感嘆する。自らの一言が国策に直結するその重みを、彼は軽々と振るって見せた。
「じゃあ、私も同行するよ。だって、私が言い出しっぺみたいなもんだし」と茜がくすりと笑うと、ラムセスは満足げに頷いた。
「よかろう。近いうちに、余は第一軍団と第三軍団を動員して、ヌビア遠征を行う。示威と安定のため、余自ら出向くつもりだ。アカーネ、そなたも付き従え。」
その場で決定が下される。すでに文書を起こす者たちの足音が遠くから聞こえるような臨場感が部屋を満たした。だがラムセスはさらに眉を寄せる。表情が一段と真剣になると、もう一つの問題――海から来る異民族の侵入について問うた。
「海からの侵入については、如何に対処すべきか。河を遡る敵に対して、我々はどう守るべきかを、余は知りたい。」
茜は地図の上で指を這わせながら答えた。「ナイルの下流、三角州付近が最初の衝突地点になると思う。河川を遡上されれば、ぺル=ラムセスまで攻め込まれる可能性が高いかな。だから公共工事として、河川防御と砦を整備しておくのはどうかな。堤防や浅瀬の人工的造成、水門に相当する構造物、そして要所要所に駐屯する小規模な砦を築けば、遡上はかなり遅らせられるはずよ。あなた、建設は得意でしょ?」
ラムセスは短く息を吐き、目を細めた。「分かった。余の代であらかたの防御施設を建造させよう。河の流れを見極め、要塞化を進め、造船や河防兵の訓練も行う。これを命ずる。」
茜は安心して笑った。「うん、それでいいと思う。ヌビアで食料を増産して、ナイル下流は守る。うまく組めば、数十年の猶予は取れるはずだよ」
王は椅子から立ち上がり、机に伏せた地図を指差した。
「よかろう。まずは暫定の遠征計画と工事予算を組み、諸官に発令する。アカーネ、そなたの知見を施政に反映させよう」
茜は、王の言葉に小さく頷いた。執務室に、ふたたび沈黙が訪れた。だが茜は、まだ胸の内に残していた言葉を思い切って口にした。
「それとね、ラムセス王。さっきヌビア遠征や工事の話をしたけど……そういう建設には人手が必要でしょ? でも、出来れば――ヘブライ人は彼らの故郷に戻してやってほしいの」
ラムセスは軽く眉を上げた。「ネフェルタリも言っておったが、アカーネはヘブライ人をかなり気遣っておるのだな。だが、労働力を失って国が揺らぐようなことにならぬか?」
茜は真っ直ぐに答える。「正直に言えば、労働力の低下は避けられないと思う。でも彼らの故郷はカナンの地。そこに彼らが定着すれば、アッシリアとの間に自然と緩衝地帯ができる。内陸をヘブライ人に任せて、沿岸部をエジプトが抑えれば、エジプトにとっても悪くないはずだよ。労働力の低下と天秤にかけても、エジプトにとって利が大きいと私は思うけど、どうかな?」
ラムセスはしばし思案に沈み、やがて低く唸るように言った。
「……なるほど。確かに、それは戦略的に大きな利がある。ならば、彼らをまとめる指導者を立て、その者に責任を担わせればよい。分かった、この件はアカーネに任せよう」
茜はぱっと表情を明るくして頷いた。
「ありがとう、ラムセス王! 今すぐじゃないけど、ヌビア遠征が終わったら、彼らの移動を助ける形で動くね」
「うむ。それでよい」王は力強く答えると、机に置かれた地図を指で軽く叩いた。「余が決めたのだ。誰も文句は言えぬ」
茜は思わず苦笑いを浮かべた。「……それにしても、こんな二人きりの密談で大事なことを次々決めちゃって、本当に大丈夫?」
ラムセスは朗らかに笑い、王の威厳と人間的な豪胆さを併せ持つ声音で言い放つ。
「アカーネの助言を受け、余が決定する。それこそがファラオの権威よ。心配無用だ」
その断言に、茜は肩をすくめながらも感心せずにはいられなかった。
「……やっぱり、歴史に名を残すファラオは違うね」
彼女の素直な一言に、ラムセスの眼差しはさらに誇らしげに輝いた。
その時――
「ぐぅぅぅぅ……」
静かな執務室に、茜のお腹の音が見事に響いた。ラムセス王は一瞬きょとんとした後、盛大に笑い声を上げる。
「ははは!なるほど、アカーネもお腹を空かせているようだな。では密談はこれまでとしよう。さあ、晩餐会へ向かうか。なに、先ほどの話の礼だ。シュメール料理も含め、我が王国の料理の真髄を心ゆくまで楽しんでくれ」
