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88話 神の名を残さぬ和議

夜明けの光がオロンテスの川面を赤く染め、乾いた風が砂塵を巻き上げていった。その荒涼とした大地に、二つの大軍が向かい合う。


南にはエジプト新王国軍。第一軍から第四軍まで、整然とした縦列を整え、ファラオの威光を示すかのように槍と盾が並ぶ。北にはヒッタイト軍。王都から集結した歩兵と戦車隊が、鋼の壁のごとき陣形を築き、揺るがぬ威圧を放っていた。


数万の兵が武器を握りしめ、ただ一点を睨み合う。戦場に広がるのは、不気味なほどの沈黙だった。


やがて、その静寂を破るように、中央の空間へ二つの戦車が進み出る。黄金の装飾を施した軽戦車の御者台に立つは、エジプトの王、ラムセス二世。黒と赤の戦装束に身を包み、重厚な戦車に乗り込んだのは、ヒッタイト王ムワタリ二世。


両王が向かい合うその背後から、もう二つの影が歩み出た。スッピルリウマ王のスタンダードを掲げた風の大巫女――茜。そして、その傍らにエンへドゥアンナ。彼女たちは戦車ではなく、あえて徒歩で戦場の中央へ歩み出る。その姿は、両国の兵士たちの視線を一身に集めていた。


茜は小さく息を呑む。


(……いよいよだ。ここで、史実通りの和平条約に落とし込まなきゃいけない。私が変に口を挟めば、歴史は狂う。だけど……ここで失敗したら、それこそ大惨事になる)


普段は軽口を叩く彼女も、今はその面影を消し、真剣な眼差しで二人の王を見据えていた。


挿絵(By みてみん)


その横顔を見つめながら、エンへドゥアンナは胸の奥に熱を覚えていた。


(この表情……これまでの旅で見せたものとは違う。神と人との境界を越えた、神話に刻むべき瞬間……)


彼女は迷いなく神界の紙を取り出し、筆を走らせる。砂塵と剣戟の気配に満ちた戦場のただ中で、一つの記録が刻まれ始めた。


両軍数万の兵が息を潜める中、歴史を動かす交渉が、まさに始まろうとしていた。


両軍の中央に並んだ二つの戦車。黄金をまとったラムセス二世と、黒と赤に身を固めたムワタリ二世は、互いに視線を逸らさぬまま、緊張の糸を張り詰めていた。その間に立つ茜は、静かに息を吸い込み、口を開いた。


「昨日、もう二人には私の意思を伝えてあるよね? そして、基本的には同意してくれている。だからこそ言うよ――この場は歴史に残る和平交渉になる」


二人の王の表情がわずかに動く。茜はさらに踏み込んだ。


「こんな形で隣り合う大国の王が直接会える機会なんて、まずない。だからこそ、この機会に両国の関係をきちんと修復して。二人とも、歴史に名前を残しなさい」


ラムセス二世がわずかに眉をひそめ、問いかける。


「……歴史に、とは?」


茜は頷き、はっきりと告げた。


「エジプト王国とヒッタイト王国。この時代の二大国が、平和条約を結ぶの。これって世界初の盟約なんだよ? この条約は、これから数千年以上続く人類の歴史に残る偉業になる。間違いなくね」


その言葉に、ラムセスはしばし沈黙し――やがて、己の未来像を思い描く。エジプトのファラオとして、英雄として、ただ戦に勝つのではなく、未来を切り開いた者として記される自分の姿を。

 

「……なるほど。余が真に英雄となる道も、ここにあるというわけか」

 

彼はゆっくりと頷いた。


一方のムワタリ二世もまた、茜の言葉に耳を傾ける。


(もし、この和平が結ばれれば……私の名もまた、祖父スッピルリウマのように歴史に刻まれるのか)

 彼もまた静かに頷き、その眼差しを鋭くした。


だが、互いのプライドが素直な言葉を許さない。二人の王はほぼ同時に口を開いた。


「アカーネ様の薦めもあったからこそ、両国の間で和議を結ぶこともやぶさかではない」


茜は苦笑を漏らす。


「いやいや、そこは“お互いに利益があるんだから和を求める”って言う場面でしょ? お互いに責任押しつけ合ってどうするの」


ムワタリが肩を揺らし、困惑したように答える。


「しかし、アカーネ様。我らにも立場というものが……」


すると茜は、軽く肩をすくめて言い放った。


「ここにいるのは私たちだけでしょ? この場の話は、そこに居る詐欺師が綺麗な形にして歴史に残すだけなんだから。だったら素直に、互いの利益をぶつけ合って、落としどころを見つけなさい」


