80話 神の記憶と帰郷
バビロンの王宮に足を踏み入れた茜を迎えたのは、目も眩むような装飾と香り高い食卓、そして千客万来の歓声だった。黄金に輝く燭台の列が宴の広間を照らし、天井の高みに吊された香炉からは甘く濃厚な香が漂っている。まさに、古代世界における絢爛の極み。
「豪華絢爛な飲み会来たーっ!」
茜は両手を挙げてはしゃぎ、思わず叫んでしまった。ヒッタイト王国、ミタンニ王国と戦いと外交の連続だった彼女にとって、この瞬間はまさにオアシス。しかし、はしゃぎながらも、目の前に用意されていたのは静寂と格式が支配する貴賓席。そしてその周囲を囲むのは、カシュティリヤシュ王をはじめとする王侯貴族や大司祭たちの、敬意と緊張に満ちた視線である。
「……あれ? これって、もしかしなくても“神として祀られる”側の席?」
茜は笑顔のまま固まった。酒宴に参加というより、神前に捧げられる供物のような扱い。王と大司祭が次々に話しかけてくるたびに、「神話の再現でございます」「アカーネ様の伝承では」とか、いちいち神格として対応され、内心ぐったりしてしまう。
(ええい、私は神じゃないんだから、そんな細かい儀式やられても…)
ついに我慢できなくなった茜は、王に向かって声をかけた。
「カシュティリヤシュ王。バビロニア王国の歓待、私としては大変ありがたく思っています。私は豊穣の神ではありませんが、折角地上に顕現したのですから、バビロニア王国の作物も楽しませてもらえませんか? ね?」
その言葉に、王と大司祭は目を見合わせた後、嬉しそうにうなずいた。
「アカーネ様、もちろんでございます。どうか我が国の恵みをご堪能ください!」
「王国を挙げて、神の舌をも喜ばせる品々をお運びいたしましょう」
そうしてようやく、茜は貴賓席の呪縛から解き放たれ、食卓へと向かうことが許された。とはいえ、彼女を案内するのは手練れの料理説明役人。その背後には、再び控えめに距離を取りながらも王と大司祭がついてきていたのだった。
茜は内心、「これはこれでめんどくさい…」とため息をつきつつも、目の前に並ぶ料理の数々に手を伸ばしていくのだった。
「こちら、スパイスとナツメヤシ酒にて一晩漬け込み、炭火でじっくりと焼き上げた子羊の肉でございます。香りとともに、肉の繊維が舌の上でほろりと解けるかと」
「こちらは、ナツメヤシの蜜と発酵果汁で煮込んだ鴨肉でございます。甘みと旨みが織り成す奥深さをぜひ……」
「さらにこちらは、山羊肉とひよこ豆を煮込んだスープ、そしてレンズ豆と青菜を和えた一品、いずれも本日のために特別に仕上げられたものでございます」
茜の脇についた役人は、まるで神殿の奉納儀式を取り仕切るかのような厳かな口調で、次々と料理を紹介していく。茜は最初こそ辟易した表情を浮かべていたが、目の前に現れる料理の香りと艶やかな彩りを前に、観念してその役割を受け入れることにした。
(うーん……面倒だけど、これは……食べる価値あるかも)
まずは子羊の炭火焼。表面は香ばしく焦げ、割れば中から赤身の柔らかさがほとばしる。ナツメヤシ酒に浸された香りが、鼻腔をくすぐった。
一口かじると、芳醇な甘さと香辛料の奥行きが舌に染み渡る。噛み締めるたび、遠くの記憶——かつてのシュメールで食べた素朴な焼き肉——がよみがえる。
(うん……シュメールの味が“素朴さ”なら、これは“作り上げた味”だよね)
「このカモの蜜煮込みもすごい……ナツメヤシの甘みがまろやかで、肉の脂と一緒に溶け合ってく……」
続いて、山羊肉とひよこ豆のスープをすする。滋味が深く、口に入れた瞬間、体が芯から温まる感覚があった。レンズ豆の和え物や青菜の皿も、それぞれ微妙に異なる酸味と塩気のバランスが計算されており、ただの副菜にとどまらない芸術的な完成度を見せている。
「シュメールの頃の料理って、素朴で荒削りだけど素材の力がガツンと来てたんだよね。でも……バビロニアの料理もすごいね。種類も多いし、香や味付けも細やか。この料理からだけでも、バビロニアの発展度が伝わるよ!」
