7話 命を預ける駒、その重さを知るとき
転送の光が消えた瞬間、茜の足元に広がったのは、視界いっぱいの草原だった。
「うわ……空気、ぜんぜん違う」
草の匂い、遠くに舞う土煙、揺れる草原の波。そこは、ただの演出では済まされない“リアル”があった。
「これ、もう本当にゲームじゃないな……」
肩をすくめつつも、茜は気を取り直し、胸元の戦況盤を展開する。淡い光の盤面が宙に浮かび、そこに陣形データが次々と表示された。
「全体配置、確認を。今回の味方陣形は以下の通りです」
リュシアの指示と共に、ホログラム上に味方陣の布陣が展開される。
「前衛は軽槍兵四部隊。中央に二部隊、左右に一部隊ずつ配置した扇形陣形」
「ふむふむ。盾と槍で広く構えて、正面を抑えるって感じね」
「その後方、左右第二線に投槍兵二部隊。中距離攻撃で前衛を援護します」
「投げる部隊ね。ちゃんと左右に振ってるの、偉い偉い」
「中央第二線に神官戦士。士気支援と陣形補正を担当」
「……あの人たち、地味に有能なんだよね。騒がないけど、効いてる感じ」
「司令部はそのさらに後方。主と私、そしてユカナ様が配置されています」
「はーい、安全第一でありがと」
その頃、ユカナはスリッパをパタンパタンと鳴らしながら、まだ眠たそうにあくびをしていた。
「……転移のたびに耳が詰まる感じする……あれ、苦手……」
「毎回言ってるよね、それ」
「慣れないものは慣れないの……」
そんなやりとりを無視するように、リュシアが最後の報告を続ける。
「そして——」
戦況盤の右後方が強調表示される。
「この位置に、シュメール戦車部隊を配置済みです」
「出た、“ゴロゴロゴトン部隊”!」
「……表現はともかく、戦術的には適正です。機動力を活かして敵前衛を迂回して、敵後衛への突撃運用を想定しています」
茜は盤面を見つめながら、鼻先で笑った。
「さあて、今度の相手は“ただのこん棒野郎”だけじゃなさそうだし……配置通りに動いてくれるか、試してみよっか」
「初動配置、全ユニット確認完了。全体陣形、維持良好」
リュシアが軽く頷き、指揮官の駒を自分の前に滑らせた。
そして——戦場が、静かに呼吸を始める。
軽く伸びをしながら前線を見渡していた茜は、ふと気になって、最前列に並ぶ軽槍兵たちへと歩み寄った。淡く揺れる草の匂いと、槍先の光が風にきらめいている。
「ちょっと、指揮官さん」
茜が声をかけると、中央部隊の一つを指揮していた壮年の男が振り返った。筋張った腕と日焼けした顔。青銅の槍を手にしたその姿は、兵士というより“青銅時代の戦士”そのものだった。
「茜殿?……何か御指示を?」
「今回、敵に遠距離攻撃してくるやつがいるって聞いたんだけど、大丈夫? 槍兵って、そういうの苦手じゃない?」
その問いに、男は真面目な眼差しで頷いた。
「盾の訓練はしております。ですが……時間がかかれば、それだけ損害も増えましょう」
彼は一度、隊列を振り返る。若い兵士たちが、風にたなびく草の中で無言のまま、戦場を睨んでいた。
「敵が混乱する前に、こちらから一気に仕掛けるのが最善です。被害を抑えたければ、速戦です。我らにお任せを」
「……なるほどね」
茜はうなずいた。そして、隊列に並ぶ兵士の顔を一人ひとり見ていく。その目には、覚悟が宿っていた。決して訓練用のモブデータなんかじゃない、“命を預けている人間”の顔だった。
「これ……もうゲームじゃないんだな……」
彼らが盾を握る手、汗に滲む首筋、揃った隊列。すべてが“現実”として、茜の目に焼き付いた。
「そろそろ……武装とか、ちゃんと上げてあげなきゃ……このままじゃ、こっちの勝ちでも……倒れる人は増えるんだよね……」
ぽつりと、独り言のように漏らしたその言葉を、背後で聞いていたリュシアが静かに拾う。
「……今回の導き手は、人の心を持っているようですね」
その声音は、少しだけ柔らかかった。
「え、なに? 皮肉?」
茜が苦笑しながら振り返ると、リュシアは首を横に振った。
「いえ。ただ、私の記録する過去の導き手の多くは、“駒としての効率”しか見なかったもので」
「……あー、それはちょっとわかる気がするわ」
そのとき、少し離れた場所で、ユカナがスリッパをパタパタ鳴らしながら呟いた。
「今回の人、いろいろ言ってるけど……すごく優しい人だね」
その声は風に紛れて、誰にも届かなかった──と思いきや、茜が振り返ることもなく、ぽつりとつぶやいた。
