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41話 策と風と、神話の始まり

 朝の光が野営地を淡く照らし始めたころ、茜はラガシュ近傍の観測台に立ち、遥か前方の戦場を見据えていた。昨日から陣を張っていたアラッタ軍は、夜を越えた今もなお動かず、変わらぬ人数で布陣を固めていた。軽槍兵六部隊に投槍兵が二部隊。その構成に神官部隊の姿は見えず、補給や支援の形跡もない。だがその小規模の兵力が、今朝になって一層明確な形をとり始めていた。


 「……やっぱり、密集して一塊になっている。これは――逃げる前提の陣」


 茜の視線が鋭さを帯びる。


 「まさか、ここまで分かりやすく挑発してくるとは……」


 昨夜の作戦会議で共有された分析が、現実として目の前に現れている。アラッタ軍は明らかに、この場所で本格的に戦う気はない。むしろシュメール軍をティグリス河の東、敵の本拠へと引き込み、そこで補給線を断つ――その意図が、陣形そのものから滲んでいた。


 「こちらが動けば、あちらは逃げる。追って河を超えれば、こちらの補給が尽きる。まったく、狡猾な指揮官が付いてるみたいね」


 茜は小さく息を吐き、唇を引き結んだ。


 「……想定どおりってのが、逆に怖いわ」


 隣に立っていたリュシアが静かにうなずく。「でも、主の読みが当たったということです。これで策は立てられます」


 「ええ。敵は、あの布陣でこちらの出方を待ってる。挑発に乗ったふりをして――こちらが逆に罠にかける」


 茜は静かに言葉を締めくくり、遠くに見えるアラッタの陣を再び見据えた。日の光が湿った土の上に伸び、戦場に一条の影を落とし始めた頃――再び天幕の中に、作戦会議が招集された。


 「挑発に乗る必要はないのでは?」


 リュシアが口火を切った。「あの兵力では、こちらを本気で倒すつもりとは思えません。おそらくは、わざと逃げて、こちらをおびき寄せようとするだけでしょう」


 「そうだな。放っておけば自然と退くかもしれん。こちらが乗って渡河すれば、それこそ奴らの思うつぼだ」


 ガルナードも同意を示す。天幕内の視線が一斉に茜に集まる。彼女は静かに地図を見つめ、風の指揮棒の先を一点に止めたまま口を開いた。


 「それでも……逃がすわけにはいかない」


 その言葉に、場の空気がわずかに揺れた。


 「ここでアラッタ側に『シュメールは挑発にすら乗らぬ腰抜けだ』と思わせたら、今後どれだけ士気が上がるか分かるでしょ?向こうもこの初戦に、何か大きな意味を持たせたいはず」


 「なるほど……士気戦、ですか」


 エン・ナンナが頷く。「風の大巫女らしいお考えですな」


 「そのうえで、どう勝つかが肝心かな。逃げ足の早い敵を捕まえるには、周到な罠が必要だし」


 茜の言葉に、ウルカギナが唸った。


 「罠か。……どんな手を?」


 茜はにやりと笑みを浮かべ、指揮棒を軽く振った。


 「まず、ウル、ウルク、ラガシュ軍。そして私の軍の中装槍兵。これらを“見せ札”に使うつもり」


 「見せ札……ですか?」


 リュシアが聞き返す。


 「そう。彼らにはゆっくりと前進してもらって、一定距離で反転。これを三度繰り返すの。わざとらしく、鈍重に見せる。相手に『こいつらは反応が遅い』と誤認させるのが狙いよ」


 「なるほど、視覚情報による誤認……それは確かに心理的にも効果がありますね」


 「そして、四度目の挑発のとき」


 茜は、風の指揮棒をアラッタ軍の布陣の裏手に移動させた。


 「私の中装歩兵三部隊、それとヒッタイト戦車兵二部隊、エジプト騎射戦車兵二部隊。これらで一気に敵の中央と側面を叩く」


 ガルナードが小さく目を見開いた。


 「なるほど主殿……戦車による突破と包囲、歩兵による正面圧力。連携が取れれば、一撃で敵中枢を崩せますな」


 「敵が指揮を立て直そうとしても、既にウルやウルク、ラガシュの部隊が接近してる。包囲殲滅に入るわ」


 「まったく……また派手なことをお考えですね」


 リュシアが肩をすくめる。


 「これは初戦だからね。派手に勝って、こっちの士気をあげないと」


 茜が冗談めかして返すと、天幕内には小さな笑いが広がった。


****


 アラッタ軍の前線に、最初の命令が下ったのは朝靄が薄らぎ始めた頃だった。


 「第一陣、緩やかに前進。敵の反応を確認せよ」


 軽槍兵たちがじわじわと進み、投槍兵がその後方に続く。地を這うように伸びていく彼らの布陣は、静かだが確実にシュメール軍との間合いを詰めていった。その様子を見ていた茜は、風の指揮棒を軽く掲げた。


