40話 開戦前夜、風が導く最初の一矢
都市アラッタの東門が開かれるたび、砂塵をあげて次々と軍勢が到着していた。大地を踏みしめる幾百の足音。剣と槍の金属音。旗手たちが高く掲げる旗には、神託の文様と、各都市国家や氏族の象徴が誇らしげに描かれている。
神殿前の広場は、もはや兵士と市民、神官たちで埋め尽くされていた。色とりどりの軍装を纏った兵たちは列を成し、神官たちが清めの香を焚きながら一人ひとりに神祝を授けてゆく。広場の中央では、アナフ=ザナ神に捧げる大祝詞が朗々と響いていた。青と白の衣をまとった神官たちが、神殿の壇上に並び、祝詞を唱えるたびに群衆の声が応和する。
熱狂と信仰が入り混じるその空気は、まさに神と人がともに歩む祭礼のようでもあった。その光景を、神殿の大階段の上から見下ろしていたのは、アラッタの指導者ザルマフと、その妹にして神官長エナ=シェンだった。ザルマフは沈黙のまま、眼下の光景を見つめていた。表情は静かであったが、緊張の色は隠せない。
「……本当に、皆が集まりました」
エナ=シェンが隣で、祈るように手を組みながら小声で呟いた。
「義勇兵までもが……。それほどまでに、皆の中に“シュメール”への恨みがあったのですね」
「復讐の火は……消えてはいなかったということだ」
ザルマフの声は低く、だが確かだった。
彼らが神託を受けて数日のうちに、周辺の都市国家や部族、古よりアラッタに連なる一族たちが次々と名乗りを上げ、戦のために集ってきた。中には、かつてシュメールに屈した歴史を持つ者たちも多く、それゆえにこそ、この戦いを「大義」と信じていた。
神託が、彼らの思いを呼び覚ましたのだ。
「……ならば、この信に、応えねば……」
そのとき、神殿前の広場に張り詰めた空気が、徐々に厳かな静けさへと変わった。
列席者たちが見守る中、白布に包まれた古箱が神殿の奥から運び出される。やがてひとりの老神官が進み出た。その人物は、アラッタ本国ではなく隣接する小都市の祭司長であった。王国滅亡の際、未来の復興を託された彼の一族は、王印とともに密命を受け、代々この遺物を守り続けてきたという。
「この王印は、かつての災厄の折、アラッタ王家がシュメールに討たれたその日、我らの家が託されたものでございます」
老神官は慎重に箱を開き、中から翡翠を象嵌した黄金の印章を取り出した。刻まれているのは、古代アラッタの王家を象徴する三重冠と、双翼の鳥――アナフ=ザナの加護を象徴する紋章。
「王が再び現れるその日まで、決してこれを使うな――それがかの王の最後の言葉だったと伝えられています。今こそ、この日が来たのです」
神官の手から、その王印がザルマフへと手渡される。ザルマフは、両の手でそれを受け取ると、ゆっくりと掲げた。陽光が翡翠の面に反射し、緑の輝きが群衆の前に放たれる。
「この血が絶えなかったことに、意味があったのだと――私は、それを証明してみせる」
その声に応えるように、広場を埋めた各都市の軍勢が一斉に剣を抜き、天に掲げる。
「アラッタ王に忠誠を――!」
咆哮のような声が四方の城壁にこだまし、風がその刃を撫でていく。エナ=シェンはその後方に進み出て、神官としての正装のまま神殿の祭壇前に立った。両手で持った粘土板を見下ろしながら、はっきりとした声で神託を読み上げる。
「女神ミラの御名において、アラッタは目覚める。偽りの秩序に揺らぐ世界に、正しき声を掲げよ。……王の血は絶えず、信仰は潰えず、いまここに、かの国は甦る」
祝詞の音が空へと昇り、神殿の鼓手たちが太鼓を打ち鳴らす。神託の響きと太鼓の律動のなかで、かつて失われた王国は――いま、再び歴史の表舞台にその姿を現した。群衆の歓声が遠ざかり、神殿の奥、白石の柱に囲まれた静かな回廊には、ようやく落ち着いた空気が戻っていた。ザルマフは、王印を収めた小箱をそっと卓に置くと、深く息を吐いた。彼の表情は、祝福の中にあってなお、険しい陰を落としている。
