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91話 民と共に食す神

朝日が神殿の列柱を朱に染めるころ、アカーネ神殿の食堂には焼きたての香ばしい香りが広がっていた。大きな石窯から出された白いパンが籠に積まれ、机の上にはイチジクやデーツ、みずみずしいタマネギとキュウリのサラダが並ぶ。


「うんうん、このパン、本当に美味しいし、朝からイチジクやデーツも食べられるし……このサラダも果汁でさっぱり食べられて、本当に最高だよ!」


茜は頬を緩め、まるで庶民のようにはしゃぎながらパンをちぎり、果実を頬張っていた。その姿を少し離れた場所から眺めていた神官たちは、顔を見合わせて小声で囁き合う。


「アカーネ様は、どうして庶民の食事ばかりをお好みになるのでしょうか……」

「もう少し豪華な料理を召し上がっていただきたいものですが……」

「ですが、アカーネ様自らが『これが良い』と仰せですからな。神殿の台所も窯も、すべてそのために整えられているほどですし」

「確かに……しかし、この方にもっと相応しい料理をと考えてしまうのです」


そんな相談をよそに、茜は白パンをちぎってデーツを添え、嬉々として口に運んでいる。


「ん〜!幸せ!」


その様子にリュシアが横目で半眼を向け、静かに息を吐いた。


「……やはり主は、こういうのが一番好きなのですね」

 

茜はパンを片手に振りながら笑う。


「当たり前でしょ! 美味しい物は庶民も神様も関係ないんだって!」


その声が食堂いっぱいに響き、神官たちはますます困惑を深めるのであった。食後の口直しにデーツをひとつ齧ると、茜は椅子から勢いよく立ち上がった。


「さぁ、今日もぺル=ラムセスの困っている人たちに食事を配るよ! こうやって地道にみんなを救済することが、この都市の安定や国の安定に繋がるんだから!」


その声は堂々たるものだが、内心では別の計算が頭をよぎっていた。(……実際のところ、食料庫に溜まりすぎた備蓄を減らさないといけないだけなんだよね。腐らせたら勿体ないし。ま、ちょっと分ければ皆も喜ぶし、結果オーライってことで!)


アカーネ神殿はラムセス二世の肝いりで建てられたため、豊かな土地や寄進が惜しみなく与えられていた。ヒッタイトとの和平もあり、東西から富と物資が流れ込み、この神殿はもはや「繁栄の象徴」として市民の目に映っていた。ただ当の茜本人は、令和の元OLらしい感覚で生活しており、豪奢な贅沢には興味がない。結果、神殿の財貨や物資はどんどん蓄積され、倉庫がパンパンになってしまっていたのだ。


「アカーネ様、本日もいつもどおり食料配布の準備は整っております」


神官の一人が恭しく報告する。


「すでに神殿前には長い列ができております」


「よーし、それじゃ今日も頑張るよ!」


茜は胸を張り、食後の勢いそのままに第一塔門ピュロンへと足を向けた。


外では、すでに人々のざわめきが高まっている。パンを待ちわびる貧民、子どもを抱えた母親、そして遠方から来た旅人までもが列に並び、アカーネの名を呼んでいた。その列を守るのは、第三軍団プタハの兵士たち。鋭い眼差しで警戒に当たりながらも、時折子どもに微笑みかけるその姿に、神殿が「特別な場」であることを誰もが感じ取っていた。


列柱室――ヒポスタイル・ホールは、今や巨大な食堂と化していた。白い石柱の間には、所狭しと大鍋や大壺が並べられ、香ばしい匂いと温かな蒸気が漂っている。精製小麦で焼かれた白パンは山のように積まれ、蜂蜜で甘辛く煮込まれたアヒルとタマネギのスープが大鍋でぐつぐつと音を立てる。ニンニクとクミンが効いた豆のシチューは香り高く、黄金色の油膜が食欲をそそる。デーツやイチジクの盛り合わせは籠に山盛りにされ、隣には泡を浮かべた大壺のビール。庶民にとっては少し贅沢な料理が、ずらりと机に並んでいた。


