60話 風の神アカーネ、再び神話となる
陽が東の空から姿を現すと同時に、ワシュカンニの地に再び戦の喧騒が甦った。ヒッタイト王国軍による第二次総攻撃の号砲が鳴り響き、兵たちの鬨の声が城壁に向かって沸き上がる。
本陣背後の高台に設けられた「巫女台」には、茜をはじめとして、ユカナとミラナ、そしてエンへドゥアンナが並び立っていた。それぞれが異なる表情で戦場を見つめている。その足元には、軍全体の指揮を執るスッピルリウマ一世の姿がある。鋭い視線を城壁へと向ける彼の隣には、ピヤッシリ王子や他の将軍達も控え、黙然と成り行きを見守っていた。
「……それじゃ、やるか」
茜が風を受けて揺れる髪を抑えながら、淡くつぶやく。
戦場では、再び正門を目指して重々しく進む新たな破壊槌が、その巨体を揺らしながら前進していた。金属で補強された車体が、土煙を上げながらゆっくりと城壁に接近していく。それを待ち構えるかのように、ワシュカンニの城壁上からは矢の雨が降り注いだ。鋭く研がれた石鏃が、空を裂いて唸りをあげ、前進するヒッタイト兵たちの盾に突き刺さる。続いて投石が始まり石塊が空を飛び、音を立てて地面をえぐる。幾つかの石塊は破壊槌に命中し、表面を削り、外板を砕いた。破壊の応酬は昨日とまったく同じ構図に見えた。
「さあ……舞台も整っているし…あとは、誰が主役になるか、ね」
茜の視線が、戦場のその先、まだ静かに構えている自らの攻城塔へと向けられていた。やがて茜が合図を送ると、攻城塔がワシュカンニの城壁に向かって動き出す。戦場を進む、八基の塔。その異様な光景が、戦場の空気を一変させた。
ヒッタイト本陣の丘の上、巫女台から静かに手を振り下ろした茜の命に応じるように、攻城塔が整然と前進を開始する。木材と青銅で補強されたそれらは、まるで大地から突き出した巨人の如く、堂々たる威容を誇っていた。
「なんだ、あれは……塔が、動いている……?」
「城壁と……同じ高さだと……!?」
ミタンニ王国の守備兵たちが混乱と動揺を見せる。彼らに迫る塔の上からは、複合弓兵たちが的確に矢を射出し、城壁上のミタンニの兵を次々と撃ち抜いていった。昨日は届かなかった矢が、今日の塔からは容赦なく届いてくる。
「高低差がない……これでは有利に戦えない……!」
ミタンニ兵の士気が揺らぎ始める。射撃位置の優位性を失い、また矢を射ようと立ち上がった瞬間に射抜かれる。まさに“神の軍勢”とでも呼ぶべき、圧倒的な力の投入だった。巫女台の下では、スッピルリウマ一世はこの異様な戦場の変化に目を細めた。
「……神の軍か……まさか、あの巫女がここまでの力を」
静かに呟いたその声に、隣のピヤッシリ王子が口を開いた。
「父上、実は……あの者は本人の意思で巫女として振る舞っているようですが、シュメールの伝承では、神格そのものとされております。バビロニア王国の神官たちも、それを認めております」
スッピルリウマは眉をわずかに動かす。
「……時を超えた神の巫女、か。信じるには荒唐無稽すぎるが……だが、事実としてこの戦場を変えつつある」
目を細めながら、王は大きく右手を掲げた。
「よいか! 本日、我らは神の加護を得た! もはや退く理由はない! 全軍、再突撃せよッ!」
その声が響いた瞬間、ヒッタイト兵たちの鬨の声が空を裂いた。神の塔の援護のもと、再び全軍が勢いを増して城壁へと殺到する。攻城塔が城壁に到達するまで、あと少し。茜は巫女台の上で静かに、次の段階へと備えを進めていた。
「……そろそろか」
茜は巫女台の上で静かに呟いた。視線の先では、ヒッタイトの破壊槌が正門直前まで迫り、今まさに正門前に到着しようとしていた。その巨体は、激しい矢雨と投石の中を耐え抜きながら、ずしん、ずしんと地を鳴らし進んでいく。
