89話 風の神、エジプトに刻まれる
カデシュの戦場を後にして数日、茜たちはラムセス二世と共に、ナイルのほとりの大都ぺル=ラムセスへと帰還した。
大河を背に築かれた王都ぺル=ラムセスは、再び人々の熱気に包まれていた。白く輝く大神殿の列柱廊には布飾りが掲げられ、街道には花びらが撒かれ、勝利を祝う市民で埋め尽くされている。香油やワインの香りが風に混じり、笛や太鼓の音が響き渡る。戦前にも見た繁栄の都市だが、いま目にするそれは、凱旋を迎える高揚感によって一層華やいでいた。行列を進む茜の耳には、途切れることなく「ファラオ万歳!」「アカーネに祝福を!」の声が押し寄せ、熱狂の渦が街全体を包み込んでいた。
その大通りを、戦車の列と軍団の行進が堂々と進む。ラムセス王の戦車が先頭に立ち、その背後に第三軍プタハの旗と共に、茜と仲間たちも凱旋の列に加わっていた。第二軍が壊滅したという事実は覆い隠せない。だがラムセス二世は高らかに宣言していた――「我らはヒッタイトの主力と互角に戦い、退けた! これはエジプトの勝利である!」と。
勝利を求める民衆にとって、その言葉は真実以上の力を持つ。沿道に詰めかけた群衆は歓声を上げ、花びらや布片を空へ舞わせ、ファラオとその軍勢を迎えた。茜は、群衆に向かって手を振りながら、内心で苦笑する。
(……たぶんヒッタイトの方でも、自分たちがエジプトを押し返したって勝利宣言してるんだろうな。どっちも勝ったことにするのが、歴史の便利なところか……)
その思いを隠しつつも、彼女が笑顔で手を振れば、民衆はファラオと同じ熱狂で応える。ラムセス二世が「風の神アカーネの名のもとに、ヒッタイト王国との和平が結ばれた」と発表していたことで、群衆はさらに沸き立った。
「アカーネが平和をもたらした!」
「ファラオと風の神が我らを導く!」
歓声は大地を揺らすほどの力を帯びていた。
その様子を王宮の高殿から見下ろしていたのは、王妃ネフェルタリである。凱旋する夫の威容と、民衆から神のごとく崇められる茜の姿。ネフェルタリは胸の奥から喜びを覚え、ふっと微笑んだ。――やはり、このアカーネは本物の神だったのだ、と。王妃は人々の歓声に合わせて両手を掲げ、夫と茜の凱旋を祝福した。
凱旋の熱狂が冷めやらぬまま、ぺル=ラムセスの王宮では褒賞の儀が執り行われていた。金と彩色で飾られた広間には、戦に功績を立てた将軍や兵たちが列を成し、玉座に座すラムセス二世から順に恩賞が授けられていく。
****
「第二軍を率いたメナフェル将軍」
名を呼ばれた壮年の将軍が一歩前に進み出ると、広間の空気がわずかに張りつめた。第二軍は今回壊滅に近い打撃を受けたのだ。その責を感じてか、メナフェルは深く頭を垂れた。
「ファラオよ。今回の敗戦の責任はこの身にあります。どうか恩賞はご辞退申し上げたい」
その言葉に、列に並ぶ将兵たちがざわめく。だがラムセス二世は微動だにせず、堂々と声を響かせた。
「違う。今回の戦いは勝利である。主力を受け止め、我が軍の名誉を守ったのだ。敗戦などとは誰にも言わせぬ」
玉座の横に控える書記が恩賞の品を差し出すと、メナフェルはなおも頭を下げ続けた。
「では、この恩賞を……どうか、戦死した兵たちの家族にお与えください。彼らこそ、我が軍の盾となり、エジプトの勝利を支えた者たちです」
その申し出に広間はどよめき、やがて賛嘆の声が上がった。ラムセス二世はしばし将軍を見つめ、力強く頷いた。
「良かろう。ファラオの名において、その望みを聞き届ける」
荘厳なやり取りを見ていた茜は、思わず感心していた。
(……意外としっかりした体制なんだな。こういう所は、ちゃんと人心をつかんでる)
しかし同時に、胸の奥ではそわそわとした期待が膨らむ。
(でも……そろそろ私の番……! 顔に出しちゃダメ。今の私は神様、今の私は神様……)
そう自分に言い聞かせ、表情が緩まないよう必死に引き締める。
その姿を、同席していたリュシアは半眼で眺めていた。
(……主は本当にわかりやすい。褒賞を待つ神、など聞いたことがありませんよ)
やがて全ての将軍たちへの恩賞が終わり、広間に静けさが戻った。その中でラムセス二世がゆるやかに立ち上がり、声を張り上げた。
「――風の神、アカーネ!」
その名が響いた瞬間、茜の心臓が高鳴った。
(ついに来た! あのファラオからの恩賞だ……!)