茜はそれを眺めて満足げに頷き、神官たちに声をかける。


「それじゃ、そろそろ皆を入れるからね! 第三軍の兵士さんたちも、混乱しないように誘導をお願い!」


兵士たちが敬礼し、配置につく。茜はひらひらと手を振りながら第一塔門ピュロンへと出て行った。すでに外には長蛇の列ができており、人々の目は期待に輝いていた。


「アカーネ様! ありがとうございます!」

「アカーネ様、万歳!」


歓声が沸き起こるたび、茜はウンウンと頷きながら、愛想よく手を振る。


「それじゃ、今日も皆さんに食事を配るから、順番に並んでね! 今日の料理は自信作だから楽しみにして!」


その一言に、さらに大きな歓声が響き渡った。その様子を見ていたユカナが肩を竦める。


「結果的に信仰を広めてるよね、これ」


隣のミラナは腕を組み、半ば呆れ顔で呟く。


「やっぱり……財力こそ神力。こんなに簡単に変換されるんだもの、恐ろしいわ」


ガルナードも深く頷く。


「結果論かもしれませんが、主殿のやり方はまさに最適解でしょうな。しかも、ユカナ様やミラナ様の名も忘れず広めておられる。流石でございます」


一方、リュシアだけは冷めた表情で小声を漏らす。


「主は多分、そこまで深く考えてませんよ。ただ食料庫の整理をする事しか考えていないでしょう。」


それぞれの思惑が交差する中、群衆が列を整え、第三軍の兵士たちに導かれて神殿へと流れ込んでいった。秩序正しく配られていく料理に、人々の歓声と笑顔があふれ、アカーネ神殿は祝祭の場のように賑わい始めた。次々と配られる料理を手にした群衆は、広間のあちこちに腰を下ろし、待ちきれない様子で口へと運んだ。


「アカーネ神殿のパン、なんて柔らかいんだ! 俺たちが普段食べてる砂っぽいパンとは大違いだ!」

「見ろよ、これは……アヒル肉だろう? 肉なんて祭りでも滅多に食べられないのに! しかも、この甘辛さが絶妙だ!」

「この豆のシチュー、材料は同じなのに、味が俺たちが普段食べる物とはまるで別物だ……。香辛料がたっぷり入ってるんだな。口の中が幸せだ!」


喜びの声が次々と広がり、列柱室は祝宴の場のように賑わっていく。第三軍団プタハの兵士たちは列の整理や配膳の補助にあたり、群衆が無秩序にならないように的確に誘導していた。その働きもあり、混乱は一切なく、粛々と料理が配られていく。


満ち足りた表情で食事を頬張る人々の姿は、そのままアカーネ信仰の広がりを示していた。神殿の名声と茜への敬愛は、押しつけではなく、こうした日常の中で自然と人々の心に根付いていく。熱気と歓声に包まれるその光景は、まさに「繁栄の神」の名にふさわしいものだった。


群衆に笑顔で手を振りながら歩いていた茜は、ふと見知った顔を見つけた。


「――あっ、モーゼも来てたんだ!」


人の波の中にいたモーゼは、少し驚いたように顔を上げる。


「あなたが我々ヘブライ人にも食事を与えていると聞いて、確かめに来たのだが……本当に平等に分けているのだな」


茜はきょとんとした顔で首をかしげる。


「え? だって困ってる人に国とか関係ないでしょ。エジプト人でもヘブライ人でも、みんなお腹空くんだから。だから当然だよ」


そのあまりにあっけらかんとした答えに、モーゼは思わず息を呑む。


「……我々は、あなたを神としては認めていない。だが……やはり、あなたは偉大な人だ」


「はいはい、難しい話はいいってば」


茜は手を振って笑い、モーゼの腕を軽く引いた。


「それより一緒に食べようよ。私もちょうどお腹空いてたんだ」


そう言って列の最後尾へ向かおうとする茜。だが周囲の群衆が慌ててざわついた。


「ア、アカーネ様が並ぶなんて……!」

「そんな、恐れ多い!」


さらに神官たちも青ざめた顔で駆け寄る。


「アカーネ様、お願いですから自ら並ぶのはおやめください!」


茜は「えぇ~……」と不満そうに唇を尖らせるが、結局はモーゼと共に列を飛ばされ、用意された食事を一式受け取ることになった。皿の上に並ぶ白パン、豆のシチュー、アヒル肉のスープ。茜は苦笑いしつつ、肩をすくめる。


