5話 初陣、戦術と信仰が導いた完全勝利
——空気が違う。
視界が安定した瞬間、茜は目を瞬いた。乾いた草の香り。微かに土埃が舞う風。空は青く広がり、遠くの丘から何羽かの鳥が驚いて飛び立っていく。周囲にはなにもない、見渡す限りの草原。それでも地形は単調ではなく、微妙な起伏がいくつも続いている。
「ここが……原始時代の戦場?」
そう呟く茜の耳に、風が吹き抜ける音が重なる。目の前には何もない、けれど——その先に、確かに“戦い”の気配があった。
「さぁ、そろそろ始めますよ。」
リュシアが茜に促した。
「女神の戦況盤、展開」
茜は胸元から円形の戦況盤を取り出し、そっと地面にかざした。盤面が淡く光を帯び、空中にうっすらとマップの輪郭が浮かび上がる。
「駒を配置」
茜は掌に収めていた駒を、一つずつ盤面に並べていく。まずは軽槍兵の駒。青銅の槍と盾を構えた、小さな兵士像。これを前列の三つのヘックスに、一つずつ配置。続いて、後列中央に神官戦士の駒。祈りの衣をまとい、杖を手にした彼らは、支援の要だ。最後に——自分自身と、リュシアの駒。それぞれの精密な姿を模したその駒を、神官戦士の駒に重ねるように配置した。そして、最後の駒が盤に触れたその瞬間——
地面が、震えた。低く、重たい振動が足元から駆け上がる。
「え……?」
次の瞬間、茜の目の前に——兵士たちが現れた。
ほんの一瞬前まで何もなかった平原に、青銅の槍を手にした兵士たちが整列していた。きっちりと編成された隊列が三つ、軽槍兵が地面に膝をついて待機している。そして自分達の背後には、祈りを捧げる神官戦士たちの姿。白と金を基調とした儀礼衣が風に揺れ、低く神聖な言葉が唱えられている。まるで駒が、盤上から“現実”に滲み出してきたかのような、異様な感覚。
「おお〜〜〜っ!? なにこれ、ヤバ……ちゃんと“本物”の兵隊じゃん!?」
茜は思わず叫んでいた。これはただの演出じゃない。この場にいる兵士たちは、誰もが息をし、武器を握り、前方を真剣に睨んでいる——本物の兵だ。
「これが……戦争か……」
茜が小さく呟いたその言葉は、風に紛れて誰の耳にも届かなかった。そして、静寂が破られた。
——ドォン。
遠く、丘の向こうから響く地鳴り。一度ではない。二度、三度と重なるように、大地が微かに震え始める。その音に合わせるように、低く唸るような怒声が風に乗って届いてきた。
「……来ます」
リュシアが短く告げた。
茜が前方を凝視したその時、丘の稜線の向こうに黒い影が見えた。それは——棍棒を手にした、屈強な男たちの大軍だった。肌は焼け、筋肉は膨れ上がり、腰に簡素な布を巻いただけ。怒号を上げながら、彼らは四肢を振り回すように走り出してくる。
「うっわ……」
あまりの迫力に、茜は思わず一歩、後ろへ下がった。
「……こん棒持った男が1000人って、なにこの地獄……」
だが、目を凝らしてみれば、それは“軍”と呼べるものではなかった。統率もなければ、整列の意識もない。誰が先頭かもわからぬまま、ただ怒声と興奮に任せて地面を蹴り上げ、獣の群れのように突っ込んでくるだけ。
「たかが1000人です」
隣でリュシアが静かに言い切った。
「こちらの部隊の装備と士気、そして——私の指揮があれば、あのような秩序もない相手、問題ありません」
その言葉と同時に、風が戦場を吹き抜けた。乾いた草が波のように揺れ、鳥が再び空へと舞い上がる。棍棒戦士たちは、獣のような咆哮を上げ、突撃に移ろうとしていた。
「うわ、うわ、うわ、来る、来るってこれ……」
茜の背筋を、汗が一筋伝う。だが隣に立つリュシアの姿は、微動だにせず、ただ前を見据えていた。
「部隊位置、問題なし。敵の動き、想定通りです」
その静かな声が、まるで戦場の中心を貫く芯となるように、茜の耳に届いた。
「全軍、三段密集盾槍陣。右側から来る敵が最速、槍隊右翼、現地点で迎撃準備。中央および左翼は右翼に合わせて、それぞれの正面からの敵に対して迎撃準備。」
リュシアの冷静な声が響いた瞬間——まるで地面に“見えない前線”が引かれたように、軽槍兵たちが動いた。茜は、戦況盤に映し出された動きを見つめて、思わず声を漏らす。