期待と緊張を胸に、茜は王の前へと歩み出た。
王の前に進み出た茜に、ラムセス二世は重々しい声音で告げた。
「――今回のヒッタイトとの戦い、そして和平の成立において、そなたの力添えは大きかった。余はファラオとして……いや、エジプトの王として、そなたの功績に報いなければならぬ」
その言葉に、茜は一瞬だけ神妙な顔を作ったが、すぐに口を尖らせた。
「とりあえずさ、神様的な何かよりも……分かりやすい褒章の方が嬉しいんだけど」
広間がざわめく。だがラムセス二世は苦笑を浮かべ、かぶりを振った。
「そなたは、そうやって敢えて人のように振る舞うのだな。……だが分かっている。神格的な威光も必要だろう。しかし、余も臣民に示すには、まずは形ある褒賞が要る。ゆえに、まずは王家の名において――これを授けよう」
合図と共に、何人もの文官が次々と箱を運び込む。蓋が開かれるたび、黄金のきらめきが広間を満たした。
「こ、これは……」
茜の目が吸い寄せられる。箱の中には、黄金の首飾りが数本。金装飾を施した短剣。宝石を散りばめた冠、黄金の装飾品が多数。さらにラピスラズリ、カーネリアン、トルコ石をふんだんに使った豪奢な首飾り。そして……金の塊、五十デベン――四・五キロを超える重量と宝石の山がどっしりと収められていた。
「き、金ぴか……だ……」
あまりの光景に、茜は呆然と立ち尽くす。欲望の限界突破というべきか、頭が真っ白になってしまった。その様子を見て、仲間たちは口々に感想を漏らす。
リュシアは小さく息を吐き、「……主の欲を一時的に凍らせるとは、さすがファラオ」と半ば呆れ。
ガルナードは腕を組み、「主殿の物欲を凌駕する褒賞……王家の底知れぬ威光ですな」と感嘆。
アルタイは豪快に笑い、「いやぁ、こりゃ見事だ!」と感心する。
ユカナとミラナは声も出せず、「すご……」と絶句。
筆を走らせていたエンへドゥアンナでさえ、思わず手を止めて見入っていた。
ラムセス二世はそんな茜を見て満足げに頷いた。
「神であるそなたを絶句させられたのなら、余としても気分が良い。……黄金の国である我が国としての面目も、これで立ったであろう」
ファラオの上機嫌さに、広間に並ぶ文官や武官たちも安堵と誇らしげな表情を浮かべる。ようやく再起動した茜は、深く息を吐き、真剣な表情で言った。
「……たしかに、これは驚いたわ。……これは素直に受け取る。ありがとう、ラムセス二世」
ラムセス二世もまた満足げに応じた。
「本来であれば、余や我が国が得た利益を思えば……これでも足りぬくらいなのだがな」
黄金と宝石の輝きに満ちた広間も、やがてざわめきが収まった。その静寂の中で、ラムセス二世はゆるやかに立ち上がり、茜へと視線を向ける。
「……先ほどの品々は、我が臣民に示すための褒賞にすぎぬ。だが、神であるそなたには、真なる褒賞がふさわしい」
その一言に、再び広間がざわつく。ファラオは玉座から一歩進み出て、威厳ある声で宣言した。
「これより――風の神アカーネを正式に、我が国の神殿に祀ることとする。また、アカーネが望んだように、ユカナ、ミラナの両神についても同様とする」
臣下たちの間に驚きの声が走る。だがラムセスは構わず言葉を続けた。
「さらに、とりわけ恩を受けたアカーネには、このぺル=ラムセスの地に神殿を建設し、供物と神官を備えるための土地を授けよう。そして、祭祀の中心となる黄金の神像も、我が王家の手により用意する。そしてこの約定の証として――王家の金のアンクを授与する」
