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86話 カデシュの戦い・前編

シャブツナの野営地に、エジプト新王国軍の全軍──総勢四個軍団、約二万の兵士が集結していた。戦神セトの加護を祈りつつ、兵たちは槍を整え、戦車を点検しながら、静かに命令を待っていた。空は高く澄み、砂と石に覆われた大地の向こうに、次なる戦場──カデシュの影がかすかに見える。その静寂の中で、各軍団から送り出された偵察部隊が続々と帰還する。


「報告いたします。ヒッタイト軍の姿は確認できず。周辺に異常は見られません。」


「こちらも同様です。敵影なし。補給路も安全です。」


幕舎の中、地図を前にしたラムセス2世は、報告を順に聞きながら、眉をわずかに上げた。


「ふむ……やはり、カデシュのヒッタイト軍は少数で、主力はまだ現れておらぬか。いや──最初からこの地に居ない可能性もあるな。」


そう言って、王は立ち上がると、将軍たちを見渡しながら高らかに宣言した。


「明朝、我が軍は総力を挙げてカデシュへ進軍する! 全軍、準備を整えよ!」


その声に、幕僚たちは一斉に応じて敬礼を送り、各軍への命令が飛ぶ。だが、その場に居並ぶ誰よりも早く、戦の本質を知っていた者が一人いた。茜は、幕舎の片隅で小さく溜息を吐いていた。


(……違う。ヒッタイト軍はここにいないんじゃない。隠れてるんだよ。完全にこちらの動きを読んだうえで、罠を張って待ってる……)


それは彼女にとって“知っている未来”だった。カデシュの戦いは、敵の奇襲によりエジプト軍が分断され、王自ら窮地に陥ることで知られている。だが、今ここで「それは罠です」と声を上げたところで──。


(……言っても信じてもらえない。だったら、こちらの手を打つしかないか)


茜は視線を上げると、地図に示された進軍経路を見やった。翌朝の作戦はすでに決まっている。シャブツナから出発し、カデシュの西側を時計回りに進軍して北へ回り込み、そこから町を半包囲の体制にして攻撃を加えるという戦術だ。ラムセス2世はその先陣として第一軍団アメンを率い、他の軍団──第二軍ラー、第三軍プタハ、第四軍セトが後続する。


その陣形は、整然と見える。だが、縦列での行軍は、側面からの敵の待ち伏せに対してあまりにも脆い。茜は沈黙したまま、深く息を吐いた。歴史の流れを壊すことのリスクと、それを見過ごすことの重さ。両方を理解したうえで、彼女は何も言わなかった。


挿絵(By みてみん)


***


灼熱の陽光が地平線を焼く中、カデシュの東方に広がる平野に、ヒッタイトの戦陣が密やかに展開していた。


その中心──黒と金の戦装束に身を包んだ一人の男が、じっと地図を睨んでいる。ヒッタイト王、ムワタリ2世。若くして王座を継ぎながら、その眼光は老練な軍師のように鋭く、何よりも帝国の覇道を信じて疑わぬ男であった。


「シャブツナまで来たか、エジプトの若造……」


彼は、エジプト軍が既にカデシュ西側を北進してきているという報を受け取ったばかりだった。すでにヒッタイトの斥候は、エジプト軍の布陣を把握していた。四個軍、およそ二万。第一軍が先陣を切り、後続軍が縦列で進軍するという、典型的な行軍展開。


ムワタリの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「愚かだ……分断される危険を顧みず、堂々と縦列で進むとは。ならば、王とはいえ、その首、取ってやろう」


その言葉に応えるように、幕舎の奥から現れたのは、王の実弟、ハットゥシリ3世。大柄で堂々たる体躯に、鋭い眼差しを湛えた将軍である。


「兄上、出陣の刻か?」


「いや、まだだ。まずは……奴らを油断させねばならぬ」


ムワタリはにやりと笑い、傍らの副官に命じた。


「例の者たちを用意せよ。脱走兵に見せかけ、奴らの陣へ送り込むのだ。伝えるべきは……“ヒッタイト軍主力は未だカルケミシュ付近で待機中。カデシュの守備隊も一部を残して北方に撤退中”と。愚かなラムセスの耳に、この戯言を届けよ」


