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34話 王の最期、そして風の逆襲

北の空が灰色にかすみ、地平線を覆うように一面の軍勢が姿を現した。アッカド王国軍――その数、9500。兵の列は遥か先まで続き、まるで地を覆い尽くす濁流のように、圧倒的な威容を誇っていた。


「……来たわね」


茜が静かに呟く。その双眸には、ただの緊張ではない、どこか予感めいた警戒の色が浮かんでいた。兵たちの中に、明らかに異質な一団がいる。このシュメールの時代には似合わない重装甲、そして長柄の槍を整然と構え、他の兵とは違う洗練された気配を纏う者たち――


「……中装槍兵……? あっちも私達と同じ部隊?」


茜の目が鋭くなる。


「なるほどね……やっぱり、“あのダ女神”が絡んでるってことか」


茜が苦々しげに視線を落とした先には、ユカナが所在なさげに目を逸らしている。


両軍はほぼ同時に、横一線の陣を完成させた。左右に広がる布陣は、まるで古の秩序を体現するかのように整っている――だが、そこにあるのは均衡ではなかった。王たちの出会いは、この時代において戦の慣例だった。戦端を開く前に、互いの正義を主張するため、両王が軍の中央に進み出る――はずだった。


しかし――


「……止まらない!?」


ルガルニル王が中央に進もうとした、その刹那。アッカド軍の列が、ざわりと前進を始めた。まるで合図でも受けたかのように、規律正しく、容赦なく、地を鳴らしながら迫ってくる。


「……なっ……!?」


ルガルニル王の顔が、一瞬にして怒りに染まる。


「神々の御前における約定を破り、礼を欠き、誓いを無視するとは……!」


轟然と叫ぶその声に、王の軍勢が一斉に武器を構える。


「神々の法も守れぬ蛮族が! 我らが誇りを汚すのならば、その罪、戦場にて贖わせるまで!!」


その瞬間、投槍が放たれ、槍が突き出され、両軍は怒涛のようにぶつかり合った。こうして、歴史に抗う戦が――ついに幕を開けた。


****


戦の火蓋が切って落とされてから、すでに数刻が経過していた。


キシュ北方の広大な平野では、シュメールとアッカド、ふたつの文明の存亡を賭けた激突が続いていた。各都市国家の軍勢は、それぞれの旗印の下に奮戦していた。


ウル軍、ウルク軍、ラガシュ旧軍、キシュ軍、そしてニップル・ラルサ・エリドゥ連合軍――いずれも国土を護るという使命に燃え、兵たちは果敢に立ち向かっていた。アッカド軍は数で勝り、装備や練度も高かったが、シュメール兵の士気は高く、投槍兵や神官戦士、祈祷巫女たちの支援によって、全戦線がかろうじて均衡を保っていた。


茜軍もまた、戦線の中央右側、王直轄軍とウル軍の間で布陣し、堅実な戦いを展開していた。


「予備隊はまだ温存。戦車隊もまだ……」


茜は風を切るような鋭い動きで、銀の羽根飾りがついた“風の指揮棒”を振るった。


その手元から広がる視線の先には、地平線のように広がる戦場。まさに嵐の只中――だが、その中心に立つ彼女の姿が、各都市軍の兵たちにとっての“拠り所”となっていた。茜軍の前線を支えるのは、この時代の軽装槍兵とは一線を画す中装槍兵と、機動性と柔軟性を兼ね備えた中装歩兵たち。その背後には、リュシア率いる弓兵が控えている。


「援護、左へ三歩。王の直轄軍が苦戦しています」


リュシアが冷静に命じると、訓練された弓兵たちが素早く移動し、次の瞬間、弦音が連続して響き渡る。放たれた矢は、風のように敵陣を貫き、ルガルニル王の直轄軍を脅かしていたアッカド兵の前進を止めた。援護を受けた王直轄軍の兵たちが息を吹き返し、再び盾を構えて前へ進み出す。