 「……前進」


 その一言で、シュメール側も動いた。ラガシュ、ウル、ウルクの各軍、そして中装槍兵の部隊が、厚い盾と槍を揃えて、どこまでも重く、整然とした動きでじわじわと前線を押し出す。大地がわずかに震えるような重厚な進軍に、アラッタ軍の軽装兵たちは一瞬たじろぎを見せた。アラッタ軍司令官は、歯を見せて笑った。


 「かかったぞ。全軍、後退!」


 その声とともに、前に出ていた軽槍兵が一斉に身を翻し、陣の後方へと引き始めた。追撃の気配――しかし、それは起こらなかった。シュメール軍は数歩だけ進み、ぴたりと動きを止めた。


 「……前進中止。各隊、元の位置へ戻れ」


 茜が静かに指揮棒を振ると、重厚な布陣は一糸乱れず後退を開始した。整然と、計算された間合いを保ちながら、まるで最初からそうする予定だったかのように、全軍が元の位置へと戻っていく。アラッタ軍司令官の額に、じわりと汗が浮かぶ。


 「な……なぜ、追ってこない?」


 彼の顔には、明確な困惑が刻まれていた。作戦通りであれば、今ごろシュメール軍はこちらを追撃し、ティグリス河の方に誘引していたはずだった。しかし、現実は違った。


 「おい、もう一度挑発だ。前進!」


 二度目の挑発。再びアラッタの軽槍兵たちが前へと進む。茜は風の指揮棒を掲げると、まるで同じ脚本をなぞるかのように、シュメール軍の“見せ札”――中装槍兵や都市軍をゆっくりと押し出す。アラッタ軍は即座に撤退、シュメール軍も数歩前進、そしてまた停止。


 「前進中止。後退、元位置へ」


 茜の声は冷静そのものだった。三度目の挑発――アラッタ軍は若干焦りを見せながら、前進速度を強める。


 「三度目の正直だ、今度こそ……!」


 だが、返ってきたのは、これまでと全く同じ反応。重厚に進むシュメールの前線、そして止まり、撤退。まるで相手の心理を弄ぶかのような応答だった。アラッタ軍司令官は唇を噛みながら、拳を握りしめた。


 「このままじゃ……本当に逃げただけになってしまうじゃないか」


 さらに挑発の動きを強めるべく、指揮官は部隊に前進命令を出す。軽槍兵たちが勢いよく前へと進み、投槍兵もその影に続いた。だが、それが罠だったと気づくには、あまりにも遅すぎた。


 ――その瞬間だった。


 「いけっ!」


 茜の一言とともに、戦場が突如として風を巻いた。まず駆けたのは、シュメール軍中核に位置する比較的機動力を持った中装歩兵三部隊。その部隊が地面を蹴り、突進する。続いて咆哮のごとく駆け抜けたのは、ヒッタイト戦車部隊。二頭の馬が轅を揺らし、車輪が火花を散らして地面を抉りながら、アラッタ軍の中央に突撃をかけた。


 さらに、遠巻きに円を描くように動いていたエジプト騎射戦車隊が、機動射撃を開始。疾駆しながら矢を放ち、側面に展開していた投槍兵を正確に削っていく。


 「な、なにごとだ……!」


 アラッタの指揮官が叫ぶが、その声も混乱の渦にかき消される。味方の隊列は正面から蹂躙され、側面から撃ち抜かれ、後退しようにも突破されたヒッタイト戦車隊に退路を塞がれる始末。わずか数刻のうちに、布陣は混乱し、指揮系統は完全に崩壊した。


 そして――それを見計らったかのように、シュメール軍本隊が一斉に進撃を開始。包囲の輪が完成した瞬間、アラッタの兵たちは恐慌に陥り、多くが武器を投げ捨て、地に膝をついた。戦いは、こうして終わった。


 徹底的な殲滅ではなく、完璧な封殺。戦場に、濃密な静寂が広がっていた。


 ヒッタイト戦車に蹂躙され、エジプト戦車の機動射撃に翻弄され、中装歩兵の重突撃に叩き潰されたアラッタ軍は、既に陣形を保つ力を失っていた。兵たちは武器を捨て、膝をつき、ある者は顔を伏せ、ある者は天を仰いだまま動けずにいる。その中に、白旗代わりに布を掲げる指揮官の姿があった。


 「……降伏、ね」


 茜は、静かにうなずいた。そして、傍らの副官に短く命じる。


 「降伏を受け入れるわ。ただし、東側に退避した部隊は――追わないで」


 リュシアが驚いたように眉を上げる。


 「逃がすのですか? せっかく包囲が完成しているのに」


 「伝えさせるためよ。『我々が完勝した』ってね」


 茜は肩をすくめながら、指揮棒を地面に軽く突き立てた。


 「ここで全滅させれば、ただの戦勝。でもね、帰らせてやれば“敗北”は街に伝わる。そして――心を折るのは、剣よりも早いわ」


 リュシアは溜息をつきながらも、その意図を理解したように口元を引き結ぶ。


 「……戦略的には正しいですね。主の性格を除けば」


 「主にしては、容赦ないですな」ガルナードがくつくつと笑う。「実にあくどい。だが、見事ですな」


 茜は何も答えず、風に揺れる戦場を見つめていた。その眼差しの先、逃がされたアラッタ兵の影が、かすかに揺れている。彼らが今、何を胸に帰還するのか。それを思うと、茜はほんの少しだけ、目を伏せた。