「聞こえてんだよ、そーいうのは」
「……えへ」
ユカナは少しだけ笑って、また草の上に腰を下ろした。
****
空が、低く唸るような音を立てた。丘の向こう——その稜線に、黒い影が現れる。
「敵、確認」
リュシアの言葉とともに、戦況盤に赤い印が浮かび上がる。
敵第一陣——こん棒戦士の部隊が、散開しながら草原を突き進んできていた。人数は5部隊、総勢500。武装こそ貧弱だが、迫り来るその勢いは“暴力の塊”と呼ぶにふさわしかった。
「……相変わらず、わかりやすい脳筋編成ねぇ」
茜は顔をしかめながらも、戦況盤に手をかざした。だがその直後、敵陣の奥に、違う波動が現れる。
「……来てます。第二陣、確認」
その後方には、骨飾りをつけ、地面に太鼓を叩きつける「魂送り人」。隣では「炎の担い手」たちが、火種を手に構えていた。どちらも異様な出で立ちだが、魔術や呪文などは存在しない。彼らは現実的な“心理戦”と“火計”で敵を崩す、古代らしい戦術の担い手だ。
さらにその奥、狩人3部隊。既に弓を構えて待機していた。
「三層構成ですね。前衛をぶつけて撹乱し、中衛で動揺を誘い、後衛が削る流れです」
「頭使ってきたな……」
茜は肩をすくめながらも、戦況盤に指を滑らせる。
「でも、うちの布陣もなかなかよ? 投げ槍部隊、準備できてる?」
「はい。左右の第二線、合計200名の投槍兵、全員展開済み」
リュシアの声と同時に、後方で構えをとっていた兵たちが、青銅の短槍を肩の高さに掲げた。緩やかな上体の振りとともに、突撃してくる敵に照準を合わせる。
「投擲距離、調整完了。……放て!」
空気を裂く音が草原に走った。二百本の槍が一斉に放たれ、まるで銀の雨のように敵前衛へと降り注いだ。
「うおっ……すげ……」
茜が思わず目を見張る。
槍は的確に命中し、突撃していたこん棒戦士たちの一部が倒れ込む。列は乱れ、後列が前列にぶつかって動きが鈍った。統率のない部隊だからこそ、乱れは一気に伝播する。茜が小さくガッツポーズを取った、その時。
「うわ、煙……?」
前線左側の草原が、徐々に白くかすみはじめた。炎の担い手たちが、火壺から火種を落とし、風下へと放り投げていたのだ。乾いた草に火が走り、あっという間に小さな炎が広がってゆく。
「放火かよ……マジで現実的な嫌がらせしてくるな……!」
「はい。この時代の火計は、技術ではなく“野火”です。火勢は風次第ですが、煙での視界阻害が主な目的です」
さらにその隣で、魂送り人たちが奇妙な太鼓のようなものを地面に置き、低く響く音を打ち鳴らしていた。兵士たちが不安を煽るような声を上げ、死者の霊を送るような儀式めいた振る舞いを見せる。
「……あれ、魔法とかじゃないのよね?」
「はい。ただの“演出”と“心理戦”です」
「……でも、ちょっとだけ効いてる感じはあるかも」
実際、最前列の軽槍兵たちはわずかに顔をしかめ、盾を握る手に力を込め直していた。だが——それでも、隊列は崩れなかった。騒がず、動揺せず、規律のとれた動きで盾を構え続け、後列の兵が静かに仲間の肩を叩いて落ち着かせている。
「……ちゃんと守ってる……」
茜はその光景を見て、胸の奥にじんわりと安堵が広がるのを感じた。さっきのやりとりが、ふと脳裏に蘇る。
——「敵が混乱する前に、こちらから一気に仕掛けるのが最善です」
——「被害を抑えたければ、速戦です。盾の訓練はしております」
真剣な目でそう語っていた軽槍兵の指揮官の顔が浮かぶ。
「……がんばってね」
茜は小さく、戦況盤の前で独りごとのように呟いた。背後では、リュシアが無言でその様子を見つめていた。何も言わない。ただ、静かに、確かに、見届けていた。
「前線、接触!」
敵こん棒戦士の怒号が響き、最前列の軽槍兵部隊と衝突する。だが、小型盾を構えた兵たちは微動だにせず、低い姿勢で迎撃の態勢を取っていた。
「左翼、安定。中央、防御維持。右翼、敵隊列を押し返しに成功」
リュシアが次々に報告を上げる。その隣で、投槍兵たちは依然として連携を崩さず、槍を次々と投じて敵の後続を制圧し続けていた。神官戦士たちもまた、前衛の間を駆け、崩れかけた箇所に素早く声を届け、陣形の穴を即座に埋めるよう布陣を補正していく。
「戦況、好転中。前衛、陣形維持のまま敵第一陣と交戦中です」
リュシアの声が落ち着いている。だが、その隣で茜は、戦況盤の右下にある自軍の戦車のユニットを見ていた。