「……すべてが理想通りに進んでいるように見えても、私の胸には、不安ばかりが募っていく」
その声に応えるように、エナ=シェンが柔らかく口を開いた。
「兄上も、あの東方から来た“神託の兵”を信じきっていないのですね」
ザルマフは頷いた。
「ああ。装備も、訓練も、我らの兵とは異なる。あの者たちは確かに強い……だが、彼らが本当に“誰に従っている”のか、それを見定められずにいる」
エナ=シェンもまた、眉を寄せたまま続けた。
「そして何より――ティグリスを越えて進軍するなら、補給が命綱となります。もしこちらが読みを誤れば、我らは異国の地で全滅することになります」
ザルマフは静かに拳を握りしめた。
「……自分が王の座につくなど、かつては夢にも思わなかった。だが、いまこの瞬間、目の前にいる者たちは皆、私に未来を託している」
その瞳には、民の信を背負う者の覚悟と、不安とが交錯していた。
「信仰だけで戦に勝てるなら、どれほど楽だろうな……。だが、神の名を掲げる以上、その名に恥じぬ策と責任が求められる」
彼の声は、静かだが確固としていた。
「だからこそ、策が必要です」エナ=シェンは神官らしい理性の籠もった声で言った。「補給線の確保と、敵の動きを読み、確実に勝てる状況をこちらが作るべきです。正面からただぶつかって勝てるとは思いません」
ザルマフは黙って頷き、窓の外に広がる戦の準備に沸く広場を見つめた。祭の終わった街には、これから戦う者たちの喧噪が溢れていた。
「……我らに与えられたこの“王国再興”という舞台。それが神に与えられた試練であるならば、理性をもって受け止めよう」
兄と妹の眼差しが静かに交わった。その先にあるのは、信仰と血と、そして決して後戻りできぬ戦の道だった。
****
アラッタ王国再興から二日後、神殿内の会議殿には各都市国家の代表と、王国軍の主だった将官たちが集められていた。青いタペストリーの下、円形の石卓には戦地の地図が広げられ、その中央にはティグリス河が刻まれていた。
ザルマフはゆっくりと立ち上がり、静けさの中で語り始めた。
「諸君。我らが目指すは、シュメールの支配に苦しむ民の解放――だが、そのために我らの命を徒に費やしてはならぬ。敵は数において我らを凌ぎ、地の利においても有利だ。……だからこそ、正面からの総力戦ではなく、知恵による勝利を選ぶべきだ」
その言葉に、数人の都市代表が眉をひそめた。
「神託に従い、力で押し通るべきではないのか?」
「なぜ我らが、敵を誘うなどという手間を踏まねばならぬ!」
だが、ザルマフは動じなかった。
「我らは、まず少数の選抜部隊でティグリス河を渡らせる。狙いは、ラガシュへの小規模な攻撃だ。敵がそれに応じ、その勢いのまま軍を進めて河を越えてくれば――その補給線を我らの地で断ち、疲弊した敵を迎え撃つ。戦の主導権は我らが握る」
再びざわめきが起こったが、今度はその前に、エナ=シェンが歩み出た。
「神託が示したのは、血の嵐ではなく、“秩序の再構築”です。慎重さと節度、それこそが神の望み。備えと理性を持つ者こそが、女神ミラの意志に応えるのです」
静かな言葉だったが、その重みは集まった全員に届いていた。やがて一人、二人と都市代表たちが頷きを見せた。
「よかろう。我らの刃、アラッタ王の御手に」
「勝利のためならば、道は問わぬ。だが、必ず導いてくれよ、ザルマフ王」
その声に、ザルマフは頷いた。
「感謝する。全ての都市、全ての兵を――我が指揮の下に統一して欲しい。統一された声こそが、神意を叶える力となる」