その正面で、ミタンニの守備兵たちが慌ただしく動く。既に幾人かが城壁の上から岩を抱え、再び破壊槌を叩き潰そうと備えているのが見えた。茜は、横に控えていたミラナにわずかに身を寄せ、小さく囁いた。
「いい、残念神。私が手を振り下ろした瞬間――正門に雷を落として」
ミラナはごくりと唾を飲み込む。
「うん……あの門はさすがに壊せないけど、私の神力、全部使って派手に雷を落とすよ。あなたの作戦、信じてるから……きっとこれで、私の信仰も生まれるよね?」
その横で、ユカナが小さく肩をすくめた。
「上位神に信じられる下位神って…でも茜だからね…」
ミラナは自分のこぶしをぐっと握りしめ、意気込む。
「よーし……信仰のためだもんね。やってやる!」
一方、エンへドゥアンナは黙したまま、巫女台の隅で神妙な面持ちで戦場を見つめていた。彼女はまだ、茜たちの動きを察してはいない。ただ、茜が“何か”をやろうとしていることだけは、ひしひしと感じ取っていた。
そして、茜が右手を高々と天に掲げる。
「――雷神タルフンナよ!」
その声が、戦場の騒音をも打ち消すように響く。
「明星の女神ミラナの名によって命ずる。我が咒に応えて、裁きの雷! 神罰の槌を――あの門に刻めッ!」
空に掲げられた茜の手が、真っ直ぐに振り下ろされた。
「マジ!? 面白そう!!」
ミラナが歓声のような声と共に、全神力を解き放つ。その瞬間、澄み渡る青空に異変が走った。
ゴロロロロ……ッ!!
遠雷ではない。真上から、轟音とともに紫電が走る。
――ズドォン!!!
白光が大地を貫いた。
ミタンニの王都ワシュカンニの正門に、突如として落ちた雷。その一撃は、まるで神が大槌を振り下ろしたかのような衝撃と轟きをもって、門前の空気を灼いた。
その瞬間――
戦場が、静まり返った。
敵も味方も、誰もが動きを止め、ただただその光景に目を奪われた。砕け散った石塵が宙に舞い、焦げた大地が白煙を上げる。
「スッピルリウマ王、何をしているのです! 今こそ城門を打ち破るとき、進撃の命令を!」
巫女台の上から鋭く声を飛ばす茜の言葉に、スッピルリウマ一世はハッと我に返った。
雷鳴が轟いた直後、戦場には一瞬、信じがたいほどの静寂が広がっていた。敵も味方も、天空から落とされた“神罰”の威容に、ただ呆然と立ち尽くしている。
スッピルリウマ一世の瞳に、再び戦の炎が宿る。
「……そうだ。いまこそ好機!」
彼は剣を高く掲げ、力強く命じた。
「神の加護がある! 全軍、ワシュカンニへ突入せよ!」
その号令とともに、戦場の空気ががらりと変わった。
「破壊槌、正門へ! 打ち破れ!」
怒声が飛び交い、重々しい木製の破壊槌が再び前進。城門の前で守備兵たちが動揺する間に、刃を振るうような勢いで槌が正門に打撃を開始する。ゴンッ、ゴンッ、と鉄と木がぶつかる重低音が戦場に響き、城壁が震え始めた。
その傍では、茜が投入した八基の攻城塔がついにワシュカンニの城壁へと取り付き始めていた。塔の上段からは複合弓兵たちが矢を連射し、城壁上の敵兵を次々と追い払う。塔の橋が城壁にかかると、茜の鉄斧歩兵たちが次々と駆け上がっていく。
「巫女様の軍に続け! 突入せよ!」
ヒッタイト軍の兵士たちも、その流れに乗って梯子を登り、攻城塔を使い、次々と城壁へ突撃を仕掛けていく。
そして――
破壊槌が、ついに正門に深々と食い込んだ。数度の衝撃が加えられたのち、きしむような音とともに門扉が軋み、歪み、ついに裂けて崩れ落ちた。
「門が開いたぞ――!」
ヒッタイト兵の歓声が戦場を駆け抜ける。突破口を得たヒッタイト兵たちは、怒涛の勢いで門をくぐり、城内へなだれ込んでいった。両翼では、攻城塔からも続々と兵士たちが城壁を超え、城内への進軍が始まる。神罰の雷と攻城塔の圧倒的な火力、そしてそれを支えた巧みな戦術によって、ミタンニ王国の城壁は、ついに破られたのだった。
