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85話 出陣、カデシュへ

ペル=ラムセスに戻ってから、茜たちは王宮の客間で穏やかな日々を過ごしていた。その空気を破ったのは、王宮に響き渡る号令だった。召集の声が城内を駆け抜ける。


「全将、直ちに軍議の間へ――陛下より御召し!」


茜は窓辺で足を止め、遠くから聞こえるその声に耳を傾けた。

「……来たね」


背後ではユカナが涼しい顔で葡萄をつまんでいる。


「いよいよ戦いってことだよね?茜、大丈夫?」

「カデシュの戦いに参加か…、まぁ今回は、史実通りになればいいから、大丈夫かな…」


やがて王宮の中庭に招集の声が響き、茜たちは軍議の間へと案内された。円形の広間の中央には地図台が据えられ、砂盤の上にナイル河とシリア方面の地形が刻まれている。周囲には鎧兜に身を固めた将軍たちが並び、その最奥にラムセス二世の姿があった。


「諸将、隣国アムルは我らに膝を屈した。次なる標的は……ヒッタイトの国境都市カデシュである!」


王の声は雷鳴のように響き渡る。続いて偵察隊長が進み出て、低頭しながら報告した。


「陛下、カデシュ周辺にヒッタイト王国の主力は見られず。駐屯兵も少数と推測されます」


将軍のひとりが慎重に口を開く。


「それならば二個軍で十分では?」


だが王は即座に首を振った。


「ヒッタイトを侮ることは許されぬ。第一軍アメン、第二軍ラー、第三軍プタハ、第四軍セト――四個軍、総勢二万を投入する!」


広間がざわめく。だが王の鶴の一声に反論は許されない。将軍たちは顔を見合わせ、無言で頷いた。


その時、王の視線が茜へと向けられた。

「諸将に紹介しよう。我が軍に加わる古の神――アカーネである。アメン大神官もその降臨を証する」


アメン大神官が恭しく頭を垂れる。

「神は我らを見捨て給わず、この地に立たれたのです」


将軍たちの目が一斉に茜へと向く。半信半疑、いやほとんど懐疑の色だ。


「……えっと、古き神って紹介されると、なんか年齢詐称みたいで嫌なんだけど」


茜がぼそっと呟くと、隣のリュシアが小声で窘めた。


「ここは黙って微笑むところです」


しかし将軍たちは大神官の態度と王の言葉に、あえて疑義を挟む危険を避けたようだった。


「……陛下のお考えに従いましょう」


短くそう答えると、彼らは視線を地図へ戻す。茜はそのやり取りを見て、胸の内で小さく息を吐いた。


地図の上で四つの軍旗が並び、ナイルを北上してシリア方面へ伸びる進路が示される。茜はその配置を見て、胸の奥がざわついた。史実のカデシュの戦いの経緯を思い出す――あの戦いは、エジプト側の偵察のミスで、ヒッタイト主力約40000を相手に、エジプト新王国が四個軍20000で戦ったはず。そして、結果的に引き分けるも、ラムセス2世はかなり厳しい状況に追い込まれた筈。


意を決して、彼女は控えめに口を開く。


「偵察はしてるって言ってたけど……本当に全部、十分に出来てる? 四個軍の投入は正しいと思う。でも、もしヒッタイト軍の主力が出てきていたら、この戦力でも相当厳しい戦いになると思うんだけど」


広間の視線が茜に集まる。ラムセス二世は短く唸り、そしてゆったりと頷いた。


「そなたは慎重なのだな。――いや、その慎重さこそが、そなたを戦上手と呼ばしめているのかもしれぬな。たしかに、不備はあるかもしれぬ。だが、我が精鋭の四個軍を、予自らが率いるのだ。たとえヒッタイト主力が出てきていたとしても、問題あるまい」


茜は口を噤み、わずかに肩を竦めた。


「それならいいけど……それでも油断は禁物よ」


将軍たちの間に、わずかな苦笑が走る。多くは「四個軍でも多すぎる」と思っており、偵察に抜けがあるとは考えていない。だが、その中でただ一人、第三軍プタハの司令――ネブアメン・パトラー将軍の表情は違った。深く刻まれた皺の奥の眼光が、真剣に茜を見据えている。