こうしてアラッタ王国とその周辺の全都市国家は、正式にザルマフの指揮下に入り、神託に導かれた軍勢として、一つにまとまった。
翌日、朝の陽光が城門の上を染め、アラッタの街に新たな一日が始まりを告げた。
その日、神殿広場には再び群衆が押し寄せていた。軍旗が風にたなびき、甲冑をまとった兵たちが整然と並ぶ。槍と盾を手にした選抜兵たちは、静かなる緊張の中に佇み、その背には神託の文様が刻まれた旗がはためいていた。
「アラッタのために!」
誰かの叫びが、熱を帯びて連鎖するように続いた。
「神託に応えよ! 女神ミラの導きに従え!」
市民たちは道端に列を成し、兵たちに花束や供物を手渡していた。中には涙を浮かべ、祈りを捧げる者もいた。まるでこの出陣そのものが、一つの神聖なる儀式であるかのように。ザルマフは神殿の石段から、出陣する兵たちを見つめていた。脇には神官装束のエナ=シェンが控えている。
「兄上……この先は、もう後戻りはできません」
「わかっている」
ザルマフは小さく頷いた。彼の眼差しは、まっすぐティグリスの彼方を見据えていた。
「だが、これは神託の命であり、我らの過去への決着でもある。……戦は、始まったばかりだ」
その声は誰に向けたものでもなかったが、確かに空へと届いた。選ばれし兵たちは、アラッタ市民の祝福と歓呼の声に背を押され、ゆるやかな進軍を始めた。行き先はティグリスの河畔――シュメール世界への、第一歩。神の旗を掲げた行軍は、やがて砂塵の向こうへと消えていった。
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ウンマの大神殿。その中心にある円形の会議室には、静かな緊張が張りつめていた。
高天井を支える柱には、シュメールの守護神々の象徴が彫られ、神官たちが用いる青い香煙が静かにたなびいている。中央の儀式壇を囲むように、各都市国家から集った司令官や軍使たちが列席し、壇の最奥、王ナムルの席がひときわ高く設けられていた。
その壇に、一人の女性が立つ。
紺碧の絹を基調に、金糸で蔦草文様が精緻に織り込まれた大巫女の正式装束――風の神ユカナに仕える大巫女として、茜はその場に現れていた。陽光の差し込まぬ神殿の中でも、その衣は、まるで風そのものが動いているかのような柔らかな輝きを放っていた。
「……アラッタによる東方からの侵攻、それは疑いようのないものです」
茜の声が、静まり返った神殿に落ちた。
「地理的条件を考えると、彼らの主攻は南方――ラガシュと見ます。ティグリス河を越えて最も短く、かつ戦略的価値が高い場所です」
重ねて差し出された地図には、すでに数箇所に注記がされている。
「シュメールにとって、ラガシュを失えば、ウル、ウルク、そしてウンマへの道が一気に開かれます。ゆえに、私はこの地にこそ警戒を集中すべきと考えます」
各都市代表が頷く中、壇の上で言葉を探していたナムル王が、少しだけ口ごもった。
「……叔母さ――」
その瞬間、会場の数名がわずかに目を見開いた。ナムルは顔を引き締め、あらためて言葉を選び直す。
「――風の大巫女よ。汝に、シュメール王国軍すべての兵権を委ねる。敵を退け、民を守る総司令官として、我らを導いてほしい」
茜は一礼し、静かに頭を下げた。
「謹んで、お受けします」
その場にいた各都市の代表者たちは、一斉に立ち上がった。
「風の大巫女の下で戦えるとは……」
「これこそ、我らの大義……!」
老いたエリドゥの将軍、若きキシュの軍使、ウルクの重臣にいたるまで、全員がその決定を歓迎し、声を揃えて賛意を示した。その背後で、ナムルの母であり長年王を支えてきたシャラ・ドゥムが、静かに目を細めた。彼女は何も言わなかったが、表情の底にはわずかに満足げな色が浮かんでいた。