「なんかね、特別扱いされるのって正直困るんだけど……まぁ、こうしないと周りがもっと困るみたいだし、仕方ないか」


モーゼはそんな茜を横目で見ながら、心の中で深い感慨を覚えていた。茜は肩をすくめながら皿を手に取り、ぱくりと白パンをかじった。


「んっ! やっぱり美味しいね、これ。エジプト料理最高!」


満面の笑みを浮かべる茜の姿に、モーゼは思わず目を見張った。


「……アカーネ様、あなたも我々と同じものを食べるのか?」


不思議そうな問いに、茜は口の中のスープを飲み込みながら即答した。


「当たり前でしょ? 私、食べるの大好きだから! せっかくみんなのために作ったんだし、私だって食べたいに決まってるじゃん」


その軽さに、モーゼは呆気に取られたように沈黙し――やがて、自分もゆっくりとスプーンを動かした。


「……私は神以外に膝を折ることはありません。だが――あなたの心が人々と共にあること、それを私は尊びます」


「えっ、ちょ、ちょっと待って! 大げさすぎでしょ、それ!」


茜はパンを持ったまま慌てて両手を振る。モーゼは静かに首を振り、柔らかい口調で続けた。


「いいえ。飢えた者にとって、こうした一皿こそが何よりの恵みなのです。そしてあなたは、それを本当に楽しそうに分け与えている。……やはり、あなたは偉大な方だ」


その真摯な眼差しに、茜はどうにも耐えきれず、顔を赤くしながら慌ててスープを口に運んだ。


「だからさぁ……ただのパンと豆のシチューとあひる肉のスープだってば!」


しかしモーゼの微笑は、彼女の軽口を否定することなく、むしろその真心を一層際立たせていた。


列柱室が人々の歓声で満ちていたその時、門の方でざわめきが起こった。茜が首を傾げてそちらへ歩いていくと、現れたのは豪奢な衣を纏った女性――ネフェルタリ王妃だった。老女官をひとりだけ伴ってはいたが、その気品ある立ち姿は隠しようもなく、群衆は一斉にざわつきを止め、空気が張り詰める。


「あっ、ネフェルタリじゃない」


茜は満面の笑みで手を振った。


「今日もどっか遊びに行く? この施しが終わったら時間あるからさ。……あっ、まだお昼食べてないよね? うちの神殿のご飯でよかったら、一緒に食べていかない?」


あまりに気さくな誘いに、王妃は一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑を整える。


「……折角、茜が誘ってくれているのだから。昼食をご一緒しますわ」


「了解、それじゃあ――」


茜は何でもないように言って、並んでいた群衆の列をかき分け、神官の元へ向かった。


「王妃様も食べるみたいだから、一人分ちょうだい!」


その瞬間、神官の表情は凍り付き、手にしていた木杓子を落としそうになる。列を成していた群衆も、まるで水を打ったように静まり返った。場に訪れた重苦しい沈黙の中、ただ茜だけが首を傾げ、きょとんとした顔を浮かべていた。茜がきょとんとした顔で「えっ、えっ、どうしたの?」と周囲を見回すと、すぐ横からリュシアが歩み寄ってきた。


「主……流石にそれは。王妃様に、貧民に配っている食事を召し上がらせるのですか?」


真顔で窘められた茜だったが、気にする様子もなく首を傾げる。


「でも、これ本当に美味しいんだよ? 私だって食べてるし。ねぇ、ネフェルタリ、こういうの嫌?」


――場が凍りついた。群衆も神官も、息を呑んだまま王妃の答えを待つ。ネフェルタリは一瞬だけ視線を落としたが、すぐに毅然と顔を上げた。王妃として、そして政治的配慮を心得た賢婦人として。