城門が破られてからの戦況は、あまりに一方的だった。
ミタンニ兵たちはあまりの衝撃に言葉を失い、弓も剣も手から落とし、目の焦点すら定まらぬまま佇んでいた。誰一人として、もはや戦おうとしない。それは絶望ではなく、完全な敗北を受け入れた民の姿だった。
「武装解除を急げ。略奪は一切禁ずる」
スッピルリウマ一世の命令が徹底され、ヒッタイト兵たちは混乱を抑えつつ秩序ある進軍を遂げる。火の手もなければ、略奪の歓声もない。ただ淡々と、占領は進められていった。
そして、午後。
ミタンニ王宮の奥深くから、玉座の間に引き出されたのは、国の主として最後までその座にあった男――シュッタルナ三世であった。
彼は深々とした衣をまとい、憔悴の色を見せながらも、眼差しにはまだ力を宿していた。城が落ち、兵が武器を捨てた今となっても、その姿に怯えや取り乱しはない。いや――それは意図的に演出された威厳だった。
(どうせヒッタイトはミタンニを潰すのではなく、従属させるつもりだ。アッシリアへの盾として使うなら、王の器を失うわけにはいくまい。ここで命を差し出すそぶりを見せてやれば、奴らも迂闊に斬れまい)
そう見切ってのことだった。自らの立場の価値を、彼は誰よりもよく理解していた。だからこそ、堂々と歩み出る。敵将の前に跪くそぶりは見せず、スッピルリウマ一世と正面から対峙した。
「我が命を差し出そう。だが、兵たちの命は救ってやってほしい」
声には悲愴さも、潔さもにじませていた。だがその実、彼の心には確信があった。この“申し出”を断ることは、支配者としての合理性を欠く――と。
スッピルリウマ一世はその言葉を静かに聞き、目を細める。
「……ふむ、確かに、貴様はその程度の芝居は打てる男であったな」
その一言で、空気が変わる。王の眼差しは冷え切っていた。
「貴様の命が価値を持つなどと、いつ錯覚した。――我が問いたいのは、別のことだ」
合図とともに、脇から進み出た側近が、一人の青年を連れてくる。その姿を見た途端、シュッタルナ三世の口元が引きつる。
「あ……っ、まさか……」
王は無慈悲に断じた。
「どうやら分かったようだな。貴様の父、アルタタマ二世が暗殺した王、トゥシュラッタ。その子――クルティワザ王子。我がヒッタイトが、長く保護していたのだ」
すべてを見透かしていたかのような宣告。シュッタルナ三世の確信は音を立てて崩れ去り、その場で膝をついた。
「ばかな……私が居なければ、ミタンニはまとまらんぞ!」
その叫びは、もはや誰にも届かない。ヒッタイト軍の兵士が彼を拘束し、断罪の刃が静かに下された。その断末魔は、誰の耳にも届かなかった。しんと静まり返った王宮の空気の中、スッピルリウマ一世は若きクルティワザ王子に歩み寄り、堂々と宣言する。
「この者を、ミタンニ王国の新たなる王とする。我が庇護の下に、今後はヒッタイトと共に歩むのだ」
ヒッタイト兵が歓呼の声を上げ、ミタンニの民もまた、旧王家の血を引く者の帰還に安堵の溜息をもらす。
遠くからその光景を見守っていた茜は、ふっと笑った。
「王様すげー……話が出来過ぎてるくらい、完璧なんだけど」
その言葉に、ユカナが小さくうなずきながらもつぶやく。
「茜、自分が何やったか本当に分かってる?今さら言っても遅いけどさ」
降伏したシュッタルナ三世が処刑され、クルティワザ王子が新たな王として立てられた直後――ヒッタイト軍の勝利は確実なものとなり、戦場の空気には安堵と祝祭の気配が混ざり始めていた。
ミタンニ王国の崩壊が確定し、王都ワシュカンニの広場には、将軍たちと兵士たちが整然と集まっていた。処刑された王シュッタルナ三世の亡骸は既に片づけられ、代わって新王として迎えられたクルティワザも居た。
