84話 ベル=ラムセスの休日
ナイルの悠久の流れに乗って、黄金に彩られた巨大な王家の船が、ゆったりと進んでいた。その船はまるで移動する宮殿――黄金の蓮文がきらめく帆柱、壮麗な列柱に囲まれた神殿のような甲板、そして内部には王族のための寝室や応接室、政務室まで備えられているという、まさに古代エジプトの威光を象徴する浮かぶ神殿であった。
甲板に立った茜は、その光景に目を輝かせながら思わず声を上げた。
「やっば……これぞ古代のクルージングじゃん……!」
装飾された柱を撫で、河岸の景色を見てはしゃぐ茜の姿は、あまりにも現代的で、周囲の神官や従者たちが目を丸くするのも無理はなかった。
「……主。神として降臨なさった今、そのように地を出すのは……少々はしたないかと」
すぐ隣で静かにたしなめる声がした。茜の片腕、リュシアである。
「えっ、だってさ、こんな時代の王族の船に乗れるなんて、テンション上がらない方がおかしいでしょ?」
「それは分かりますけれども……」
リュシアはため息をつき、少しだけ距離を取る。その仕草に、茜は苦笑を浮かべた。
「まぁまぁ、今日は堅いこと抜きでさ」
茜がそう言って笑ったとき、ちょうど後方から優雅な足音が響いた。黄金のスカラベの意匠が施された長衣、顔には穏やかな笑みを浮かべた美しい女性――ラムセス2世の正妃、ネフェルタリ王妃が姿を現したのだった。
「アカーネ様。ご機嫌麗しゅうございます」
その丁寧な挨拶に、茜は顔をほころばせる。
「あ、王妃様。こっちこそよろしくね。ラムセス王は忙しいみたいだから、王妃様が相手してくれるって聞いて嬉しかったよ」
「はい。夫には政務が山積しておりますので、よろしければ僭越ながら、私がご案内やお世話を務めさせていただきます」
「うん、ありがと! じゃあまずは、船の中をぐるっと……」
そのまま茜は、王妃を引き連れるように歩き出しそうになり――
「主。威厳……」
「大丈夫だって、リュシア」
再びリュシアの低声に押されて小声で謝りつつも、茜の足取りは軽い。ネフェルタリ王妃もそんな茜を見て、思わず微笑を浮かべる。
「……アカーネ様のご様子を拝見していると、本当に“神”というより、親しみやすい“お方”だと感じてしまいます。私はそれが、すごく……嬉しいです」
「え? うーん……まぁ、神っていうより“ちょっと変な旅人”くらいで思ってくれたらちょうどいいかな?」
「ふふ……それでは、今後もその“旅人”のようなお心で、どうぞ私にいろいろな時代のお話を聞かせてくださいね」
「あはは、もちろん。でもそういうのは、もっと得意な人が居るからさ。今度紹介するから、楽しみにしてて」
こうして、神と王妃という立場を越えた、ささやかな友情の種が芽吹いた。
****
ナイルに強い日差しが注ぐ頃。ネフェルタリ王妃の私室には、上品な香木の薫りが満ちていた。その中央、彩色が美しい木製の盤上には、黒と白の駒が並べられ、茜と王妃は向かい合っていた。
「……これが、本物のセネトだ……!」
感嘆の声を漏らしながら、茜はサイコロ代わりの投げ棒を手にし、勢いよく転がす。が、出たのはまたしても微妙な目だった。
「ぐぬぬぬぬ……絶対この棒、私のこと嫌ってるよ……」
ネフェルタリはその様子を見て、口元を押さえて笑った。
「ふふ……アカーネ様――いえ、茜と一緒にいると、本当に楽しいです」
「こっちこそ、ネフェルタリがいてくれて助かってるよ。セネトは想像よりガチだった」
茜が冗談めかして言うと、ネフェルタリは楽しげに首を傾げた。
「茜は、地上にしばしば降臨なさるのですか?」
「うーん、そんなに頻繁じゃないよ。前にいたのはシュメールの時代。そのあとヒッタイト、ミタンニ、アッシリア、バビロニアって感じで周ってたかな。今はこうしてエジプトにお邪魔してるわけ」
「まあ……なんと時を越える旅……ぜひ、古きシュメールの頃のお話を聞かせていただきたいです」
「んー、じゃあさ、私より上手く語ってくれる人がいるから呼ぶよ。――エンへドゥアンナー!」
しばしして扉が開き、巫女装束に身を包んだエンへドゥアンナが静かに現れた。優雅に一礼しつつ、茜の横へと進み出る。茜は軽く手をひらひらと振りながら、軽妙に紹介した。
「この人本当は、シュメールの王妃なのよ。まぁ、今は物好きで、私を神に仕立て上げて付き添ってくれてるって感じだけど」
(さぁて、どう出るかな)
エンへドゥアンナは一拍の間をおき、にこやかに応じた。
「まあ……“物好き”と申されましたか。アカーネ様から熱心にご依頼いただいた気もいたしますが」
(アッシリアの時は、神話を残してって、頼んできたのはあなたでしたけど)
「へえ?お願いしたのは、せいぜい一回だけだったような気がするんだけどね。」
(それはアッシリアの時だけで、あとは神話っぽくするなって、いつも言ってるじゃん)
「そうでしたか?ですが、結果的には良い方向に行っていると思いますが」
(その神話のおかげで、こうやってこの時代でも楽しんでいられてますよね?)
