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43話 風は欺き、盾は誓う――老将、命を賭して退路を護る

 ラガシュの北東、肥沃な平野を裂くように流れるティグリス河。その両岸に、二つの文明の軍勢が対峙していた。


 西岸――すなわちシュメール王国軍の陣では、複数の祈祷台が整然と並び、風の神に捧げる儀式が絶え間なく執り行われていた。その中心に立つのは、青の外套をまとい、金の糸で風紋を象った刺繍が揺れる“大巫女”の姿。その手には風の指揮棒と似た指揮棒が握られ、祭詞と共に天へと掲げられている。


 実際には――その大巫女は本物ではない。茜に代わって儀式に立つ祈祷巫女長、すなわち影武者に過ぎなかった。


 しかし、その事実を知る者は、ごく限られていた。いや、知っている者でさえ、もはやそれを口にすることすらない。


 各都市国家の指導者たちは皆、巫女長の前にひざまずき、まるで本物の風の大巫女を迎えるかのように振る舞っていた。彼女が陣を見回れば、各軍の将たちは敬礼し、祈祷が始まればその後方で共に祈りを捧げる。ラガシュ、ウル、ウルク、ラルサ、エリドゥ――それぞれの旗印を背にした指導者たちが、まるで合意したかのように、一糸乱れぬ演技を貫いていた。


 誰もが理解していた。この巫女長に、神性そのものが宿っているわけではないことを。


 それでも――この陣営において、風の大巫女が「いる」ことが、兵の士気を保ち、神意を背負っているという象徴になるのであれば、それはもう“演技”ではなかった。それは“現実”として扱われていた。


 渡河の準備もまた、着々と進められていた。葦や木材を束ねて編んだ筏、丸太をくり抜いて作られた素朴な小舟、さらには山羊や羊の皮を膨らませた浮き袋――いずれも古くからこのティグリスの流域で伝えられてきた、土地に根ざした渡河の技術である。それらは粗野に見えて、実に実用的だった。水を掻く音すら最小限に抑え、静かに進む筏の列は、まるで古の時代から延々と受け継がれてきた知恵そのもののようだった。


 一方、東岸――アラッタ軍の陣。こちらもまた整然とした戦列を敷き、渡河を今か今かと待ち受けていた。


 川の流れを隔てて、互いの陣営の動きは細部まで見える。シュメールの祈祷と渡河の準備が整っていく様子は、まるで雷雲のような予兆を孕み、アラッタの兵たちの心に緊張の影を落としていた。その影を払うように、祈祷台の前に立つ女性がひとり。長衣の裾を風になびかせ、穏やかに両手を天へと掲げていた。


 エナ=シェン――アラッタの神官長にして、神ミラの声を聞く者。彼女は静かに祈りを捧げ、陣の中心に霊的な支柱を築いていた。その姿に兵たちは平伏し、言葉なくとも心を整えてゆく。しかし、陣の後方、仮設された指揮台の上に立つ一人の男は、落ち着かない足取りを繰り返していた。


 「まだか……」


 ザルマフ王である。鋭く整えられた眉が曇り、手には巻かれた粘土板をぎりと握りしめている。


 「渡河準備を進めているのは見て取れる……が、それにしても遅い」


 苛立ちは抑えがたく、だがその苛立ちが無理のあるものであることも彼自身が理解していた。ティグリスは大河である。大軍を一度に渡らせるなど不可能であり、時間をかけての段階的な渡河は必然だ。そしてそれに伴う準備も莫大な物になることは必然。


 「……焦るな。こちらは既に布陣を終えている。動くのは、あちらだ」


 そう自分に言い聞かせるように呟き、再び視線を西岸へと向けた。そこでは、“風の大巫女”が、あたかも天と交信しているかのように、長い祈りを捧げ続けている。


 ――まもなく、この静寂は破られる。


 空気はすでに乾ききり、風だけが川面を渡って両軍の間を往復していた。


****


 ティグリス河の上流、キシュ近郊。


 朝靄の残る川岸に、静かにシュメール軍が展開していた。風にたなびくシュメールの軍旗。そのもとに集ったのは、茜の本隊、そしてキシュとニップルの連合軍。川面には、葦と木材を束ねた浅底の筏や、舟形に加工された丸太の小船が浮かべられ、渡河の準備が最終段階に入っていた。中には、山羊の皮を縫い合わせて作られた膨らんだ浮き袋を抱えて渡る兵士の姿もある。湿った草地に立ち尽くす茜の視線は、その奇妙な光景に釘づけだった。


