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81話 風の記憶と未来への贈り物

茜達一行が最後にたどり着いた地。それは、かつて彼女たちがこの旅の最初に訪れ、暮らし、戦い、仲間たちと笑った都市――シュメールの都「ウンマ」の跡地だった。かつては石畳の通りを神殿への行列が進み、民の声と祈りが絶えなかったその地は、今や草に覆われた静かな遺跡に過ぎなかった。砂に埋もれた基壇、崩れた礎石、ぽつりと立つ破損した柱。それが、千年以上の歳月の証であった。


「たしかに……もう遺跡しか残ってないね」


茜は風に髪をなびかせながら、誰にともなく呟いた。だがその目は、目の前の廃墟ではなく、彼女の心に刻まれたかつてのウンマを見つめている。


「これ……たぶん城壁の跡かな。ってことは、この辺りが正門だったはず…」


茜は地面に残された石の並びに目を凝らしながら、一歩ずつ歩みを進める。まるで記憶の中にある街並みをなぞるように。そして、たどり着いた先。そこに、今はわずかに柱の根元と床面が残るばかりの空間があった。


「ここ、ここ。ここがウンマ神殿のあった筈の場所」


茜の言葉に、後ろを歩いていたエンへドゥアンナが小さく頷く。


「そうですね……正門からの距離や方角からしても、間違いありません。ここが……私が、ナムル王と共に過ごした神殿の場所……。私は、ここに居たのですね」


その声には懐かしさとともに、時を超えて戻ってきた者だけが抱ける不思議な温かさが宿っていた。


ユカナも、懐かしい笑みを浮かべながら神殿跡の周囲を歩き出す。


「うん、私もなんとなく思い出すよ。たしか…この辺りに玉座があって……それで、この辺かな、私たちが使ってた部屋があった場所って」


小さく跳ねるように歩きながら、草むらをかき分け、記憶の風景と今を重ねていく。一方で、ミラナは神殿跡の風化した床をつま先で軽く蹴りながら、ふと呟く。


「こんな廃墟見てもねぇ……」


それでもユカナの探索に付き合い、隣を歩いていたのは、彼女なりの素直さの表れだった。リュシアは神殿の枠組みを見渡しながら、いつもより少し柔らかい表情で語る。


「こうやって見てみると……跡地になっても、意外と建物の形って思い浮かぶものですね。一部の配置は異なっているようですが、それでも……ここがどんな場所だったか、自然に想像できます」


ガルナードもまた、うっすらと感慨に染まった声で言った。


「たしかに。我々が、あの時代に立っていた……その名残が、こうして見て取れますな」


千年を越えてもなお、そこには彼女たちの記憶が宿っていた。忘れ去られた神殿にも、神と人が共にいた時代の面影は、風に吹かれてなお静かに息づいていた。陽が沈み、夜の帳がウンマの大地にゆっくりと降りてくる。遺跡と化したかつての神殿跡に、茜たちは小さな焚火を囲んで腰を下ろしていた。ユカナが見つけた、かつて自分たちが使っていた部屋の跡。崩れた壁と剥がれた床石の間に、かすかにその名残が残っている場所だった。そこに簡単な布を敷き、彼女たちは今、神としての長い旅路を振り返っている。


「なんか……不思議な感じだよね」


茜がぽつりと呟いた。焚火の揺れる光が、彼女の頬をやさしく照らしている。


「自分たちがかつて居た場所の、千年後にまたこうして来てるんだよね」


「ねぇ茜」


ユカナが、どこか懐かしげな声で続けた。


「こうしてみるとさ、時間を自由に行き来できる神様業も……案外悪くないでしょ?」


「うーん……たしかに」


茜は焚火を見つめながらゆっくりと笑う。


「今度、ちょっと休める時に、もう一度シュメールの時代に戻ってさ、久しぶりにシャラドゥムたちと話したくなってきた」


「神力がないと、神ってみじめなんだけど?」


ミラナがからかうように言うと、茜は間髪入れずに返す。


「まさに、それ、あんたのことだよね?」


「もう私も、恒常的に神力が入ってくるようになったから、みじめなことにはならなさそうだけどね~」


「それって……誰のおかげ?」


「はは~っ、アカーネ様には絶えず感謝しておりますっ!」


「ほんと……あんたって気まぐれで生きてるよねぇ」


そんなやりとりに、焚火の周りは笑いに包まれた。夜の空気は冷たく澄んでいて、時を越えて戻った神殿跡の静けさと不思議な調和を見せている。そんな中、茜がふと、腰を下ろしていた床石に目を落とす。


