83話 カルナック神殿の邂逅と誓約
テーベの大地に、太陽神アメン=ラーの威光が燦然と降り注いでいた。ナイルの恵みに潤う都は、豊穣の緑と黄金の神殿が交錯する、まさに神と人の交わる場所――その中心、カルナック神殿は、香木と花の香りが漂い、砂に刻まれた神々の歴史が壁一面に語られていた。
神殿の奥、巨大な石柱に囲まれた至聖所にて、若きファラオ、ラムセス2世が深く膝を折る。まだ二十代――されど堂々と王冠を戴き、金の首飾りとスカラベの胸飾りに身を包んだその姿は、既に神の化身としての威厳に満ちていた。
彼の背後には、荘厳な装束を纏ったアメン大神官、エレガントな気品を放つネフェルタリ王妃、忠実な書記官、そして鋭い眼差しで王を見守る近衛兵達が控えている。
「アメン=ラーよ……予が歩む道が、国を繁栄へ導かんことを……」
王の声が神殿の静けさに溶けるその瞬間――突如として、祭壇が眩い光を放った。
「なっ……!?」
「陛下、下がってください!」
「神の御業か――あるいは、災か!?」
大神官が慌てて祈祷を中断し、護衛が剣の柄に手をかける。王妃はハッと息を飲み、近衛兵は即座に陣形を組むが、誰もがその異常な光の前に、ただ呆然と立ち尽くす。そして光が静かに鎮まったとき――そこに現れたのは、見目麗しき異国の神装束を纏った女性と、その随伴者たちであった。
白と青を基調とした豪奢な装束は、確かに神のように神々しく、威厳と気高さを兼ね備えていた。しかしそれは、この神殿を守護するアメン=ラーの象徴とは明らかに異質で――異国の“何か”であることを物語っていた。
「……な、何者だ……?」
ファラオ、ラムセス2世は声を出しかけるも、その場にただ立ち尽くす。目の前の存在は、祈りに応じて現れた“神”であるかのようでありながら、同時に予測も支配もできぬ“異端”であった。
一方、突然の祭壇転移を体験した茜は、光が収まると同時に、自らが立っている場所を確認した。目の前にいるのは、明らかに高貴な装いをした若き王。その後ろには大神官、王妃、近衛兵たち――そして、ここがカルナック神殿の至聖所であることを即座に察知する。
(……まさかの、真っ正面からの登場?)
茜の表情が、途端に険しくなる。ゆっくりと後ろを振り返ると――案の定、にこやかな顔で手を振っているミラナの姿があった。
「……残念神、またやらかしたわね」
言葉にはしないが、睨みつけるその視線に込められた想いは、ミラナにしっかりと届いていた。だが、当の上位神はどこ吹く風。肩をすくめるように、無責任な笑みを返してくる。
対するエジプト側は、王も大神官も、口を開けぬまま動けない。この場に現れた存在が神であるならば――それは“予定された神”ではないという、根源的な不安が心を支配していた。
そして茜もまた、気づいていた。ここに集まった人々の祈りは、本来、太陽神アメン=ラーに捧げられたものであると。にもかかわらず、今この場に立っているのはヒッタイト系の意匠を織り込んだ神装束の“風の神アカーネ”――歴史を知る者であれば、決して軽く扱えぬ名前。
「……これは、さすがにまずいわね」
沈黙が張り詰めるカルナック神殿の至聖所。神に祈りを捧げていた最中に、光と共に現れた異国風の神装束を纏う女神――その存在を、誰一人としてすぐに受け入れることはできなかった。しかし、周囲があまりに黙りこくっているせいで、このままでは空気が凍りついたまま終わってしまう。茜はひとつ深く息を吸い、思いきったように笑顔を作ると、堂々と口を開いた。
「……何か、呼ばれたような気がしたので、来たのですが。あなたが私を呼んだのですか?」
その口調はあくまでも静かに、だが確信めいた神々しさを含んだものだった。まるで本当に、神の世界から召喚されたように――見せかけるために。対する若きファラオ、ラムセス2世は一瞬目を見開いたが、すぐに背筋を正し、ゆっくりと茜の問いかけに答える。
「……そなたは、予の呼びかけに応じて、降臨した神であるか?」
神に等しい存在として君臨する者――ファラオとしての威厳を保つため、彼もまた一歩も引かず虚勢を張る。まさに“神”と“神”の、虚構と誇りが交錯する瞬間だった。
「我がエジプトにその姿は見ぬ。……そなたの名は?」
そう問われた茜は、ようやく安堵とともに、わずかに口元を緩めた。
(あ、これは会話の糸口ができたってことね。さすが、歴史に名を残すファラオ…若いけど、切り返しが堂々としてる)