「王、確かにこれだけの軍が動く以上、わが軍の勝利は約束されましょう。しかし、より確実に勝つためには敵を知ることが肝要。アカーネ様の進言には一定の理がございます。ここは何卒、計画の修正を」


ラムセス二世は目を細め、長年父王セティ一世の時代から軍を支えてきた老将を見やった。軽んじることはできない。


「……老将軍がそこまで言うのであれば、こうしよう。わが軍はカデシュ南方のシャブツナに集結し、そこから改めてカデシュ周辺に偵察を放つ。そして、その結果を見て方針を決める。これなら問題あるまい」


パトラー将軍は胸に手を当て、深く頭を垂れた。


「王のご英断、誠にもって最善と存じます」


その場の空気がわずかに和らぐ中、茜は心の中で小さく安堵の息を吐いた。軍議の終わりが見えた頃、ラムセス二世が唐突に口を開いた。


「――パトラー将軍」


第三軍プタハの老将が、ゆったりと姿勢を正す。


「はっ」

「将軍の第三軍は、此度の戦いにおいて重要な役割を担うことになろう。そこでだ……将軍の第三軍にアカーネを同行させたい」


広間がわずかにざわつく。


「アカーネは、自らの軍を率いると予に申し出ている。アカーネの軍と将軍の軍を合わせ、第三軍とする。将軍、頼むぞ」


パトラーは一瞬だけ黙考し、すぐに深く頷いた。


「御意。陛下のお命、承ります」


茜は心の中で、くすりと笑う。


(……やっかい者はひとまとめに、ってことね。でも結果的には悪くないかも。第一軍アメンは王が直率で絶対に気疲れするし、第二軍ラーはヒッタイトの大戦車部隊の突撃を側面から受けるはずで地獄。第四軍セトは後方で動きづらいし……うん、第三軍は当たりかも)


こうして茜率いる部隊は、第三軍プタハに編入されることが正式に決まった。パトラー将軍も異論なく受け入れ、各軍は出陣準備を本格化させる。ラムセス二世は軍議を締めくくり、命を下した。


「数日後、第一軍から第四軍まで、ペル=ラムセスを発ち、カデシュ南方シャブツナに集結せよ!」


「はっ!」と揃って返す将軍たち。いよいよ大戦に向けて、時代が動き出す。


会議が終わり、将軍たちが退室していく中、ラムセス二世は茜を呼び止めた。


「――アカーネ、少し残れ」


茜が首を傾げながら近づくと、王は穏やかな笑みを浮かべた。


「先日、王妃が世話になったようだな。そなたとベル=ラムセスの町を楽しんだと予に言っておった。それに、そなたの機転で国民が予だけでなく妃にも感謝を示したそうではないか。しかも、その際そなたが自ら銀を出したとか……これは、その返礼だ」


そう言って、王は黄金色の小箱を開けた。中には秤量金十デベン――およそ九百十グラム分の金塊が収まっている。


「いや……さすがに、これはもらいすぎじゃない?」


茜が眉をひそめると、ラムセス二世は威厳を湛えて言った。


「予はファラオなのだ。神であるそなたが妃に厚意を示してくれたのだから、ファラオである予は、それ以上の感謝を返さねばならん」


茜はしばし見つめ、やがて笑みを浮かべて受け取った。


「……そういうことなら、ありがたくもらっておくよ。それと、また暇になったら王妃を連れて遊びに行くからね」

「衛兵隊長をあまり困らせない程度に頼むぞ」

「まぁ、適度に配慮するわ」


軽口を交わして部屋を出る茜の足取りは、上機嫌に弾んでいた。


茜は第三軍プタハの司令、ネブアメン・パトラー将軍と早めに話をしておくべきだと考えていた。もっとも、向こうも同じ気持ちらしい。伝令を介して話を持ちかけると、間もなく将軍自らが茜の宮殿内の居室を訪ねてきた。部屋には茜の仲間たちがいたが、パトラーは簡単な挨拶だけを交わすと、机を挟んで茜と向かい合った。