副官はうなずき、即座に命令を伝達する。


「……偽りの情報が本物の戦果を生む。これぞ戦の妙味というものよ」


ムワタリは地図の一点──カデシュとシャブツナの間に指を置いた。


「ここに奴らは通る。そこを側面より叩けば、奴らの縦列は寸断され、最前線と後続の連携は絶たれる」


「私の出番という訳ですね、兄上」


ハットゥシリは口角をわずかに上げる。既に準備は整っている。ヒッタイトの誇る重戦車──三人乗りの巨鋼の戦車が三千。これらすべてが、カデシュ南の丘陵地帯の谷間に伏せられていた。


「そうだ。貴様の戦車隊に中央を叩かせる。奴らの第二軍を潰せば、前と後ろは孤立し、指揮系統は崩壊する。あとは、我が本隊で叩けばよい」


「了解しました。全ては兄上のご計画通りに」


「行け、ハットゥシリ。ヒッタイトの矛先が、神々のごとくエジプトに突き刺さる時だ」


命を受けた弟は、無言で敬礼し、戦車隊の集結地へと消えていく。そしてムワタリは、再び地図に目を落とした。


本隊、歩兵二万。カデシュ北側に既に布陣済み。最前線には盾兵と槍兵、中列には投石兵と弓兵、そして後列には突撃用の軽装歩兵を配置。これらを用いて、分断したエジプト軍を南から攻撃さえた戦車隊と共に挟撃する。その視線の先には、既に焼かれることを待つだけの、砂漠の駒たち──すなわちエジプト軍の行軍路が描かれていた。


「エジプトの小僧よ、貴様に帝国の怖さを教えてやる。父王の時代に遅れを取った分、我が代で清算する時が来たのだ──」


赤く染まった太陽の下、ヒッタイトの王は、静かに勝利の道を描き始めていた。


****


黎明。砂漠の冷気がまだ地表に残る頃、エジプト新王国軍はシャブツナを後にし、カデシュを目指して北進を開始した。


先頭には、黄金の戦車に身を預けるラムセス2世自らが率いる第一軍団アメンが展開。その後に、重装の歩兵と弓兵を主力とする第二軍団ラー、続いて第三軍団プタハ、そして最後尾を第四軍団セトが守るという縦列編成であった。隊列を組んだ2万の兵士たちは規律正しく前進し、列の隙間を風が駆け抜けていく。


この日、彼らの進軍速度は普段よりもわずかに速かった。──なぜなら、出発の直前、奇妙な幸運とも思える出来事があったからだ。


「将軍、奇妙な者どもを拘束しました。近隣の遊牧民と称しつつ、話を聞けばどうもヒッタイトの脱走兵かと……」


報告を受けた参謀たちが連れてきた数名の男は、衣服こそ汚れていたが、どこか軍人らしい鍛えられた体格をしていた。彼らは怯えた様子で語る。


「我らはカデシュの守備隊でした。しかし本隊はすでに北へ撤退を開始しており、残された者たちもカデシュを放棄する準備に追われています……」


脱走兵の告白に、幕舎に居た将軍たちはざわつく。そしてその報を受け取ったラムセス2世もまた、深く頷いた。


「やはりな。奴らはカデシュを諦めたのだ。今こそ、神の意志に従い勝機を掴む時!」


これにより、エジプト軍は全体的に浮足立った状態で進軍を始める。将官たちも兵士たちも「今回ばかりは楽な戦いになるかもしれない」と楽観していた。


──だが、それは完全な錯覚だった。


その頃、オロンテス川を渡ったカデシュ南の丘陵地帯。その影に潜む漆黒の鉄の獣たち。ヒッタイト王国の主力戦車隊──三千台。王弟ハットゥシリ3世がその全てを統べ、密かに息を潜めていた。部下の副官が、戦車に乗るハットゥシリ3世に報告する。


「第一軍、通過を確認。現在、第二軍が接近中。縦列を崩さず進軍しております」


ハットゥシリは鋭く目を細めた。


「ふむ、先鋒の王自らが通過し、次の軍団がその背を追っていると……ならば、今が絶好の機会」


眼下を進むエジプト軍──第二軍ラーは、先行する第一軍アメンとは距離があり、とっさの連携は取れない。さらに後続の第三軍プタハとの距離も開いており、こちらも即時の援軍は見込めない。孤立無援。まさに、獲物としてはこれ以上ない条件。ハットゥシリ3世は戦車に飛び乗り、叫んだ。