茜がそう口にすると、背後にいたカシュティリヤシュ王と大司祭たちは顔をほころばせて深々と頷いた。
「アカーネ様のお口に合ったこと、まことに光栄でございます」
「ぜひお酒の方もお試しくださいませ。こちらはナツメヤシの果汁から造られたデーツ酒。そしてこちらが、エンマ―麦の麦芽を用いた濃醇なるシカル(ビール)でございます」
役人が注いだ黄金色のデーツ酒を一気に飲み干し、茜は杯を高く掲げた後、今度は葦のストローでビールをすすった。
「ぷはーっ! やっぱりこれこれ! 甘くて濃いデーツ酒に、ストローで吸う濃厚なビールの味……これぞ、まさにシュメールの血!」
その声に、王と神官たちは再び大笑いしながら杯を掲げた。
「アカーネ様は、シカルとデーツ酒を殊の外お好みなのですね」
「これがなきゃ始まらないでしょ!」
乾杯の声が宴の天井を揺らし、さらに盛り上がりを見せる中、その様子を傍らで見ていた書記官が、細筆で記録を走らせていた。
『風の神アカーネ様は、デーツ酒とシカルを殊の外好まれ、またバビロニアの料理を存分にご堪能なされた』
その筆致を、隣で見ていたエンへドゥアンナがチラリと覗き込む。
「……あまりに味気ない。これでは風情がありませんね。私が書き直しましょうか?」
そう言うや否や、さらさらと流れるように詩文を書き加える。
『天より舞い降りし風の神、豊饒の香に酔い、酒に笑みを灯し、食の彩に民の幸福を知る——』
その優美な文体を見た書記官は、思わず目を見開いた。そして隣に居た書記官長は静かに身を正す。
「その文体……我が国のイシュタル神殿に伝わる《風の書》と、極めて似通っております。……まさかとは思いますが、あなたは……時を超えて来られた、あの書の作者なのですか?」
書記官長の言葉に、周囲の空気が一瞬止まる。
エンへドゥアンナは筆を持ったまま、まるで何でもないことのように軽やかに返した。
「ええ、その《風の書》は、私が書いたものですわ」
——静寂。
それを破ったのは、椅子を鳴らしながら立ち上がった書記官長の動きだった。
「至急、王と大司祭を! この巫女様は、伝説の書の生みの親……!」
たちまち高官たちが走り回り、宴の場は一気に騒然とする。宴の主賓が変わったかのように、注目は一斉にエンへドゥアンナへと集まり、次々に王族や神官が集まってくる。
「まさか…ご本人様でしたか! その筆は、数世紀を越えてなお語り継がれております!」
「ぜひお聞かせください、アラッタ戦役の背景、神託の降り方、そして……神々との対話の実際を!」
「後世に正しく伝えるために、是非、今一度書き加えていただけませんか?」
質問攻めにあったエンへドゥアンナは、わずかに苦笑しながらも、優雅な所作で答えていく。
その様子を、遠巻きに酒を片手に見ていた茜は、満面の笑みを浮かべて言った。
「ざまぁ~、やっと私の周りが静かになった~!」
どこか勝ち誇ったようなその表情に、背後からリュシアの淡々とした声が刺さる。
「……丁度良い目くらましができたと思っていますよね、主?」
「バレた?」
酒盃を口に運びながら、茜は肩をすくめた。
その頃には、宴の中央では舞台が整えられ、楽団が調律を終えていた。弦と笛の音が鳴り始め、しずしずと踊り子たちが姿を現す。
一見するとシュメール時代の巫女舞に似た衣装と所作だが、その動きには明らかに娯楽性と表現の豊かさが加わっていた。踊りは神に奉げるものというより、見ている人々に喜びと美しさを届けるものへと進化している。
(……うん、シュメールの時代にはなかった洗練だ。これはこれで、文化の成長ってやつかな)
静かに杯を傾けながら、茜はその舞を見つめる。
舞台では光が揺れ、楽の音が天井に響き、踊り子の衣装が星のように煌めいていた。神託の儀から神迎えの宴へ、そして今は祝祭の夜——時代が変わっても、人の営みは絶えず続いてゆく。
こうして、華やかな夜は深まっていった。
****
翌朝、柔らかな朝陽がバビロンの宮殿を照らす頃、茜は再び謁見の間に呼ばれた。