 「……あんなの、あるんだ……」


 思わずこぼれた言葉に、すぐ隣からエンヘドゥアンナの声が返ってきた。


 「ちょっと怖いですね。あんな風に浮いて川を渡るのは」


 「うん……いや、怖いどころじゃないよ。見てるだけでヒヤヒヤする。沈んだらどうするの、って」


 指揮官である茜は、他の将兵とは違い、木製の浅底舟での渡河が予定されていた。とはいえ、目の前で家畜の皮で作った簡易的な浮袋に命を預けて水面に乗り出していく兵士たちを見ると、胸の奥がざわつく。


 するとそのとき、少し離れた場所で手を振っていたユカナが、のんびりした声で言った。


 「でもね、不思議だよ。茜が怖がってるのに、その茜を信じて、あの子たちは浮き袋で渡ってくんだもん」


 「えっ……」


 「これだから神様って怖いよねぇ。本人が不安でも、“大巫女様の加護があるから大丈夫”って信じちゃうんだもん。信仰って、ほんと便利」


 茜は言葉を失いかけ、けれど次の瞬間、はっと気づく。


 ――そうだ。私が不安になったら、兵たちも不安になる。


 この場では、自分の表情一つ、声色ひとつが、何百の命の支えになる。だから、茜は大きく息を吸い、笑った。


 「みんな、大丈夫! 風の大巫女がついてるから、心配はいらないよ! 一気に渡河して、対岸を確保しよう!」


 その声に、岸辺に控えていた兵士たちが一斉に顔を上げた。まるで霧が晴れるように、緊張の空気が和らいでいく。


 「風の加護があれば、沈まんさ!」「行けるぞ、行ける!」と次々に声が上がり、浮き袋を抱えた兵たちが勇ましく川へ踏み出していった。


 渡河は成功した。大きな混乱もなく、各部隊が次々と対岸に上陸していく。上陸地点の地形と渡河した兵達を一望した茜は、すぐさま動いた。まずキシュ軍の司令官を呼び寄せ、地図を指し示しながら端的に命じる。


 「キシュの部隊から機動力のある精鋭の軽槍兵だけを抜き出してくれる?南東方向にすぐ進軍を開始するから、急いで部隊を編成して移動の準備を整えて。私の部隊と一緒に移動するよ」


 キシュの司令官は即座にうなずき、部下に向かって号令を発した。軽装の兵たちが列をなし、すばやく再編を始める。続いて茜はニップル軍の司令官のもとへと向かう。その眼差しはすでに次の戦局を見据えていた。


 「この地点の確保と、対岸の本陣との連絡線と補給線の維持を最優先でお願い。補給線が断たれると、私達はここで立ち往生しちゃうから。ここに残すキシュの部隊も、そっちの指揮下に組み込んでいいから、周辺一帯を制圧して、完全に掌握しておいて」


 ニップルの司令官は胸に手を当てて敬礼し、「了解いたしました」と即答した。指揮を終えた茜は、振り返りざまにリュシアとガルナードに目を向ける。


 「リュシア、ガルナード。うちの部隊も再編急いで! すぐ動くよ」


 「主、承知しました」「主殿、すぐに準備を整えます」


 慌ただしく動き出す指揮官たちの背中を、どこかのんびりとした声が追いかけた。


 「茜も大変だね~。さっきまで浮き袋の心配してたのに、今やすっかり司令官」


 微笑みながら、ユカナが草の上に座り込む。その横では、エンへドゥアンナが膝に粘土板を据え、葦筆で静かに文字を刻んでいた。戦況の記録というには余りに詩的で、むしろ神々と英雄たちの物語を紡ぐかのような筆致だった。やがて彼女はひと息つき、柔らかな声で呟いた。


 「――風の大巫女、天の河を越え、神託の導きと共に地を渡る。いま、兵と信仰をもって敵の背を討たんとす。これは神の歩む道……私の記録、いずれ“風の書”として語り継がれることになるでしょうね」


