74話 風の神と二人の王――草原に集う連合軍
ティグリスの流れを背に、ミタンニの軍勢は徐々にその歩を緩めていった。茜が率いてきた北方軍と中央軍は、アッシリア中央軍との決戦を制した後、いったん北方の拠点都市アラプハへと帰還した。野戦による疲弊と補給の再整備、そして新たな戦に備えた再編成のためである。
「ここで一息つけるのは有難いけど、あくまで嵐の前の静けさだね……」
指揮所の地図を睨みながら、茜は小さく呟いた。勝利の余韻よりも、次なる脅威の輪郭が、既に頭の中ではっきりと形を成していた。一方、ミタンニ南方軍は先にティグリスを渡河し、対岸に陣を張っていたが、茜はすぐさま命令を下す。
「南方軍を西岸に戻して。ここで深入りしても利はないわ。ティグリスを挟んで防衛線を敷いた方が、こちらに主導権が残るから」
命令は迅速に伝達され、南方軍は混乱なく再渡河を開始。ティグリスを天然の防壁とする陣が完成し、戦線は再び整えられた。そのころ、ミタンニ各地――とりわけ王都ワシュカンニからは、続々と予備部隊がアラプハに集結していた。武具に身を包み、整列する新兵たちの列が、アラプハの城門を途切れず通過してゆく。その顔には緊張と決意が混じり、勝者の陣営としての誇りすらうかがえた。
そして、その戦いの予感は、予想を裏切らぬ形で現実となる。
「偵察隊より急報です!」
斥候が駆け込んできた。息を荒げながらも、しっかりとした声で告げる。
「アッシリア王都ニネヴェでは、大規模な軍の再編成が進んでおります。どうやら、再び出撃の準備を整えている模様!」
茜は目を細め、静かに立ち上がった。そして背後では、リュシアが静かに頷いた。
「来るね……次は、ほんとうの決戦になるでしょうね」
戦場の空気が、再び緊張を孕み始めていた。アラプハに設置された司令部。昼下がりの陽光が薄く差し込む作戦室に、静かな緊張が漂っていた。
「前回の戦闘結果、まとめました」
リュシアが書簡を差し出す。そこに並んだ数字の列には、冷ややかな現実が刻まれていた。
「勝利点、合計で350です。内訳は、初期勝利点が250、さらに完全勝利のS評価で100点追加されました」
茜は頷きながら目を通し、次の項目へ視線を走らせた。
「で、消耗分の補填は?」
「鉄槍歩兵六部隊で35%、斧兵三部隊が25%。複合弓兵六部隊で10%、鉄槍騎兵三部隊も10%。総計で78の神力を消費です」
「差し引きで……残り272、か」
茜は軽く頷くと、手元の小さな盤面に数字を並べていく。頭の中では既に、次なる激突への備えが始まっていた。
「複合弓兵に、一部隊だけ練度と武装度が劣る子がいたわね……練度をB、武装をCまで上げるのに?」
「40消費です」
「よし、それはやっておこう。残り232」
リュシアは無言で筆を走らせる。茜はさらに思考を巡らせ、続けた。
「鉄槍部隊、全員練度と武装度をBに。この子達もここで強化して、前線の維持力を強化してかないと」
「それで95消費ですね」
「鉄槍騎兵三部隊も同じく練度と武装度をBに。いざという時の切り札は強化しておかないと」
「この強化の合計で105、ですね」
「あと……アス―医療隊。後方支援部隊だけど、少しでも生存率を上げたい。練度と装備、Cで」
「25消費。これで残り神力は7です」
「いいわ、それは温存で。これで、ほぼ全戦力がB相当。やれるだけの準備は整った……はず」
リュシアが控えめに頷き、静かに報告書を閉じた。その場には、ガルナードとアルタイも姿を見せていた。二人は並んで作戦盤を覗き込んでいる。
「主殿、数こそ拮抗しておりますが、こちらには鉄器装備がございます。我らが前線を支えれば、容易には崩れませぬ」
「戦車が出てきても、俺の騎馬隊なら追いつけるし潰せるさ。むしろ、出てきてほしいくらいだ」
自信に満ちた声だったが、茜は苦笑を浮かべる。
「頼もしい言葉だけど……戦力のぶつけ合いだけじゃ、国は守れないのよ。犠牲が出すぎれば、勝っても意味が薄れる」
地図を見つめる茜の眼差しには、悩みの色があった。
「本当に、アッシリアと最後まで戦わなきゃいけないのかな……そんなことを、ふと思う」
小さく呟いたその言葉に、室内の空気が静まりかえった。しかし次の瞬間、彼女はその思考を振り切るように肩をすくめ、決意を込めて言い放った。
「でも、向こうが来る限りは……やるしかない。逃げるわけにはいかないんだから」