茜は頬を赤らめながら「うぅ……バッチリ聞かれてるじゃん……」と肩を落とすが、すぐに「でもご飯は楽しみ!」と気を取り直し、王と共に会場へと足を踏み入れた。
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広々とした晩餐会場には、既に出席者たちが整然と並んでいた。エンへドゥアンナは落ち着いた表情で席に着き、ネフェルタリ王妃は優雅に立ち振る舞い、将軍たちも鎧を整えて姿勢を正している。だが、その中で一際落ち着きがないのは、やはりミラナだった。
「あっ、やっとアカーネ達が来た! ねぇねぇ、これでやっとご飯食べられるんでしょ?」
小声でエンへドゥアンナに耳打ちする。
エンへドゥアンナは扇で口元を隠しつつ、「主役は遅れてくるものです。まして今回は、主催がラムセス王なのですから」と淡々と返す。
「ご飯食べるだけなのに、そんなに面倒なんだ……」
ミラナは不満げに頬を膨らませ、テーブルに並んだ煌びやかな料理を凝視する。
「でも……あのガチョウの丸焼きとか、絶対美味しいよね。あぁ~早く食べたいなぁ」
ラムセス王はそのやり取りを耳にしたのかどうか、悠然と壇上に立つと、場内の視線を一身に集めた。
「今日は――」
その声に空気が張り詰める。
「ヒッタイトとの和平において、多大な功績を立てたアカーネを迎え、宴を設けた。先ほど、アカーネと密談を行い、近いうちに余自らヌビア遠征を行うことを決した。今日はその英気を養うと共に、共に繁栄を祝う日である」
彼は杯を掲げ、ゆっくりと周囲を見渡した。
「また今回の宴の余興として、我が国の商人が威信をかけ、アカーネに献上するシュメール料理を披露することになっている。皆、楽しみにしてほしい。そして――」
朗々とした声が響く。
「ヒッタイトとの和平に乾杯を!」
「乾杯!」
杯が一斉に掲げられ、楽の音が高らかに響き渡る。ついに晩餐の幕が上がった。晩餐会の大広間は、まさに絢爛豪華の極みだった。香木の煙が天井へとゆるやかに昇り、甘く濃密な香りが場を包む。リュートとハープ、タンバリンの調べに合わせ、軽やかに舞う舞姫たちの影が壁に揺らめき、音と光と香りが一体となって宴を華やかに演出していた。
大卓には贅を尽くした料理が並ぶ。炙った塩漬けティラピアにオリーブオイルをかけた前菜、ガチョウの丸焼きには蜂蜜とクミンの香ばしいソース、赤ワインでじっくり煮込んだラム肉にザクロの甘酸っぱい風味が溶け込み、さらにイチジクの蜂蜜煮が色鮮やかに皿を飾っている。
茜は赤ワインの杯を片手に、ネフェルタリ王妃と笑顔で歓談していた。
「やっぱりエジプトの宮廷料理って豪華だよね。味付けも繊細だし!」
王妃も微笑みながら杯を掲げ、「アカーネが楽しんでくださるなら、夫も料理人たちもきっと喜びますわ」と優雅に応じる。
一方その隣では、ミラナが両手に料理を抱え、目の色を変えて食べ散らかしていた。
「ひゃーっ、このガチョウ最高! あ、あっちのラム肉も持ってきて!」
見かねたエンへドゥアンナが眉をひそめ、「あまりがっついていると、ご自身の信仰が落ちますよ」と苦笑混じりに諭すと、ミラナは「や、ヤバッ……」と一瞬だけ大人しくなる。だがすぐに再び皿へと手を伸ばし、結局は豪快に食べ続けるのだった。
それを眺めるエジプトの高官たちは、むしろ楽しげな様子で、「あれほど美味しそうに食べる姿は見ていて気持ちがいい」と好意的に受け止めていた。
その頃、茜の席には将軍たちが集まってきた。第三軍団プタハの指揮官、バトラー将軍が進み出て深々と頭を下げる。
「アカーネ様、先ほど王より命じられたヌビア遠征、我が第三軍団も随行することになるでしょう。どうか、今回もよろしくお願いいたします」
「うん、将軍もまたよろしくね」
茜が軽く笑顔で応じると、第二軍団ラーのメナフェル将軍も続いた。
「残念ながら我が軍は再建途上ゆえ、今度の遠征には加われませぬ。しかし、生き残った将兵は皆アカーネ様に深い恩義を抱いております。いざという時には必ず駆けつけますので、ご安心を」
茜は真剣に頷き、「まずは軍団の再建を頑張ってね。近いうちに異民族の侵入があると思うから、その時は第二軍団も必ず必要になるよ」と声を掛ける。