「たしかに、あんたがいなきゃ、私は風の神なんかになれてなかったからねぇ」
(やり過ぎよ)
「それは光栄です。けれど、祭り上げた神様がこれほど俗っぽいとは……少し想定外でしたが」
(神のくせに金銭欲で一杯というのは、いかがなものかと)
「ひどいなぁ。でも神って案外そういうもんよ? ねぇ、王妃様?」
ネフェルタリはその場の空気に少し気圧されながらも、笑みを崩さずに頷いた。
「え、ええ……とても……お二人は親しいご様子ですね……」
(な、なんだろう……この優雅で柔らかな刺し合いは……!)
茜とエンへドゥアンナが交わす、言葉の裏に張り巡らされた糸――そこには、長年連れ添った者同士にしかできない皮肉と愛嬌の交差があった。
「まぁでも、エンへドゥアンナのような毒舌王妃に語ってもらうには、ぴったりの舞台でしょ」
「光栄ですわ。ネフェルタリ王妃に、風の神アカーネ様の“神話”をお聞かせできるとは」
(絶好の舞台をいただきました。全力で盛って参ります)
ネフェルタリは、わずかに緊張を浮かべつつも、優雅に頷いた。
「ぜひ、聞かせてください。私、アカーネ様の歩まれた物語を、心から知りたいのです」
エンへドゥアンナは満足げに微笑み、やがて一礼した。
「それでは……しばしお待ちくださいませ。語りに相応しい“道具”を整えてまいります」。
ネフェルタリ王妃の願いに応えるべく、エンへドゥアンナは意気揚々と立ち上がり、そのまま自室へと戻った。そして――。
「ミラナ様、お願いがあります。至急、竪琴を!」
「来たわねっ!」
ミラナは何かを察して満面の笑みを浮かべると、自らの神力5を使って、一張の竪琴を取り出す。その形は、古のシュメール王国の伝統を受け継ぐ、神話の語り部のための竪琴
「ここがあなたの勝負所よ! この竪琴を使って、あなたの神話を披露すれば――アカーネの神格は爆上げ間違いなし! ついでに私の信仰ポイントもガチで稼げるってもんよ!」
「ありがとうございます。ミラナ様のご加護、確かに受け取りました。……これは私にとっても、魂を捧げる一夜になるでしょう」
そのやり取りを端で聞いていたユカナは、小さくため息をついて肩をすくめる。
「ミラナさん、また余計な事を…。また茜に怒られるよ?」
****
ほどなくして王妃の部屋に戻ってきたエンへドゥアンナは、柔らかな手つきで竪琴を抱え、優美に一礼した。
「お待たせいたしました、王妃様」
ネフェルタリは目を見開いて感嘆の声を漏らす。
「まぁ……なんて美しい竪琴……」
「これは、かつてシュメールの神殿にて神話を奏でたもの。今宵、アカーネ様の物語を、心を込めて語らせていただきます」
「よろしくお願いします、エンへドゥアンナ様」
茜はというと、その光景を横目に思わず顔をしかめていた。
(あああ、わざわざ竪琴を持ってきたってことは……やる気満々じゃん。嫌な予感しかしないんだけど)
そして予感は、的中した。竪琴の調べが静かに響き、物語は語られはじめる――
アラッタの戦役。
天を裂く嵐の中、雷と共に現れた風の神アカーネ。神々の座より舞い降りたその姿は、光のごとくまばゆく、アラッタの軍勢に立ちはだかった。
「アカーネ様は、アラッタ王国が召喚した“上位神”にすら臆せず――風の指揮棒を天に掲げ、一声、風の神名を唱えたのです!」
バァン!と竪琴の音が鳴り響く。その瞬間、エンへドゥアンナは全身で雷撃を再現するかのように竪琴を強くかき鳴らし、情熱的に叫んだ。
「その一閃、天を裂き、神を討ち! 敵軍を鎮めたのです!」
その場で聞いていた茜は、青ざめた表情で必死にジェスチャーを送る。
(待て待て待て!そこは盛りすぎ!!やめろって!!)