挿絵(By みてみん)


「いいえ、茜。もちろん、私もいただくわ。だって、あなたも食べているのでしょう?」


その言葉に神官が慌てて器を差し出す。王妃は豆のシチューを受け取り、ゆっくりと口に運んだ。


「――あら……これ、美味しいですね。流石、茜が人々に配っている料理だけありますわ」


その一言を合図に、群衆の沈黙が爆発した。


「おおおおおーーっ!」


大歓声が神殿を揺るがす。人々にとってそれは、「神と王妃が民と共に食卓を囲んだ奇跡」であった。アカーネ信仰は一層強く、人々の胸に深く根付いていく。神官たちは(王妃様にこんなものを食べさせるとは……)と胃を痛めつつも、これ以上の信仰拡大の機会はないと複雑な表情を浮かべた。


その光景を記録していたエンへドゥアンナは、筆を止めることなく声に出して書き記した。


「神アカーネと王妃が、庶民と共に一つの食卓を囲んだ――これは奇跡なり」


彼女の言葉は、すでに神話の調べとして響いていた。


昼食を終えた茜とネフェルタリ王妃は、老女官を一人伴ってぺル=ラムセスの町へと繰り出した。もっとも、王妃はいつもの王宮の衣ではなく、茜の強い勧めで、茜と一緒に城の女官風の装いに身を包んでいる。


「王妃様の権威というものが…」


と老女官は不安げに繰り返したが、茜は笑顔で押し切った。


「大丈夫だって。今のぺル=ラムセスは繁栄の真っただ中、民も安定してる。だから、王妃様と気づかれても絶対に問題ないよ」


渋々ながらも老女官は従い、ネフェルタリは軽やかに歩みを進めた。その表情は明らかに楽しげで、かつて茜と王都を探索した日の記憶を思い出しているかのようだった。


市場は今日も喧噪に包まれていた。軒を連ねる店先には、遠いヒッタイトからもたらされた品々が異国の香を漂わせている。鋳造技術で名高いヒッタイトの錬鉄で作られた腕輪や小刀は、黒く光る表面に複雑な文様が打ち込まれ、エジプト人の目を引いていた。銀細工の器は光を受けて白く輝き、宝石をあしらったものも少なくない。鮮やかな赤や青に染められた織物は、ヒッタイトの宮廷を思わせる幾何学模様を織り込み、豪商や貴婦人が品定めをしていた。さらに、乾燥させたザクロや、カナンの商人がもたらした胡椒・クミンなどの香辛料が袋詰めにされ、強い香りを漂わせている。


「まぁ…なんて賑やかで、そして色鮮やかなのかしら」


ネフェルタリは目を輝かせ、子供のように市のあちこちを見回した。茜はそんな彼女の反応に、満足げに頷く。


「でしょ?ぺル=ラムセスの繁栄は、こういう場所に一番現れるんだよ」


市場は今日も、二人の心を弾ませる舞台であった。市場の喧騒の中、色鮮やかな織物や香辛料の香りに包まれながら、茜とネフェルタリは並ぶ品々を見て回っていた。そこへ、アカーネ神殿に出入りしている顔なじみの商人が、目ざとく茜を見つける。変装していたはずなのに、彼にはすぐに正体を見破られてしまった。日々神殿に足を運んでいるだけに、茜の佇まいは隠しようがないのだ。


「アカーネ様、また市場の見学でございますか。繁栄の象徴たるアカーネ様が姿を見せるだけで、市場は一層明るくなります。我ら商人は皆、アカーネ様が尽力されたヒッタイトとの和平に深く感謝しております」