その様子を見届けながら、茜は静かに目を細めた。


「リュシアの矢がある限り、中央右翼は崩れないわ……でも――」


彼女の視線が戦場全体をなぞる。風に揺れる大巫女の衣が、太陽の下で光を反射し、味方の士気を鼓舞していた。


「――わたしがここに立っている意味、ちゃんとあるってことよね」


その言葉は誰に向けたものでもなく、しかし確かに、周囲に届いていた。彼女が風の大巫女として陣頭に立つこと――それそのものが、シュメール軍にとっての“神の加護”の証であり、兵たちの心を奮わせる象徴だった。各軍の兵たちが、ちらりと茜の姿を見やり、槍を握り直す。誰もが、風の神の巫女が共にあることを確かに感じていた。戦場には、風が吹いていた。茜が掲げた風の指揮棒に導かれるように、シュメールの兵たちは、未だ崩れぬ横陣の中で戦い続けていた。


「でも……全体が拮抗している。互角の戦いは、数が少ないこちらには不利……」


戦場では、すでに両軍の第一線の軽槍兵が消耗しはじめ、第二線の投槍兵がそれを支え、さらにその背後では神官戦士や祈祷巫女たちが祈りと力を送り続けていた。だが――茜の軍だけは、まだ一部の戦力を動かしていない。温存された中装歩兵2部隊と、戦車部隊。


「突出せず、被害を抑えることに専念して正解だったわね。無理な突破をすれば、包囲されて終わる」


だが、その堅実な判断がいつまでも通用するとは限らない。リュシアが記録板を見つめながら、眼鏡の奥で目を細めた。


「戦線は拮抗しています……が、兵数ではこちらが劣勢。長引けば、いずれじわじわと押されるでしょう」


茜は静かに頷いた。


「どのタイミングで、どちらが仕掛けるか……そこが勝負の分かれ目ね」


その時、遠方の地響きが強くなった。茜は顔を上げ、遠くに、かすかに揺らぐ軍旗の群れを見据えた。


その瞬間だった。


中央に掲げられていたルガルニル王の旗が、突如として動いた。


「王の御旗が……!?」


リュシアが記録板を握りしめ、戦場を注視する。遠目にも、王の肩鎧が日差しを反射して光っていた。側近の近衛兵を従え、王自らが前線へと進み出ていたのだ。


「直轄軍の士気を鼓舞しようというのね……!」


茜は風の指揮棒を振る手を止め、眉をひそめた。


「でも、あれは――危険すぎる!」


即座に司令部を飛び出そうとするも、リュシアが冷静に口を開く。


「……もう遅いです。王は、すでに前に出ています」


遠く、戦場の中央で旗が揺れる。兵たちの歓声が上がる中、それを眺める一対の瞳があった。


アッカド王・サルゴン。


「……出たか」


サルゴンは小さく手を振った。その合図を受け、アッカド軍の中から選りすぐりの中装槍兵――王直属の近衛部隊、4部隊が音もなく動き出す。重装の具足が土を踏みしめ、大地を震わせる。


「このタイミングで……狙っていたわね」


茜が息を呑むより早く、それらは怒涛のごとく中央へと殺到した。シュメール王国軍の直轄部隊は、王が立つことで一時的に士気が上がっていた。だが、それすらも――圧倒的な戦力の前では、薄紙にすぎなかった。


怒号、悲鳴、鉄のぶつかる音。


直轄軍の中央は、不意を突かれる形で崩壊を始めた。


「――間に合えっ!」


茜は風の指揮棒を高く掲げると、後方で温存していた自軍の中装歩兵2部隊を一気に展開させた。彼女の命令に呼応するように、中装歩兵たちが迷いなく駆け出す。


「前線中央、突入! ルガルニル王の援護に入って!!」


その声は、戦場に響き渡った。けれど――その刹那、茜の目に映ったのは、乱戦の中で孤立するルガルニル王の姿。その周囲を包囲する、アッカドの兵士たちの影だった。


中装歩兵の2部隊が混戦の只中へと飛び込んだ瞬間――


茜の目が、ルガルニル王に周囲から覆いかぶさるように突入するアッカドの兵士たちの姿を捉えた。それが、王――ルガルニルの最後の姿だった。中装槍兵たちの波が、一斉にその中心へと襲いかかる。


