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87話 カデシュの戦い・後編

乾いた風が、戦場に砂塵を巻き上げていた。ヒッタイト王・ムワタリ2世は、戦車の上から遠くを見渡しながら、弟・ハットゥシリ3世からの報告を受けていた。


「エジプト第二軍は壊滅。完全に崩れ去りました」


その言葉に、ムワタリ王は深く頷く。


「ようやく、ファラオとやらの虚勢も尽きたか……」


エジプト軍の一個軍が壊滅した今、この戦はもはや決したも同然。ムワタリは手綱を引き、戦車を回しながら叫ぶ。


「我が軍の勝ちは揺るがん! 全軍前進せよ!」


その命に従い、ヒッタイト本隊――約二万の歩兵が一斉に動き出す。オロンテス川を渡り、地を打つ足音が大地を震わせ、土煙が戦場を覆った。さらに、ムワタリは伝令をハットゥシリに送り、撤退していた戦車隊の再進撃を命じた。


「弟よ。敵の防衛線に再び楔を打ち込め。今度こそ息の根を止めるのだ」


ハットゥシリは頷き、先ほどの突撃から生き残った2300の戦車を指揮して前進を開始。砂塵の海を裂くように、車輪の音が響き渡る。また、カデシュ城内の守備隊5000もこの命を受け、門から姿を現す。包囲、圧殺、完遂――圧倒的兵力が一点へと向かい、エジプト軍を飲み込もうとしていた。


その頃、エジプト側の指令部では、緊張が極限まで高まっていた。


「第二軍の壊滅……やはり、これはヒッタイトの罠だったか」


パトラー将軍が、深く顔を伏せて唸るように呟く。


「今となっては、第四軍の合流は間に合うまい……しかし王だけは、どうか撤退を。我らがここで盾となりますゆえ」


その隣で、壊滅状態の第二軍の将メナフェルも静かに目を閉じる。


「最期の戦いと覚悟すればこそ、武人の矜持がある。ならば、ここが我が死地でも悔いはない。王よ、我らが守りますゆえお引きを」


そして、彼らの前に立つ若き王――ラムセス2世は、未だその視線を遠くに向けていた。


 「ならぬ。ここで引くわけにはいかん。たしかに今回は予の誤算であった。だが……エジプト王国の意地を見せねばならぬ」


その言葉と共に、ラムセスは声を張り上げる。


「全軍に告げよ! これより我が軍は、ヒッタイトと雌雄を決する! たとえ敵が倍するとも、最後にこの地に立つはエジプト軍なり! ファラオの名にかけて、戦え!」


その大号令に、兵士たちが一斉に剣を掲げて応える。決して勝利を信じていたわけではない。だが――王のため、祖国のため、死地に立つ者としての誇りだけは、胸の奥に確かに灯っていた。そしてエジプト軍のすべての兵士たちが、死を覚悟して決戦に臨もうとしていたその時だった。


突如、エジプト軍の中央――第二軍の残骸が布陣し手薄だった部分に、堂々とした軍列が現れた。


「……あれは……?」


ラムセス2世が目を細めて、戦場の中央に浮かび上がる異質な軍列を見つめる。


その軍列を率いるのは、一人の女性。神の名を背負う存在――風の神、アカーネ。彼女の両側には騎兵も弓兵も存在しない。ただ、規律正しく並ぶ重装槍兵たち――ポプリタイの精鋭歩兵部隊のみが従っていた。まっすぐ、何のためらいもなく、戦場の中央へと進み出たその一団は、突風の中を進む神の行列のように荘厳で、無音の圧力を放っていた。


「アカーネか……何をするつもりだ……」


ラムセス2世は思わず呟いた。あの者は神だ。ならば、この敗色濃い戦場においても、なお一手があるというのか――ポプリタイの兵たちは迅速かつ正確に布陣し、盾を構えて静かに構えた。彼らの後ろに立つ茜は、風に靡く装束の裾を押さえながら、一歩だけ前へと踏み出す。


そして、彼女の手には確かに握られていた。


ヒッタイト王スッピルリウマ1世より託された、「黄金のスタンダード」。


その標章が、エジプトとヒッタイトの狭間に立ち、まるで神意そのもののように、敵味方の視線を集めていた。


挿絵(By みてみん)