が――。
エンへドゥアンナは一切止まらない。むしろ、さらなる盛り上がりを見せて、声に力をこめる。
「そしてその日、風はすべての者に告げたのです。“我が名はアカーネ。嵐とともにあり、地を統べる風の化身なり!”――」
「や、やめてえええええええええええええええええええええええええええ……っ!!」
****
長き語りの終わり。竪琴の最後の旋律が余韻となって部屋を包む中、エンへドゥアンナは深く頭を下げた。
「以上、風の神アカーネの神話……この命にかえても、語り継ぎたい物語でございます」
ネフェルタリ王妃は、すっかり聞き入っていた。その瞳には、ほんのり涙の輝きがある。
「……とても、素晴らしい神話でした。アカーネ様が、このような冒険をなされていたなんて……。――エンへドゥアンナ様、あなたとも、これから仲良くさせていただけたら嬉しいです。私たちは……立場こそ違えど、同じ“王妃”なのですから」
「……光栄の極みです。王妃様」
エンへドゥアンナは頷きながら、胸に手を当てて深く一礼した。一方、その様子を見ていた茜は、顔を手で覆いながらぼそりとつぶやく。
「……やばい、二人が意気投合してる……これ以上、私の神格が暴走しそうで怖いんだけど……」
****
そして――
船旅はそんな日々を経て、ベル=ラムセスの都へと到着する。
王宮にて出迎えを受けた茜たちは、個室を与えられ、しばしの滞在を許されることになる。その場でラムセス2世は茜に向かって告げた。
「アカーネよ。戦が始まるまでは、そなたもこの国を楽しむが良い。王妃と楽しげに過ごしていると聞いておる。――問題なければ、ネフェルタリの相手をしてやってくれ」
「了解。……って、私、神様なんだけど、王妃の専属遊び相手でいいの!?」
そうぼやく茜に、王は軽く笑みを見せた。
「それ以上の者はおらぬゆえ、任せたぞ」
(こっちは胃が痛いっての……)
それでも茜はどこか嬉しそうに微笑んだ。
滞在中のある昼下がり、王宮の庭園に面した涼やかな回廊で、ネフェルタリ王妃は茜のもとを訪れていた。
「茜。今日は王宮の広間で、ハープやシストラムの演奏会がございます。もしよろしければ、ご一緒に――」
王妃が柔らかに誘いかけると、茜は心底退屈そうな顔をした。
「んー……演奏会もいいけど、せっかく王都に居るんだし、町に出てみたくない?」
「町……ですか?」
不意を突かれたように王妃が瞬きをする。
「そう。ねえ、ネフェルタリ。王妃としてじゃなくて、普通の女性としてさ、町の空気を吸ってみたくない?」
茜の瞳は、いたずらっぽくも真剣だった。王妃は少し戸惑いながらも微笑み、「……それでは、護衛の手配を――」と口にしかけたところで、茜がぴしゃりと手を振って止めた。
「違う違う。そういうんじゃなくて、ちゃんと変装して、三人だけでこっそり抜け出すの。エンへドゥアンナも誘ってさ」
「……私達だけで、ですか?」
驚きに目を見開くネフェルタリに、茜はにっこりと笑ってみせる。
「大丈夫だって。私もいるし、エンへドゥアンナだって護身くらいできるでしょ? ほら、ちょっとスリルあるほうが旅って感じするじゃん?」
王妃はしばし考え込むように目を伏せたが、やがて観念したように小さく頷いた。
「……神であるあなたが同行してくださるなら、きっと大丈夫……かもしれません」
「そうそう、それでいいのよ!」
茜は満足そうに両手を打ち鳴らすと、早速王妃の侍女を呼びつけて、召使い用の簡素な服を三人分用意させた。
そして――。
その日の午後、王妃ネフェルタリ、茜、そしてシュメールの王妃にして語り部のエンへドゥアンナの三人は、それぞれシンプルなリネンの衣を身にまとい、布で髪を隠し、地味な履き物を履いていた。どこからどう見ても、王宮で働く若い侍女たちのようにしか見えない。
「さあ、準備は万端! じゃ、出発しよっか!」
茜が軽やかに笑うと、ネフェルタリは不安げに辺りを見回しながらも、足を一歩踏み出す。