「アカーネよ」と、はっきりと名乗る。
その名が口にされた瞬間、周囲の空気が再び固まった。とりわけ、アメン大神官の表情が強ばり、目を見開いていた。
「アカーネ……。それは、ヒッタイトに降臨したと記録に残る神の名……まさか、あなた様が、あの“アカーネ様”でいらっしゃいますか?」
慎重に問いかける声に、茜は肩を竦めるようにしながら、軽く首を振る。
「ヒッタイトに降臨したのは事実だけど、別に専属というわけじゃないのよね。それに、もう60年以上も前の話だから、今でも信仰が残ってるかは知らないわ」
淡々と、だが事実を混ぜた神らしい返答を返す。その言葉を受け、ラムセス2世はすぐに大神官へ視線を向けた。
「……大神官、この神をそなたは知っておるのか?」
「は、はい陛下。アカーネ様は、今からおよそ六十余年前、ヒッタイト王国に突如として降臨されたと記されております。そして当時、混乱していたヒッタイト、ミタンニ、アッシリア――三つの強国の間に和をもたらした、風の神と記されています」
その説明に、王と王妃を含めた一同の表情が次第に変わっていく。ただの異邦神ではない。歴史に記録され、戦乱を鎮めた神――それがこの“アカーネ”だというのなら、軽んじることなどできようはずもない。
「……だが、この神はヒッタイトの神ではないと、そう申しておる」
そうラムセスが続けて問うと、大神官は再び慎重な表情で答えた。
「はい陛下。確かに――バビロニアの古記録には、アカーネ様はシュメールの時代より存在する“風の神”として記されております。そして、三国に和をもたらした後、再びシュメールへ戻られた……そのように、記録に残されております」
それを聞いた茜は、思わず口元にわずかな笑みを浮かべた。過去の旅が、こうしてきちんと記録として残っているのは、やはり悪くない。
(エンへドゥアンナに感謝するのは癪だけど……こういう記録の残り方は便利だよね)
続く展開を予感しつつも、まだ気を抜けぬ空気の中で、ラムセス2世は改めて茜を見据えた。
「ならば、そなたは――エジプトの神々には属さぬ、古の神ということになるな」
その言葉には、敵意ではなく、興味と……期待が滲んでいた。茜は、ゆっくりと頷いた。石の神殿の静寂を破ったのは、若き王のまっすぐな声だった。
「……ならば、予にとっても、エジプトにとっても都合が良い。アカーネ、予に力を貸せ」
その響きは、幾千の香木の煙が立ち昇る神殿の天井に反響し、彫像の神々にまで届くかのようだった。高く掲げられたファラオの杖、黄金の装飾に彩られた王衣、その姿はまさしく神に並ばんとする人間の化身そのものだった。けれど、突然の“協力要請”に向けられた茜の反応は――どこか肩透かしのような、微笑混じりの苦笑だった。
「……あんた、ラムセス2世だよね? いやー、若いっていいよね。思い切りもいいし、強気だし。ホント、歴史に名を残すのも納得って感じ」
まるで親戚の子を褒めるように、茜はウンウンと頷きながら目を細める。その言葉に、近くに控えるラムセス2世の側近たちは一瞬だけ目を見合わせた。“歴史に名を残す”――まるで、すでにこの王の未来を知っているような言葉。そう、まさしく“神の言葉”だった。当のラムセス2世はというと、茜の評価に少しだけ戸惑いを浮かべつつも、再び堂々たる声音で語った。
「予はファラオであるぞ。神にして王。シュメールの神アカーネよ、予に従い、予に力を貸せ」
その気迫と高慢、王たる覚悟に満ちた声音に――背後から聞こえたのは、ユカナのぽつりとした一言だった。
「すごいね……あっちの方が、よほど“本物の神様”っぽいよ」
茜は肩をすくめて笑い、「それな」と軽口で返す。けれどその目は、ラムセス2世の奥に隠された“もう一つの本音”を確かに捉えていた。
(……張ってるな。この人、相当緊張してる。威厳で包んでるけど、あたしの正体を本能的に警戒してる。無理もないけど)
若くして王座にあり、エジプトの神として民を導く者。その重責を背負い、いま歴史に名を刻まんとするその魂を、茜は静かに見つめ返した。
「じゃあ、こうしようか」
一歩、祭壇から降りながら、彼女はふわりと優しく微笑んだ。
「全部は助けられないけど――助けられるところは助けてあげる。それで、どう?」
強くて、柔らかくて、どこか懐の深いその言葉に、ファラオは一瞬だけ肩の力を抜いた。
「……それで構わぬ」