「……これって、風の紋様……だよね?」


焚火の明かりに照らされて、うっすらと浮かび上がる渦巻き状の模様。それはまるで、千年前に刻まれた風の記憶が、茜を迎えるように眠っていた。リュシアが身を寄せ、慎重にその模様を確認した。


「そうですね。これは……風の紋様ですね」


リュシアがしゃがみ込み、焚火の光に照らされた床石を指先でなぞる。


「おそらく、ここは主がお使いになっていた部屋ですから、そのために床に風の紋様が刻まれていたのかと」


「……へぇ、なるほどね」


茜は一瞬目を見開いたあと、静かに笑った。


「まさか、偶々腰かけた場所が……自分の紋様の上だったなんてね」


風に導かれるように――千年の時を超えて、またこの地に戻ってきたのだと、茜はふと実感する。


「この床石だけ、妙に気になるんだよね……風の紋様があるのはここだけだし」


茜はぽつりとつぶやくと、床石を見下ろし、顎に手を当てて考え込む。そして唐突に顔を上げて、ガルナードとアルタイのほうを振り返った。


「ねぇ、ちょっとこの床石、動かしてみてくれない?」


「主、それはまた随分と……」


ガルナードが苦笑を浮かべる。


「流石に、床の下から何かが出てくるとは……物語じゃあるまいし」


「うん、俺もさすがにそれは無いと思うぜ?」


アルタイも肩をすくめた。


「いいからいいから、ほら、たまにはノッてくれてもいいじゃん?」


そんな茜の気まぐれに、二人は半ばあきれながらも、協力して床石をゆっくりと動かし始めた。石が軋む音とともに、その下から――確かに何かが、姿を現した。


「……ん?」

「……これって……」

「嘘、本当に何かあった!」


茜が思わず叫び声を上げる。現れたのは、やや長方形の石の箱だった。表面には風の紋様が彫り込まれており、明らかに茜たちに縁のある何かであることを示していた。


「ここにも、風の紋様が彫られているんだね」


ユカナが目を丸くする。茜は慎重に石の箱を取り上げると、蓋をゆっくりと開けた。中には、いくつもの焼成された粘土板が丁寧に収められていた。色は淡く、時の流れに晒されながらも、形を保っている。


「これって……シュメールの時代の粘土板、だよね?」


茜が目を見張りながら、隣のエンへドゥアンナに粘土板を差し出す。エンへドゥアンナは言葉を失ったまま、一番上の粘土板を両手で受け取る。そして、そこに刻まれた署名を目にした瞬間――静かに息を呑んだ。


「これは……私から、私に宛てた粘土板です……」


静まり返る一同。茜は目を細め、不思議そうに首を傾げる。


「えっ……どういうこと? それって……未来のあんたってこと?」


周囲の空気が、少しずつ張り詰めていく。粘土板の文字に込められた“時を越える言葉”が、そこに確かに息づいていた。エンへドゥアンナは、箱の中から粘土板を一枚ずつ取り出し、そっと遺跡の床石の上に並べていく。その指先はわずかに震えていた。周囲の誰もが言葉を失い、ただその動作を見守っている。最上部の粘土板に刻まれていたのは、柔らかく、そして深い思いが込められた文字だった。エンへドゥアンナが口を開き、静かに朗読を始める。


