72話 戦野を越えて――風の神、慈悲を授ける
翌朝の草原に、アッシリア中央軍の陣営を覆うような重苦しい空気が流れていた。アダド・イッディン将軍は、双眼を鋭く細めて前線を見渡す。その視線の先、昨日とは明らかに異なる密度と展開を見せるミタンニ軍が、地平の彼方まで広がっていた。
「……倍か、それ以上か……」
前日の戦闘で自軍は3000の兵を失い、残存兵力は17000。対するミタンニ軍は、昨日の約二倍、恐らく自軍と同程度に届くほどの戦力を展開していた。もはや数的優位は失われ、戦局は一変していた。イッディンは静かに息を吐いた。無策に攻め入れば、自軍は蹂躙されるだろう。しかし、何の行動も起こさずに撤退すれば、それはすなわち敗北を意味する。ニネヴェの王宮、アッシュール・ウバリト王の冷酷な眼差しが脳裏に浮かぶ。
(退けば咎を受け、進めば壊滅する。だが――)
彼は決断した。
「全軍、撤退の準備に入れ。本隊10000は急ぎ撤退を。残り7000はここに残り、退路を死守する」
副官たちに告げられた声は静かだったが、その響きには揺るぎない覚悟と、将としての重みが滲んでいた。イッディンの瞳は、遠く広がるミタンニの陣容を捉えながらも、彼方のニネヴェの王宮をも見つめているようだった。
(我ら中央軍は、アッシリアの背骨。こんな前哨戦で潰してはならん。たとえこの身が罰を受けようとも、アッシリアの未来にこそ戦力を遺すべきだ)
そして、彼は最後にこう付け加えた。
「この決断がどれほど咎められようと構わぬ。王命よりも先に、国の礎を守るのが我らの誇りだ。……私が死守部隊の指揮を執る。本隊は、お前に託す」
命を預けられた副将は、言葉を失いかけながらも深く頭を垂れた。
「……将軍、ご武運を」
内心では(助かった)と安堵しながらも、その覚悟と誇りに敬意を込めた敬礼だった。
その頃、丘の上からその動きを見ていた茜は、双眼のように目を細めて、眼前で撤退を開始したアッシリア軍の動きを見守っていた。主力を巧みに後退させつつ、要所に防衛線を敷いているその陣形――しかも、その動きに乱れは一切なかった。
「あれだけの数の部隊を、一瞬で動かすって……」
唇を引き結んだまま、しばし無言で戦場を見つめた後、ぽつりとつぶやく。
「……なんでアッシリアの将軍って、こんなに思い切りがいいのよ……しかも、躊躇いもなく最適解を選べるなんて」
そこには苛立ちではなく、明確な驚きと、どこか認めざるを得ないという気配すら滲んでいた。
「兵たちも……たぶん急な撤退命令のはずなのに、あの動き……あれだけ整ってるなんて。精鋭って、こういうことなんだ」
小さくため息をつきながらも、茜は初日に舌戦を行った敵の指揮官――イッディン将軍の姿を思い出していた。
「本当に有能な将軍が指揮してる時の軍って、怖いくらい強いのよね……」
その声には、敵ながら一目置くという、戦場の指揮官としての誠実な認識が込められていた。
「アルタイに伝えて。追うなって」
茜は即座に判断を下した。撤退するアッシリア主力をアルタイの騎兵で追撃するのは、数の差を考えれば無謀にすぎた。
「相手は整然と下がってるし、まとまった撤退軍に突っ込んだら逆に各個撃破されるだけ。……それよりも、残ってる連中を確実に叩かないと」
地図の上で指を走らせ、敵の残留部隊の配置を確認すると、鋭く命じた。
「敵正面には、ガルナードの歩兵部隊が突入。左右はミタンニの将軍たちに任せるわ。三方から一気に押しつぶすわよ!」
「主殿、承知しました!」
ガルナードが力強く応じ、前線に向かった。背後でミタンニの将軍たちも、己が部隊へ前進の命を伝えていく。
朝霧の中、三方から展開するミタンニ軍の軍勢が動き出す。金属と革の擦れる音、槍が盾を打つ音が一斉に高まり、やがて怒号とともに草原の戦場に戦の咆哮が満ちていった。
「さあ、一気に押しつぶすわよ――アッシリア」
茜は小さくつぶやき、己の軍の全容を見下ろしながら、静かに拳を握り締めた。ミタンニ軍の歩兵が前進し始めたころ、戦場に弓音が鳴り響いた。ミタンニとアッシリア、両軍の弓兵たちが互いに間接射撃を開始し、戦場の空は再び矢の雨に覆われた。しかし、その矢の精度には明確な違いがあった。
「標的、第二列中央。――射角七度、風向きに注意して」