すでに正装で待機していたカシュティリヤシュ四世は、厳かな口調で茜を迎えると、自らの手でひとつの箱を差し出した。
「アカーネ様。これは我がバビロニア王国が誇る神殿において、最も尊き巫女にしか許されぬ神聖な装束にございます。しかし今宵より、風を統べる神、アカーネ様こそが——星と風の導き手。この衣をお納めください」
箱の蓋が開かれると、そこに納められていたのは一際神々しい装束だった。
薄手で肌馴染みのよいリネンの布には、金糸で渦を描く風文様が織り込まれ、胸元にはイシュタルの象徴たる八芒星が煌めいている。腰帯にはラピスラズリをふんだんに使った幾何細工が施され、青く染められた肩掛け布には羽を模した刺繍が流れるようにあしらわれていた。手足には、金銀で編み込まれた装飾の腕輪と足輪が添えられている。
その荘厳さに、周囲の神官たちが息を呑む中、茜はぽつりと漏らした。
「……うわぁ、これすっごい動きやすそう。それに、風文様と星の飾りもおしゃれだし」
王や神官たちが神妙な面持ちで見守る中、茜はまるでアパレルショップの試着室で服を気に入ったかのような軽さで装束を手に取り、微笑んだ。
「ちょうど、昨日の大巫女の装束は動きにくかったんだよねー。これなら神殿の階段もひょいひょいだわ」
王はその様子を満足げに見守りつつも、心中では別の意味を抱いていた。アカーネが自国の神文様を受け入れ、神聖衣を身につけるという事実は、すなわちバビロニアの神体系にアカーネが加わったことを意味する——と。
一方で、茜にそんな意図は一切ない。ただ「動きやすくて似合ってる」「ラピスの細工がかわいい」といった、純粋な感性と好みで受け取っているだけであった。
両者の意識のズレはあれど、どちらにも悪意はなく、それは結果的に「平和裏な神迎え」として成立した。
「じゃ、これ着て神殿に行けばいいのね。うん、テンション上がってきた!」
明るく宣言しながら、茜は装束を抱えて部屋を出ていった。背後で、王と大司祭が頷き合いながら、神の顕現にふさわしき衣を受け入れたことを深く神意に感じているとは露知らず。
——こうして、風の神アカーネは、星と風の文を纏い、次なる舞台へと歩み出すのであった。
新たに纏った衣装の裾を風になびかせ、茜は仲間たちと共にイシュタル神殿へと向かっていた。黄金と青の刺繍がきらめき、風神としての存在感をその身に宿したその姿に、随行するバビロニア王カシュティリヤシュ四世も誇らしげな面持ちを浮かべている。
イシュタル神殿の前には、既にイシュメ・イシュタル大司祭が自らの手で準備を整えて待ち構えていた。茜の姿が門前に現れるや否や、大司祭は感極まったようにその場にひざまずいた。
「アカーネ様……女神イシュタルの神紋をまとい、この地に降臨なされるとは……!」
「いや、そういうのいいから……ほんと、そういうの、もうやめて……」
思わず額に手を当てた茜は、困ったような笑みを浮かべながら大司祭に歩み寄る。
しかし大司祭は真剣そのものの眼差しで続けた。
「アカーネ様がイシュタルの象徴たる八芒星を身に着けてくださったということ。それはすなわち、我らが崇める星の女神と、風を司るアカーネ様の力が、今ここに結びついたという証にございます! 神殿としてこれほどの光栄はございません……!」
(そ、そういうことかぃ!)と茜は心の中で突っ込みながらも、今さら衣装を脱ぐわけにもいかず、曖昧な笑顔でごまかすしかなかった。
背後では、ユカナとミラナがこそこそと囁き合っている。
「ねえ、茜がバビロニアの神になったってことは、私たちにもなんか信仰ボーナスあるよね?」
「そりゃあ、当然じゃない?このまま残光キャンペーンでいけるかも~」
そんな様子を背に、茜一行は神殿の奥、宝物庫へと通された。
金細工と彩陶が飾られた荘厳な石室の中央に、厚く装飾された箱が鎮座している。大司祭はその蓋を慎重に開け、中から焼成済の粘土板を一枚ずつ取り出した。