「……ルガルニル王……っ!」


茜が叫んだが、届くことはなかった。


鋼の刃が閃き、肉が裂ける音。


その瞬間、ルガルニル王子の姿が、敵兵の群れに呑み込まれた。


「間に合わなかった……!」


突入した中装歩兵たちが必死に敵兵を押し返し、王の近衛兵の一部も奮戦したが、すでに王の息は絶えていた。その報は、戦場に静かに、けれど確実に広がっていく。


「……王が……討たれた……!?」


「まさか……!」


兵士たちの動きが止まり、指揮の糸が断たれたように、戦列のあちこちが緩み始める。


崩壊の兆し――それは、各都市軍にまで波及していった。


中央左翼のラガシュ軍は辛くも踏みとどまっていたが、他の都市部隊では動揺が広がり、後退の兆しを見せていた。茜は歯噛みしながら、戦場全体を見渡した。


「……このままじゃ……本当にシュメールが滅びちゃうよ!」


司令部に戻りかけた彼女の前に、リュシアが血の気の引いた顔で進言する。


「主。最悪の場合は、戦車隊を中央に突入させ、突破口を作って、全軍撤退の時間を稼ぐしかありません」


その言葉に、茜は頷きかけた。


しかし――


ふと、司令部の周囲に目をやった時、茜はある部隊の存在に気づいた。


「……まだ勝てる」


漆黒の羽織を払う風の中で、ただ静かに構えていた一群。まるで青銅の彫像のように一糸乱れぬ構え――


列を成すは、わずか五十。だが、その存在感は軍団に勝る。


鉄の兜、赤紐で留められた重厚な胴鎧、太腿までを覆う鉄製の脛当て。すべてが隙なく整えられ、光を鈍く弾くその装いは、この時代には存在しない“鉄の意志”そのもの。盾――アスピスは、ただの防具ではない。重厚な真円に刻まれた無紋の光沢は、見る者に言葉ではない威圧を与えていた。


「……スパルタの、ポプリタイ……」


その名にふさわしい規律と力を備えた、歴史の伝説となった重装歩兵たち。数こそ五十。だが、その五十は、一千にも匹敵する威容を放っていた。


まさしく――切り札。

茜は目を見開き、風の指揮棒をぎゅっと握り直した。


「……これでひっくり返してやる」


戦場を見据えたまま、静かに言い放つ。


「前線に出るよ。ユカナ、ちょっと散歩よ」


その言葉に、すぐ隣で戦況を見守っていたユカナがぴたりと動きを止め、引きつった笑みを浮かべる。


「そ、それはちょっと……今、ものすごく投槍とかが飛んでるんだけど……?」


「このままシュメールを滅ぼすわけにはいかない。……王と約束したの。ここは…シュメール王国は絶対に守るって」


茜の声は低く、だが芯の通った強さを秘めていた。ユカナは小さく息をつきながら、茜の横に歩み寄った。


「ほんともう……しょうがないなあ、茜は」


「分かってるなら、文句言わずに付き合って」


そう言い返す茜の足取りには、もはや迷いはなかった。二人の姿が司令部を離れ、前線へと歩を進める。


その直後――重い足音が、静かに大地を打った。


背後から整然と続くのは、筋骨隆々な姿でアスピスを構えた五十の戦士たち。スパルタの誇りを受け継ぐ、重装歩兵――ポプリタイ。彼らは一言も発せず、ただその整然たる歩調と呼吸で、己が守るべき存在を示していた。


茜とユカナを守るため、盾を半身に構えた縦列が徐々に広がり、やがて“動く盾の壁”が形成される。それはまさに、神と風の巫女を護衛し、戦場に押し出すために生まれた鋼鉄の誇り。本来ならこの時代には存在しないスパルタの武威が、静かに、そして確かに戦場へと進撃していった。


挿絵(By みてみん)


戦場に重低音のような足音が響き始めたのは、その直後だった。


整列したポプリタイが、規律正しく歩を進める。やがて彼らは前線に達し、無言のまま盾を打ち鳴らした。戦場が――一瞬、静まる。


そして。


「おぉぉぉ!」という掛け声とともに、スパルタの重装兵たちは前進した。


重さ、速さ、統制力――そのすべてが、この時代の戦場には存在しない“異物”。


アッカド軍の中央線を守っていたはずの歩兵たちが、音を立てて弾け飛ぶように崩れていく。ルガルニル王を討ち取ったサルゴン王直属の親衛隊すら、重盾で押し崩され、崩れ、ついには後退を余儀なくされた。


「ば、化け物か……っ!」という叫びが、敵兵から漏れたのが聞こえた。


その中央、盾の波の背後――茜が、風の指揮棒を高く掲げて進み続ける。その隣にはユカナ。いつもの笑顔を消し、神のまなざしで前を見つめていた。第二線の弓陣からその姿を見たリュシアは、記録板を持った手を止めて呆然と立ち尽くす。