短く、だが確かに感謝をにじませたその返答は、神殿に立ち込める香の煙の中で、さながら契約の印のように響いた。
ネフェルタリ王妃は、その様子を見守りながらも、わずかに眉をひそめている。王妃の瞳には、夫を案じる深い思慮と、神と人との均衡に対する不安が混じっていた。一方で、黄金の鎧を纏った近衛兵隊長は王の前へと静かに一歩踏み出し、その身を以て茜から王を守るような立ち位置をとる。忠誠心と警戒心が混じった、そのささやかな行動に、茜は気づいていながらも何も言わなかった。
(心配しなくていいのに。別に、害意はないから)
そう胸の内でつぶやきながら、茜は再び視線をラムセス2世へと向ける。香木の煙が漂い、神殿の中は静寂に包まれていた。柱の上に描かれたアメン=ラーのレリーフも、まるでそのやり取りを見守っているかのように、光を浴びて金色に煌いている。茜はゆったりと手を広げ、穏やかな声で語りかけた。
「心配しなくていいよ。今話したとおり、すべてを守ることはできないけど――助けられることなら、ちゃんと助けてあげる。……で、何を私に望むの?」
その一言に、緊張していた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。ラムセス2世は一歩前に進み、まっすぐに茜を見据えて言った。
「予はこれより、北へ進軍し、ヒッタイト王国から国境の都市――カデシュを奪い返す戦を行うつもりだ。ここで祈っていたのも、その戦勝を願ってのこと」
その言葉に、茜は内心でぎょっとした。
(まさかの、カデシュの戦いの直前!? こんなギリギリのタイミングで降臨だったとはね…)
軽く眉を上げつつも、表情はあくまで平静を装い、彼女はやれやれと肩をすくめた。
「ファラオって、神ってことになってるんでしょ? 神が神に祈ってちゃ、だめじゃない。もっと自信持ちなさいよ」
軽口めいた言葉に、ラムセスは少し目を見開いたが、すぐに凛とした声音で返す。
「予はたしかにファラオであるが、神々への祈りは欠かさぬ。だからこそ――そなたが現れたのだと、予は思っておる」
その姿勢に、茜もふっと笑みを漏らした。
「……まぁ、そういうの、嫌いじゃないけどね」
会話のやり取りの中で、ラムセス2世もようやく気づく。この“アカーネ”と名乗る古き神は、少なくとも――敵ではないということを。その時、後方に控えていたアメン大神官が進み出て、ひざを折って言った。
「アカーネ様。伝承によれば、あなた様は風を司る神にして、戦の名手とも語られております。このたびの王の遠征……どうか、お力をお貸しいただけませんでしょうか」
「戦の神……なのか?」
と、思わず問い返すラムセス。大神官は慎重に言葉を選びながら答えた。
「いえ。風の神とされておりますが、自ら強大な軍勢を率い、巧みに戦を収めるその才は、まさに神の戦術と称されております。そしてアカーネ様の軍略により、ヒッタイトとミタンニ、そしてアッシリアの三国の争いに和をもたらした、と」
「……ならば、予の遠征に同行していただければ――予の勝利は、もはや揺るがぬということだな」
そう呟き、ラムセスは茜をまっすぐに見つめると、ゆっくりと告げた。
「そなたの身は、予が預かる。予に協力し、予の勝利に貢献せよ、アカーネ」
その言葉には、威厳とともに、かすかな緊張と期待が入り混じっていた。茜も、それを見逃さなかった。
(……うん、やっぱり若い。強がってるけど、怖いのはわかる。でも、それだけ“信じる覚悟”があるってことだよね)
茜はふっと目を細めると、小さく笑って言った。
「だから、協力してあげるって言ってるでしょ。その代わり――ひとつ、条件があるの」
「なんだ?」
「私と、私の知っている二柱の神を、エジプトでも祭ってもらう。それが条件。それでどう?」
ラムセスは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに深く頷いた。
「――分かった。そなたと、その他二柱の神を、我がエジプト王国にて正式に神として祀ることを、予がここに約束しよう」
その言葉を聞いた瞬間――後方にいたミラナが、小さく、しかし勢いよくガッツポーズを決めた。
「っしゃあ!」
本人は小声のつもりだったが、回廊に響く声は意外にも大きく、周囲の神官たちの視線が一斉に彼女へと向けられた。隣でそれを見ていたユカナは、額に手を当てて呆れたように嘆息する。
「……ミラナさん。嬉しいのは分かるけど、今喜ぶのは…」