側に控えていた文官が黄金のアンクを恭しく捧げ持ち、広間に荘厳な光が広がる。決定はすでに文官や神官たちによって準備されていたのだろう。誰一人異を唱えることなく、むしろ一斉に賛同の声が上がった。
「これでエジプト王国は安泰だ!」
「ファラオと新たなる神々に祝福あれ!」
将軍たちが拳を掲げ、文官たちが頭を垂れる。王宮の高座にいたネフェルタリ王妃もまた、目を細め、嬉しそうに頷いていた。
その場でただ一人、呆然としていたのは茜だった。
「え、えっと……やった! 金銀財宝に宝石の山! しかも黄金の神像つき! 土地まで!?」
思わず飛び跳ねんばかりの勢いで大喜びする茜に、リュシアが額を押さえ、ガルナードは苦笑を浮かべる。エンへドゥアンナだけは筆を走らせながら、低く声に出していた。
「――ラムセス王、風の女神を己が神殿に迎え入れた。これぞ神話の転換点……」
本質を理解し記録に残す者と、金塊と土地に夢中な者。広間には、そんな対照的な光景が広がっていた。褒賞の場が一段落したところで、ユカナが肩をすくめながら茜を覗き込んだ。
「……ここでも茜は神様になっちゃったし、これってつまり茜がエジプトの神体系に正式に組み込まれたってことだよね?まあ、私とミラナさんも一緒に祀ってもらえるみたいだけど……意味を理解してないのは茜だけだよね」
「ちょ、ちょっと待って。私は神じゃないってば! 金と宝石が欲しいだけなのに……」
茜は泣き笑いのような顔をして抗議する。すかさずミラナが両手を挙げ、満面の笑みを浮かべた。
「よっしゃあ!これで私大勝利じゃない!今回の時代でも私の神力爆上がりよ!神力ボーナスきたーっ!」
そのはしゃぎぶりに、茜は頭を抱える。
「……ほんと、神様って何なのよ……」
そんな中、リュシアが冷静に言葉を差し込んだ。
「主の名は、これで完全にエジプト王国の歴史に刻まれるでしょうね」
ガルナードは腕を組み、しみじみと頷く。
「主殿のやり方は、もはや導き手を超え、まさしく神のごとき政をなす御方ですな」
アルタイは豪快に笑いながら一言だけ。
「面白ければいいんじゃね?」
「……味方いないじゃん!」
茜はついに嘆き声を上げ、周囲から笑いが起こった。その様子を見て、ラムセス二世も上機嫌に声を響かせた。
「アカーネよ。余としては、せっかく神殿建設も認めたのだから、しばらく我が国でゆっくりしていけ。王妃も、またそなたと語り合いたいと申しておる」
「うん、ありがとう、ラムセス二世。せっかく神殿ももらえたみたいだから、しばらくゆっくりするよ。それと、何かあったらまた呼んでね」
茜は特に深く考えずにそう答えた。こうして、エジプトの地での大いなる褒賞の授与は幕を閉じた。
****
数日後。
茜はネフェルタリ王妃に誘われ、ぺル=ラムセスの一角にある神殿建設現場へと足を運んだ。ここは本来、イシス神殿となる予定の神殿であった。だがラムセス二世の決断により急遽アカーネ神殿へと転用されていた。そのためすでに大規模な建築は終わっており、仕上げの段階に入っていた。
白い石材の壁面には鮮やかな彩色が施されつつあり、柱の上部には風を象徴する渦模様が刻まれている。広い参道には資材を担ぐ人々が絶えず行き交い、槌の音と指揮の声が響き渡っていた。その大半を担っているのは、連れてこられたヘブライ人労働者たちだった。日に焼けた身体に汗を光らせ、石を削り、彫像を磨き、巨大な梁を運ぶ。彼らの動きは整然としていたが、その表情は決して明るくはなかった。