そして茜の言葉を皮切りに、神殿内では本格的な防衛計画の協議が始まった。各都市国家の軍使や将官たちがそれぞれの地理と戦力を踏まえた意見を交わす中、茜は迷いなく方針を定めていく。
「まず、北方のニップル、キシュには現地での防衛体制を整え、必要に応じて持久戦に備えてもらいます。特にキシュは北方の戦略拠点。敵がティグリス河を渡河して攻めてくる可能性もあるため、監視を強化してください」
指差された地図の上で、キシュ周辺に複数の警戒線が引かれていく。
「そして南方のラガシュには、ウル、ウルクの二都市から部隊を派遣します。ラガシュ単独では心許なくとも、二都市の援軍が加われば、守りを固めるには十分です。さらにエリドゥ、ラルサの二都市の部隊を南方戦線の総予備として準備してもらいます」
「なるほど……ラガシュが落ちれば、南方の連携が断たれますからな」と、ウルの司令官が深く頷いた。
「王国軍本隊は当面、ここウンマで待機します」
茜の言葉に、ナムル王も頷いた。
「敵がこちらに主力を向けるまで、本隊はたしかに慎重に動くべきですね。敵が神の名の元に総力戦で来る以上、判断を誤るわけにはいきません」
そして茜は最後に、一つの命を下す。
「偵察部隊をティグリス河の東岸に送ります。敵がどこを渡ってくるか、どのような規模か、それを知ることが最優先です。」
風の大巫女の指揮の下、シュメール防衛戦の布石はこうして整いはじめた。今はまだ、静かな前夜――しかし、やがて河を越えてくるであろう戦火を、誰もが肌で感じていた。
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数日後、神殿に詰めていた風の神官たちが慌ただしく動き出した。ティグリス東岸に派遣されていた偵察部隊からの使者が帰還したのだ。
「報告します。アラッタ軍、ティグリスを渡河準備中。ラガシュ方面に向けてと思われます!」
その一報に、会議の間に集っていた将軍たちが一斉に顔を上げた。
「来たわね……」茜は小さく呟き、立ち上がった。「位置は?」
「河の南寄りです。ラガシュに向かう動きが明白かと。ただし……敵軍の数が、あまりにも少数です。部隊は精鋭に見えますが、規模としては……前哨戦規模かと」
茜は眉をひそめた。
「少ないわね……。こんな数でシュメール世界に攻め込むなんて、普通は考えられない」
横にいたリュシアが、すぐに応じる。
「本隊が別にあるか、あるいはこれは陽動、誘導の可能性も考えられます。こちらを動かすための撒き餌かもしれません」
「……だよね」
茜は地図に目を落としながら唇を噛んだ。敵の作戦が何であれ、ラガシュは今や最前線。援軍が着いているとはいえ、現地の防衛力だけでは不安が残る。
「ニップルとキシュの部隊は、アラッタの別動隊の可能性を考慮してそのまま現地防衛を継続。ここから動かさない。けれど……ラガシュ方面はこのまま様子見というわけにもいかないわね」
彼女は一呼吸置いて、立ち上がった。
「シュメール王国軍本隊は、これよりラガシュ救援に出陣します。風の大巫女の名のもとに、これより前線へ向かう――!」
その言葉に、場が静まり返り、やがてナムル王が厳かに頷いた。
「どうか、風の大巫女。ラガシュを、そのお力でお守りください。あの地には、我らシュメールの未来が懸かっております」
こうして、シュメール王国軍は風の大巫女の指揮のもと、ついに動き出す。戦火は刻一刻と、現実のものとなりつつあった。夜が明け、シュメールの空に朝焼けが差し込む頃、ウンマの街はすでに息を呑むような静けさと緊張に包まれていた。神殿の前の広場には風の大巫女――茜の姿があった。紺碧の布地に金糸で蔦草の文様を織り込んだ大巫女の正装に身を包み、手には彼女がこれまで幾多の戦場で振るってきた、銀の装飾が施された風の指揮棒を携えている。
