50話 神をも退けし一撃――風の大巫女、戦場に神話を刻む
シュメール軍の陣列が静かに、しかし確かな変化を見せていた。第一線で消耗していた兵たちが、まるで波が引くように徐々に後退してゆく。代わって前へと進み出るのは、疲労も傷もない、第二線に温存されていた新手の部隊だった。
槍の列が整い、盾が音もなく掲げられる。押し寄せるその勢いは、まさに「力の波」であり――。
それを迎え撃つアラッタの前線部隊は、幾度も傷を負いながらも、その場に踏みとどまっていた。祖国を背負い、最後の一歩まで守り抜こうとするその姿勢は、兵一人ひとりに驚くべき粘りと気力をもたらしていた。
だが――。
「……新手だと……?」
アラッタの将たちは、目の前に現れた新たな敵の列を見て、膝の奥にじわりと震えが広がるのを感じていた。重ねた傷、失われた仲間たち。そして、容赦なく押し寄せてくる敵の兵たち。最初に崩れたのは、左翼の一角だった。小さな突破口が、次第に裂け目となり、やがて戦列全体を揺るがす。
「退くな! 踏みとどまれ!」
ザルマフ王の怒声が響く。しかし、兵たちはすでに限界だった。
その様子を見届けたザルマフは、唇をかみしめた。
――よくここまで戦ってくれた。これが我が民か。
誇りと感謝が胸に湧き上がる。しかし、現実は残酷だった。このままでは、全軍が包囲され、殲滅されるのも時間の問題だった。
「兄上……撤退を。王たるあなたが生きねば、アラッタは終わります」
静かに、だが鋭く進言するのは、神官長エナ=シェンだった。
「指揮は、私が執ります。兄上は、都へ戻ってください」
「否――それはならぬ」
ザルマフはきっぱりと首を横に振った。
「兵がここで命を懸けているのだ。王がそれを見捨てて逃げるなどあってはならぬ」
ザルマフ王は、再び戦場を見渡した。アラッタ軍の戦列は崩れ始めている。もはや一時の猶予もない。だが、目の前の兵たちは、最後まで祖国を守ろうと、未だ剣を手放していなかった。その姿に、王は静かに息を吐いた。
「……戦車隊、我と共に前へ出る。敵陣に突撃し、混乱を生じさせる。少しでも時間を稼ぎ、兵たちの撤退を援護する」
エナ=シェンが、驚愕の色を浮かべて振り返る。
「兄上、まさか……ご自分が前線へ?」
「他に誰が行く。もはや私の命など惜しくはない。王たる者、最後に民を守らねば、何の意味がある」
「ならば、私も――」
「エナ=シェン」
その一言に、神官長は言葉を失った。ザルマフの目には、王としての命が宿っている。
「これより先は、そなたが軍の指揮を執れ。退却の道を切り開き、兵たちを生かすのだ」
「……嫌です。そんな命令、私には――」
「命令だ」
ザルマフはきっぱりと言い切った。
「私が時間を稼ぐ。その間に、必ず全軍を退かせよ。アラッタの灯を、絶やしてはならぬ」
エナ=シェンは、その場に膝をついた。
「……かしこまりました。神に誓って、やり遂げてみせます」
「感謝する、妹よ」
王は、神官杖を握る彼女の肩に手を添えると、振り返って戦車隊へと歩み出た。列を成して待つ黒き戦車たち。その兵たちは、無言で王に従う構えを見せる。
「戦車隊、進撃――!」
その号令と同時に、雷鳴のような地響きが大地を揺るがした。
――そして次の瞬間、天が割れる。
天空を裂くような轟音。雲ひとつなかったはずの晴天が一瞬で陰り、空に漆黒の裂け目が走る。
「……雷鳴?」
誰かがつぶやいたその刹那、紫電が天地を貫いた。その中心――天の裂け目から、ひとりの女神が降臨する。光の柱の中に浮かぶその姿、長衣は風もないのに揺れ、足元には雲すら形作られる。彼女の到来に、戦場の全てが凍りついた。
「――女神ミラナ様!」
ザルマフの叫びに続き、エナ=シェンも息を呑んで膝をついた。まるで幻影のように、しかし確かに存在するその女神が、天より告げる。
「シュメール軍、これ以上の進軍は認めません!」
その声は静かで、しかし雷鳴に匹敵する圧力を孕んでいた。シュメール軍の全軍が、その言葉に歩みを止める。司令部にいた茜は、その光の中の人物を見上げながら、苦々しく呟いた。