「こちらが、我がイシュタル神殿が守り続けてきた《風の書》でございます。シュメールの時代より、アカーネ様の神話と伝承を刻み、現在まで伝えております」
その粘土板のひとつを手にした茜は、そっと指先でなぞる。かすかに残る刻線の痕跡から、かつての詩文が今なお響くような錯覚すら覚える。
「ただ……いくつかの板は、劣化により失われてしまいました」
と、大司祭は申し訳なさそうに頭を下げた。
「特に、アラッタ戦役が勃発する経緯について書かれたとされる板が、欠落しております」
「……あー、うん、それってさ……エンへドゥアンナのやらかしのとこじゃん!」
唐突に吹き出した茜が、くくくっと肩を震わせながら振り返る。視線の先には、気まずそうに目を逸らすエンへドゥアンナの姿があった。
「そのような記録は、存在しませんわ」
と、涼しく答える彼女の背筋は、まっすぐに張られていたが、耳だけがほんのり赤い。それを見た茜は、すぐにエンへドゥアンナを追求する。
「まぁまぁ、偶然にも肝心なところだけ抜けてしまうなんて、不思議なこともあるものですねぇ?忙しかったのかしらねぇ?」
(意図的に残さなかっただけだろ、コラ)
「まぁ、記録というのは時に“必要な部分”だけが後世に残るものですわ。無かったことになった記録があっても、別に不思議ではございませんでしょう?」
(書いてたけど消したのよ。ミスが残るとか絶対イヤに決まってるでしょ)
「そうやって、都合のよろしい記憶だけを綺麗に残されるのが、あんたの美学というわけねぇ。実にお見事だわ」
(このプライドの高さ、どうしてくれよう…!)
「でしたら今この場で、新たな神話を“ご都合よく”加筆させていただきましょうか。きっと後世でも話題になりますわよ」
(私に都合のいい話だけ残しときゃいいのよ、全部)
「そんなことさせるわけないでしょ。だったら私が“神託”として、真実を正しく伝えてあげるわよ。えぇ、あんたがやらかした事全部ね?」
(あんたのやらかし、きっちりバラしてやるからな!)
二人の口喧嘩が始まると、神官たちは一瞬緊張したものの、王や大司祭の間に笑みが広がっていく。
「……あれは、仲の良い神々の戯れなのだな」
と王が呟くと、大司祭も静かに頷いた。
「顕現された神々にも、そうしたやり取りがあるということ。まさに神話にふさわしき場面です」
その後も続く軽口と笑い声に、イシュタル神殿の空気は少しずつ柔らかくなっていった。エンへドゥアンナは一歩前に出ると、手にしていた羊皮紙の束をゆっくりと差し出す。
「ここまで、私の記した風の書を丁重に守り伝えてくださったこと、誠に感謝いたします。そして、これは今回、風の神アカーネ様がヒッタイト王国とミタンニ王国で辿られた記録です。この記録も、この神殿にて末永く伝えてくださいますように。」
その声に、大司祭は神妙な面持ちで深く頷き、粘土板の木箱の前で跪いた。
「勿論でございます、エンへドゥアンナ様。我らイシュタル神殿に仕える者の務めとして、シュメールの記録を後の世に伝えぬくことは何よりの誇り。そして今回エンへドゥアンナ様からいただいた新たな記録、確かに受け取りました。この内容は粘土板へと刻み、永劫に保管いたしましょう。」
エンへドゥアンナは微笑を浮かべながら、ちらと茜に視線を向けた。
「これで、アカーネ様の神話はアッシリアだけでなく、バビロニアでもしっかりと根付き、そして未来へと続いてゆくでしょうね……ふふっ。」
その口調には、誇らしさとわずかばかりの皮肉が滲んでいた。
茜は眉をひそめながらも、思わずため息を吐きつつ応じる。
「……あんたさぁ、絶対にわざとやってるでしょ……?」
エンへドゥアンナは涼しい顔で小さく首を傾げてみせた。
「まぁ、何を仰いますやら。私はただ、アカーネ様の神格としてのご活躍を、誠実に後世に伝えるだけですわ。」
「ぐぬぬぬぬ……!」
茜が肩を震わせて唸ると、その場にいた王や大司祭たち、そしてユカナやミラナまでもが笑い声を上げた。やがてその笑いは、イシュタル神殿の奥までも温かく響いていった。