「……さて、これで私の出番ってわけだね」


茜は、わずかに口元をゆるめた。そして、風の中に立ち尽くす彼女の姿を見て、誰もが――エジプト軍の兵士でさえも、ひととき戦場の喧騒を忘れた。ヒッタイト本軍の歩兵20000と、再編成を終えた戦車隊、さらにカデシュの守備隊5000からなる力の奔流が、エジプト軍に向けてじわじわと迫っていた。


だが、その動きが、ふいに止まる。


そのきっかけは、前線に向かって放たれた数人の偵察兵だった。


「……敵陣に新たな部隊、布陣中……重装歩兵……いや、何かが……!」


視線の先、エジプト軍の中央最前線には、これまでには存在しなかった部隊――整然と並ぶ槍盾を備えた重歩兵たちと、その前に静かに立つ、一人の女性。そして、その手には――天を衝く長杖の頂に掲げられていたのは、まばゆく輝く金の「翼ある太陽円盤」。その下には鋭利な三叉の刃を模した武器意匠が重ねられており、見る者にただならぬ威圧と神威を与える。


それは、ヒッタイト王家の象徴――かの大王スッピルリウマ1世が戦場に持ち出した、王にして神の証。触れることさえ許されぬ、王統の至宝だった。偵察兵たちは蒼ざめ、身を引き裂かれるような動悸を抑えきれずに、戦列をかき分けて後方へと駆け戻っていく。ムワタリ2世は、戦車の上からその様子を見ていた。胸の奥にかすかな違和感を覚え、報告を待たずに一歩、騎乗のまま前へと乗り出した。


「何があった。伏兵か、あるいは……?」


泥にまみれた偵察兵はひざまずき、顔を上げると、震え声で告げた。


「陛下……エジプト軍の中央、その部隊が……あの方が掲げておられたのは――」


「……何を掲げていたというのだ」


「スッピルリウマ大王陛下の、スタンダードでございます! あの“太陽円盤と三叉槍”に、間違いございません!」


その一言に、時が止まる。


ムワタリの瞳に、確かに映っていた。遥か向こうの戦列の中央、静かに天を指す黄金の輝き――あれは祖父が王として戦場に立つ時、常に傍らにあった「栄光と神威の象徴」そのものだった。


「……なぜ、あれが……敵の陣に……?」


ムワタリは苦悶の表情を浮かべると、静かに命じた。


「全軍、進軍を停止せよ……!」


鋭く響いたその声に、ヒッタイト全軍が立ち止まる。整然と進んでいた軍列に、波紋のような静寂が広がった。ムワタリは深く息を吐く。


――祖父の象徴を掲げる者に剣を向けることは、すなわち神と王統への叛逆である。


「……話さねばならん。あれを掲げる者が、何者であれ」


彼は自らの戦車に飛び乗り、護衛もつけずに前線へと駆け出した。一方その頃、エジプト軍の戦列では、異変に気付いたラムセス2世が顔をしかめていた。


「……ヒッタイト軍の進軍が止まった……? 何が起きている……?」


目を凝らすと、敵の王――ムワタリ2世自身が、ただ一騎、戦車で前進しているのが見える。


「……あれは……」


視線を戻す。彼の目にも見えていた。中央に並び立つ、ひとりの女性。そして、彼女が掲げる、金色の太陽と三叉の象徴。


「アカーネ……お前は、今度は何を見せようとしている……?」


ファラオである自らが出るべきだと分かっていながら、ラムセスは一歩も動かず、ただ見つめていた。戦場には沈黙が降りた。数万の兵が、武器を握ったまま息をひそめる中、ただ一点――両軍の中央に向かい合う、王と神の姿が、すべての視線を引き寄せていた。