「……なんか、地面に線が引かれてる気がする……」
軽槍兵たちは、整然と並んで膝をついた。前列は盾を突き立てて防御体勢、後列が斜めに構えた槍を前へと突き出す。三段構えの布陣が、一瞬で形成された。
「陣形維持、槍前へ。鼓舞、開始――」
鼓膜を震わせるような力強い掛け声が、味方の士気を押し上げる。
「軽槍兵部隊よ……女神ユカナ様の名のもとに、勝利を!」
「……は?」
唐突な名前に、茜が思わず素っ頓狂な声を上げる。リュシアが横目でちらりと茜を見ると、事もなげに返す。
「一応、神官たちはユカナ様の信徒という設定ですので。この戦いも、ユカナ様の神格を上昇させるための“信仰行動”の一環です」
「あ〜、なるほど……いや、それを現場で言う?」
「この時代では、神の名前を用いての鼓舞は普通です。」
神官戦士は気にする様子もなく、前線を見つめたまま兵士たちを叱咤する。
「敵は混乱している! 一歩でも前へ出れば勝機が来る! 怯むな!」
神官戦士たちは祈りの声を張り上げながら、前列の兵たちに声をかけ、背を叩き、鼓舞を与えていく。手には湿布や包帯が準備されていたが、それはまだ使われてはいない。今はただ、恐れを抑え、敵に立ち向かわせる“言葉”の力が戦場を支えていた。魔法ではない。ただの信仰と決意の言葉。——だが、それでも兵士の目が変わった。
「……ほんと、あの人ら地味だけどすごいな……」
茜が呟いたその時、敵の先鋒、戦況盤ではこん棒戦士3ユニットが味方の右翼部隊に突撃してきた。戦況盤が赤く染まり、現実の戦場でも棍棒戦士たちが雄叫びを上げて軽槍兵の盾にぶつかる。盾が震え、槍が突き刺さり、肉が裂ける音が響く。凄まじい衝突音とともに、敵兵が吹き飛び、地面に転がった。
リュシアが淡々と告げる。
「敵先鋒、交戦中。戦果確認——1ユニット殲滅、2ユニット半壊。味方右翼、軽槍第二部隊、損耗率およそ15%」
茜は戦況盤に映る真っ赤な損耗インジケーターと、現実の地に転がる屍を見比べた。槍兵たちは黙々と突き、守り、再び突き、仲間の死体を飛び越えながら敵を押し返している。
「……これ、本当にゲームとかじゃないんだよね……」
現実だ。人が死んでいる。血が、土に染みていく。だが、兵たちは怯まずに戦っていた。神官戦士たちの叫びに背を押されるように、前を見ていた。ユカナのために。女神の信仰を集めるために。それがどこか、奇妙な現実味をもって茜の胸に迫っていた。
「左へ振れ。敵の列を断て。盾の向きは保て」
リュシアの指示がまた、空気を切り裂いた。軽槍兵たちは反射のように動く。半歩、また半歩。隊列全体がじりじりと左へずれ、敵の突入線に角度をつける。その動きはほんのわずか——けれど致命的だった。
「……うそ……敵の形が、うちらの布陣に“巻き込まれてく”……!」
茜が思わず戦況盤をのぞき込む。そこには、槍兵が形成した“くの字型”の前線に、棍棒戦士たちが吸い込まれていく様子が映し出されていた。
左翼。
軽槍兵第一部隊の三段構えの布陣が完成し、そこへ棍棒戦士の二ユニット(約200人)がぶつかる。敵は、前列が押し寄せ、後列がその背を無理やり押し込むという、まるで自壊を促すような混乱陣形だった。前列の盾が歪むが、崩れない。直後、槍が突き刺さる。青銅の穂先が肩を穿ち、腹を貫き、胸を割る。敵のうねりが波打つように後退しかけ、だが後ろから追いついた兵がそれを無理やり押し戻す。槍兵たちはただ機械のように突きを繰り返した。構え、突き、引き、再構え。まるで訓練された自動機構のようだった。
中央。
より多くの敵兵、三ユニット分(約300人)が殺到していた。だがそこには軽槍兵第三部隊が待ち受けており、さらに右翼から半包囲に近い形で側面援護が加わっていた。
「敵主力、流れ込みました。交戦領域、完全にこちらの支配下です」
リュシアの声が響くと同時に、茜の戦況盤には“優勢”のマーカーが表示される。槍兵の列がゆっくりと前進し、敵を正面から叩く。それに加えて横からの突きが突き刺さり、棍棒戦士たちは声を上げて混乱する。統率のない敵軍は、その重さを武器にしていたはずが、自らの密集によって崩壊を始めていた。
