9話 電撃の一突で、戦場は崩れた
丘を下りた茜は、扇形に展開された軽槍兵の列の中央に向かって歩き出した。土の匂いと乾いた風が混じるこの地で、彼女の足取りは意外にも軽かった。
「おーい、前線の隊長さん、いるー?」
声をかけると、ひときわ姿勢の正しい男がすぐに顔を上げた。第二戦でも顔を合わせた、あの軽槍兵指揮官だ。以前よりも少し表情が引き締まっているように見えた。
「茜殿……いえ、司令殿。ご視察、感謝いたします」
「そんな固くならなくていいって。っていうか、その盾……変わったよね?」
茜は、兵士たちの装備に目を走らせた。以前は木製に皮を巻いただけの簡素な丸盾だったものが、今は縁に金属の補強が入り、表面には青銅の装飾がかすかに光っていた。
「はい。装備の改修がなされ、耐久性と重量のバランスが大きく改善されました。槍も、刃が鋭く、貫通力が増しています」
「……見た目も強そうになってるし、いいねこれ」
その一言に、指揮官の口元がわずかにほころんだ。
「我々の訓練練度も上がりました。他の部隊と比べ、統制の面で優位性があります。どうかご安心を。必ず、敵を撃破してみせます」
その言葉に、茜の胸の内に、静かに熱いものが湧いた。
「……うん、頼りにしてる」
笑顔を返しながら彼女は、指先で彼の肩を軽く叩いてから、戦車部隊の方へと目をやった。戦場右背後——土煙の向こうに見えるのは、二頭立てのロバに引かれた二輪戦車、シュメール式の軽戦車だ。茜はそこにも歩みを進める。以前の戦いでは、木製の車体に乗った兵士たちの動きはぎこちなかった。しかし今、戦車の側板には新しい補強が施され、車輪の軸もより頑丈に組まれているのが見て取れた。乗員の姿勢や槍の構えにも迷いがない。
「……こっちも仕上がってる」
視線を交わした戦車隊の投槍兵が、軽く槍を掲げて敬意を示す。茜はうなずいて応えた。準備は整っている。武装も、練度も、心も。
——この戦いで、勝つために。
戦車部隊と前衛の視察を終えた茜は、軽い砂ぼこりを払いつつ、司令部の天幕へと戻ってきた。布地で囲まれた簡素な指令席の中央には、光の戦況盤が再び展開されており、その周囲には静かにリュシアとユカナが立っていた。リュシアが茜の姿を認めると、待っていたように手元の操作を始める。
「ちょうど戻られたところで助かりました。敵味方の配置、戦況盤に反映済みです。ご確認を」
淡い青と赤の光が地形図の上に浮かび上がり、それぞれの部隊配置が立体的に表示された。
「敵陣について、要点をまとめます」
リュシアは迷いなく指差しながら、落ち着いた声で語り始めた。
「前衛には、こん棒戦士が七部隊。以前よりも広範囲に展開しており、中央突破だけでなく側面圧力も警戒が必要です」
盤面の赤い点が扇状に広がるように配置されている。茜が腕を組みながら頷いた。
「……あえて間隔を開けてきたってことは、押し潰しより包囲狙い、かもね」
「その可能性もあります。中衛には魂送りが一部隊、炎の担い手が一部隊。いずれも士気干渉および視界妨害を目的としています」
「前回もやっかいだったけど……今回も、焚き火と太鼓でやってくるのね」
リュシアが軽く目を細める。
「後衛には狩人二部隊。地形上の高所に布陣しており、我が軍後方への間接攻撃が想定されます。地味に削られる展開は避けたいところです」
戦況盤には、丘のような構造物の上に赤い狙撃アイコンが点滅している。
「最後方には……敵指揮官ユニット、グロガン。そしてその随伴として、精鋭こん棒戦士一部隊。通常のこん棒兵より練度・装備ともに上位にあります」
「うわ、出た。ボス枠」
茜が思わず苦笑すると、リュシアは無表情のまま補足を加える。
「鼓舞によって常時士気上昇効果を発揮し、かつ撤退寸前の部隊を強制再行動させる特殊能力を持っています。厳密には……私と同種の“指揮官補正型ユニット”と分類できます」
「でも、“私ほど優秀じゃない”んでしょ?」
「ええ。あくまで、鼓舞と感情操作に偏ったタイプです」
淡々と答えたその姿に、ユカナがぽそりと呟く。
「……リシュア、そこだけは絶対に譲らないよね」
リュシアは反応せず、今度は自軍の配置を指し示した。
「我が軍の前衛は、軽槍兵五部隊。中央に配置された一部隊は、武装度・練度ともにC。槍も盾も青銅補強済み。前戦の主力となります」
「うん。さっき見てきたけど、あの子たち、頼れるよ」
「その左右、二部隊は武装度・練度ともにD。機動性と統制に差はありませんが、耐久力はやや劣ります。運用時には集中攻撃に晒されぬようご注意ください」