「──時の旅を終えし巫女より、時の旅の途中にあるあなたへ。あなたは今、仲間たちと共にこの粘土板を手にしているでしょう。どうか、この記録があなたの未来の一助となりますように。


あなたの旅は、この後もなお続きます。そしてその旅の終わりにあなたはシュメールへ戻り、ナムル王のもとで新たな時を迎えることになります。アカーネ様も再び、あの地を訪れるでしょう。


けれど私の選択として、この旅の物語を正式な歴史には残さないことに決めました。その理由は、あなたがこの旅の終わりにきっと理解するはずです。すべては、あなたが選ぶべき道と未来のために。


私は今、死の旅路に就こうとしています。けれどアカーネ様と歩んだ旅は、私の魂を照らし続けました。その記憶と幸福は、何者にも奪われることのない宝です。


どうか今、この時間を大切にしてください。過去も未来も、すべてを抱きしめるように。


──最後に、ひとつだけ。

この粘土板を納めた石の箱の、さらに下……ほんの少し奥に、私が隠した“小さな贈り物”があります。


それは死を間近にした私が旅のすべてを振り返り、アカーネ様と共に過ごした日々を思い出しながら用意した、魂からの感謝のしるしです。


この贈り物が、少しでもアカーネ様の歩みに寄り添うものでありますように。そして私の想いが、時を超えてあなたに届きますように。


――エンへドゥアンナ。」


エンへドゥアンナは読み終えると、そっと息を吐き、粘土板を胸に抱いた。


「……これ、私が……いや、“未来の私”が残した言葉なんですね」


彼女の声は、わずかに震えていたが、そこに戸惑いはなかった。茜は目を細め、しばらく何も言わずにいたが、やがてぽつりと呟く。


「まさかさ……シュメールに戻ったあんたが、ここに記録を残してくれてたなんてね。しかも……これ、1000年以上前の“未来”からの手紙じゃん……すごいね」


周囲の皆も、静かにうなずく。ユカナは目を細めながら呟いた。


「未来のエンへドゥアンナ……記録を残すことに、最後の最後までこだわったんだね」


「ええ。そして、未来の私は……この瞬間が訪れることを、過去の経験から知っていたのでしょう」


エンへドゥアンナは小さく微笑みながら、そう答えた。やがて茜は、粘土板の最後の一文を思い出し、視線を落とす。


「……この箱の“さらに下”って、書いてあったよね」


床石の奥へと、再び注目が集まった。やがて、粘土板に記されていたとおり、石の箱の下をさらに慎重に掘り進めると、地中からもう一つの小さな石箱が顔を覗かせた。


「……あった。これが“小さな贈り物”ってわけか」と茜が言うと、皆が静かにその箱を見守る。


ガルナードとアルタイがゆっくりとそれを取り出し、茜がその蓋を開ける。中には、時を超えてなお輝きを失わぬ三つの宝石が丁寧に収められていた。ひとつは淡い青緑に光るトルコ石。ひとつは深紅の艶を湛えたカーネリアン。そして、最後のひとつは、まるで夜空を閉じ込めたかのように美しく澄んだラピスラズリだった。


挿絵(By みてみん)


「……これ、私がシュメール時代に使ってた風の指揮棒に付いてたトルコ石だ。模様までそっくりだもん。あの指揮棒は時の流れで失われるはずだけど、石だけは残してくれてたんだね」


茜は優しくトルコ石を撫でると、懐かしさに微笑んだ。


「それとこのカーネリアンは……シャラドゥムがいつも身につけてた石。ということは、これは形見、だよね。シュメールに戻ったエンへドゥアンナが、シャラドゥムの代わりにこれを私に渡そうと……そういうことなんだろうな」


言葉を繋ぎながら、茜は少しだけ目を伏せた。そして、視線を最後の宝石──ラピスラズリへと移す。


「このラピスラズリだけは……わからない。今まで聖石と呼ばれるようなラピスラズリも見てきたけど、こんなに澄んで美しいラピスラズリ見たことないよ。どこの産地のものなんだろう……でも、なんか、すごくあったかい感じがするね」