「すごい神殿になりそうですね」
ネフェルタリが微笑みながら茜に声をかける。
「そうだね……これ、本当に全部私のためなの?」
茜は肩をすくめて答えた。王妃は嬉しそうに頷く。
「夫は、茜のために特別な神像を用意しているのです。黄金に宝石を散りばめた、きっと素晴らしいものになりますよ。どうかご期待ください」
茜も思わず笑みを返した。
「それは……楽しみだね」
ふとその時。
石材を運んでいた一人のヘブライ人が、顔を伏せたまま低く呟いた。
「……所詮、偽の神だ」
労働者の小さな呟きに、ネフェルタリ王妃はすぐさま顔を険しくした。
「そこの者、今なんと申したのです!」
詰問の声に周囲の空気が凍りつく。だが、茜はすっと手を挙げてそれを制した。
「いいよ、王妃。……そんなに気にしなくて」
そう言って、茜は労働者に向かってにっこりと笑みを浮かべた。
「そうそう、あなたよく分かってるじゃん。私なんて、神様でもなんでもない。ただの人間なんだから。あなたと同じだよ」
あまりにも素直な言葉に、労働者は目を見開き、言葉を失った。
「……いや。私の信じる神こそ唯一の神であることには違いないが……あなたが、ただの人……とは……」
言葉を濁す彼に、茜は肩をすくめて答えた。
「ほんとにそうなんだって。私は神様じゃないよ」
その真顔に、労働者は慌てて頭を下げた。
「……大変、申し訳ありません」
「そんなに気にしなくていいのに」
茜は苦笑し、ふと思いついたように尋ねた。
「ところで、あなたの名前は?」
労働者はためらいがちに顔を上げ、答えた。
「……モーゼ、と申します」
「えっ……モーゼ!?」
茜は思わず声を上げた。
「出エジプト記のモーゼ……??」
問い返されても、彼は困惑した表情を浮かべるばかりだ。
「いえ……ただのモーゼですが……」
(……少し時代的には早い気もするけど……まぁ、この時代は曖昧さもあるから、こういうこともあるんだね)
茜は心の中で苦笑しながらも、表情を整えた。
「あなたとは、改めて色々話したい。だから、また会えるようにしてくれない?」
モーゼは驚いたように目を瞬かせ、やがて小さく頷いた。
「……あなたは、変わった方だ……。わかりました。お約束しましょう」
そのやり取りを、ネフェルタリ王妃は不思議そうに見守っていた。その視線を受けながら、茜はふと振り返り、王妃に小声で囁く。
「ねぇ、ネフェルタリ。ひょっとしたら、あの男の件で……あなたやラムセス王にお願いすることになるかもしれない」
意味深な言葉に、王妃は一瞬戸惑いを見せたが、すぐに真摯な表情で頷いた。
「……分かりました。その時は、必ず」
茜はその反応を見て、わずかに安堵の笑みを浮かべる。だが同時に、胸の奥でざらりとした予感を覚えていた。――自分はまた、神話と歴史の狭間に、知らず知らずのうちに新たな火種を置いてしまったのではないか。けれども、茜はすぐに首を振って、その思考を追い払った。
「ま、今はそれより……神殿建設と宝の山! そっちを楽しまないとね!」
くるりと踵を返し、足取りも軽く現場を後にする茜。その姿にネフェルタリもまた、安堵と戸惑いを入り混ぜた微笑を浮かべた。こうしてぺル=ラムセスの一日は、熱と光を残したまま静かに幕を下ろしていった。