静かに、しかし確実に響く声。戦場の後方、高地の指揮台から指示を飛ばすのはリュシア。複合弓兵の弦音すら制御するその姿は、まるで戦場における楽団の指揮者のようであった。直率の複合弓兵部隊も含めたミタンニ軍の全弓兵3000――その大半を掌握するのが彼女。精密な計算と経験に裏打ちされた彼女の統制の下、矢はただ無数に飛ぶのではない。まるで視えない魔術に導かれたかのように、確実に敵を討ち抜いていく。
「左翼の弓兵が、崩れ始めました!」
伝令が報告を上げる。リュシアの指揮により、間接射撃に命中補正がかかるミタンニ軍の矢雨は、容赦なくアッシリアの弓兵陣を削り続けていた。
「このままでは、こちらの弓兵が全滅するぞ……!」
イッディン将軍は焦燥に駆られ、戦場を睨みつけた。彼の後方に控えるアッシリアの弓兵たちは、明らかに勢いを失っていた。矢を射れば、返し矢で倍の損害を受け、進めばリュシアの予測射撃に迎え撃たれる。まさに悪夢のような弓戦であった。一方、リュシアは淡々と視線を巡らせる。
「敵弓兵の動き、散開に切り替わります。次は第三列、間を狙って」
放たれた号令と共に、再び矢が空を覆い――その先に、アッシリアの弓兵陣が次々と崩れ落ちていった。冷静で、正確無比な矢の雨。イッディン将軍は前線からの報告に顔をしかめる。矢を打つ隙さえ奪われつつある現状に、彼はもはやためらいなく決断を下した。
「全軍、前進! 中央と右翼は極力持久せよ。左翼に全てをかける。突破せよ!」
雄叫びと共に、アッシリア軍の前進が始まる。死守を命じられた兵たちの動きに迷いはなく、彼らは既に覚悟を決めていた。どこか凄絶な気迫が戦列に宿る。正面では、ガルナード率いる茜の直率部隊とミタンニ軍の精鋭が迎撃した。鋼のような鉄槍歩兵と鉄斧歩兵の壁が形成され、怒号と悲鳴が戦場に響き渡る。
「我らは歴戦の兵よ! ここで踏み止まらずして何を語れようか! 進めッ!」
ガルナードの声が戦列に喝を入れ、兵たちが勢いよく敵を押し返していく。中央では、茜の直率部隊が猛威を振るい、アッシリア軍の前列を次々と打ち倒していった。そしてその直率部隊の戦いに感化され、ミタンニ軍の兵達も善戦する。しかし、左翼――イッディンが兵力を集中させた戦線では、様相が異なっていた。
「突破しろ! 突破すれば活路が開けるぞッ!」
イッディン将軍の鼓舞のもと、アッシリア左翼軍は鋭く突出し、ミタンニ右翼の中枢に肉薄する。あまりの猛攻に、ミタンニ右翼の前線が大きくたわみ、潰されかける。茜はその様子を見つめ、静かに息を吐いた。
「……ここで潰し合うより、退路を残して、相手を撤退させた方が結果的に話は早そうね。ミタンニ軍に後退の命令を出して」
すぐに後退の命令が下され、ミタンニ右翼は統制を保ちながら後方へと下がる。戦線は押し込まれ、アッシリア側に退路を提供する形になったが、茜の判断により、逆に中央と左翼の包囲の網が締まりつつあった。アッシリア軍の奮戦に感嘆しつつも、茜は心中で戦の輪郭を冷静に描き続けていた。――勝利の、確かな輪郭を。その頃、戦線中央では、ミタンニ軍の物量が圧倒的に優勢だった。ガルナードが軍旗を高く掲げ、前線を鼓舞する。
「進め! あと一歩で我らの勝利は確定する!進め!」
鉄槍歩兵と鉄斧歩兵を中心にした重装兵団が、崩れゆくアッシリア中央・右翼を一気に押し潰していく。アッシリア軍も必死の応戦を続けるが、もはや数と勢いの差は埋めがたく、次第に陣形は瓦解し始めていた。一方、突破に成功したアッシリア左翼では、突破した兵達が必死に自軍に唯一残された退路の確保に動いていた。左翼軍の突破を指揮したイッディン将軍に、重傷を負った副官が血まみれの顔で叫ぶ。
「将軍、退却を! 本隊の撤収は成功しています! ここは我々が――」
「黙れ! 私はアッシリア中央軍を率いる者。名誉ある兵たちを見捨てて生き延びるなど、あってはならん!」
将軍の怒声に、部下たちは目を伏せながらも決意を固める。
「それでも、生きていただかねばなりません……!」
次の瞬間、ある兵が静かにイッディンの馬の尻を叩いた。将軍の身体が馬上で揺れ、予期せぬ形で彼の姿は退路の中へと消えていく。
「貴様……なにを……! 私は……!」
振り返る将軍の視線を背に、残された部下たちは最後の陣形を組み直す。
「将軍、どうか……生きて、我らの復讐戦をお導きください」
その言葉と共に、彼らは散り際の輝きのように、ミタンニ軍の大波へと立ち向かっていった。