かくして、風の神アカーネの物語は、またひとつの時代を超えて記録された。伝承は、粘土に刻まれ、神殿の静けさのなかに収まりながらも、確かに未来へと語り継がれていく――。
バビロンでの数日は、まるで夢のように過ぎていった。
茜たちは、町の広場で開かれる祝祭や、市場の賑わい、神殿での公開儀式などを見学しながら、バビロニア王国の繁栄ぶりを存分に堪能していた。美しく整備された街路、夜を照らす灯火、そして人々の信仰と祝意。全てが、茜にとってどこか懐かしくも、新鮮だった。
だが、寄り道の旅にも、そろそろ終わりが近づいている。
茜は一同を集めると、「あと一か所だけ寄りたい場所があるんだ。それが終わったら、私たちは帰るよ」と告げた。そしてカシュティリヤシュ四世に謁見を申し出た。
王の謁見室にて、茜はいつものように軽やかな足取りで進み出る。
「カシュティリヤシュ王、本当に素晴らしい滞在をありがとうございました。バビロニアでのひとときは、私にとっても、皆にとっても、忘れがたい思い出になりました。」
深々と頭を下げる茜に、王は静かに頷いた。
「アカーネ様、我らこそ、神自らが訪れ祝福を下さったことに、言葉では尽くせぬほどの感謝を抱いております。これよりシュメールへお戻りになるとのこと……。その前に、ひとつお渡ししたきものがございます。」
侍従が恭しく差し出したのは、美しいラピスラズリで彩られた腕輪だった。
深い蒼に輝く石の中央には、イシュタルの象徴たる八芒星が刻まれ、周囲には風の神の渦文が繊細に彫られている。金と銀の細工が絡み合うその意匠は、まさに神の腕にこそ相応しい荘厳な工芸品だった。
「この天文腕輪は、我らの信仰と感謝の証です。願わくば、アカーネ様の旅路を導く星となりましょう。」
茜は一瞬息を呑み、その美しさに見惚れた。
「……綺麗……」
小さく呟きながら、腕輪を両手で受け取り、その場でそっと右手に装着する。その姿に、王も神官たちも思わず顔をほころばせた。
王は、再び頭を垂れて言った。
「アカーネ様……願わくば、今後もバビロニア王国を、どうかお守りくださいませ。」
茜はその言葉に、優しく微笑んで応えた。
「また来ることもあると思うよ。その時は、その時にできることをする。私が神様だからって、万能なわけじゃないけど……それでも、力になれる時は、きっとね。それと、私と一緒に、風の神ユカナと明星の神ミラナについても、バビロンで祀ってね」
「ありがとうございます、アカーネ様。それとユカナ様とミラナ様についても、アカーネ様同様にバビロニア王国として祀っていきます」
王との謁見を終えようとした茜は、最後に静かにこう告げた。
「……まだ、ひとつだけ行きたい場所があるの。王様、見送りはいらないよ。ここでお別れにしよう。」
カシュティリヤシュ四世は、やや驚いた顔をしながらも、すぐにその意味を理解した。
「……行き先は、どちらへ?」
「ウンマ。かつてのシュメールの都だった場所にね。今はもう、何もないだろうけど……私にとっては、“帰る場所”みたいなものだから。」
その言葉に、王はしばし黙し、やがてゆっくりと頷いた。
「そうでございましたか……。確かに今では、ウンマの跡地には遺跡しかありません。ですが、風の神が帰る地として、それほど相応しい場所もありますまい。どうか、ご無事で。」
神を送り出す王としての矜持をにじませながら、カシュティリヤシュは深く一礼した。茜も、軽く頭を下げて微笑む。
「ありがとう。王様も元気でね」
その言葉だけを残し、茜は仲間たちと共に王都バビロンを後にした。
やがて王都も遠ざかり、茜たちは一行となって荒野へと分け入っていく。向かう先は、文明が芽吹き、神々と人が共に歩んだ古代の記憶の地、ウンマ。そこに廃墟があろうと、ただの空地であろうと、茜にとっては、シュメールの風が吹いていた最後の聖域——魂のふるさとであることに変わりはない。赤く染まりゆく空の下、茜たちはゆっくりと、風の記憶が眠る地へと歩を進めていった。