満面の笑みを浮かべての挨拶に、茜は軽く手を振って応じる。


「そんな大げさなこと言わなくてもいいよ。ところでさ、最近の景気はどう?」


「はい、日々繁栄の真っただ中にございます。これもひとえにアカーネ様のお力添えの賜物です」


商人は誇らしげに胸を張った。その様子に茜は満足そうに微笑み、短く頷いた。


「そう、それは良かったわ」


さらに見物を続けようとしたところで、商人が一歩進み出て言葉を継ぐ。


「アカーネ様、本日、私の邸宅にて商人仲間を集め、ささやかな晩餐を催す予定にございます。日頃の感謝を込め、ぜひアカーネ様にもご出席いただければと」


その言葉に、茜の瞳がぱっと輝いた。


「ご馳走、たくさん出るんでしょ?それなら喜んで行くよ!」


商人は嬉しそうに深々と頭を下げる。


「もちろんでございます、アカーネ様。それに加えて――本日は特別に、シュメールの料理を再現し、ご用意いたしました。きっとご満足いただけるかと存じます」


「えっ、シュメール料理? それは楽しみだね! 久しぶりに食べられるなんて嬉しいな。今日の夕刻に行けばいいんだよね? あ、それと……もう一人連れていってもいい?」


茜が軽くそう告げると、商人は一瞬考えもせずに快諾した。


「お待ちしております、アカーネ様。もちろん、ご友人もぜひご一緒に」


その返事を聞いて、茜は満面の笑顔を浮かべる。隣で成り行きを聞いていたネフェルタリは、胸の奥に小さな不安を覚えながらも、茜の楽しそうな横顔を見て言葉を飲み込んだ。


夕刻。茜とネフェルタリは、第三軍団の兵士たちに護衛されながら、豪商の邸宅へと向かった。先ほどまで城の女官風に装っていたネフェルタリも、このときばかりは王妃らしい衣装に戻り、その気品を隠すことはしなかった。老女官は何度も「やはり無茶でございます」と訴えたが、茜の「大丈夫だって! 絶対楽しいから!」の一言に押し切られている。


石造りの門に近づいた瞬間、門番はその姿に目を疑った。神としての正装をしたアカーネ、そして王妃ネフェルタリが並んで現れるという現実に、彼は卒倒しそうになりながらも必死に立ち直り、慌てて邸宅の主人を呼びに走った。


「アカーネ様……それに、お…王妃様まで……!」


駆けつけた主人は顔を蒼白にしながらも、すぐに決断する。これは商人としての一世一代の試練だ。召使いたちに最上のもてなしを指示し、精一杯の笑顔を作って茜とネフェルタリを迎え入れた。広間には既に豪商仲間たちが揃っていた。だが、商人たちにとって大恩あるアカーネの登場だけでも場は緊張するのに、さらに王妃が隣に立っているのを見て、誰も言葉を失い、沈黙が場を支配する。


その空気を切り開いたのは、ネフェルタリだった。王妃は柔らかい笑みを浮かべ、澄んだ声で言葉を紡ぐ。


「今日は、アカーネ様に誘われて私も参加することになりました。アカーネ様からは、この晩餐でエジプト料理だけでなく、シュメールの料理も楽しめると伺っております。我が国の商人たちが、アカーネ様を満足させられるか……楽しみにしています」


その言葉に張り詰めていた場の空気が一気にほどけ、沈黙していた商人たちは安堵の息をもらし、晩餐会が幕を開けた。


運ばれてきた料理は、まさに豪商の矜持を示すものだった。ガチョウに香草を詰め込み、じっくりと炭火で焼き上げた芳香ただようロースト。羊肉をクミンでじっくり煮込んだ濃厚な煮込み。川魚ティラピアを香ばしく焼いた一皿。さらにザクロやブドウをふんだんに盛り込んだ鮮やかなサラダ。