 茜は一瞬、肩をすくめ、顔をしかめた。


 「……勘弁してよ……」


 その小さな呟きは誰にも聞こえなかったが、表情には明らかな戸惑いが浮かんでいた。まるで、自分の足跡が神話に塗り替えられていくのを、じわじわと肌で感じているかのように。エンへドゥアンナの葦筆は止まらない。彼女の叙述は、もはや事実を超えて、物語となり、神話となりつつあった。


 「このままじゃ、私、本当に神にされかねないよ……」


 自嘲気味にそう思いつつも、茜は顔を上げ、視線を南へ向ける。まだ、現実の戦場はそこにあった。足を止めるわけにはいかない――神ではなく、人として、今はまだ。 そして茜は、キシュが誇る機動力の高い軽槍兵たちと、自身の部隊を率いて素早く南東へ進発する。目指すはただ一つ。


 ――南方のアラッタ軍の陣地。退路を断ち、戦いの主導権を握るために。


挿絵(By みてみん)


****


 アラッタ軍本陣に、駆け込むようにして一人の伝令が現れたのは、明け方を過ぎた直後だった。衣は泥に濡れ、息は荒く、肩で風を切るようにして立っている。


 「北方より、シュメール軍の動き――急報にございます! おそらくは風の大巫女も……共に南下中!」


 その声が本陣の静寂を破った。


 指揮幕の中では、ザルマフとエナ=シェン、そして数名の将軍が地図を囲んでいた。伝令の言葉に、室内の空気が凍りつく。


 「……なに?」


 ザルマフの声は低く、しかし確実に怒気と驚愕を帯びていた。


 「風の大巫女が、北方から?」


 視線が自然と河の向こう――すなわち、現在にらみ合っているシュメール軍の対岸へと向けられる。そこにいる“大巫女”こそ、あの伝説の存在のはずだった。


 「では、ここに布陣しているのは……」


 エナ=シェンが、静かに口を開いた。神官長らしい穏やかな声音だったが、その中に震えがわずかに混じっている。


 「……偽りの姿でしょうね」


 ザルマフは舌打ちを飲み込む。背筋に冷たいものが走った。


 「我らは……見事に、欺かれたというわけか」


 伝令は続ける。


 「北方の接近部隊は、小規模ながら明らかに練度高く、しかも異常な速さで南下しています。渡河からここまで、常識では考えられぬ行軍速度です。明日の昼には、ここへ到達する見込みです」


 地図の上、ティグリスの蛇行を指でなぞる。北方から風のように迫る影。そしてそれと呼応するように、目の前に控える大軍――このままでは、二方向から挟撃を受けるのは確実だった。ザルマフは、短く息を吸った。


 「……このままここに留まれば、我らは包囲される。前にはシュメール本軍、背後からは風の大巫女の精鋭部隊。どちらかを退けても、もう一方には勝てまい」


 「これほどまでに、風の大巫女の部隊は機動力に長けているというのですね……」と、エナ=シェンが呟く。


 ザルマフは、わずかに首を横に振る。


 「いや、“風”だ。まさしく風の名の通り……まさかこのような手を打ってくるとは…」


 静かだった幕内に、やがて重い沈黙が満ちる。だがそれを破ったのは、ザルマフ自身だった。


 「退く」


 将軍たちが、一斉に顔を上げる。


 「ここで戦えば、全軍壊滅の危険がある。風の大巫女が、こちらの退路を狙っているとすれば…いや、間違いなく狙っているはずだ。――我々はここでの戦いを放棄し、再編のための撤退を選ぶ」


 いくつかのまなざしが交錯した後、将軍の一人が一歩前に出て、深くうなずいた。


 「ザルマフ王……ご決断、至極もっともにございます」


 他の将たちも、順に同意の意を示してゆく。無念と悔しさを滲ませつつも、軍としての生存を最優先する決断に、誰も異を唱えなかった。しかし、その場の誰もが撤退準備に動こうとした、その時だった。


 「――一つ、進言がございます」


 重みのある声が幕舎を満たした。声の主は、最年長の老将、都市アラッタ出身の老臣。ザルマフやエナ=シェンがまだ少年少女だった頃から、彼らを陰に陽に支え続けてきた男だった。