アラプハの作戦室に、再び緊張が走る。戦いの準備は、着々と進んでいた。
****
その一カ月後、ミタンニ軍の再編成も最終段階に入っていた。部隊の練度と装備が整い、各将も配置を再確認している最中――茜のもとに、続けざまに二つの報せが届いた。
「アッシリア軍、ニネヴェに大軍が集結中。近日中にこちらに向かってくる様子です」
リュシアが差し出した伝令書を受け取りながら、茜は小さく頷く。
「来たか……予想通りね。いよいよ決戦か」
そのわずか数刻後、また別の伝令が息を切らせて駆け込んできた。クルティワザ王の印章をつけた文書を差し出すと、その場にいる誰もがその封を見て背筋を伸ばす。
「風の神アカーネ様。クルティワザ王自ら、親征にて予備軍一万五千を率い、すでにティグリスを渡河完了。明日にはアラプハに到着予定とのこと」
茜が目を見開く間もなく、さらに続く一節に、思わず口元がほころんだ。
「また、ヒッタイト王国より副王ピヤッシリ殿が二万五千の援軍を率い、我らと共に行軍中なり」
「ピヤッシリ副王殿下まで……!」
思わず声が漏れる。かつて共に戦場に立った副王自らが、再び肩を並べて戦うために来る。茜は文書を胸に当て、ぐっと目を閉じた。
「これで――やっと兵力でも優位に立てる……!」
喜びを隠さずに宣言する茜に、そばにいたガルナードが朗々と頷き、アルタイは「こりゃすごいぞ」と低く口笛を鳴らす。その日のうちに、茜は将軍たちを集め、援軍の到着を報せた。
「クルティワザ王は、王自ら親征して来てくれる。そしてヒッタイト王国のピヤッシリ副王まで……私たちに加勢するために来てくれてる」
沈んだ空気が一転し、将たちの顔に光が差す。
「王自ら……それは士気が上がりますな」
「ヒッタイトの副王まで……頼もしい限りです」
将たちは口々に喜びの声を上げる。茜は皆を見渡しながら、笑顔を浮かべた。
「さあ、いよいよだよ。最後の決戦、勝ちに行かないと!」
ミタンニ陣営に、熱気が満ちていった。翌日、アラプハの西門の前、城壁の上からはるか地平を見晴らす茜の眼差しが、一点の砂煙に釘付けとなった。
「来たわね……あれは、味方の砂煙」
彼女の声に応じるように、後方の将兵たちも騒ぎを見せはじめる。西の空を染めるような砂嵐の中、徐々に幟が浮かび上がり、ミタンニ王家の紫の旗と、ヒッタイト王家の獅子の紋章が風にたなびく。ついに、クルティワザ王自ら率いるミタンニ軍、そしてピヤッシリ副王率いるヒッタイト軍がその威容を現したのだ。茜は装いを整えると、数名の側近だけを連れて城門の外へと歩み出た。迎えるにふさわしい誠意と、神の名を冠する者としての覚悟を胸に――。
やがて、砂煙の中から姿を現したのは、威風堂々たるクルティワザ王と、端正な顔に鋭い眼差しを宿すピヤッシリ副王。クルティワザ王が馬を進め、茜の前で下馬する。
「風の神アカーネ様。あなたのおかげで、我がミタンニ王国の危機は遠のきつつあります。深く感謝申し上げます」
王は一礼すると、言葉を続けた。
「アッシリアとの決戦が迫っていると聞き、私も軍を率いて参りました。今回は私も、あなたの指揮下で戦えることを、誇りに思っております」
「……また責任が増えるじゃない……」と茜は苦笑まじりにぼやいたが、その声音に力がなかったわけではない。
背後で聞いていたリュシアが小さく微笑む。
「それは敬意の証です。主。ここまで整えたのは、まさしくあなたの手腕。今回は……仕方ありませんね」
「そうそう、今回は仕方ないよね」とユカナも柔らかに笑い、風に揺れる髪を指でかきあげた。
そこへ、今度はピヤッシリ副王が声をかける。
「大巫女様……いえ、今は“アカーネ様”の方がふさわしいでしょうか。援軍に参りました。再び、あなたとこうして戦えること……嬉しく思います」
茜はその顔を見て、ふっと目を細める。
「早すぎてびっくりしたけど……ありがとう、ピヤッシリ殿下。まさかこんなに早く、また一緒に戦うことになるとは思ってなかったよ」
三者の間に、確かな信頼と、これからの戦を共にするという連帯の気運が、静かに芽吹いていた。そんな光景を、やや離れた場所で見つめていたエンへドゥアンナは、神界の紙を広げながら、筆を走らせていた。
「――風の神、軍門を迎えし王と王。
獅子の咆哮と、月の誓い。
神の加護に照らされて、三つの軍、今ひとつに結ばれる。