「……こっちは神を出してないのに、そっちは神様降臨とか……反則でしょ、さすが“残念神”。」
隣のユカナは溜め息まじりに冷静に言葉を添える。
「やっぱり……ミラナさんだったんだ。ティグリス河の戦いの時、アラッタの老将軍が持っていたアミュレット……あれ、ミラナさんの紋章だったもの。まさかと思ってたけど、本当に手を貸してたんだね」
エン=ナンナ神官将も、混乱する兵を抑えつつ、中央に居る風の大巫女の方を見つめる。
「風の大巫女様……どうなされるおつもりか?」
神が戦場に降臨する――それは、もはや戦争ではなく、神の干渉そのものだった。迷いの中にいた茜の思考に、突然、清冽な声が割り込んできた。
――それは、至高神テラの声だった。
『流石にこれはやり過ぎです。ミラナを神界に戻しますので、力を貸してください。あなたの風の指揮棒に、私の神力を一度だけ宿しました。』
『ミラナに向かって、何か適当な言葉を言って指揮棒を向ければ、彼女は神界に強制送還されます。この件については後ほど説明します。今は急いでください』
「まじか……」
茜は一拍の間を置き、そして不敵に笑った。
「よし。あの残念神にギャフンと言わせてやるっ!」
彼女は風の指揮棒を手にし、軽やかに、しかし堂々と前線へと歩みを進めた。その姿が見えるや否や、最前線にいたガルナード率いる鉄槍部隊が、音もなく道を開けた。まるで神の通り道を整えるかのように。敵であるはずのアラッタ軍もまた、茜の歩を妨げることなく、静かにその場を譲った。誰もが、風の大巫女と女神ミラナ――神と神の対峙に息を呑んでいた。
ガルナードは目を細め、わずかに唇を引き結ぶ。「……無事でお戻りを」
その後方で、リュシアは溜息交じりに呟いた。「主……ご自分が何をしようとしているのか、本当に理解されていますか……?」
一方でユカナは満面の笑みを浮かべ、「こんな展開、全然予想してなかったけど……めちゃくちゃ面白いじゃない!」と目を輝かせている。
そして、エンへドゥアンナは息を潜め、片時も茜から目を離さず、粘土板に葦筆を走らせていた。「……これは本物の神話の場面。逃すわけにはまいりません」
光の投影のように浮かぶミラナと、風の大巫女の対峙。
「あなたが……あなたが余計なことするから、こんなことになったのよ!」
ミラナは逆ギレ気味に叫んだ。だが茜は、ひとつ深呼吸すると、急に雰囲気を変え、中二病風の決め台詞を高らかに口にした。
「風の大巫女・茜の名において命ずる――風よ応えよ! 天を裂き、大地を駆け、神の理を乱す者に裁きを与えよ! 今ここに、秩序を取り戻せッ!」
そして、ポーズを決めながらくるりと指揮棒を回し、最後にぴしりとミラナに向かって突き出した。
瞬間、指揮棒の先端から放たれた強烈な光が、空中のミラナを包み込む。
「うそ……なんで……これ……テラ様の力……やばい……また叱られる……っ!」
ミラナは目を見開き、困惑と恐怖を交えた声を上げながら、光の中へと吸い込まれるようにして姿を消した。投影されていた女神の姿は、まるで何事もなかったかのように、虚空から溶けていった。その瞬間、シュメール側から割れんばかりの歓声が巻き起こった。
「風の大巫女様!」「これがシュメールの神々の力だ!」
兵士たちは武器を掲げ、足元を踏み鳴らし、勝利の咆哮を上げる。神話の瞬間を目の当たりにしたその熱狂は、平原の空気を震わせた。一方アラッタ軍の兵士たちは、まるで糸が切れたかのようにその場に立ち尽くしていた。自らを導く存在であった女神ミラナが、シュメールの神に敗れ去った。その姿を目の前で見せつけられた兵たちは、もはや剣を握る意味を見失っていた。戦列は静かに、しかし確実に崩れはじめる。幾人かが武器を捨て、膝をつき、天を仰ぐ。その瞳には敗北ではなく、信仰の崩壊という深い虚無が宿っていた。
だが、敵軍であるシュメール軍も、誰一人として嘲笑せず、混乱もなかった。彼らもまた、神と神の戦いを目の当たりにし、その重みに心を打たれていた。勝者であることの誇りと同時に、敗者の無念もまた理解できたからだ。