 「このまま全軍が撤退すれば、風の大巫女の部隊は我らの後を追い、必ずや補足にかかるでしょう。敵は速く、こちらは重い。無傷の退却は、難しかろうと思われます」


 幕舎の空気が再び張り詰める。


 「ならば……我が部隊が、ここに留まり、本隊撤退のための楯となりましょう」


 ザルマフの目が見開かれる。


 「なっ……!? 何を言っている!」


 王の声が震えた。即座に言葉を継ごうとしたが、老将の瞳がまっすぐに自らを射抜いてくるのを見て、その口は閉ざされた。


 「陛下。ここで誰かが楯とならねば、主力は背後からの追撃にさらされます。私と我が兵は、この地で敵を迎え撃ち、時間を稼ぎましょう。王の道を開くためならば、この身も惜しみませぬ」


 ザルマフは拳を握りしめ、立ち尽くした。返す言葉が見つからない。言いたいことは山ほどある――だが、老将の言葉が正しいこともまた、痛いほど理解していた。


 「……どうして、あなたが行かねばならん……!」


 その声には、王ではなく、一人の若者としての痛切な感情が滲んでいた。老将は静かに、しかし誇らしく微笑んだ。


 「若き日に、まだこの地に“王国”の名がなかった頃……混乱のただ中にあって、私はあなた様の傍に立ちました。そして今、あなたが築かれたこのアラッタ王国の旗の下で、戦う事ができるのであれば――これ以上に冥利に尽きることがありましょうか」


 エナ=シェンが、そっと歩み寄った。その手には、白銀で縁取られた青いアミュレットが握られていた。


 「この護符をお持ちください。女神ミラの御印にございます……どうか、その御加護が貴方と共にありますように」


 老将は慎重に両手で護符を受け取り、ひとときそれを見つめた後、深く頭を垂れた。


 「エナ=シェン様……立派になられましたな。こうして神の御印を賜る日が来ようとは。老いぼれには、これ以上の光栄はございません」


 その声音には、懐かしさと誇りが滲んでいた。


 「この命、神の御名において――王と皆の未来を繋ぐ楯とならせていただきます」


 その姿を見て、ザルマフはようやく言葉を絞り出した。


 「……死ぬな。いいか、生き延びろ。命を繋げ。そして、また――」


 「はい。できる限り、王の道を切り開きましょう」


 老将の声は清冽で、そこに迷いはなかった。アラッタ王国本隊は、静かに撤退を開始する。その背を守るように、老将の部隊が野営地に残った。夕暮れの陰が、丘の斜面に長く伸びていた。老将は、その丘の上に改めて布陣を敷かせた。


 川沿いの低地から離れたこの高台は、見晴らしが良く、敵の動きをいち早く察知できる。戦場に残された僅かな選択肢の中では、最も堅固な地点である。円陣を意識した陣形が組まれ、荷車が壁代わりに並べられ、仮設の祈祷台には既に香が焚かれている。簡素な防衛線ではあるが、兵たちの手により着実に整えられていた。


 日が完全に沈む前――老将は焚き火の前に座し、部下たちを静かに集めた。


 粗末な干し肉、干し葡萄、薄い酒。豪奢さとは無縁な、しかし戦場の中では充分に贅沢な夕餉が、兵たちの手に配られる。


 「みんな……今夜は語らってくれて、感謝する」


 老将の声は、焚き火のぱちぱちと爆ぜる音に交じって、静かに広がっていった。


 「この地を守る。我らがここに留まることで、王も、神官長も、アラッタの未来も、ひとまずは繋がるだろう」


 誰も言葉を返さない。ただ、各々がうなずいた。兵たちは、老将と同じ都市国家アラッタの出身者が多く、ザルマフ王にも、神官長のエナ=シェンにも深い忠誠を抱いていた。


 「――無論、生きて帰れるとは思っておらん。だが、ここが耐えどころだ。王の退路が確保されるまで、時を稼ぐ」


 沈黙が、再び焚き火を包み込む。誰も泣き言を漏らさなかった。語ることはない。ただ、信じるだけだった。やがて、夜が完全に落ち、丘の上からは東へ遠ざかっていくアラッタ軍本隊の松明の列が見えた。老将は立ち上がり、軍の背を見送るように一歩、前へと出る。


 「王よ、どうかご無事で……」


 その呟きは、風に乗って消えていく。


 「……これが人生最後の務めなら、存外、悪くない……」


 そう言って老将は振り返り、静かに円陣の中心へと戻っていった。

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