広場には、王族をはじめ神官たち、戦に赴く兵士たち、そして市民たちの姿がびっしりと並び、ウンマの街全体が、まるでこの瞬間に心をひとつにしたかのようであった。神殿の高壇からは、ウンマ神殿の神官長が祝詞を唱え上げる。
「風よ、シュメールを導きたまえ――汝の名のもとに歩む者へ、正しき槍と守りの盾を与えたまえ……」
その清冽な声が空に溶け、耳を傾ける人々の胸に静かに染み渡った。その隣、ナムル王が、厳かに茜の前に進み出る。その面差しには王としての威厳と、風の大巫女への静かな信頼とが交錯していた。
「風の大巫女……このウンマ、いや、シュメール全土の願いを、あなたに託します。どうか、どうか――我らをお守りください」
その言葉に茜は穏やかに微笑み、小さく頷いた。
「任せておきなさいって、ナムル王。――ここは私の戦友の国なんだから、必ず守ってあげる」
ゆっくりと振り返った茜の背には、すでに輝く朝日が差し込み、彼女の外套の金刺繍が光を受けて煌めいた。風が吹き抜け、その裾が軽やかに揺れる。そして、茜はヒッタイト式の戦車へと乗り込む。本来この時代には存在しない、神の祝福を受けたかのような異国の馬が、その戦車を引いていた。
沿道に集う人々からは、やがて割れんばかりの歓声が上がる。
「大巫女様、どうかご無事で!」「風が、貴女にあらんことを!」
茜はその一つ一つに、深く笑みを浮かべながら頷き、右手でそっと指揮棒を掲げた。そして――ヒッタイト戦車が風を切って進み出すと、王宮の門が開き、風の大巫女を先頭とする王国軍本隊が、いよいよ出陣した。
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ラガシュ近郊の野営地に、濃密な戦の気配が漂い始めていた。平原の向こうから現れたのは、青地に金の蔓草文様を織り込んだ外套を風になびかせる一騎の戦車。その中央に立つ女性――いや、誰もが畏れ敬う「風の大巫女」――茜の姿だった。
ヒッタイト式の二頭立て戦車から軽やかに降り立った茜は、満面の笑みで声を張った。
「やっほー! おひさしぶり! ……って言っても、こっちは全然変わってないんだけどねー」
その声に、真っ先に反応したのは、白髪混じりの髭を蓄えた男――ウルカギナであった。かつてラガシュを治めた王にして、いまなお老いてもその威厳を保つ重鎮である。彼は、ゆっくりと茜に歩み寄ると、まじまじとその顔を見つめた。
「……十五年か。あの頃のまま……まったく、時の流れが貴女だけを避けているかのようだな」
懐かしさに滲むその声の奥に、説明のつかない戸惑いがあった。彼の心には、以前シャラ・ドゥムが感じたものと同じく、不思議な感覚が蘇っていた。
(……この者は、人ではない。“かつて人だった者”ですらないのかもしれん)
そんな思いを口には出さぬまま、彼はただ静かに微笑んだ。続いて現れたのは、ウルの神官将・エン・ナンナだった。しわを刻んだ瞼の奥で、長年の知恵が茜の姿を見据えていた。
「変わらぬ……いえ、“変われぬ”存在、というべきでしょうか」
「うーん、それ褒めてる? それとも怖がってる?」
茜が冗談めかして笑うと、エン・ナンナはかすかに頷いた。
「十五年前、……貴女が神殿を後にしたとき、私はまだ壮年でした。だが、あの時と寸分違わぬ姿で、今ここに立っておられる……」
その目には、畏敬とも異なる、言葉にならない隔たりがにじんでいた。
「貴女は――“風”というより、“時”の外に在るものなのですね」
「そんな大げさな。でもまあ、便利ではあるよ? 髪とか肌とか、お手入れ要らずで」