茜はうなずきながら盤面を見つめた。自らの判断で強化した分、戦術的な配慮も必要だと改めて実感する。
「左右の端にある二部隊は?」
「そこは標準装備のEランクのままです。今回は壁役として前面を保持させる予定ですが、崩れた場合の後詰を用意しておく必要があります」
「了解。で、後方は?」
「左右後方に投槍兵を一部隊ずつ。中距離火力として前線を援護。中央後方には神官戦士一部隊。鼓舞と局所的な士気安定、そしていざという時の後詰を担当します」
「さすがに、慣れてきたねこの布陣。……あ、で、忘れちゃいけないのが——」
茜は笑いながら、右背後に配置された青い戦車アイコンを指差した。
「“ゴロゴロ部隊”ね」
「はい。シュメール戦車二部隊。敵前線を迂回しつつ旋回突撃を予定。目的はグロガンの居る本隊への集中打撃。成功すれば、敵全体の士気が一気に崩れます」
「つまり、出しどころが勝負の分かれ目ってことね」
リュシアは無言でうなずき、戦況盤の光を少しだけ明るくした。茜は盤面をじっと見つめる。整った布陣、的確な補強、そして最初の一撃の重さ。すべてはこの戦いのために積み重ねてきた。
「よし、ここが勝負。あたしたちの、最後のチュートリアル」
空気が変わった。
集落の背後、高台に立つ大男が、胸を反らし、大声をあげる。
「おまえらぁあああ! 今日が終わりの日だと思って吠えろぉぉぉぉ!!」
それは、鼓膜を破るような咆哮だった。茜の戦況盤に、敵全体の士気ラインが急激に跳ね上がる。グロガンが開幕から《咆哮の鼓舞》を発動したのだ。
「……うわ、なんか、士気ゲージ真っ赤なんだけど」
茜が思わず呟くと、リュシアが即座に分析を返す。
「鼓舞範囲、全軍に影響。士気+10。高確率で士気崩壊耐性も一時的に増加。初動の速度が上がります」
「つまり、テンションMAXで突っ込んでくるってことね」
茜がそう言い終える前に、敵の前衛——七つのこん棒戦士部隊が、雄叫びを上げながら一斉に地を蹴った。
「突撃開始! 特に中央、二部隊が先行しています!」
リュシアの報告と同時に、茜は素早く戦況盤を操作する。
「投槍、撃て!」
左右の高台から、茜軍の投槍兵たちが一斉に槍を投げ放った。鋭い風切り音が響き、飛翔した槍は、真っ直ぐに敵の正面二部隊へと突き刺さる。命中。槍が肉を裂き、兵が倒れ、隊列が乱れた。
「命中確認、第一波成功。敵2部隊、半壊。士気動揺、発生中」
「やった! ……でも、まだ来る!」
残るこん棒戦士たちは怯むことなく突き進んでくる。グロガンの鼓舞の効果が、彼らの恐怖をねじ伏せていた。
「軽槍兵、迎撃陣形! 受け止めなさい!」
リュシアの号令に合わせて、軽槍兵たちが一斉に盾を構え、低く姿勢を落とす。正面に配置されたCランク部隊を中心に、堅い防衛線が形成される。間もなく、敵の突撃がぶつかった。地響きとともに、こん棒が盾に叩きつけられ、火花が散る。軽槍兵たちは必死に踏みとどまり、反撃の槍を突き出した。だがその最中、集落奥から不気味な太鼓の音が響き渡る。魂送りが、土の太鼓を鳴らしているのだ。
「鼓動干渉、開始……士気に影響あり。味方前衛にわずかに動揺が広がっています」
「くっ……!」
そこへさらに、視界の端が赤く染まった。炎の担い手が火壺を投げ入れ、乾いた草と木片に火が広がる。煙が立ちこめ、前線の視界が揺らぐ。
「視界妨害確認。投槍兵と左翼槍部隊の命中率が低下中!」
「……ここまでは想定通り。落ち着いて対処すれば問題ない」
茜が戦況盤に視線を走らせる。
「そろそろ、ゴロゴロ部隊の出番だね……!」
煙が地面を這い、太鼓の鼓動が空気を重くする中、戦況盤の右端に配置された青いマーカーが、ゆっくりと点滅を始めた。リュシアがその点を指でなぞりながら、静かに告げる。
「シュメール戦車、戦場を迂回して、敵後方の本陣に突入させます」
茜がすぐさま頷いた。
「よし、じゃあ——いよいよ出番ね、ゴロゴロ部隊!」
リュシアは視線を戦況盤から外し、わずかに目を細める。
「ただし、戦車部隊は機動の都合上、この突撃命令以降は私の指揮範囲を外れます。以後の判断は、現地の部隊長に委任せざるを得ません」
「うん、わかってる。……でも敵本営までちゃんと突っ込んでくれれば、あとは大丈夫。やっちゃって!」
その言葉に、リュシアは短く「了解」とだけ返すと、手元の指令端末に軽く触れた。
瞬間——
戦場の右背後、わずかな丘の陰から、轟音が立ち上がった。
ゴロゴロ、ゴロゴロゴトン!