「なんてしぶといのよ……」
アッシリア軍の死守部隊の最後の塊が自軍兵士によって潰されていく様を見ながら、茜はため息をついた。
「少し撤退路を作ってあげたから、本当の意味で死守したのは一部だけのはず。でも、それでもなんでこんなに士気旺盛なのよ……」
ガルナードが腕を組みながら、静かに頷いた。
「流石は、将来世界帝国を築くアッシリア兵ですな。鍛え方が違う……」
その隣で、リュシアも冷静に戦場を観察していた。
「こちらも戦術的には非常に効率よく攻撃を重ねておりますが……敵の粘りには目を見張りますね」
戦場に散らばる黒き鎧の残骸。アッシリア死守部隊は、確かにミタンニ軍の猛攻の前に崩れ落ちた。とはいえ、その代償としてミタンニ側も少なからぬ犠牲を払っていた。死守部隊の最期を見届けた茜は、部隊の再編と共に、直ちに追撃命令を下した。
「まだ終わりじゃないわ。前進を――敵の本隊を仕留める!」
その頃、前方の地平線上には、もうもうとした土煙が立ち上っていた。進軍するミタンニ軍の偵察兵が戻ってきて報告する。
「前方にて、ミタンニ中央軍が敵主力と交戦中! 数は拮抗している模様!」
「やっぱり……間に合ってたのね。ありがとう、中央軍!」
茜の眼が輝く。彼女の指揮する北方軍は、そのまま速度を上げて前進し、やがて視界の先に戦場の全景が現れる。アッシリアの撤退部隊10000と、ミタンニ中央軍15000――両者は激しくぶつかり合い、膠着していた。
そして――
「全軍突撃! 敵の背後を叩くわよ!」
茜の命令一下、ミタンニ北方軍がその背後に襲いかかる。突如背後を突かれたアッシリア軍に、もはや反撃の余力はなかった。
「挟撃だ――包囲される!」
叫ぶ兵の声が、混乱と絶望の波となって戦場を覆っていく。残されたアッシリア中央軍の指揮官たちは、イッディン将軍のような統率力とカリスマを持ち合わせてはいなかった。前線と後方の連携は崩れ、命令系統は乱れ、やがて兵たちの戦意も断ち切られる。
――こうして、アッシリア中央軍はついに、全面降伏を選ぶこととなった。
戦が終わり、捕虜となったアッシリア兵たちが整列させられる中、ミタンニの将軍たちはすでに次の段取りを決めていた。
「指揮官クラスはすべて斬首すべきでしょう。兵も奴隷として扱うのが当然かと」
茜はその声を制した。
「……それじゃ、いつまでたっても敵のままよ」
彼女の声は静かだったが、確かな意志を帯びていた。
「今のアッシリアは、自分たちが征服した土地の信仰をすべて壊そうとしてる。力でねじ伏せて、自分たちの神だけを押しつける。でも――」
彼女は捕虜たちの列を見つめた。
「ここで私たちが慈悲を示せば、彼らの中に新しい考えが芽生えるかもしれない。たとえ戦った相手でも、その信仰や文化を尊重すべきだって。恐怖じゃなく、敬意と畏怖をもって接するべきだって」
そして、少しだけ息を整えると、言い切った。
「もしそれが将来、アッシリアの方針を変える種になるなら……それこそが、この戦いで一番の勝利なのよ」
ミタンニの将たちは顔を見合わせた。誰もが疑念を抱いていたが、これまでの茜の実績と、アカーネとしての威信の前には逆らえなかった。こうして、捕虜たちは斬首も奴隷化も免れ、ワシュカンニへと移送されることが決まった。処遇の報せを受けたアッシリアの捕虜たちは驚愕し、特に指揮官クラスの兵士たちは目を見開いた。
「我らの神以外の神から……慈悲を受けるとは……」
信じ難い現実に混乱を隠せないまま、彼らは沈黙しながら列をなして連行されていった。その光景を見届けた茜は、そっと呟いた。
「これで将来、あの中から新たな芽が出てくれればいいけど……」
するとユカナが横から飄々と笑う。
「茜らしいけど、もし本当にアッシリアの方針を変えさせることが出来るか、アカーネ信仰が広まったら……それ、すごい話になるよ?」
「まあね。でも、そうなったら伝説としては面白いわね」
その隣でミラナが真剣な顔で何かを書き留めている。
「……将来のための信仰獲得方法と、国家方針変更のための戦略方針……このやり方は今度使えそう……」
「ちょっと、ミラナ。私はあんたに神力会得講座してるわけじゃないんだけど!?」
茜のぼやきに、周囲はどっと笑いに包まれた。戦の重苦しい空気のなか、久しぶりに指令室に穏やかな明るさが戻ってきたのだった。