茜の指が、すっと横に立つエンへドゥアンナを差した。彼女は憮然とした表情で、筆を止めずに言い返す。


「私は真実を記録に残しているだけです。詐欺師呼ばわりとは、いささか不当かと……」


茜はにやりと笑う。


「モリモリに盛った“真実”をね」


「……それは神話的脚色というものです」


なおも筆を走らせながら、エンへドゥアンナは淡々と抗議を続ける。そのやりとりに、二人の王もふと表情を緩めた。重苦しい空気が、わずかにほぐれていく。二人の王はしばし睨み合うように視線を交わしていたが、やがてラムセス二世がふっと息を吐き、言葉を切り出した。


「……ムワタリ王、どうやら本物の神の前で取り繕っても仕方なさそうであるな」

 

王の声音は重くも率直で、その背に集う兵士たちをも静める力があった。


「余としては、ヒッタイトとの間に良好な関係を築き、それをもって我が国の繁栄とし、さらにアカーネ様より伝えられた“将来の危機”に両国で立ち向かいたいと考えている」


その言葉に、ムワタリ二世は口元にかすかな笑みを浮かべ、力強く頷いた。


「ファラオは神自身と言っておったな。そのファラオが“神の前では飾らぬ”と申した以上、私もそれに従おう」


黒と赤の戦装束をきしませながら、彼は続ける。


「我が望むは、エジプト王国との平和裏の関係。そしてヒッタイトの全力をもって、アッシリアとの緊張関係を一日でも長く維持し、全面対決を避ける事だ。……どうやら、我らの間には共通の利があるようだな」


ラムセスは大きく頷いた。


「余も同意する。ヒッタイト王国と良好な関係を結ぶことを。だがその関係は単なる交易や経済だけに留めぬ。軍においても協力を結ぶことを望む。互いの利に応えるためには、その形こそが最も適うと考えるが、ムワタリ王はいかに?」


ムワタリは視線を逸らさずに答えた。


「……ファラオの意見に同意する。細かい条項は両国の行政官に任せるとして、大枠はその形で良いだろう」


そこで茜がすかさず手を挙げた。


「ちょっと待った。それだけじゃ不十分」


両王の視線が一斉に茜へ向けられる。彼女は肩をすくめながら、はっきりと言った。


「まず、お互いの都に“常駐の使節館”を置いて。そうすればトラブルがあってもすぐに両国の王へ話が届く。それから――法律は国ごとに違うけど、それぞれの国で他国民が罪を犯した場合は、捕らえて自国へ送還するっていうルールも必要だよ」


ラムセスもムワタリも、その言葉に目を見張った。


「……そのような形、余は聞いたこともない」

「だが……もし実現すれば、争いを未然に防ぐことができる」


ムワタリは深く頷き、低く感嘆を漏らす。


「流石は……偉大なる祖父スッピルリウマ大王がお認めしたアカーネ様。確かにその形であれば、両国の関係はより強固になる」


ラムセスもまた同意の言葉を重ねる。


「確かに、互いの国が即時に相談できる体制は理に適っている。余も賛同する」


茜は満足げに頷き、両王に視線を戻した。


「それじゃあ、今ここで話した形で大枠は決まり、ってことでいいね?」


ラムセス二世とムワタリ二世――二人の大国の王は、互いに視線を合わせ、同時に頷いた。その一瞬、戦場に漂っていた重苦しい空気が、まるで霧が晴れるように和らいでいった。しばし沈黙が流れた後、茜が一歩前へ出た。その声音は、戦場の静寂を切り裂くように澄んでいた。


「分かった。それなら――私の名前において、この約定が成立したことをここで認める。あとは、お互いの国で粘土板か何かに細かい内容をすべて記して、王の名で残せばいい。……それでいいよね?」


その言葉に、ラムセス二世が少し逡巡し、口を開いた。


「アカーネ様……最終的に粘土板に刻むことは理解している。だが、その前に“アカーネ様の名によって成立”というのは……。余も一応、自国では神とされている身。国の内外に示すとき、混乱は起きぬかと……」


茜は軽く首を振り、柔らかく笑った。


「私が認めたのは、“ここで両王が同意したという事実”だけ。私の名前を挟んでおけば、兵や民に説明するとき『神の御前での誓い』って形になるでしょ? その方が納得も得やすいはず。だけど、細かい条文や正式な記録は、あくまであなたたち自身の名で粘土板に残してね」