「……今出して。リュシア、例の“ゴロゴロ部隊”、突撃準備」
「分かりました。シュメール戦車部隊、前進!」
その号令と共に、風の中にざらついた音が混じる。
ゴロゴロ……ゴトン、ゴロゴロゴロ——
丘の陰から、木と革で組まれた素朴な二輪戦車が姿を現す。前に御者、後ろに槍兵。そして、その車体を力強く引いているのは、筋肉質なロバたち。装飾も派手さもない。ただ、地を蹴る足音と、木製のソリッドホイールが地面を噛む重たい音だけが響いていた。
「なんだ、アレ!?」
「こっちに来るぞ!?」
敵陣の最奥、狩人たちがざわめく。こん棒しか知らぬ原始の戦士たちにとって、それは見たこともない“走る壁”だった。
「この距離ならまだ私の指揮範囲ですね。シュメール戦車部隊、突撃! 目標、敵第三陣・狩人部隊!」
リュシアの指揮が鋭く飛ぶと、戦車たちは一斉に速度を上げた。茜は思わず身を乗り出す。
「ゴロゴロ、行けぇえええ!!」
50台のシュメールの戦車が、砂塵を巻き上げながら草原を直進する。そして、そのまま敵の狩人部隊に突入した。逃げ場を失った狩人たちが混乱し、弓を投げ出して散り散りに逃げ始める。
「狩人、壊走確認。隊列崩壊、後退開始」
リュシアが冷静に報告するその背後で、茜が戦況盤を覗き込み、にんまりと笑った。
「やっぱり、原始人に戦車は効くね……!」
戦車突撃の衝撃が全軍に広がる前、前線でも戦闘が激化していた。投槍兵の継続支援を受けながら、軽槍兵たちは動揺したこん棒部隊を制圧し始めている。
「そろそろですね…軽槍兵、突撃開始。中央突破へ!」
リュシアの指示に従い、小型盾を掲げた兵士たちが、前へ一歩、また一歩と進み出る。第一陣のこん棒戦士たちは、既に秩序を失っていた。指揮系統もなく、ただ怒声で突撃してきた彼らにとって、訓練された槍兵と支援の投槍は分厚い壁だった。
「敵第一陣、撃破。前衛突破完了。そのまま前進!」
神官戦士たちは即座に布陣を補正し、士気を維持するために前線を巡回する。煙がやや薄れた草原の中央、槍兵たちは整列を維持しながら、次の標的——太鼓を打ち鳴らす魂送り人たち、そして放火を続ける炎の担い手へと歩を進めていた。
「このまま、押し切る!」
茜が戦況盤を叩くようにして言う。勝利の構図が、静かに整いつつあった。軽槍兵たちは、煙が引き始めた草原を抜け、敵中衛——魂送り人と炎の担い手の陣地に踏み込んだ。太鼓を叩いていた男たちは、槍兵の迫力に気圧されて動きを止め、慌てて後退しようとしたが、すでに遅い。突き出された青銅の槍が、沈黙のまま前進を止めない。
「軽槍部隊、敵中衛との交戦、始まりました」
リュシアの声は変わらず冷静だった。魂送り人たちは武器も訓練も持たぬ“士気担当”にすぎない。陣形という概念もなく、彼らの叫びはもう誰の耳にも届かない。一方、炎の担い手たちは最後の火壺を投げようとしたが、その手は槍によって阻まれ、体ごと押し倒された。
「敵第二陣、戦闘不能。残存者は後退中」
それは、逃走ではなく、崩壊だった。そして、戦場の最奥では——
「戦車部隊、狩人の残敵を追撃中です」
砂塵の中、ロバに引かれた戦車がひときわ大きな弧を描きながら疾走する。逃げ延びようとしていた狩人の背後に回り込み、再び槍を投じた。弓を放つ間も与えられず、次々と矢を捨てて逃げる敵兵たち。戦車の車輪は彼らの戦意も、整列も、容赦なく踏み潰していった。やがて、すべての敵の影が、戦況盤の上から消える。草原を包んでいた喧騒が、潮が引くように静まり返った。リュシアが一歩前に出て、手をかざす。
「各部隊、遺棄装備の回収を」
その声に応じて、兵士たちは手際よく動き始めた。地に倒れた敵兵から武器を取り上げ、生き残った者には拘束を。神官戦士が傷者を確認し、投槍兵たちが落ちた槍を集めていく。
そして——
茜の手元にある戦況盤が、ゆっくりと光を失い始めた。空中に浮かぶ盤面の映像が淡く揺れ、データが整理され、各部隊の駒が自動的に元の位置に戻っていく。
「……これ、やっぱり、ただの戦術シミュレーションじゃないよね」
茜は小さく呟いた。満足感と、微かな疲労と、そして言いようのない“現実味”が、胸の内に残っていた。リュシアは彼女の横顔を一瞥し、黙って頷いた。勝利は、確かにこの手でつかんだものだった。これは、命のやり取りがあった——そう思わせるには十分すぎるほど、リアルすぎた。