 だが――その口元には、ひとつの戦術家としての、冷静な笑みが浮かんでいた。


****


 アラッタ軍を退けたその日から、シュメールの風は明らかに変わった。まず異変が起きたのは、茜が率いていたウル、ウルク、ラガシュの連合部隊だった。彼らは戦場で見た“風の大巫女”の采配に、ある者は畏敬を、ある者は感嘆を、ある者は静かな震えすら覚えていた。


 「まるで、風そのものが戦場を駆けていたようだった……」

 「いや、あれはもう人ではない。神の導きとしか……」


 そんな囁きが各部隊の兵の口からこぼれ落ち、それはじわじわと彼らの都市国家に伝播していった。帰還した兵士の証言が広がるたびに、“風の大巫女”という存在は、神話の一節のように語られ始めた。追い打ちをかけたのは、同行していたエンへドゥアンナが記した詳細な記録である。神殿用に書かれた彼女の文書は、戦の流れを詩のように、美しく、そして格調高く綴っていた。


 ──風の神ユカナと共に、嵐を呼ぶ者。

 ──その指揮棒一振りが、数千の兵を導き、風のように勝利をもたらす。


 それはやがて、神殿の祭祀官たちの目に留まった。そして、祭祀の決定が一斉に下された。風の神に並ぶ、新たなる祀るべき存在――風の大巫女。


 その名が記された神殿は、全ての都市国家。それぞれの主要神殿において、茜が“神”として祀られたのである。そして茜本人に神力40が入っていた。その知らせを聞いた茜は、完全に凍りついていた。


 「…………え?」


 手元に届いた報告書の束を、思わずテーブルに落としかけた。隣でユカナが満面の笑みで拍手する。


 「すごいね、茜! これでお揃いだよ! さあ、これからは毎朝の祈祷もあるし、儀式も増えるし、季節祭も……」


 「待って待って待って、私はそういうのじゃないって……! どうして、誰が……っ」


 その視線が、それが出来そうな一人の女へと向かう。


 「……余計なことしてくれるじゃない、エンへドゥアンナ」


 茜がじとりとした目で睨むと、エンへドゥアンナはまるで何のことやらとでも言いたげに、上品な微笑みを浮かべて首を傾げた。


 「まあ、風の大巫女様。あれほどのご活躍を、ただの武勇として片付けるのは、かえって皆さまに失礼かと存じまして」


 (今さら人間のふりなんて、ずいぶんとご都合のよろしいこと)


 「私は人として気楽にやってるだけだよ。神なんて……こっちはまっぴらごめんなんだけど」


 茜が笑顔を浮かべながら返したが、その言葉はあまりにも率直すぎた。


 エンへドゥアンナは、一拍おいて上品に微笑んだ。


 「まあ……そうおっしゃるあたり、やはり風の神の寵愛を受けた方というのは違いますのね。もう神様のようなお立場なのですから、もっと大らかな気持ちで受け入れていただいた方が、皆さまも安心されるかと存じますわ」


 (あらあら、そんなにむきになって……もうあなたは神様なのだから、それくらい包んで見せなきゃ)


 その物腰の柔らかさに、茜は一瞬だけ「しまった」と目を伏せたが、すぐに仕返しの笑みを浮かべた。


 「じゃあ、あなたはせいぜい筆でも振るって、“あなたがはじめた偉大な戦い”にふさわしいお話でも、気高く、格調高く、脚色たっぷりにまとめておいてくれると助かるかな?」


 (この戦の口火を切った当の本人に、美化されるなんてまっぴらごめんよ)


 エンへドゥアンナは目を細めて扇を口元に当て、転がすように笑った。


 「まあまあ、それもまた風の大巫女様らしいお言葉でございますわね。末代まで語り継がれる逸話になるよう、心を込めて綴らせていただきます」


 (そう、書くわよ。あなたの“逃げ場”を、すべてこの筆で封じてあげるわ)


 「うっわ、性格悪っ……!」


 茜がうなだれるように呟いたその瞬間、エンへドゥアンナの表情に満足げな光が浮かんだ。


 (勝った)


挿絵(By みてみん)


 リュシアは隣で、書簡を読みながら乾いた笑みを浮かべた。


 「まあ……そのうち、そうなるだろうと思ってましたけど」


 ガルナードもくつくつと笑ってうなずく。


 「人を超えて、神格に至るとは。主らしいと言えば主らしい」


 茜は天を仰いだ。いや、現実逃避するように空を見上げていた。


 「……どうしてこうなった……」

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