ムワタリ二世が深く頷き、確認するように言った。


「つまり……アカーネ様のお名前が出るのはこの場だけ。実際に残す粘土板には、我ら両王の名だけを記せ、ということか?」


「流石はヒッタイトの王様、よく分かってるね」


茜は満足げに頷いた。


「そう。私の名前は正規の歴史に残さなくていい。残したら、かえって面倒になるから。これから“条約”って呼ぶけど、その実務も栄誉も全部、王様たちの名でやってよ。私はただ、この約束を認めただけ。だから、もう二度と戦争には戻さないってことでいいよね? 私の名前の使い方なんて、その程度で充分でしょ?」


その率直さに、二人の王は言葉を失い――やがて同時に跪いた。ラムセス二世は頭を垂れ、厳かに告げた。


「アカーネ様のご配慮、余は決して忘れぬ。そなたの意思、確かに理解した」


続いてムワタリ二世もまた、深い敬意を込めて言った。


「条約にアカーネ様の名が残らずとも、王家の記録には必ず記す。アカーネ様の御名によって、我ら両王家に良好な関係が築かれたことを。我が王家が続く限り、代々に伝えてまいろう」


茜は少しだけ照れくさそうに頬をかき、肩をすくめる。


「……とりあえず、今回の私の役目はここで終わりかな。あとは部下たちを呼んで、二人でじっくり話し合って。細かいのは役人さんたちに任せればいいんだし」


そう言って背を向けると、エンへドゥアンナを伴い、スッピルリウマ大王のスタンダードを掲げながら、ゆっくりと自陣へと歩み去っていく。その背を、両王は沈黙のまま見送った。


やがて、ラムセスが低く呟く。


「……お互いに思うところはあろう。だが今は、あの偉大なる神の名によって結ばれたこの関係を壊さぬようにせねば」


ムワタリもまた頷き、深く言葉を重ねる。


「同意する。アカーネ様によって与えられたこの機会――決して無駄にはできぬ」


その決意を示す言葉が、再び大地に染み入るように響いた。


自陣に戻った茜を、仲間たちが待ち受けていた。リュシアが静かに会釈し、ガルナードは胸に手を当てる。アルタイは腕を組みながらも満足げに頷き、ユカナとミラナは早速口を開いた。


「茜、やっぱり凄いよね。私よりよっぽど神様らしいよ。まあ、私は楽できるから、どんどんやってくれていいけど」


ユカナが呑気に笑いながら言うと、ミラナもにこやかに続ける。


「私も自分の将来のために、アカーネ様にはこれからもついていくよ。信仰ポイントも増えたしね!」


その言葉に、茜は顔をしかめた。ミラナはそんな茜を気にせずに更に言葉を続ける。


「……本当はこういうのって、ユカナがやらないとダメな役割なんだけど。っていうか、今回の件、神様的にはかなりヤバくない?」


ユカナは肩をすくめ、さらりと返す。


「ヤバい……というか、多分この時代が終われば、茜は間違いなく中位神になるよ? それにお姉ちゃんからの嫉妬もすごいことになると思う。うん、間違いない」


「いやいやいや……私、神様じゃないって何度も言ってるでしょ! 私は金銀財宝が欲しいだけなんだって!」


茜は必死に否定するが、すぐ横でリュシアが冷静に口を挟む。


「しかし主。すでに歴史に残る条約に関与しましたね?」

「大丈夫、私の名前は残らないようにしたから」

「……相変わらず詰めが甘いですね」


リュシアの視線は鋭い。


「確かに条約そのものに名は刻まれないでしょう。ですが、“アカーネ”の名は両国の繁栄をもたらした神として必ず歴史に残ります。これまで好き勝手楽しんできた代償ですから、そろそろ覚悟すべき時です」


さらにガルナードも重々しく言葉を重ねた。


「主殿。これまで幾人もの導き手を見てきましたが、政治にここまで深く関わった導き手は初めてです。ですが……主殿はすでに下位神とはいえ神となり、リュシア殿の言う通り、その名は歴史に深く刻まれるでしょう。ユカナ様の神格も主殿に引かれて高まっていく。これもまた一つの在り方だと、今は強く思います」