その場の中心、勝利を収めたスッピルリウマ一世は、戦場の埃をものともせず、堂々たる足取りで茜の前に進み出る。そして、兵士たちと将軍たちが見守る中、彼は一瞬のためらいも見せず、茜の前で膝をつき、深々と頭を垂れた。
「シュメールの大巫女殿……いえ、あなたのご意思とは異なることは重々承知の上で、あえて申し上げます。風の神アカーネ様――」
その声はよく通るものであり、戦場に居合わせた全員に届いた。スッピルリウマの意図は明白だった。これは、戦の終結を告げる“神への感謝”という名の、政治的演出だった。
「この度、我が国に降臨し、神意と勝利を授けてくださったこと、心より感謝申し上げます。貴女の加護によって我らは無用な犠牲を避け、この地に新たな秩序をもたらすことができました」
王の言葉が終わらぬうちに、ピヤッシリ王子がその隣に一歩進み出て、凛然とした声で告げる。
「父上。私からも申し上げます。アカーネ様はまさしく、この地に再び顕現された風の神です。我が国に神が味方されたこと、それこそが今日の勝利の真の証です」
その言葉に、ヒッタイト軍の将軍たちが静かにひざを折る。最初は一部の者だけだったが、王の姿を見ていた兵士たちも、次第に次々と跪き、ついには広場の全体が地に伏した者たちで埋まった。
完全なる“儀式”の完成だった。
茜は、そんな光景の中心で、顔をひくつかせながら身じろぎもできずにいた。
「え、ちょっ……いや、だから私ほんとに神じゃなくて。いや、お礼は欲しいけど、なんか違う……」
小声の抗議は誰にも届かない。スッピルリウマはそのまま、厳かに続ける。
「供物と祭祀は、正式に用意させましょう。また、ピヤッシリから報告を受けております――今回の勝利をもたらした風の神ユカナ、雷をもって裁きを下された明星の神ミラナ、両神に対しても、我がヒッタイト王国にて祭祀を行わせていただきます」
「うおおおおおおおっ!!!」
その瞬間、どこかからミラナの叫びが上がった。
「信仰来たーっ! これ絶対神力上がるやつじゃん!」
「……あの人ほんとに上位神なんですよね?」
リュシアが呆れたようにぼそりとつぶやき、
「まぁ、ミラナさんも、今回は茜の言うことに乗って正解だったみたいだね」
ユカナが苦笑混じりに肩をすくめた。
一方で、そんな騒ぎのすべてを目に焼きつけていたエンへドゥアンナは、神界の紙に筆を走らせていた。
「ヒッタイトにも風の神アカーネの神話を刻まねば……!」
彼女の筆先からは、まるで祝詞のように荘厳な詞が紡がれていく。
風を率いし神アカーネ、天の雷を導きて
明星の女神を告ぎて咒を発す
八つの塔、空を裂きて戦の幕を拓き
神罰の雷、城門を穿ちて鉄の軍勢を導く
かくして地は震え、王国は膝を屈す
「なんでこうなるのよ…」
茜は顔をしかめながら、頭を抱えるように天を仰ぐ。
「茜、アラッタの時もそうだったけど……ほんと、やりすぎ」
ユカナが肩をすくめてため息をついたが、その声音はどこか楽しげだった。
「主の演出力には、改めて恐れ入りました……ですが、もうこの時代でも後戻りできませんよ」
リュシアはこめかみを押さえつつ、呆れたように小声でぼやいた。
「いやはや……神々の助力あっての勝利とはいえ、あの雷と攻城塔の連動……見事なものでした。主殿には謹んで敬意を」ガルナードは武人らしく、背筋を伸ばし深く一礼する。
「……やっぱり今回の主、只者じゃねぇわ」隣で腕を組んでいたアルタイは、苦笑しつつ茜の姿を見やった。「最初はただの怖い姉ちゃんだと思ったけど……あれはもう、災厄か祝福かってレベルだな」
四人四様の反応が飛び交う中、ただひとり当の本人である茜は、なおも頭を抱えたままつぶやいた。
「この時代でも、また神にされちゃうよ……」
――こうして、ワシュカンニの空に新たな神話が刻まれることとなった。しかも、本人の意図とは全く別の形で。