「わぁっ、すごい! これ全部ご馳走じゃない! うちの神殿の料理以上に素晴らしい料理ばっかり! このガチョウのハーブ詰めなんて、最高じゃない!」


茜は目を輝かせ、料理にかぶりつきながら、片手にはビールの大杯を掲げていた。その豪快さに、周囲の商人たちは目を丸くするが、不思議と憎めない笑みがこぼれる。ネフェルタリ王妃も、そんな茜の無邪気な食べっぷりに驚きつつ、つられて楽しそうに料理に手を伸ばした。普段は宮廷で厳格に振る舞う彼女が、今はただの女性として食を楽しんでいる――その姿に、商人たちの胸は熱くなる。


主人はその光景を目にして、心底安堵した。アカーネだけでなく王妃までが笑顔で杯を傾け、料理を喜んでいる。これ以上の栄誉はなく、この夜が生涯で最も誇らしい瞬間になることを確信した。やがて、広間の空気を一変させるように、料理人が大切そうに大皿を運んできた。銀の蓋が取り払われると、立ち上る香りと共に、湯気に包まれた一皿が現れる。


「アカーネ様、我が家の料理人が腕によりをかけて、シュメールの料理を再現いたしました。どうぞご賞味ください」


皿の中央には、羊肉と豆を煮込んだ豪快な料理。しかもただの羊ではない。商人は誇らしげに胸を張る。


「今回のために、バビロニア王国より脂肪尾羊を取り寄せました。古のシュメールの時代から珍重されたものです。必ずやアカーネ様のお口にも合うかと」


茜は思わず笑みを浮かべ、箸――いや匙を取った。


「へぇ、わざわざそんな遠くから……ありがとう。楽しみだね」


一口。脂の甘さが舌に広がり、にんにくとクミン、コリアンダーの香りが鼻を抜ける。塩だけの味付けが、素材そのものの旨味を力強く押し出している。茜は目を輝かせて声を上げた。


「うん、美味しい! これぞシュメール料理って感じだね。素材の力がガツンときて最高!」


しかし、その直後に首を傾げた。


「……でもね、ちょっと香りが足りないかな。う~ん……そうだ、ごま油! あれが欲しいんだよ、シュメール料理には」


場が一瞬ざわついた。ネフェルタリ王妃も匙を手に取り、口にしてみる。


「私は力強くて美味しいと思いますけれど……しかし、アカーネ様は元々シュメールの神、ほんのちょっとした違いでも分かるのですね」


商人の顔に影が落ちる。


「……やはり、神であるアカーネ様を満足させるまでには至りませんでしたか」


茜は慌てて手を振る。


「いやいや! 美味しいんだよ? 本当に美味しい。私がわがまま言ってるだけだから!」


だが商人は唇をかみしめ、決意を込めて言った。


「アカーネ様……どうか、もう一度だけ機会をください。このような大事な場に王妃様までお迎えしながら、私の面目はこれでは立ちません。必ずや次は、アカーネ様にご満足いただけるシュメール料理を用意してみせます」


「それでこそ、我がエジプトの商人です」


ネフェルタリが毅然とした声で後押しする。その表情は誇らしく、同席した商人仲間たちも胸を張るように頷いた。茜は目を丸くし、そして笑って答える。


「もちろん! 次も楽しみにしてるよ。ごま油入りのシュメール料理、ぜひ食べさせてね」


その言葉に、商人も仲間たちもほっと胸をなで下ろす。宴席に再び安堵と活気が戻っていった。そんな中、ネフェルタリは杯を傾けながら、茜に聞こえぬほどの小さな声で呟いた。


「やはり、気楽に振舞っておられても、アカーネ様は本物の神なのですね。ほんの少しの味や香りの違いまで見抜かれるとは……。普段は庶民の食卓を楽しみ、民と同じ目線で寄り添っておられるのも、民を安堵させるための振る舞いなのでしょう。――次回のこの商人の再挑戦は、王家の晩餐会で行ってもらいましょう。そうすれば夫ラムセス王も、エジプト商人の気概を直に見て、必ず満足するはずです」


その言葉は杯の影に消えながらも、確かな決意を帯びていた。こうして晩餐は、ただの豪商の饗応に留まらず、やがて王家の宴席へと繋がる未来を密かに示すものとなった。

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