アルタイもにやりと笑って言った。


「まあ、主のやり方は珍しいけど、俺は面白いと思うぞ。導き手自身が神格を上げていくなんて、聞いたことないけど楽しそうだ。……まあ、本人は望んでなさそうだけどな」


「私の味方はどこに行ったのよ!」


茜は両手を広げて嘆き、皆の笑いを誘った。


その背後では、エンへドゥアンナが淡々と筆を走らせている。

「――偉大なるアカーネの御名により、二王は和議を成し……」

彼女は声に出して神話風の文章を編み上げていた。


茜は頭を抱え、ぼそりと呟く。

「……もう私のライフ、ゼロなんだけど……」


一端、笑いの余韻が収まると、リュシアが冷静な声で場を引き締めた。


「では、今回の戦果を報告いたします。――カデシュの戦いにおいて、戦闘損失はゼロ。初期勝利点250に加え、今回の和平成立による勝利点100。合計で勝利点350。そして共通神力の収得値は三386になります」


茜は思わず目を丸くした。


「え、あまり何もしていない気がするのに……こんなに神力が入ったんだ」


リュシアは小さく微笑み、淡々と続ける。


「確かに主は、直接的には剣を振るわず戦を切り抜けました。しかし実際には、これは歴史に残る大戦です。その和平に立ち会い、導いたことこそ、最大の功績といえるでしょう。……そういう意味では、今回は上手なやり方でしたよ」


「……つまり、前キャンペーンの貯金――スッピルリウマ王のスタンダードが効いたってわけね。ある意味、戦略的勝利ってやつ」


茜が肩をすくめて笑うと、ガルナードが頷いた。


「主殿の先読みが見事に働いたということですな。これからも頼みますぞ」

「うん、そうだね」


茜は少し照れたように応じた。


リュシアはさらに記録を広げて告げる。


「加えて、今回の条約成立後、広範囲に主殿の信仰が広がるかと思われます。現状ではエジプト王国首都ぺル=ラムセスにて、主殿、ユカナ様、ミラナ様、それぞれに新たな信仰が10ずつ発生。結果、神力は――主が85、ユカナ様73、ミラナ様20となりました」


「おおっ!」

ミラナが目を輝かせ、ガッツポーズを決めた。

「この時代でも、私の信仰が始まったわ! まだまだボーナスステージ継続中ってやつね! これで私が継続的に得られる神力は120……夢のニート生活まで、あと一歩!」


「……あんたを見てると、本当に神様って何なのよ」

茜が呆れ顔で突っ込むと、周囲はまた笑いに包まれた。


「まあ、それはそれとして――今回の神力の使用は保留するよ」

茜は少し真剣な声に戻った。

「エジプト新王国で次にどんな戦いに巻き込まれるか、まだ想像できないし。カデシュの戦いが終わった今、大きな戦はもう無いと思うんだけど……」


リュシアは頷きつつも、険しい眼差しを向ける。


「確かに、次が読めぬ以上は保留が得策でしょう。……ですが、私の予測が正しければ、おそらく主はこれから、エジプトに侵入してくる異民族との防衛戦に立ち会うことになるかと」


「異民族……でも、海の民の侵攻はもう少し先でしょ?」


茜の問いに、リュシアはわずかに表情を曇らせた。「ええ、本隊の侵攻はまだ先です。ですが、その先兵がこの時代に現れていてもおかしくはありません。……いずれにせよ、油断は禁物です」


茜は短く息を吐き、静かに頷いた。


「……了解。とりあえず、今は備えを怠らないことだね」


ひとまず戦果の確認も済み、場の空気に安堵の色が差していた。茜は腰に手を当て、仲間たちへ向き直る。


「――それじゃ、一段落したみたいだから、後はぺル=ラムセスに戻ろう。しばらくゆっくりして、ラムセス王からの次の指示を待つとしようか」


その言葉に、リュシアは静かに頷き、ガルナードは「御意」と短く答える。ユカナは「やっと休める……」と安堵の息を漏らし、アルタイは「次はどんな戦が来るか楽しみだな」と豪快に笑った。ミラナは相変わらず上機嫌で「ご褒美と信仰ポイント、どっちも増える〜」と呟いている。そんな賑やかな仲間たちを見回し、茜はふっと笑みを浮かべた。


「……まあ、気を抜いちゃいけないのは分かってるけど――まずは、ご褒美をしっかり受け取ってから!」


明るい声に、全員が思わず笑いを返す。戦場を包んでいた緊張はひととき解け、束の間の平穏が訪れていた。

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