土煙を巻き上げながら、シュメール戦車が次々と姿を現す。木製の二輪車をロバが引き、前には御者、後方には槍を構えた兵士。青銅の槍が太陽の光を反射してきらめき、その数、五十台、さらに五十台——合計百台が、一糸乱れぬ密集陣形で草原を駆けていた。
「……っ、な……なんだ、あれは……!?」
敵陣最後方。集落の指揮所付近に立つグロガンの表情が、一瞬で強張る。明らかに想定外の何かを見たときの顔だった。
「こ、これは……神の戦士か……!?」
彼の周囲に控えていた精鋭こん棒戦士たちも、思わず後ずさる。対戦車装備も、隊列を崩す手段もない彼らにとって、それはまさに“雷鳴の軍勢”だった。戦車の隊列は前衛交戦ラインを大きく外れ、広く旋回しながら敵本営の裏手に回り込む。草を薙ぎ払い、火の粉を巻き上げ、戦場を真横に貫くその突撃は、見る者すべての視線を奪っていた。
「突撃進路、最終補正完了。目標、グロガンの本営」
リュシアの報告に、茜が戦況盤を見つめながら満足そうに頷く。
「これで決まりね。……行け、ゴロゴロ部隊!」
戦況盤の光が一層強く輝き、突撃線が紅く伸びたその先——
ついに、百台のシュメール戦車が一斉に突撃を開始した。
「敵中枢へ向かわせます。突入開始!」
リュシアの声が冷静に響く。その言葉を合図に、戦況盤上の戦車アイコンが赤線を描いて敵本営へと収束していった。
次の瞬間——
戦車の轟音が空気を裂いた。百台のシュメール戦車が、広く旋回していた進路を一気に絞り、敵最後方——グロガンの本営へと雪崩れ込む。先頭の十数台が突入したその一撃で、精鋭こん棒戦士たちの防衛線は瞬時に崩壊した。
「ぐわっ……!!」
「な、なんだこれは……!」
密集陣形のまま突っ込んできた戦車群に、打撃を受けた兵士たちは為す術なく吹き飛び、土煙の中に沈んでいく。槍と車輪による波状の衝撃。木と鉄と肉体の衝突音が戦場を支配し、周囲は一時、叫びと混乱に包まれた。
「敵の精鋭部隊、壊乱状態! 死傷者、六十以上!」
リュシアの報告が響く中、茜は戦況盤の一点を凝視していた。そこに表示されているグロガンのマーカーが、わずかに明滅する。数秒後、表示された情報ウィンドウに、新たな状態異常が加わる。
「グロガン、負傷確認。鼓舞範囲縮小」
「っしゃあ!」
茜の拳が、自然と握られる。敵全軍に効果を与えていた鼓舞が、グロガンの負傷により一部範囲に限定されたのだ。戦車突撃による衝撃で、彼自身の動揺も始まっている。
「グロガンの指揮範囲が縮小したことで、前線の敵、混乱開始」
「このまま一気に押し込む!」
さらに、戦車の突撃に続いて、左右後方から投槍兵たちの第二波が放たれた。槍が放物線を描きながら中衛へと降り注ぎ、混乱に陥った敵の頭上を正確に射抜く。
「……っ、うあっ……!」
魂送りの部隊が一部隊、太鼓を持ったまま倒れ、音が途切れる。さらに、炎の担い手の一人が火壺を落とし、足元に火が燃え広がると、仲間たちが次々に後退を始めた。
「炎の担い手、退却開始。中衛、戦列崩壊」
「いい流れよ……このまま畳みかける!」
戦場は、崩れ始めていた。戦車の突撃により精鋭部隊は壊乱、グロガン自身も負傷して鼓舞の影響範囲が縮小した。戦況は明らかに茜軍優勢。だが、その瞬間——
「逃げるなーーッ!!」
地を揺らすような、怒声が戦場に響き渡った。倒れかけていた精鋭こん棒戦士たちの足が、次々と止まる。その目に宿った諦めが、わずかに火を取り戻していた。
「グロガンが緊急スキル《逃げるなーーッ!!》を発動。士気回復、行動再開!」
リュシアが冷静に報告する。
「うわ……あの叫び、鼓膜破れるかと思った……」
茜が顔をしかめながらも、戦況盤に集中する。確かに、死にかけていた精鋭部隊が、グロガンの鼓舞で踏みとどまり、わずかに隊列を整えた。槍傷を負った兵士たちが、苦しげに身体を支え合いながらも前へ進もうとしていた。グロガンはその中心で、血まみれの手を振り上げ、咆哮していた。