これは、戦火の前の静謐。されど、神話の夜明け――」
彼女は詩文を呟きながら、紙の上に文字を編み込んでいく。どこか恍惚とした表情で、目の前に広がる英雄たちの再会を、永遠の物語として書き留めていた。茜はその姿を眺めながら、そっと呟いた。
「今回は、ちゃんと神話にして残してほしいって頼んだからね。私たちがどんな想いで戦ったか、あとに残るように……」
その横顔には、どこか祈るような静かな決意が宿っていた。風が巻物を揺らし、エンへドゥアンナの筆はさらに滑らかに、英雄たちの瞬間を神話へと編み上げていく。
合流から一夜明けた朝――。
まだ陽が昇りきらぬうちに、アラプハの司令本部に緊急の報せがもたらされた。
「アッシリア軍が王都ニネヴェを出陣。中央には王のスタンダード、アッシュール・ウバリト1世自らが出撃してきたとのことです」
偵察隊からの報告に、将軍たちの間に緊張が走る。茜は報告書を一瞥し、静かに頷いた。
「……アッシリア王自ら来た、のね。いよいよ本気ってことよね。なら、こちらも応じなきゃね」
彼女は振り返り、軍団全体に伝令を飛ばす。
「全軍、出陣準備。アッシリア軍を迎え撃つわよ!」
その号令のもと、三軍はたちまち動き出す。
茜のもとで再編されたミタンニ北方軍・中央軍の混成主力――35,000。
クルティワザ王率いるミタンニ本軍――15,000。
そしてヒッタイト副王ピヤッシリの率いるヒッタイト王国軍――25,000。
総勢およそ75,000超の大軍が、いよいよアラプハを出撃する。
街路には、出陣を見送るアラプハ市民の姿があふれた。
「風の神アカーネに勝利を!」「ミタンニとヒッタイトに祝福を!」
歓声が空に響き渡り、兵たちの士気は一層高まっていく。神と王の旗がたなびく中、茜は馬上から軽く口元を引き結ぶ。
「ここで止めてやるわ。アッシリアの暴走も、歴史の流れも――すべて」
その言葉を合図に、連合軍はゆっくりと進軍を開始した。
ニネヴェとアラプハの間に広がる草原地帯。そこが、運命の決戦の地となるだろうと茜は判断していた。風が乾いた土を撫で、遠く地平線にうっすらと軍靴の足音が聴こえてくるような静けさの中で、茜は地図の前に立っていた。
「敵は、私が直接率いている部隊と同じぐらいの兵力で来るはず。だからこそ、正攻法ではなく、あえて“欺く”。」
その言葉に、クルティワザ王とピヤッシリ副王が目を細めて耳を傾ける。茜の指揮する35,000の旧北方・中央連合軍をあえて正面に展開し、残るミタンニ本軍15,000とヒッタイト援軍25,000は、視界の届かぬ後方に待機させるという奇策であった。
「まずは私たちの軍だけで正面からぶつかる。そして――わざと下がるの。押し込まれているように見せて、敵に“勝っている”と思わせる。そこへ左右からミタンニ本軍とヒッタイト軍を投入して……包囲殲滅よ」
茜の指先が地図上を滑り、半円を描くように敵軍の側面と背後を囲む動きを示す。その視線は静かに鋭く、すでに勝利の輪郭を見据えていた。
「敵の兵力はこちらと同等。だからこそ、罠に嵌める。勝ったと思わせたその瞬間が、終わりの始まりよ」
「大胆な策ですが……見事な策でもありますね」とクルティワザ王がうなずいた。
「あなたがここまで用意してくれた舞台だ。ならば私も信じましょう、アカーネ様」とピヤッシリも静かに同意する。
こうして三国連合の作戦は決定され、全軍が最終布陣の準備へと動き始めた。地平線の向こう、乾いた大地の彼方に、やがて一筋の砂煙が昇り始めた。それはやがて幾重にも広がり、壮大な波となって押し寄せる。敵の接近を告げる、確かな印。
「……来たわね」
茜は戦場の端に立ち、風に舞う砂塵を静かに見つめた。灰色の帳の中から、黒き軍旗がうっすらと浮かび上がってくる。アッシリア王の軍が、ついに姿を現したのだ。
「まずは……この時代のアッシリアを、ここで止めないと」
ぽつりと、だが決然とした声で、茜はそうつぶやいた。その隣、白い衣に身を包んだエンへドゥアンナが筆を取り、戦場の空を見上げる。
「この戦は、神話の最終章……記しますとも。筆が折れ、紙が尽きるまで。主の神威と、この時代の運命を、すべて詩に刻みましょう」
風は高鳴り、太鼓のような地響きが足元から伝わってくる。神と王たちの戦いは、いよいよ最終幕へと向かっていた。