「降伏します!」
アラッタ兵の叫びが響いた。最前線にいたガルナードはそれを受け、静かに頷いた。
「武器を捨てよ。その意志、我らが受け入れよう」
その言葉に、次々とアラッタの兵士たちが武器を地に落とし、シュメール軍に向かって進み出る。シュメール側の兵士たちもまた、それを妨げることなく、整然と彼らを迎え入れた。剣を交えていた者たちが、今は静かにすれ違い、互いの存在を認め合うように視線を交わす。神の裁きが下った後の平原は、戦の名残と、深い静寂とで満たされていた。ザルマフ王は、もはやこれ以上の抗戦は無意味だと悟った。
「……ここまでだ」
彼は天を仰ぎ、小さく呟く。「ミラナ様……最後まで我らを助けようとしてくださった……その御恩、決して忘れませぬ」だが同時に、自らの非力に唇を噛む。「我ら人間が、もっと強ければ……女神を、巻き込むことなどなかった」その隣で、エナ=シェンも膝をついた。
「……神が、ここまで我らのために……」
彼女は震える手で胸元の祈祷具を握りしめ、祈るように瞳を閉じた。
「ミラナ様……あなたは、本当に現世にまで降りて、私たちを守ろうとしてくださった。神官である私には、あの奇跡の意味が痛いほど分かります」
エナ=シェンは顔を上げ、遠くに立つ風の大巫女――茜の姿を見つめる。
(神をも打ち払う力。あれが……あれこそが本物の神なのですね)
胸中に渦巻く畏怖と尊敬、そして深い悲しみ。そのすべてを祈祷具に託し、彼女はそっと言葉を紡いだ。
「ミラナ様、あなたの御恩、決して忘れません。私は必ず、この出来事を神話として記します。神々が地に降り、互いに相まみえたこの日を、後の世に正しく伝えるために――そして、神々の時代が今日終わったことを」
そのころ当の茜は、未だに自らの行為の重大さに気づいていなかった。
「いやー、さすがテラ様の力! 残念神を一撃強制送還とか、マジでクセになりそうなんだけど!」
戦場の空気をまるで読まぬ無邪気な笑顔で、風の指揮棒を振り回しながら、茜は司令部へ向かって歩いていた。その足取りは軽く、まるで勝利の凱旋そのもの。だが、彼女の歩みを阻むものは誰ひとりいない。ガルナードの率いる鉄槍部隊が、最前列で静かに道を開ける。アラッタの兵士たちすらも、その姿に圧倒されたように黙って道を譲り、崇敬の眼差しで見送る。リュシアはその光景を見つめながら、表情を曇らせる。
「主……ご自分が何をなさったのか、本当にお分かりですか……?」
司令部に戻ってきた茜に、ユカナが目を輝かせながら駆け寄ってきた。
「ねぇねぇ茜、まさか上位神のミラナさんが一発退場するなんて、予想してた?」
「えっ、あの残念神、上位神だったの?」
「そうだよ! ミラナさんはれっきとした上位神。その上位神を一発退場させたんだから、茜のやったことは凄いことなんだよ!」
「え……」
ようやく事の重大さに気づき、周囲を見回す茜。そこには、シュメールの兵士もアラッタの兵士も、ただただ神を見るような目で彼女を見つめていた。そしてエンへドゥアンナが、すぐ傍で粘土板を抱え、恍惚とした表情で凄まじい速度で葦筆を走らせていた。その口からは、まるでほとばしるかのように神話の一節が次々と漏れ出てくる。
「風の大巫女が杖を掲げし刹那、神はかき消され、空は静まり、地は震え……その奇跡、神格の証なり……」
「神を失ったアラッタの軍、心折れ、頭を垂れぬ。神話に刻まれるは、その瞬間――風が神をも裁きし時なり……」
その言葉の切れ端が、茜の耳に届いた瞬間、彼女の笑顔は凍りついた。そして頭の中に響く、至高神テラの呆れ混じりの静かな声。
『……たしかに私は、あなたに“何か適当な言葉を言って指揮棒をミラナに向けなさい”とは言いましたが、あなたもやり過ぎです』
「あっ……」
茜はようやくそれに気づき、背筋に冷たいものが走った。
「……やばい、やらかした……」
ひとり頭を抱える風の大巫女に、誰も言葉をかけなかった。