「……このようなこと、本当に初めてですわ……」
「そりゃそうでしょ。王妃が護衛なしで町に出るなんて、前代未聞だもん。でも、これがきっといい思い出になるよ」
そう言って茜が肩をポンと叩くと、ネフェルタリの表情が少しだけほころんだ。エンへドゥアンナも、袖口を整えながらぼそりと呟く。
「なんだか……面白いことになりそうですね。歴史に残る散策かもしれません」
三人は堂々と、しかし誰にも注目されることなく王宮の門をすり抜け、太陽の輝くベル=ラムセスの町へと歩き出した。黄金の装飾も、神の威光も、王家の権威も纏わぬ姿で――ただ自由な足取りで。王宮を抜け出し、通りへ出た三人の前に広がるのは、古代エジプト最大の王都ベル=ラムセス。太陽に照らされた白い石造りの建物と、喧騒の広がる道々を見渡した茜は、思わず声を上げる。
「古代エジプト……本物の古代エジプトだ!」
その無邪気な歓声に、ネフェルタリ王妃は少し不安げに顔を向けた。
「護衛なしで出たのは初めてですが……本当に大丈夫でしょうか?」
「大丈夫大丈夫。王様がちゃんと国を治めてるなら、王都の治安は問題ないはずだよ。逆に治安が悪ければ……その責任、あなたも取らないといけないかもね?」
冗談めかした茜の声に、王妃は一瞬たじろぎながらも、まっすぐな瞳で答えた。
「……私は、王を信じます」
すると今度はエンへドゥアンナが、淡々とした口調で言葉を挟む。
「私はシュメールの王都ウンマを一人で歩くことができましたから、ナムル王の治世が安定していた……ということなのですね」
「うん。そういうこと」
茜が頷き、くるりと踵を返す。
「よし、それじゃあ――まずは市場でしょ!」
門番に市場の方角を尋ねると、三人の地味な装いから王宮の侍女と思ったのか、何の疑いもなく丁寧に道を教えてくれた。茜たちは笑顔で礼を言い、にぎやかな王都の大市場へと足を向ける。市場はまさに人の海。果物、パン、香料、布、装飾品、さらには占い師の屋台まで――所狭しと軒を連ね、活気が空気を震わせていた。
「やっぱり、この活気がいいんだよね。これぞ都市の活力ってやつでしょ!」
茜が目を輝かせながら言うと、ネフェルタリはその横顔を見て思う。この神は――本気で人の暮らす世界を、喜びとともに歩もうとしているのだと。そんな中、茜は市場の一角で、シュメールの時代にも親しんだ干しデーツの山を見つけると、目を輝かせて近寄った。
「あっ、これ! シュメールでも食べてたやつ!」
そう言いながら、腰のポーチからヒッタイト製の秤量銀を取り出し、商人に差し出す。しかし銀を受け取った商人は、じっとそれを見つめて眉をひそめた。
「姉さん、これはヒッタイトの銀じゃねえか。重さが違うんだよ」
「やっぱりそう来るか……」
そう返しながら、茜は内心で換算を始める。次の瞬間、商人がぽつりと呟いた。
「ヒッタイトの1シュケルが、ここの1.25キテってとこだな」
「なるほど、ってことは……」
(ヒッタイトの1シュケルが11.4gだから、ここの1キテは大体9.1gってとこか)
茜はそう頭の中で計算を済ませると、重さを見極めて調整した銀片を数枚出し直した。
「じゃあ、これで干しデーツ一山、どう?」
商人はふっと目を細め、その銀片の表面に刻まれた王印――半世紀以上前のヒッタイト王であるスッピルリウマ王の印章に気づく。これはただの旅人が持てるようなものではない。だが、商人は表情を変えることなく、にやりと笑った。
「まいどあり。好きなのを選びな」
「ありがとー!」
茜は嬉しそうに干しデーツを袋に詰め、王妃とエンへドゥアンナにもいくつか手渡す。
「はいこれ、お裾分け~。あ~、やっぱりこれこれ。この味が良いんだよねぇ」
「……素朴ですが、おいしいですね」
「ふふ、干し果実には神殿でもお世話になりますから、懐かしく感じます」