「逃げるな……まだ、終わっちゃいねぇ……!」
包囲網をこじ開けるように、彼らは一瞬の反撃を試みた。
——しかし。
「……あれ、また来てる……?」
茜の目が、盤面の右側に再び動き始めた青のラインを捉える。
「指示していませんが……戦車部隊が、自主判断で再突撃に入っています」
リュシアが驚きもせずに告げる。
「マジか……流石は練度C」
突撃再開。先ほど旋回していた戦車の一群が、すでにグロガン部隊の再結集を許さぬと判断したのだろう。もはや指示は不要だった。轟音が再び高まり、砕けた土と肉と甲冑の破片が宙を舞う。
「う、ぐっ……!」
戦車の車輪が兵士をなぎ倒し、投げられた短槍が肩口を貫く。精鋭部隊の残りは瞬く間に地に沈んでいく。
「……っ、撤退しろ! こいつは……もう……!」
茜の戦況盤に、赤の士気ゲージが断続的に点滅する。グロガンの陣営は、完全に崩壊していた。わずかに残った10人ほどの兵が、瀕死のグロガンを担ぎ、背を丸めるようにして戦場の裏手へと撤退していった。
「グロガン、重傷。戦列から離脱しました。精鋭部隊、実質壊滅です」
リュシアの報告に、茜が長く息を吐く。
「……よし。あとはこっちの番だね」
グロガンの撤退は、敵の象徴が崩れたことを意味していた。だが茜は、その場で安堵の息をつくようなことはしなかった。
「……ここで逃がすわけにはいかない」
戦況盤の奥、点滅し始めた赤の駒たちを見つめながら、彼女の声は低く、鋭くなっていた。
「集落にこもられたら面倒になる。少しでも、ここで削る!」
茜の指示とほぼ同時に、リュシアが手を動かす。
「軽槍兵、前進展開。投槍兵と合わせて追撃態勢に移行」
崩れかけた敵の中衛へ、槍の雨が降り注ぐ。火壺を構えようとしていた炎の担い手が槍に貫かれ、後退する間もなく地に倒れた。これで、敵の妨害能力は完全に失われる。
「炎の担い手、壊滅。中衛、全滅確認」
リュシアの報告に続き、前線では神官戦士が祝詞を唱え、槍兵たちの背を押すようにして声を上げていた。
「恐れるな、進め! この勝利の風を掴め!」
再び士気が上がった軽槍兵たちは、火の粉を蹴立てながら突進し、敵の残存前衛を強く押し返していく。
「こっちの子たち、ほんと頼れるようになったな……」
茜が少しだけ笑い、けれどすぐに目を細める。
「でも、油断しちゃだめ」
その警戒は正解だった。後方に残っていた狩人部隊が、屋根の上から矢を放ち、槍兵の一人が肩を射抜かれて膝をついた。
「……命中確認。軽槍兵一部隊に損耗発生」
しかし、茜が強化した高武装部隊がすぐに防衛を引き継ぎ、隊列の乱れを最小限に抑えた。一方その頃、戦場右後方では、リュシアの指揮範囲外に出たシュメール戦車隊が、自らの判断で次の目標を定めていた。精鋭こん棒戦士が壊滅したと判断した部隊長は、次に最も脅威となる高所の狩人へと狙いを変える。
「第2目標、確認。高台制圧に移行!」
戦車の群れが土煙を再び巻き上げながら、坂を駆け上がる。木製の建造物をなぎ倒し、射撃陣を形成していた狩人たちを蹴散らしていく。
「狩人、被害拡大。高台陣形、崩壊中!」
地上からの投槍、戦車の突撃、高所の崩壊——その三重奏に、ついに敵の士気が限界を超えた。魂送りの太鼓は止まり、狩人の矢筒は地に落ち、誰もが生き延びる道を探していた。
「敵一部、戦線離脱を開始。残敵が集落内部へ移動中」
リュシアの報告を受けて、茜は戦況盤を見据えながら、静かに呟いた。
「……よし。追い詰めた」
集落の門が、負傷兵と混乱した兵士たちによって次々と押し開かれる。グロガンを担いだ残りの兵が、必死に彼を守りながら、瓦礫の奥へと姿を消した。
「でも、これで終わりじゃない。あそこに立てこもられる前に……できるだけ、片付ける」
茜の目が、次の戦場——集落内部を見据えていた。