「前列第二、疲労過多。士気が落ちかけています」
神官戦士が動いた。戦線後方、彼らは槍兵たちの間を駆け抜け、短く叫ぶ。
「恐れるな! 女神ユカナの目が、汝らを見ているぞ!」
祝詞とともに、槍兵たちの姿勢が整っていく。握る槍が再び前へと伸び、崩れかけていた隊列に気力が戻る。
「……女神の名で鼓舞、ね。現実味ないのに効いてるのが怖いわ……」
茜が小さくぼやくと、すぐ隣からやや間延びした声が返ってきた。
「えっ、私の名前……? 使っていいの? 許可してないけど……」
それはユカナだった。スリッパのまま草の上に立ち、ふにゃっとした顔で槍兵たちの奮起を見ている。
「しかもなんか、ガチで信じられてるっぽいんだけど……やばくない?」
茜が小声で肩をすくめた。
「……自覚ないの?」
「えぇ……だって私、たいして何もしてないし……」
「何もしてないからこそ、名前だけが神聖視されているのです」
リュシアが、いつもと変わらぬ無機質な声音で淡々と補足した。
「“女神とは、象徴にして構造体”。その存在が信じられている限り、そこに力が流れます。それがたとえ、本人がスリッパで棒立ちしていても、です」
「ちょっと……リュシアさん、言い方ぁ……」
ふてくされたユカナの声に、茜が思わず笑いを漏らした。
「いや、ほんと、それが一番怖いってば……」
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右翼では、すでに戦いが終わった第二部隊の兵たちが神官による治療を受けていた。膝に包帯を巻かれ、血を拭かれ、肩を支えられている者たちが、再び盾を持ち、列に戻っていく。
「第2隊、被害率15%で停止。治療進行中、士気回復良好」
戦況盤が茜の前に冷静な数字を示す一方で、現実の戦場はそれ以上に鮮烈だった。そして——
「……あれ、まだ来てる」
ユカナがぽつりと呟いた声に、茜が顔を上げる。戦況盤の奥。まだ突撃していなかった最後の二ユニット——棍棒戦士200名が、丘の向こうから現れたのだ。それだけではない。中央・左翼の激突で壊滅したはずの棍棒戦士の一部、逃走を始めていた兵たちが、その新手の突撃に刺激されて再び立ち上がる。
「えっ、逃げてた奴らが……戻ってきてない?」
「士気回復。合流行動。再突撃の兆候あり」
リュシアの声が低くなる。戦況盤には、逃走マーカーが徐々に橙色から赤に変化し、“再編中”の表示が現れた。
「こちらの消耗は中央で10%、左翼でやや少なく8%ほど。……ですが、残り200強が、予想よりも“整って”来る可能性が出てきました」
戦場の空気が、一段冷えたように感じられた。茜はごくりと息をのんだ。
「マジかよ……次が、本当の正念場じゃん……」
「敵第二派を戦線中央へ誘導せよ。戦線維持を優先、追撃は不要」
リュシアの号令が下された瞬間、軽槍兵たちは機械のように動いた。右翼・中央・左翼の各部隊が、微細な動作で陣形を崩さぬまま移動し、中央部隊が少し下がった扇状に布陣する。
「来る……また来るよ!」
ユカナが震える声で叫ぶ。丘の向こうから現れた敵残存部隊——最後の未投入兵200人。そこに、先ほどまで戦線から逃げ出していた敗走兵たちが合流し、再び咆哮を上げ始めていた。
再突撃。
怒りのままに突っ込んでくるその光景は、まるで死を怖れぬ獣の群れだった。茜の戦況盤には、こちらの中央に向かって敵の最後の部隊が突撃してくる様子が映されていた。
「敵、こちらの中央部隊に突撃確認。戦力推定250。……だが、突撃速度が速い。受け止めに全力を」
リュシアの指示に応え、軽槍兵たちの槍が前へと構えられた。
――衝突。
突進してきた棍棒戦士たちが、一斉に軽槍兵の盾へぶつかる。ゴガンッ! と地響きのような音が戦場を震わせた。だが陣形は崩れなかった。盾は一歩も引かず、直後、槍が怒涛のように突き返された。
突き、引き、また突く。中央へ殺到してきた敵兵たちは、その場で動きを止められ、数秒後には反撃の餌食となっていた。列の後方から無理に押されていたせいで、転倒者が次々と出始める。前列は崩れ、後列はその崩れた者たちを押し潰すように突っ込む。もはや制御不能だった。その混乱の只中、リュシアが即座に指示を切り替える。