三人は笑顔を交わしながら頬張る。そんな様子を見ながら、商人は(どう見ても、ただの侍女や旅人じゃないな……)と確信する。王印入りの秤量銀に加え、その振る舞い――これは何かあったら大ごとになると思い、三人が屋台から立ち去ったのを見送ると、即座に市場の警護兵へと通報に向かった。
そんなことも露知らず、茜たちは次なる目的地――近くの酒場へと向かった。
「やっぱりさ、市場のあとは酒場でしょ!」
そう言って茜は堂々と酒場に入ると、カウンターの女主人に笑顔で1シュケル分の秤量銀を差し出した。
「これで三人分、適当に見繕って! お腹空いてるし、飲みたいし!」
1シュケルの重さは11.4g。それだけで相当な贅沢ができる。ほどなくして、テーブルにはデーツ酒の小杯が茜とネフェルタリの前に、パンビールの中杯がエンへドゥアンナの前に置かれ、干し魚の香草焼き、玉ねぎと青菜の炒め物、焼きデーツとナッツ、小ぶりのパンが次々と並んだ。
「これは……かなりの量ですね……」
「うひゃー、昼間からこれはやばい!」
茜たちが楽しそうに杯を傾けていると、次第に周囲の客たち――町の男たちが興味深そうに彼女たちを見始めた。
「お姉ちゃん達、景気良さそうだなぁ。どうしたんだ、こんな昼間っから?」
茜はその言葉にふふんと鼻を鳴らして言い返す。
「何よ! この国じゃあ、女が昼から酒飲んじゃいけないって規則でもあるの? まぁいいわ。今日はね、この私がこの都を楽しむ記念すべき一日なの! あんたたちにも少し奢ってあげる!」
そう言うと、茜は女主人に向き直って、ヒッタイト銀をなんと10シュケル分、どさっと置いた。
「これで、店にいる人全員に何か出してあげて!」
店の中が、一瞬で静まり返った。10シュケル――それはエジプトの秤量基準で、1デベン(91g)を優に超える114gの銀。目の前の見慣れぬ侍女風の女が置いた銀の価値に、誰もが言葉を失った。だが次の瞬間、店内は歓喜の渦に包まれる。
「姉ちゃん、神様かよ!」「ラムセス二世陛下万歳!」「エジプト王国に栄光あれ!」
茜は席を立ち、杯を掲げて叫ぶ。
「さあみんな、お酒行き渡った? じゃあいくよ――国王に、乾杯! エジプト王国とラムセス2世陛下に、乾杯!!」
「乾杯ーーーっ!!」
店内は割れんばかりの声で満たされ、酒が次々に注がれ、笑顔と歓声が響き渡った。ネフェルタリはその熱気に包まれながらも、心の奥で思う。この光景こそが、王が民に愛されている証なのだと。その傍らで、エンへドゥアンナは静かに杯を口にしつつ、そっと神への記録を綴っていた。
(風の神アカーネ、エジプトの王都に降臨し、王国の民に祝福を与えたり……ですね。)
市場の喧噪と昼間からの酒盛りの異様な盛り上がりが、ついに衛兵たちの耳に届いた。市場の一角の露店からの通報と、あまりにも目立つ騒ぎに、衛兵隊は数人で急行し、騒ぎの中心となっていた酒場の戸を勢いよく押し開けた。
「静まれ!」
一喝するような声と共に、武装した衛兵たちが酒場の中に踏み入った瞬間、それまで陽気に盛り上がっていた群衆の空気がピタリと凍りつく。酒場の女主人が戸口の脇で驚いた顔をして固まり、数人の男たちは半ば酔いも覚めたような表情で身をすくめた。
だが、その中心にいた茜たちは、まるで何事もないかのように席に座ったまま、干し魚を摘んでいた。
衛兵隊長は周囲の群衆をざっと一瞥したあと、すぐに店の奥に座る三人に視線を向ける。――そして、次の瞬間、表情が青ざめた。
「っ……王妃様!?」
驚愕の声が、店内に響いた。ネフェルタリ王妃は椅子からすっと立ち上がると、やや気まずそうに、しかし威厳を失わぬ声で答える。
「……ええ、私です。すみません、今日は少し羽を伸ばしておりました」
「し、しかし……! 王妃様、おひとりで……いえ、護衛もなしに……っ、どうか、どうかお戻りくださいませ! このような場所は危のうございます!」