「心得ました」
メナフェル将軍は力強く胸に手を当てた。そこへラムセス二世が歩み寄り、場の空気が一段と引き締まる。
「ふむ、将軍たちもアカーネ詣でか。まぁ、先の戦では皆、アカーネに世話になったからな」
そう言ってから、王はバトラー将軍に視線を向ける。
「バトラー将軍、先ほどのヌビア遠征についてだ。そなたの第三軍団も、余が直卒する第一軍団と共に参加してもらう。よいな?」
その場で下された直接の命令に、バトラー将軍は即座に膝をつき、
「かしこまりました、ファラオ。アカーネ様と共に、第三軍団は必ずや陛下の御期待に応えてみせます!」
と、力強く答えた。華やかな宴の只中、未来の遠征と国の命運を担う誓いが、杯と笑みの影で静かに交わされていた。やがて、宴もたけなわとなった頃、緊張した面持ちで一人の商人が料理人を伴い、茜の前に進み出た。それは、先日ぺル=ラムセスの自宅で晩餐を催した、あの商人であった。彼は深々と頭を垂れ、声を張る。
「アカーネ様。先日の晩餐では、至らぬ料理をお出ししてしまい、満足いただけませんでした。しかし今回は必ずや、アカーネ様にご満足いただける一品をご用意いたしました。」
そう告げて料理人に合図をすると、大皿の蓋が外される。そこには、羊肉と豆を煮込んだ料理がたっぷりと盛られていた。以前と同じ料理のはずなのに、漂う香りが違っている。ゴマ油のほのかな香ばしさが湯気と共に広がり、茜の鼻腔をくすぐった。場は静まり返り、すべての視線が茜に注がれる。
ラムセス二世も前に出て、「なるほど、これがシュメール料理か。アカーネ、我が国の商人が矜持をかけて再現した品だ。ぜひ口にしてみてくれ」と促した。
茜は息を呑み、匙をとる。そして一口、口に含んだ瞬間——。
柔らかな羊肉の脂が溶け、塩と豆の素朴な旨みが舌に広がる。その奥から、確かに懐かしい香りが蘇った。ゴマ油の芳香が過去の記憶を呼び起こし、遠いシュメールの日々が胸の奥に重なる。
「……これだよ。これが……シュメールの味なんだよ……!」
茜は嬉しさに頬を緩め、やがてしんみりとした表情で杯を置いた。
「懐かしいな……」
その一言に、場の空気が柔らかく揺れる。
商人は目を潤ませ、「アカーネ様に喜んでいただけるとは……この日のために、苦労して食材を集めた甲斐がありました!」と声を震わせた。
ネフェルタリ王妃も満面の笑みを浮かべ、「よくやりました。それでこそ、我がエジプト王国の誇りです」と称賛する。
ラムセス二世は満足げに頷き、腰から金の首飾りを取り出した。
「よくぞ再現したものだ。我が国の繁栄は、そなたのような商人たちの努力に支えられている。この褒美を受け取れ」
金の首飾りを授けられた商人は、感極まってひざまずき、「偉大なるファラオ……今宵のことを、我が一族の誉といたします」と震える声で誓った。会場は再び活気を取り戻し、ラムセス王の笑みと茜の安堵に包まれて、祝宴はさらに華やぎを増していった。
茜は目の前に並んだ料理を遠慮なく口に運び、パンをちぎってはソースに浸し、羊肉を頬張ってはワインで流し込む。その食べっぷりは、豪快でありながらどこか愛嬌があり、場を和ませる不思議な力を持っていた。ネフェルタリや高官たちも思わず笑みを浮かべ、将軍たちの緊張もやわらいでいく。その様子を見つめながら、ラムセス二世は静かに杯を置き、重々しく口を開いた。
「このような平和の宴を、少しでも長く続けねばならぬ。余はファラオとして、この国の民と未来のために尽力する覚悟だ。」
力強い言葉に、会場は一瞬の沈黙の後、将軍も高官も一斉に頭を垂れた。
「我らもまた、王を全力で支えてまいります。」
その声は揃い、場に確かな結束の響きをもたらす。エンへドゥアンナはその光景を見つめ、筆を走らせていた。
「風の神が王に未来を示した夜――」
彼女の記録は、今宵を神話として後世に残そうとしていた。
「ちょ、ちょっと待って! そんな風にまとめないでよ!」
茜が慌てて声を上げ、頬を赤らめる。
「だから……恥ずかしいってば!」
その言葉に場はどっと笑いに包まれ、重苦しい空気は一転して朗らかさを取り戻す。笑いと団結の中で、宴はついに幕を下ろした。