彼女の言葉に、ユカナもそっと頷いた。


「きっとそれも、“気持ち”がこもった贈り物なんだよ。今は石の意味がわからなくても、それだけで十分じゃない?」


リュシアも静かに言葉を添える。


「トルコ石もカーネリアンも、そしてこのラピスラズリも……時を越えて残せる、感謝の証。未来のエンへドゥアンナなりの、主への敬意と愛情なのだと思います」


茜は、三つの石を大切に両手で包み込み、ゆっくりと胸元に収めた。


「……また、この石たちを、指揮棒に付けて使ってあげないとね」


その顔には、過去と未来をつなぐ神としての覚悟と、仲間たちとの絆への深い想いが滲んでいた。


「それにしても……今のエンへドゥアンナはちょっと気が利かないけど、すべての旅を終えたエンへドゥアンナは人間的に成長して、なかなか気が利くようになってたってわけだ」


茜がニヤリと口元を緩めながらそう言うと、エンへドゥアンナは腕を組み、涼しい顔で返した。


「私は茜の依頼を受けて、誠実に神話を記録していますよ? 今でも。与えられた仕事を着実に果たしている者に向かって“気が利かない”とは、神たるお方の口から出る言葉として、いかがなものでしょうか」


「うーん、確かにそれは一度頼んだ。でも絶対、あんた途中から脚色してるでしょ。しかも私への嫌がらせ混じりで」


「まぁ、多少は物語として面白くなるよう、演出は加えていますよ? 事実をそのまま記すだけでは、詩にはなりませんから」


「ほら! やっぱり悪意あるじゃん!」


仲間たちの笑い声が焚火の火花とともに空へ弾けた。茜はふと、手元にしまったトルコ石とカーネリアン、そしてラピスラズリの入った小箱に視線を落とし、少しだけ真面目な表情になる。


「……でもさ。これだけ記録にこだわってたエンへドゥアンナが、最後はこの旅の記録を歴史には残さないって判断した。それって、なにか理由があるんだよね?」


静かになった焚火の音が、夜風と共に耳をなでる。エンへドゥアンナはそっと目を閉じ、優しい声で答えた。


「おそらく、この旅の途中で……何か、大きな出来事があったのでしょうね。歴史に残すには重すぎるような……それでも、今こうしてこの贈り物に出会えた私は、未来の私に感謝しています。そして、これからの旅がどんなものであれ、やっぱり楽しみですわ」


「……ほんと、ポジティブだよね。そっちの残念神なんて、神力なくなるたびにめっちゃ落ち込んでたのに」


「誰が残念神よっ! 私は今や神力が恒常的に得られるようになって、前向きな神よ?」


ミラナの即座の反論に、また一斉に笑いが起こる。茜はふっと息をつき、胸元の小箱に手を当てる。


「……さぁ、また次の時代への旅が始まるわね」


その顔は、久しく見なかった晴れやかな笑みに満ちていた。


「主……アッシリアでの一件の後、少し表情が曇っておられましたが、今は本当に晴れやかですな」


ガルナードが柔らかくそう声をかけると、茜は照れくさそうに笑って答えた。


「うん。なんかね、元気出たんだよね。……まぁ、元気の出所が“あのエンへドゥアンナ”からってのは、ちょっと微妙だけど」


「それは、心外ですわね」


エンへドゥアンナが軽く肩をすくめるのを見て、再び皆が笑った。夜が更け、焚火が静かに揺れる中、茜は立ち上がり、空を見上げた。


「さてと──ウンマの姿も見れたし、思いがけずシュメールからの“手紙”も受け取れた。……この時代で、やりたかったことは、全部終わったよ」


その言葉に、皆が頷く。茜は右手を軽く上げた。


「じゃあ、帰ろうか。会議空間に」


次の瞬間、彼女たちの姿は夜のウンマ遺跡から、風のように消え去った。そこには、誰もいなくなった静寂と、かつての神話が風に舞う気配だけが、そっと残されていた。

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