「ここが好機! 今こそ、我らヒッタイト戦車隊の真価を見せる時ぞ!」


その叫びに応えるように、3000の戦車が一斉に唸りを上げる。戦車の車輪が乾いた土を掻き、3人乗りの甲冑兵たちが槍を構え、弓を引き絞る。


「全戦車、突撃! 敵の第二軍を粉砕し、その中央を裂けッ!」


丘陵地を飛び出した重戦車たちは、砂嵐を巻き起こしながら疾走した。まるで地響きのような轟音が戦場を揺るがす。砂嵐のような轟音と共に、地平線の向こうから押し寄せる異様な砂煙。第二軍ラーの兵士たちは足を止め、一斉にその東方を振り返った。そして目にしたのは、赤茶けた地表を削りながら突き進む、無数の戦車の影──。


挿絵(By みてみん)


「ひ、ヒッタイトの……戦車隊だ!」


誰かが叫んだその声が合図のようになり、瞬く間に恐慌が軍全体に広がった。


「全軍!戦列を整えろ!混乱するな!」


指揮官たちが叫ぶも、突如として側面を襲われた軍団は混乱し、兵たちの顔には怯えの色が浮かぶ。ヒッタイト戦車──その数、3000。三人乗りの重戦車は、それぞれが御者・槍兵・弓兵で構成され、突撃と同時に矢の雨を降らせ、敵陣を蹂躙する破壊の化身。つまり、突進してくるのは単なる車ではなく、9000の熟練兵による猛攻だった。しかも、彼らが狙うのは軍列の中腹という、最も脆く、かつ最も重要な急所。


「……しまった、敵の奇襲か!」


第二軍の総指揮官、メナフェル将軍は青ざめながらも、率先して前へと出る。


「全軍、縦盾を前面に!槍を構えよ!矢が来るぞ、盾で防げ!」


命令は速やかに実行され、精鋭たちは歯を食いしばり、矢を受けながらも戦列を保とうとする。だが、差し迫る地響きと、唸りを上げて突進してくる木と青銅の巨獣たちに、兵士たちの心が音を立てて崩れていく。


「逃げろ!」「無理だ、止められん!」


そのたびに、メナフェル将軍は咆哮を上げた。


「逃げるな!王が来るぞ!王自ら援軍として駆けつける!そして第三軍も後方から迫っているはずだ!」


その言葉に、一部の兵の目に光が戻る。


「王が……!」


「ファラオが我らを見捨てるはずがない……!」


軍神の名を冠する《ラー》の軍団、その名に恥じぬ誇りが、次第に兵たちの心に火を灯す。


「槍を構えろ!弓兵は後列へ!車輪を狙って放て!」


 ――だが、数の差は残酷であった。


戦列を組み直した第二軍5000に対し、ヒッタイトの重戦車は容赦なく突撃を繰り返す。厚い車体と堅牢な車輪に矢はほとんど通じず、馬の突進力の前では、槍もなぎ倒されていく。砕かれ、蹴散らされ、地に倒れる兵たち。空には矢、地には車輪、叫び、血、そして砂塵。


「くそっ……もはやここまでなのか……!」


メナフェル将軍は、自ら青銅剣を抜き、敵戦車に切りかかりながら叫ぶ。


「諦めるな!戦列を保て!弓兵を守れ!」


彼の周囲には、なおも数百の兵が歯を食いしばって戦っていた。だが、既に兵力は激減していた。エジプト軍第二軍ラー──かつて王都ベル=ラムセスを守る栄光の軍団。その誇りだけが、彼らを支えていた。そして、砕かれつつある陣列の中で、メナフェル将軍は、かすかに北方から上がる金色の砂煙に気づく。


「王よ……どうか、早く……!」


カデシュ平野の中央に立ちこめる砂煙の中、ひときわ雄々しく響いた金属音。それは、第一軍アメンより緊急展開してきた戦車部隊のものだった。だがその数は――わずか五十。


「……ラムセス王直率の親衛戦車隊です!」


残された第二軍ラーの兵士たちがその姿を目にした瞬間、全軍に電流のような衝撃が走った。黄金の王冠と、蛇のウアス杖を掲げたファラオが、自ら御者席に立ち、戦車の最前で雄叫びをあげていた。