「アカーネ様。あなたが本物の神であることは、軍議前にアメン大神官から伺っております。王はまだお若いゆえ、面子を大事にされます。おそらく色々と失礼があったかと存じますが……どうかお許しください」


茜は軽く肩をすくめた。


「それならネフェルタリ王妃からも聞いてるから大丈夫。私は気にしてないよ」

 

その言葉に、将軍の表情からわずかな緊張が抜けた。しばし沈黙の後、パトラーは真正面から尋ねてきた。


「先ほどの軍議で、アカーネ様はヒッタイトの主力が現れる可能性をお示しになった。やはり出てくるとお考えですか?」


「出てくると思う。この時代のヒッタイトは、アッシリア方面、エジプト方面、アカイア方面と三正面作戦を取っているはず。そして今回の目標カデシュは、エジプト方面とアッシリア方面の両方に対して重要な都市。ヒッタイトが主力を動かす理由は十分にある」


将軍は頷き、低く呟いた。


「やはり……。そうなると、今回の遠征はギリギリの戦いになるやもしれませんな」

「主力が来たとしても、戦い方を間違えなければ――というか、王が油断さえしなければ、負けることはないと思うよ。四個軍が全部出るんだから」


パトラーは薄く笑みを浮かべた。


「しかし、アカーネ様はそうならないのでは……とお考えなのですね」

「やっぱり分かっちゃう?」

「ええ。長く軍におりますゆえ、アカーネ様の表情を見れば察するものです」


茜はふっと笑い、声を落とす。


「なるほどね……それで将軍にひとつお願い。王の命令では私の軍は第三軍に編入ってことになってるけど、将軍の裁量で独立部隊として自由に動けるようにしてもらえない?悪いようにはしないから」


「これは……なんとも。しかし、アカーネ様は古より多くの戦で勝利を重ねてきた神と、大神官から聞いております。その神が敢えて自由裁量権を求める以上、私としては受けざるを得ませんな」


「ありがとう、将軍。それと、おそらく第三軍は重要な役割を担うことになると思う。いざという時は、決断よろしくね」


「承知しました、アカーネ様。……しかし、こうしてお顔を見ていると、此度は面白い戦になりそうですな。老骨ながら、全力を尽くさせてもらいます。それに……一度くらいは本物の神のもとで戦うのも悪くありますまい」


「それ、ラムセス二世の前で言ったら拙い発言だよね」


「それはそうですが、まだ王は若い。本物のファラオになるには、さらに経験を積む必要があるでしょう」


「……あなた、王に煙たがられてるよね?だから私の面倒まで押し付けられたんじゃない?」


「違いありませんな。しかし、そのおかげで私は神のもとで戦える。悪くはないかと」


互いに笑みを交わす二人。その瞬間、第三軍に新たな信頼の糸が結ばれた。


****


数日後――。


ペル=ラムセスの大通りは、早朝から熱気に包まれていた。道の両脇には市民が溢れ、色鮮やかな衣を纏った貴族や高官たちが並び立つ。王宮前の広場には、鎧兜に身を固めた将兵が整然と並び、出陣の刻を待っていた。王宮の階段から、ネフェルタリ王妃が静かに姿を現す。その後ろには重臣たちが控え、皆、厳かに兵たちを見つめている。


やがて、黄金に輝く戦車がゆっくりと進み出た。車上には、煌びやかな甲冑を身に纏ったラムセス二世が立ち、太陽の光を背に堂々と視線を送る。彼は片手を高く掲げ、その声を張り上げた。


「これより、我らはヒッタイト王国の国境都市カデシュを攻略する!この勝利を、偉大なるエジプトの神々へと捧げよ!」


その一声に、沿道の市民から万雷の歓声が上がる。槍を掲げる兵士たちの鎧が一斉にきらめき、軍旗が風にはためいた。


挿絵(By みてみん)