衛兵隊長は平伏し、頭を深々と垂れる。ほかの衛兵たちもそれに倣い、膝をついて王妃に敬意を示す。その様子を見て、騒いでいた群衆のあちこちから、驚きとざわめきが走る。
「えっ、あれ……王妃様だったのか!?」
「本物……だと?」
「じゃあ、今まで奢ってくれたのは……!」
瞬く間に真実が広がっていき、やがて誰かが叫んだ。
「ネフェルタリ王妃万歳!」
その声に続くように、次々と歓声が巻き起こる。
「王妃様、ありがとう!」
「ラムセス王に栄光あれ!」
「エジプト王国に栄光を――!」
歓喜と喝采が、まるで波のように店内を包み込む。人々は興奮と感謝の入り混じった笑顔で手を振り、盃を掲げ、膝をついて王妃を見送る準備を始めていた。ネフェルタリ王妃はその光景に、はじめこそ面食らったような表情を見せたが、すぐに微笑みを浮かべ、ゆっくりと手を掲げる。その手が振られると、さらに大きな歓声が沸き上がった。
「ネフェルタリ、すごい人気だね……」と、茜が少し呆れたように呟いた。
王妃はその声に応えるように振り返り、やわらかな笑みを茜に向けた。
「今日は本当に楽しかったです。……でも、どうやらここまでのようですね。」
三人は人々の歓声に背中を押されながら、静かに、けれど堂々と王宮へと戻っていった。その背に、賛歌のような拍手と喝采がいつまでも響いていた。
王宮へ戻った一行を出迎えたのは、どんな群衆よりも強大な威圧感を放つ一人の女性だった。
「――ネフェルタリ様」
その声に、王妃がぴたりと足を止める。低くも厳しい声。それは、王妃に幼い頃から仕え、教育を受け持ち、今なおその品位を支える存在――老女官だった。絹の衣装を纏ったその年老いた女性は、静かに、しかし一歩も退かぬ覚悟で三人の前に立ちはだかる。
「あなた様は、神の妃であると同時に、エジプト王国の模範でございます。いかなる理由があろうとも、護衛なしで町を徘徊するなど――あってはならぬこと」
ネフェルタリ王妃は、申し訳なさそうに視線を落としながら、しっかりと返す。
「……仰る通りです。軽率でした」
老女官は続けて、茜にも鋭い視線を向けた。
「そしてアカーネ様。貴女様は神にして来訪者。民の尊敬を集めるご存在でいらっしゃいます。そのような方が、昼間から民の中で酒盛りなど――お戯れが過ぎます」
茜は小さく苦笑しながらも、神としてではなく、一人の年長者に叱られた者として、素直に頭を下げる。
「すみません、つい調子に乗っちゃって……」
その一言に、横で肩を震わせる王妃。だが叱責の最中では笑うこともできず、必死に唇を噛んでいた。老女官は一拍置き、深いため息をついた。
「……どうか、今後は慎重になさってくださいませ。それでは、私はこれで」
そう言って背を向け、静かに去っていく老女官。その背中を見送りながら、三人は一斉に息を吐く。
「あの方、昔から全然変わりませんね……」
ネフェルタリ王妃が呟いた瞬間、茜はふっと笑った。
「でも、あれくらいの人がいないと、この王宮もまとまらないんだろうね。……いやぁ、でも怒られたなぁ……」
「私も、ちょっとだけ心が引き締まりました」
と、王妃が言ったあと、ぱっと表情を明るくして続けた。
「でも、今日は本当に楽しかったです。またぜひやりましょうね、茜」
その言葉に、茜は肩をすくめて苦笑いを浮かべる。
「今度はもうちょっと上手にやらないとね……バレないように、って意味で」
二人は顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。そのやり取りを少し離れたところから見ていたエンへドゥアンナは、ふむふむと頷きながら、懐から取り出した小さな板にそっと文字を刻む。
(風の神アカーネとエジプトの王妃、束の間の冒険を共にし、民の声に囲まれて帰還す。叱責を受けしその夜、互いに誓いを交わし、再び語らいの時を望む――)
こうして、古代エジプトの王宮に、小さな友情と神話の一幕が、また一つ刻まれていった。