くすくすと笑う茜の声に、張り詰めた空気が少しだけ和らいだ。
「主にも……人望というものがあったのですね」
ふっと肩をすくめてリュシアが呟くと、隣で腕を組んでいたガルナードが苦笑した。
「予想以上ですな。まるで英雄譚の一節でも見せられているようでしたな。……いや、実際そうなのでしょうな」
「ちょっと、そこは素直に感動してほしいんだけど」
と、割って入ってきたのはユカナである。
「でも、やっぱり茜は茜、だよね。……今回も、逃げられない戦いなんだよね」
「まぁね。今回もあの時と同じ、守る戦いだからね」
茜がそう言って肩をすくめると、少し後ろで見守っていたエンヘドゥアンナが静かに歩み寄ってきた。
「……人の姿をしていながら、人ではない。ようやく、わかりました。私が、あの時からずっと何に怯えていたのか」
「怖がっても、何も変わんないよ? 私はあくまで――“味方”なんだから」
そう言って振り返った茜は、皆に向けて指揮棒を掲げた。
「さあ、いよいよ本番。……この風の下、誰一人として無駄に倒れることのないよう、準備していこうか」
夕暮れの風が、その言葉を野営地の端まで運んでいった。夜の帳が下りる頃、ラガシュ近傍の野営地に設けられた作戦会議の天幕では、静かな緊張が漂っていた。灯火のゆらめきに照らされた地図を前に、茜を中心に将軍たちが集っている。風の大巫女の指揮のもと、明日の戦を前にして最終の戦略が話し合われていた。
「これ、絶対に本隊じゃないよね……何をたくらんでいるのか」
茜が地図に視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
「確かに数が少なすぎます。昼間に見た感じでは、あれは本隊ではありませんね。先遣隊か、陽動か……」
リュシアが眉を寄せながら言う。
「あるいは補給の制限。ティグリス河を越えてこの地まで来るには、使用できる兵力も限られるでしょうな」
ガルナードが地図上に指を走らせながら分析した。
「……補給に制約があるというのは、敵だけじゃないわね。私達が攻め込む場合も同じ状況。その前提で、敵がわざと少数でこちらを誘い込もうとしているとすれば――」
茜の言葉に、会議の場に重たい沈黙が落ちる。
「ふむ……アラッタ側が我々をラガシュから引き出し、ティグリス河を越えたところで補給線を断ち、包囲殲滅を狙う、か」
老将ウルカギナが低く頷きながら言った。「古いが、油断すれば今でも十分に機能する戦法だな」初老の神官将、エン・ナンナは静かに付け加えた。「風の大巫女は、よく見抜いておられる。おかげで我々は先手を打てますな」
「たしかに……あの少数部隊は撒き餌なのでしょうね……」
リュシアが思わず声を漏らすと、茜は力強く頷いた。
「そう。けど、目の前の敵を放っておけば、面倒なことになるわね。だからまずは明日、この部隊を速攻して確実に叩きましょう」
「撒き餌とはいえ、放っておく訳にはいきませんからな」
ガルナードの問いに、茜は笑みを浮かべた。
(神力を使って兵を増やすには、まだ時期尚早……今は温存すべき)
「うん。でもまだ手札を全て見せる場面じゃない。こちらも余力は残しておくわ」
「主のお考え、納得いたしました」
エンへドゥアンナが静かに頷いた。
「父が風の大巫女に敗れたあの時、私はまだ幼かった……。でも、まさかその伝説の風の大巫女の傍で、今こうして共に戦えるとは。人生とは本当に……不思議なものです」
茜は肩をすくめながら、風の指揮棒を手に取った。
「よし、じゃあ明日に備えて。風の流れはこちらにある……って、証明してやらないとね」
その言葉に、会議の場にいた将たち全員が力強く頷いた。こうして、シュメール軍はアラッタ先遣部隊との初戦に備え、静かに夜を迎えたのであった。