「全軍、予に続け! エジプトの誇りを見せよ!」


その声とともに、王を中心に展開した五十の戦車が、疾風のように前進する。戦車が生む震動が、大地と兵士の心を同時に揺さぶる。第二軍の生き残りたちが再び奮い立ち、死地の只中に身を投じる。ラムセスの戦車は、機動力に勝る新式軽車であり、熟練の御者と共に鋭く切り込んでいく。ヒッタイトの重戦車とすれ違いざま、車輪を狙った投槍が命中し、ひとつ、またひとつと敵の車体が横転する。


「まだだ……我が戦車に続け!エジプトの神々は我と共にある!」


しかし――その言葉に応えるように、敵もまた陣形を練り直す。ヒッタイト戦車三千台の圧倒的な質量が、津波のように王の周囲を呑み込んでいった。


「弓兵、後方より射撃!包囲を破らねば全滅する!」


親衛戦車隊の兵たちが各車両の上から弓を放つも、三人乗りのヒッタイト重戦車は、矢をものともせずに迫る。やがて、王の左右を固めていた戦車が、一台、また一台と、轟音と共に倒れていった。


「う……ぐっ……!」


衝撃でラムセス自身も額から血を流す。だが彼はよろけながらも立ち上がり、再び手綱を握る。


「予は……予はファラオだ……まだ……終わっては……ならぬ……!」


戦場の中央、崩れゆく盾のように、ただ一台、彼の戦車が孤立していた。そして、彼の周囲に残された味方戦車は――四。


「……予は……ここまでの男であったか……」


自嘲とも、悔悟ともつかぬ声が、戦場の轟音の中にかき消えかける。


だが。


その時、西方の丘陵を越えて、まったく異質な音が戦場に差し込んできた。


――地鳴りのような、しかし戦車とは明らかに異なる連続した蹄音。


「何だ、あれは……?」


ラムセスが顔を上げたその瞬間、視界の果てに、砂塵を巻き上げながら進軍してくる黒い影――否、風の群れが目に飛び込んできた。


「馬……!? いや、あれは……兵が……馬に乗っている……?」


ラムセスの双眸が驚愕に見開かれる。彼の知る限り、この時代において兵が馬に騎乗したまま戦うという戦術は存在しない。馬は神聖な乗り物、あるいは戦車を牽く獣であった。兵が馬を直接駆って戦うなど、常識ではあり得ぬ――ヒッタイト戦車隊が、明らかに動揺している。


「ヒッタイト兵が……あの部隊に怯えている?!」


その様子を見たラムセスは信じられぬものを見たように呟く。敵を恐れぬことで知られた重戦車隊が、あの未知の兵たちの前では恐怖を滲ませ、退き足になっている――。その先頭に立つのは、黒き軍馬を駆る若き将、アルタイ・バアトル。


「間に合ったか……!」


息を吐くように呟いた彼は、戦況を一瞬で見抜いた。


中央に取り残されたエジプトの戦車群。その中心には、赤と金の王装をまとった戦車が四台――ファラオ、ラムセス2世がいる。彼を取り囲むように、なおも押し寄せるヒッタイトの戦車の波。精鋭の第二軍は既に壊滅寸前、彼の目にも、その状況は火を見るより明らかだった。


「――ラムセス王を守れ!」


軍の先頭でアルタイが叫ぶ。


「主の命令だ。騎馬隊、突撃!!」


大地を震わせ、蹄が駆ける。


ヘタイロイ400騎。全身に甲冑を纏った重装騎兵たちが、鋼の槍を構えて一直線に突撃を開始。その周囲を包むように走るのは、機動性に優れたタランティン軽騎兵300騎。軽く小柄な馬に跨った彼らは、巧みに戦車の側面を突き、車輪を断ち、御者を弓で撃ち抜いていく。


「な……なんだ、あの兵科は……?」


ヒッタイト戦車隊が混乱する。


数の優勢を誇っていたはずの彼らが、見たこともない機動戦に翻弄されていく。それは彼らの軍には存在しない概念だった。戦車こそが最速、最強の突撃兵器と信じて疑わなかったラムセス2世の目に、その騎馬の群れは――風に乗る神の兵のように映った。