ラムセス二世は、掲げた手を力強く振り下ろす。


「――出陣!」


鬨の声が地鳴りのように響き渡り、四個軍の進軍が始まった。第一軍アメン、第二軍ラー、第三軍プタハ、第四軍セト――総勢二万の大軍が、王都を後にしてゆっくりと北へ向かう。茜は第三軍の隊列の中から、その壮大な光景を見やり、思わず息を吐いた。


(これが、エジプトの総力……確かに、神話に残ってもおかしくない規模だね)


軍は歓声と太鼓のリズムに包まれながら、カデシュ南方のシャブツナを目指し、進軍を開始した。


第三軍プタハの出陣列の中でも、ひときわ目を引く一団があった。茜が率いる部隊――重厚な盾と長槍を構えたポプリタイ、銀の胸甲と煌めく槍先を持つヘタイロイ、機敏な馬上から投槍を構えるタランティン騎兵。その全てが整然と並び、わずかな動きにも統制の取れた精鋭ぶりを見せつけている。


軍装は明らかにエジプト軍の常識を超え、武具の光沢も形状も異質だ。沿道から送られる歓声は、第三軍の中でも彼らに向けられるものがひときわ大きく、視線が一斉に集まる。茜自身も、ひときわ目立っていた。ヒッタイトのピヤッシリ副王から贈られた神の装束――風を象った刺繍と宝飾が施された衣を身にまとい、金製の太陽円盤のぺクトラルが陽光を浴びて輝きを放っている。その姿は、まるで戦場に降り立つ女神のようだった。


戦車からその光景を見ていたパトラー将軍は、ふと口の端を上げた。


(……この軍が味方で良かった)


その正体が人のものではないと、直感が告げていた。だが同時に、これほど頼もしい存在が近くにいることが、将軍としての心強さを倍増させる。第三軍の兵士たちもまた、茜の部隊の異様な精強さを目にし、胸を張った。


「俺たちは、この軍と肩を並べて戦うんだ」


その誇らしげな声が列のあちこちで囁かれ、士気はさらに高まっていく。リュシアが茜の横に並び、冷静な声を掛けた。


「この時代にポプリタイやヘタイロイがこれだけ揃っていると、たしかに壮観ですね。主の派手な恰好もそうですが……これは歴史に残りそうですね」

「残らなくていいんだけどなぁ……」茜は眉をひそめる。


ガルナードが胸を張って言う。


「これだけのポプリタイを使えるのであれば、主殿の前線はまず安泰です。お任せください」


続けてアルタイも馬上から笑みを見せた。


「俺も、これだけのヘタイロイやタランティン軽騎兵がいれば、ヒッタイトの戦車相手に絶対負けないぜ」


茜は苦笑し、空を仰ぐ。


「あんまり派手に歴史に残らない方がいいんだけどね……これ以上胃が痛くなるのは勘弁して欲しいわ。でも……どうせ、エンへドゥアンナが派手に書き記しそうだし……うへぇぇ」


すると、背後から澄んだ声が飛んだ。


「お任せください。この時代でも、きちんと神話として茜の行動を全力で記録するつもりですから」

「だから、今回は頼んでないって!」茜が即座に突っ込む。


ユカナはくすくす笑いながら言った。


「とはいえ、もう茜は完全に神様扱いだから、信仰獲得のためにも頑張らないとね。それに茜の信仰が増えれば、私たちの信仰も自動的に増えそうだし」


ミラナも負けじと拳を握る。


「この時代もボーナスステージにするために、私も全力で頑張らないと!」


茜はじとっとした目でミラナを見やり、指を突きつけた。


「あんたたちにも絶対働いてもらうけど、そこの残念神はこれ以上余計なことしないでね」


その言葉に、仲間たちの間で笑いが広がる。第三軍の列の中に、戦場へ向かう緊張感と同時に、確かな絆と士気の高さが漂っていた。こうして、茜の軍を含むエジプト新王国軍は、カデシュ南方のシャブツナへと向かっていった。

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