両軍の視線が一点に集まる中、砂煙を巻き上げて進んできた戦車が茜の前に停まった。茜はその姿を見て、肩の力を抜くように笑った。


「おっ、出てきた出てきた。あなたが今のヒッタイト王国の王様でいいんだよね? 私は茜。多分、あなたの国では“アカーネ”の名前で伝わってると思うけど」


戦車の上で、ムワタリ2世の表情が凍りついた。


「ア……アカーネ様……!」


ムワタリは慌てて戦車から飛び降り、茜の前に歩み寄ると、膝をつき、深々と頭を垂れた。


「恐れながらお尋ねいたします。そのスタンダード――祖父スッピルリウマ大王の象徴……なぜ、貴女が……?」


茜はゆったりとした動作で、長杖の先に掲げられた黄金の「翼ある太陽円盤と三叉の武器意匠」を見上げた。


「これね、あなたのお祖父さんからの預かり物。昔、あの王様に頼まれたんだ。『もし私の子孫が正しい道を見失いかけたら、導いてやってほしい』って」


ムワタリは目を見開いた。


「祖父が……アカーネ様に、そのようなことを……」


「そうそう。あの人、本当にすごい王様だった。私も感心してね。だから、出来る範囲で助けるよって約束しちゃったの」


驚愕と敬意の入り混じった表情で、ムワタリ2世は深く頷いた。


「父王からアカーネ様の伝説は幾度も聞いております。が、まさか祖父とそこまでの約定があったとは……我が知らされていなかったのも当然。祖父が貴女に託したことならば、私が従わぬ道理はございません」


茜は目を細め、少し真面目な顔になる。


「さて……それじゃあ今の話に戻ろうか。あなた、今ヒッタイト王国がどういう状態か、分かってる?」


ムワタリは頷いた。


「エジプトとの対決に加えて、アッシリアとの緊張関係の維持、そしてアカイアからの侵攻の防御……三正面での対峙。確かに苦しい状況にございます」


「だから私、ここで干渉することにしたの。正直、この戦いは歴史の節目になる。もしヒッタイトがエジプトを倒しても、次の戦でヒッタイトが倒れる可能性が高いからね」


ムワタリは真剣な面持ちで問う。


「それでは……アカーネ様は、我がヒッタイトをどのように導いてくださるおつもりなのですか?」


茜は軽く顎に手を当て、ふわりと答える。


「まずは、エジプトと和平を結びなさい。いまなら、ラムセス2世も私の言葉を無視できない。和平条約を結べれば、一正面を消せる。アッシリア方面は……ごめん、私はこの時代では直接干渉しない。けれどミタンニ王国も存在してる。そこと協力すれば、緊張関係を維持するだけなら問題ないでしょ?それとアカイアは海を隔ててる以上、防戦だけなら、アッシリア方面に主力を展開し続けなければいけないヒッタイトでも十分耐えられる筈だよ」


ムワタリは唸るように言った。


「エジプトと……和平……それは、可能なのでしょうか? いえ、アカーネ様を疑うわけでは――ただ、あまりに大胆で……」


「大丈夫。私が間に立つ。今ならエジプト側も和平を望む理由がある。ラムセス2世も、思った以上にちゃんと国のことを考えてるからね」


茜はスタンダードの柄を軽く叩き、空を仰ぐ。


「だから明日、ここで改めて話そう。あなたと、ラムセス2世と、私とで。三者で。今しかないよ、この機会は。上手く使って」


ムワタリはしばらく黙し、そして深々と頭を下げた。


「……貴女の御言葉、ヒッタイト王として受け止めました。明日、改めてお会いしましょう。そしてこの戦場で、未来を決する話し合いを」


彼はそのまま立ち上がり、戦車へ戻ると、自陣に戻っていく。そしてしばらくすると、ムワタリ2世の命令があったようで、ヒッタイト軍が後退していった。そしてヒッタイト軍が退くのを見たエジプト軍もまた、静かに武器を下ろす。


戦場の空気に、風がひと吹き抜けた。


その中心に立つ茜の姿は、まるでかつて神と呼ばれた存在の帰還を告げるかのように、荘厳で、そして温かかった。スタンダードを掲げたまま自軍へと戻ってきた茜の姿に、仲間たちはそれぞれの表情を浮かべて出迎える。


最初に口を開いたのは、冷静なリュシアだった。


「お戻りなさいませ、主。……とりあえず、主が描いていた通りの展開に落とし込めましたね。戦わずに勝利するというのも、悪くない選択肢です」


「でしょ?」と茜は得意げに笑い、スタンダードを肩に担ぎ直す。


「戦えば回復などで神力のコストが増えるし、戦わずに勝てるなら、それに越したことはないよ。なにより今回は両方の王様から“お礼”が期待できそうだしね」


その言葉に、控えていたガルナードが苦笑混じりに言う。


「主殿の物欲は相変わらずですな……しかし、今回ばかりは神としての主殿に相応しい褒美があってしかるべきかと」


茜はぶんぶんと手を振って即座に否定する。


「だからそういうのやめてってば! 今度も“人として”褒美をもらう予定なんだから。茜として、ね」


ユカナが柔らかな微笑みを浮かべる。


「うん、茜は本当にぶれないよねぇ。神様やってるのに、神様っぽく振る舞わないところが逆に神秘的でいいのかも」


それに対して、ミラナがうっとりとした顔で両手を組みながら言う。


「私は信仰さえ発生してくれればそれで……あっ、でもキラキラしたものも欲しい……神殿に飾るだけだから!」


「どっちが本音か微妙なんだけど……」と茜がジト目で返すと、横から紙に筆を走らせる音が聞こえてきた。


「“かくして、風の神アカーネの一声により、ヒッタイト軍とエジプト軍の戦闘は収まり、太陽の下に平和がもたらされた。王たちは神に膝を屈し、再び風は静かに大地を撫でる――”」