「だってー、これ結構大事なことだよ? エジプトって、めっちゃ影響力あるんだよ? ここで正式に祀られたら、もう信仰爆増確定!」
「せめて、もうちょっと静かに喜ぼうよ……」
そんなやり取りに、茜は口元を押さえて笑いを堪えた。
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カルナック神殿の奥にある静かな客間。
高い天井には蓮の花を模した装飾が並び、壁面にはアメン=ラーやホルスの神話が浮き彫りにされている。香炉からは没薬とシナモンの香が静かに立ち上り、王の神殿に相応しい神聖な空気が漂っていた。その一室に、茜たちは通されていた。王の客として正式に受け入れられたのだ。だが――その空間に響いた最初の声は、やはり茜だった。
「あんたね! “任せておけ”ってあれだけ言っておいて、これはないでしょ!?」
指さされたのは当然のようにミラナ。ふくれっ面でベッドに腰かけたまま、手をひらひら振って反論する。
「えぇ〜? でもでも、トップに直接働きかけた方が早いって思ったんだもん。私、アラッタ王国の時の経験に学んでいるんだよ? あのときの“王様直通作戦”で上手く行ったし!」
「……アラッタ王国の時はそうだったかもしれないけど、時代が違うでしょ! それにこっちは姿出してんのよ!?」
茜はこめかみを押さえて、ぐいっと顔をしかめる。
「神託ならまだしも、完全に肉体持って降臨してるんだから、もっとやり方考えてよ……。こっちは一歩間違えたら、殺された可能性だってあったんだよ!?」
ミラナは「えへへ~」とごまかし笑いを浮かべているだけで反省の色は薄い。
そこへ、テーブルで地図を広げていたリュシアが控えめに口を開いた。
「とはいえ、主の機転があったおかげで、結果的には上手くいきましたよね。ラムセス2世に正面から信頼されましたし、神としても丁重に迎えられました」
「うんうん! つまり私の判断は間違ってなかったってことだよね!」と、ミラナが即座に乗ってくる。
「……はあぁ〜……」
茜は長いため息をついて、額に手をあてる。
「これ、いつものパターンだよね。あんたがやらかして、私が機転で何とかして、『結果オーライ♪』で終わらせるやつ」
「えっへん!」と胸を張るミラナ。その様子に、リュシアは苦笑いを浮かべ、ユカナは肩をすくめながらはちみつ水を注ぎ、アルタイは無言で果物をかじっている。
「……はぁ、今回も“いつもの”ってやつか」
茜はそう呟いて、ようやく笑みを見せた。そうして、エジプトの夜は――いつもと変わらぬ、気の置けない空気に包まれていった。
夜のカルナック神殿は、昼間の荘厳さとは異なる静謐な顔を見せていた。
月光が白い石柱を青白く照らし、香炉から立ち昇る香が宵の空気を満たしている。神殿の奥に設えられた客間に、茜たちは静かに身を休めていた。そんな折、扉が控えめに叩かれた。
「アカーネ様、ネフェルタリ王妃様が面会を求めておられます」
神官の声に、茜は少し目を細める。夜のこの時間に、しかも王妃自ら? と考えながらも、すぐに「通して」と答えた。ほどなくして、白と金の装束に身を包んだネフェルタリ王妃が現れた。付き添いもなく、たった一人での訪問。その姿勢に、茜は「これは内々の話ね」とすぐに察する。王妃は茜を前に立ち止まり、慎重に、しかしためらうことなくその場に跪いた。
「降臨の神アカーネ様。先のファラオ――王の対応につき、深くお詫び申し上げます。神であるあなた様に対し、あのような振る舞いをしてしまったこと、王もまた心を痛めております」
その言葉に、茜は思わず目を瞬かせた。そしてすぐに微笑みを浮かべて、王妃に歩み寄る。
「……そんなに気にしなくていいよ。あの場では、王様も“ファラオ”としての立場があったわけだし。むしろ、あれだけ堂々としてたのは感心したくらいだよ」
茜の柔らかな言葉に、ネフェルタリはほっとしたように息をつく。
「ありがとうございます……アメン大神官から、あなた様のことを詳しく聞きました。ですが、王としては、あの場で素直に頭を下げるわけにもいかず……その代わり、私が王の意を汲んで、お詫びと感謝をお伝えしに参りました」
「そっか……ちゃんと伝わったよ。ありがとね、王妃様」
そう言って、茜はそっと膝をつき、ネフェルタリの顔を覗き込んだ。
「それとね、こうして面と向かって話せたのも何かの縁。王様にも伝えてほしいな。“私は気にしてないよ”って。それから……王妃様も、これからはあまり気を張らないで。私のことは気軽に“茜”って呼んでくれていいから」