「第一部隊、斜行前進、側面へ突入。第二部隊、敵右後方へ回り込み、逃走経路を遮断。——挟撃、開始」
明快な命令が、扇状に展開していた部隊の左右へと走る。左翼の第一部隊は、一糸乱れぬ動きで弧を描きながら、敵陣の左脇腹へ斜めに突撃を開始。彼らの槍は、正面から防がれることなく、棍棒戦士たちの無防備な側面を切り裂いた。一方、右翼の第二部隊は、回復を終えた陣を再編成し、後方の丘を背に、敵右背後へと弧を描いて接近。盾を構えて突入したその衝撃は、敵の逃走経路を完全に封じた。
「……うわ、ほんとに“閉じてる”……!」
茜の目の前の戦況盤に、三つの青い矢印が中央の赤い塊へと食い込んでいく。扇状だった陣形が、“狩りの檻”に変貌するさまが、視覚的に明瞭だった。
「包囲線、接触完了。交差点にて突撃同期——今です」
リュシアが低く呟いた直後、左右からの軽槍兵が一斉に突き立てた槍を敵陣へ突き込んだ。混乱の最中にあった棍棒戦士たちは、もはやまともに対応できなかった。突かれ、押され、後ろから突かれ、前から反撃される。悲鳴。肉が裂ける音。地面に崩れ落ちる音。逃げる者は、今度こそ本当に逃げ場を失っていた。
「信仰は盾、秩序は槍に宿る――!」
神官戦士の掛け声が、戦場に最後の鼓舞を響かせる。茜の戦況盤には、中央の赤が急速に塗りつぶされていく。
「敵勢力:残存32%……18%……士気、崩壊」
次々に棍棒が投げ捨てられ、膝をつく敵兵が増えていく。包囲された中心部は、ついに沈黙の領域へと変わっていった。気づけば、もう何の音もなかった。
棍棒の叩きつける音も、咆哮も、盾のきしみも、全てが消えていた。そこにあるのは、ただ風と、土と、そして静けさ。茜はぼんやりと辺りを見渡す。地面に転がる敵兵。血に濡れた草。その隙間を縫うように、勝利の咆哮を上げる軽槍兵たちの声が響く。
「……あれ? 私……一歩も動いてないんだけど……?」
「それが、戦術指揮というものです」
リュシアが淡々と告げた。茜が言葉を失っていると、隣のユカナがぽつりと呟いた。
「……やっぱリュシアさん、怖い……」
風が、静かに吹いていた。
槍を突き立てたまま、動かない兵士たち。地面には棍棒を手放した男たちと、血に染まった土。遠くで、カラスの鳴き声が響いていた。茜は、戦況盤を見つめていた。先ほどまで真っ赤に染まっていた盤面は、今や青く静まり返っている。
「……これで、終わったんだよね?」
その問いに、リュシアが軽く顎を引いた。
「はい。全戦闘終了を確認。最終戦果を報告いたします」
彼女は無駄のない指の動きで戦況盤を操作し、立体的な戦術情報を前面に展開した。次いで、軍師としての声に切り替え、茜に向き直る。
「敵兵総数、推定1000名。
戦死者約750名、戦闘不能または投降250名。
敵軍、完全殲滅。生存者に組織的反抗能力なし」
茜が思わずまばたきをする。
「……完全殲滅……ほんとに、全部……?」
「はい。そして味方戦力、計400名」
リュシアは視線を盤面に戻し、冷静に読み上げる。
「そのうち神官戦士部隊、損耗なし。
軽槍兵部隊、合計三百名中——
第二部隊(右翼):20名戦死、損耗率20%
第三部隊(中央):18名戦死、損耗率18%
第一部隊(左翼):14名戦死、損耗率14%
総戦死者数、52名。戦闘参加者に対する損耗率、約13%」
茜は数字を噛みしめるように、口を閉ざした。
52という数字は、戦術的には「抑えた被害」かもしれない。けれど、現実の戦死者としての重みは、決して軽くなかった。
「……それでも、すごい勝率なんだよね、これ」
「はい。敵が無統制で突撃してきたとはいえ、完全包囲、陣形維持、士気制御、指揮補正がすべて機能した結果です。軍事学的には“上位戦果”の分類となります」
その説明の最中も、リュシアの表情は変わらない。だが茜は、だからこそ余計に理解した。
——これは、計算された“勝ち方”だったのだ。
「……すごいわ、ほんと」
そこに映っているのは、もはや“ゲームのユニット”ではなかった。血を流し、勝ち残った約350人の兵たちの——現実。