淡々とした声で神話の一節を書き綴るのは、もちろんエンへドゥアンナだ。


「だから! そういうの恥ずかしいからやめてってば!」


「しかし、これは歴史的な転換点であり、神話的にも重要な局面です。こういう場面を記さずして、後世に何を残しましょう?」


「いや…そうかもしれないけど…!」


茜の抗議はさらりとスルーされ、エンへドゥアンナの筆は止まらない。まるで神託そのもののように、言葉がページに記されていく。


「“されどアカーネはそれを恥じ、あくまで人として振る舞う。これぞ真なる神の証しなり”――っと」


「だから追い打ちやめろぉぉ……」


そんなやり取りに、自然と空気が緩む。和やかな笑いとともに、戦場にあった張りつめた緊張がほどけていくのを、誰もが感じていた。と、その空気を破るように、伝令兵が小走りに現れる。


「風の神アカーネ様! 王より直々のお召しです。至急、総司令部へご足労を!」


全員の視線が茜に向かう。彼女は小さく肩をすくめ、そしてスタンダードを傍らに預けながら、まっすぐに前を見据える。


「じゃ、行ってくる。いよいよ歴史の本筋に手を突っ込む時がきたみたいだしね」


総司令部の天幕に足を踏み入れた瞬間、茜の前に広がったのは――王も将も、膝をついて彼女を迎えるという異様な光景だった。中央にはラムセス2世。神の血を継ぐとされる太陽の子が、まさしく土の上に膝をつき、両手を地に伏せていた。その傍らにはパトラー将軍、メナフェル将軍をはじめとする将軍たちが、同じく跪いている。


「アカーネ様……」


ラムセスは、かつて自信と誇りに満ちた王の顔ではなかった。敗北寸前の戦場で救われた男の、深く静かな謝意と敬意がそこにあった。


「そなたのおかげで、我が国は破滅を免れた。これはどのような形で感謝を伝えても、決して足りぬ。いや……ベル=ラムセスに戻ったのち、改めて国を挙げて礼を尽くさせてもらう。本当に、感謝する」


その言葉に、茜は苦笑を浮かべながらも手を軽く振った。


「ちょ、ちょっと待って。ファラオがそんな簡単に頭下げちゃダメでしょ。国の象徴なんだから、もうちょっと威厳ってものをさあ……」


しかし、頭を上げようとしないラムセスが静かに言う。


「いや……今回は余の判断が過ちであった。それを正したのは、そなたであり、神の導きそのものであった。ファラオとて、神々への感謝を惜しむことはない」


「うわ、マジの神扱い来たわ……」と、茜は小さくぼやきながらも、気まずそうに頬をかいた。


ややあって、ラムセスはようやく立ち上がると、真剣なまなざしで茜に向き直る。


「アカーネ様、問わせてくれ。……なぜ、ヒッタイト軍は進軍を止めたのか? そして、先ほどムワタリ王とは何を話したのだ?」


「順を追って話すね」と茜は椅子に腰掛け、少しだけ息を整えてから話し始めた。


「まず、ヒッタイト軍が止まったのは、私が掲げていた“スタンダード”が理由。あれはね、以前ヒッタイトに降臨してた時、スッピルリウマ王から正式に託されたものなの。つまり、あの王家の象徴を掲げていたから、ムワタリ王も無視できなかったってわけ」


その言葉に、将軍たちの間にざわめきが走る。


「そなた……たしかにヒッタイトの神でもあったが……そこまでの神格だったとはな」


ラムセスが静かに呟くと、茜は「そうなるね。スッピルリウマ王の代では、少しだけお手伝いしてたから」とあっさり返す。


「そして、ムワタリ王には、今この戦争を続けても何も得られないって話をしてきた。三正面での戦争――アカイア、アッシリア、エジプトってやつね――それが続けば、どんな大国でも疲弊する。だから、まずは和平を結ぼうって」