「……アカーネ……か」


しばし沈黙の後、ラムセス2世はふっと自嘲するように笑った。


「異国の神に予は救われたか……なんと情けない話だ……」


そのとき、王の隣に現れた男がいた。戦塵をまといながら、見事な姿勢で馬を御する男――アルタイ。


「ラムセス王!」


彼は力強く呼びかけた。


「我らは風の神アカーネ様の命により、救援に馳せ参じました。ここで全滅するにはまだ早い。急ぎ第一軍と合流を!」


その瞳は戦の炎を宿し、王に揺るがぬ信を届ける。ラムセス2世は一拍の後、しっかりと頷いた。


「そうだな。……我らは、まだ負けておらぬ」


重く、しかし確かな口調で言い放つと、彼は生き残った親衛戦車を見回した。


「将軍! 援軍に感謝する。アカーネにもよろしく伝えてくれ。予は……第一軍と合流し、再びこの戦場を支配する!」


そう言い放つと、ラムセス王は戦車の向きを北へと変えた。彼の目は、再び王の目へと戻っていた。そしてその背を見送ったアルタイは、軽く頷きながら再び馬首を巡らせ、ヒッタイトの残存戦車隊を追い払うべく、その軍を集結させた。しかし戦場に響いていた車輪の轟音が、次第に遠ざかっていく。


ヒッタイトの戦車隊――その最後尾が塵煙の向こうに消えるのを見届けたアルタイは、愛馬のたてがみに手をやった。


「退いたか……」


その声は安堵と警戒の入り混じる、低い吐息のようだった。彼が率いる騎馬隊の突撃により、エジプト第二軍ラーを蹂躙していたヒッタイトの重戦車隊は撤退を開始していた。戦車隊を率いていたハットゥシリ三世の判断は早かった。未曾有の機動兵科である騎馬隊を前にして、彼は敵の正体を見極めきれぬまま、更なる交戦を避けるように、東方へと転進した。


「さすがだな……簡単には崩れない」


アルタイは、ヒッタイト軍の整然とした撤退を遠目に見ながら、静かに呟いた。しかし、これ以上の追撃は考えなかった。彼には別の優先すべき任務がある。戦場に残された第二軍――その残骸のような軍列。


アルタイの騎馬隊の突撃により瓦解こそ免れたが、既に彼らは戦える状態ではなかった。あちこちで傷ついた兵士たちがうずくまり、砕かれた戦車が地に横たわり、呻きと煙と血の匂いが漂っている。その混乱の中で、なおも軍を立て直そうと奔走していたのが、第二軍の将メナフェルであった。


「生きている者はここに集まれ! 負傷者を後列へ! 弓兵、再配置! まだ我らは死んでいないぞ!」


彼の怒声が、もはや軍とは呼べぬ集団に魂を吹き込んでいく。アルタイはそれをしばし眺めたあと、部下に命じた。


「追撃は不要だよな。今は第三軍、そして主の本隊と合流した方が良さそうだ」


「南へ?」


副官が問うた。アルタイは頷いた。


「そうだ。改めて主の判断を仰ぐべきだろうからな」


蹄が再び地を蹴り、騎馬隊は流れるように方向を転じていった。――戦場には、静けさだけが残された。それは勝利の後の静けさではない。誰が勝者とも言えぬまま、ただ時間が止まったかのような、奇妙な沈黙。焦燥と疲労、そして名状しがたい空虚が、そこには漂っていた。数刻遅れて、茜を含めた第三軍と第二軍の残存部隊が、ラムセス2世自らが率いる第一軍と合流した。


アルタイから戦況を聞いた茜は、空を仰いで短く吐息をついた。


「……やっぱり、こうなったか」


周囲の空気が緊張する。


「主?」


傍らでリュシアが問いかける。茜は一度だけ目を閉じ、そしてゆっくりと前を向いた。


「これまでは、手は出さなかったけど……ここからは、あたしが関わらなきゃダメなんだよね。ヒッタイト側に傾き過ぎた天秤を元に戻さないと史実通りの決着にならないから」


ユカナが柔らかく微笑む。


「まぁ、今回も茜に任せてるから、茜がいいようにすればいいよ」


茜は苦笑する。


「本当にあんた、最初から最後まで私に任せてるよね」


その一言に、リュシアがわずかに肩をすくめ、ミラナが「それが一番確実だから」と冗談めかして応じる。戦場の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。

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