「……そんな、恐れ多い……!」
ネフェルタリは目を伏せ、思わず身を縮めるように答えた。茜は軽く笑って首を振ると、柔らかく言葉を返す。
「いいのいいの。私は“神”とかそういうの、そんなに気にしてないから。女同士、もっと気楽にいこうよ。」
ネフェルタリは目を見開き、唇を震わせた。その目には、じんわりと光が宿り始める。
「……実は……」
少し迷ってから、王妃はそっと胸元に手を当てた。
「幼い頃、私は両親を早くに亡くしました。王宮に入ってからも……賢いふりをして、ずっと一人で立ってきたつもりでした。でも……本当は、誰かに見守ってほしかった。誰かに“よく頑張ってるね”って、言ってもらいたかったんです……」
そして、涙をこぼさぬようにそっと笑いながら続ける。
「今日、アカーネ様にお会いしたとき……たしかに神々しくて、まるで違う世界から来られたようなお方だと思いました。でも……その瞳の奥に、どこか優しさとあたたかさがあって……」
ネフェルタリは少し恥ずかしそうに、けれど真剣な眼差しで茜を見つめた。
「この方なら、身分も立場も関係なく、私のような者の言葉にも耳を傾けてくれるんじゃないかって……そう感じたんです」
茜はその言葉に目を見開き、そして優しく微笑んだ。
史実では、ネフェルタリ王妃は政治的・外交的にも聡明で、後にアブ・シンベル神殿の壁にも神格化されるほどの存在となるが、その裏には人一倍の努力と孤独があったのかもしれない――そんな想像が、茜の胸に浮かんでいた。
「……あなた、すごい頑張り屋さんだね。でも、もう一人で頑張らなくていいよ。しばらくは、私がそばにいるからさ」
ネフェルタリは目に浮かんだ涙を拭い、心からの笑みを茜に向ける。
「アカーネ様、ありがとうございます。それでは、これから時々で良いですから、私の悩みなどを聞いていただけないでしょうか?」
茜はやわらかく微笑みながら、肩をすくめた。
「ふふ、たまにそう言われるんだよね。じゃあさ……立場とか年齢とか全部抜きにして、気軽に話せる“友達”ってことで、どう?」
ネフェルタリは少し驚いたように目を見開いたが、すぐにその瞳に穏やかな笑みを灯す。
「……はい。それ、とても嬉しいです。ありがとうございます」
月光の差し込む客間に、二人の笑顔が並ぶ。そして立ち上がったネフェルタリは、深く一礼し、やや潤んだ声で言葉を紡いだ。
「改めて……我が王国に降臨してくださり、本当にありがとうございました。これは王の言葉であると同時に……私自身の、心からの感謝です」
「うん、受け取ったよ」
そう答える茜の顔には、安堵と優しさが宿っていた。――これで、王家との確かな絆が築かれた。戦いを前に、確かな後ろ盾を得たという意味でも、大きな一歩だった。ネフェルタリが静かに部屋を後にしたあと、茜はため息をひとつついて天井を見上げた。
「……ふふ、まさかこんな時代で、あんなふうに心を開いてくれる子に出会えるなんてね。うん、ちょっと年の離れた友達って感じだけど……悪くないかも」
茜はふうっと息を吐き、肩の力を抜きながらぼやいた。
「……いきなり王に会えるとか、歴史的にはラッキーなんだけどさ……こっちの胃にはめちゃくちゃくるわ。あんなの予定に入ってなかったし」
ミラナはどこ吹く風で果物をつまみながら、「でもトップと直通ルートって、楽じゃない?」と笑っている。茜はそれを見てさらにため息をついた。その横で、エンへドゥアンナが落ち着いた口調で語る。
「ですが、私の記録がエジプトにまで伝わっていたこと……あれはとても大きいことです。次の戦い――カデシュの戦も、きちんと記録に残しておきますね。これは神話としても価値ある局面です」
「……いや、それはありがたいけどさ……」
茜は顔をしかめて、ぐったりと座布に沈み込む。
「お願いだからさ、ついでに私の内臓の損耗状況も記録しといてよ。ストレス度とか、胃のキリキリとかさ。もう“神話級の神経痛”って名前でいいよ、次の章」
思わず吹き出したユカナが、「それ、後世に残されたらちょっと恥ずかしいかも」と笑う。リュシアもわずかに微笑みながら、「では私の方で、主のために“風の神の胃は繊細である”という記述を残しておきます」と応じた。
そうして、いつもの空気が戻る中、次なる大戦――カデシュの戦いへの幕が、静かに上がろうとしていた。