その言葉に、パトラー将軍が目を見開く。


「和平……ですか?」


ラムセスは少し難しい顔をして、茜を見る。


「アカーネ様。余はヒッタイトとの和平に、正直なところ少し……」


「都市のこと? そりゃまあ、和平を結ばず戦えば、都市の一つや二つは取れるかもしれない。でも、和平を結べば、代わりに交易が生まれるよ。それこそ、戦利品なんかより遥かに持続的で、価値のある富が手に入る。なにより――」


茜の表情がわずかに引き締まる。


「近年、エジプトにも異民族の侵入が増えてるでしょ? 国境で暴れたり、小規模な侵攻したりって報告、来てるよね?」


「……たしかに。だが、それらは全て小競り合い。我が軍の手にかかれば、問題ではない」


「今はね。でもね、ラムセス王。あなたの時代は平穏だよ。あなたは長くエジプトを治める名君になる。でも、あなたの子孫の時代になると、状況は大きく変わる。異民族の侵攻は、もっと激しくなるの。しかも、同時多発的に」


茜の瞳が、未来を見通すように深く澄む。


「その時、エジプトは、今のような余裕はない。だから今のうちに、周囲の大国と協力できる関係を築いておくべきなのよ。そうすれば、あなたの子孫たちが頼れる“かけ橋”になる」


ラムセスはしばらく沈黙し――そして、静かに息を吐いた。


「……なるほど。未来のために、予の代で和平を築けと。ならば納得がいく。予はファラオとして、この地に未来の礎を築こう」


その言葉に、天幕内の空気がわずかに変わる。将軍たちの表情が緩み、兵士たちの肩の力が抜けていく。茜は、ラムセスに視線を戻す。


「明日、ここでムワタリ王と会談する予定。それが未来へのかけ橋になる。……覚悟、決めておいてね?」


ラムセス2世は真っ直ぐに茜を見つめ、静かに頷いた。


「アカーネ様。予はそなたを信じよう。そして未来のために、ヒッタイトと手を取り合おう」


天幕の外――夜風が静かに吹き抜け、戦の気配が遠のいていく。静まり返った夜の軍営に戻る途中、茜の前に一人の将軍が立ちはだかった。パトラー将軍――第三軍プタハの指揮官にして、長年エジプト王国を支えてきた忠臣。老将は深く一礼し、言葉を慎重に選びながら口を開いた。


「アカーネ様、今回は……心より感謝申し上げます。正直、私も覚悟しておりました。ここが我が死に場所になると」


茜はふっと笑みを浮かべ、軽く首を傾げた。


「こんな所で戦死されたら困るんだよ、将軍。まだまだラムセス王の政治に口を出さなきゃいけないでしょ? それにさ、今回私が好き勝手に動けたのは、将軍が私に自由裁量を認めてくれたからだよ?」


パトラーは思わず目を丸くした。


「それは……私など微力にすぎませぬ」


「いいや、間違いなく今回の功労者だよ。私は自分で考えて動くけど、許可がなければただの暴走扱いだし。それを信じて任せてくれたのは将軍。だから今回の戦いで一番の“勝因”は、将軍かもね?」


そう軽口を叩く茜に、老将は恥じ入ったように微笑む。


「ありがたきお言葉。ですが……本当に救われたのは、この老いぼれの方です。私はこれで、まだしばらく王と国の未来を見届けることができます。それはまさに、神より与えられし“余生の贈り物”」


茜は一歩、彼の横をすれ違いながら、振り返らずに言った。


「だったら、しっかりついてきてよね? 私と一緒にいると、絶対に楽じゃないから。むしろ、めちゃくちゃ苦労すると思うよ?」


軽やかな笑い声を残して、茜はそのまま自陣へと戻っていった。パトラーはしばらくその背を見送り、やがて地面に片膝をつき、静かに頭を垂れた。


「気軽に話しておられるが……あれだけの事を、やすやすとやってのけるお方……やはり、本物の神なのですな」


その胸に刻まれるのは、深い畏敬と、尽きぬ忠誠。


「アカーネ様。この老骨、今回救っていただいた命をもって、あなたにお仕えいたします。必ずや――」


夜風がまた、静かに吹き抜けていく。神と歩む戦の道に、新たな忠臣が一人、確かに加わった瞬間だった。

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