「……主、何を考えて……いえ、何を成そうとしているのですか……?」


ガルナードも、瞠目していた。


「馬鹿な……前線へ、単身で……っ」


だが、次の瞬間。


重装の列が再び動いた。今度は左右に展開し、盾の波が中央を文字通り粉砕する。サルゴン王の親衛隊すら止めることができなかった厚みと統率、鍛え抜かれた突撃の一撃が、アッカド中央戦線を一気に断ち切る。


もはや――突撃というより、殲滅。


「主殿……!」と、ガルナードが声を上げた。


「中装槍兵・中装歩兵、突撃開始! 主殿が空けた穴を拡大しろ!!」


指揮が走る。守りを重視していた茜軍の主力が、一斉に攻勢へと転じる。


その様子を見たラガシュ軍のウルカギナ王は、血で汚れた額をぬぐいながら、風の大巫女を見つめ、驚きと感嘆の交じる声を洩らす。


「風の大巫女殿自らが……突撃だと……? いや、あれは……神の奇跡か……!」


茜軍の右翼で奮戦していたウルのエン・ナンナ神官将も、重装歩兵の突破劇を目の当たりにし、思わず天を仰ぐ。


「風の神ユカナよ……貴女の巫女が、奇跡を起こしました……」


その瞬間、茜は風の指揮棒を振り上げ、叫ぶ。


「全戦車部隊、突撃準備! 中央を切り裂くわよ!!」


呼応するように、ヒッタイト式戦車とエジプト式の弓騎戦車が砂煙を巻き上げて前進を開始する。中装歩兵たちが突破口を広げる中、茜の指揮のもと、戦車部隊がその隙間を一気に駆け抜ける。ヒッタイト式戦車の青銅の楔が敵陣を割り裂き、エジプト式戦車の弓矢が左右から敵兵を蹴散らす。


アッカドの中央第一線に続いて第二線が――一気に瓦解しはじめる。


リュシアが冷静に弓兵へと命じる。


「支援射撃、開始。戦車隊を援護して」


無数の矢が空を走り、茜軍の前方を浄化するように敵を貫く。アッカド軍の第二線まで突入した戦車隊は、崩壊した敵陣を一気に蹂躙すると、持続力の限界を見極めてすぐに後方へと退いた。


だが、その一撃で空けられた穴は、あまりに大きく、深い。


茜軍の全軍が、リュシアが指揮する弓兵の援護を受けつつ、前線を押し上げていく。戦線中央での奇跡を見た各都市軍も士気を取り戻し、再度アッカド軍と交戦を開始。


戦場が、風の大巫女の名のもとに――再び動き出した。


アッカド軍の中央戦線が完全に崩壊しつつあるなか、後方に一端戻ったアッカドの親衛隊――中装槍兵部隊が再び戦場に姿を現した。彼らはサルゴン王の命を受け、崩壊寸前の中央戦線を支えるべく、鋭い楔のように前線へと再投入される。


「……まだ、諦めていないようですね」リュシアが低く呟き、眼鏡の奥の瞳が鋭く光る。


サルゴン王の威信をかけた精鋭部隊により、確かに一時的に戦線が持ち直すかに見えた。だが――


「戦車隊、再突入しなさい!」


茜が風の指揮棒を振った。後方で再編成された茜軍の戦車部隊が再び動き出す。


「突撃――開始ッ!!」


ヒッタイト式戦車を先頭に、明らかに次の時代の戦車隊が再度蹂躙を開始した。先ほどの突破を上回る勢いで、アッカド親衛隊を飲み込むように突進した戦車部隊は、中央戦線に残された最後の盾を打ち砕いた。


「これ以上は……持たない!」アッカド軍の指揮官が悲鳴を上げる。


サルゴン王は唇を噛み、剣を鞘に収めた。


「……撤退命令を出せ。これ以上の損耗は許されぬ」


その瞬間、中央の崩壊は左右両翼にも波及する。指揮系統を失ったアッカド兵たちは、恐慌と混乱に包まれ、散り散りになって戦場から退き始めた。戦局が完全に逆転したことを確認し、司令部に戻った茜の目にも退却を始めたアッカド兵たちの背が映っていた。


「いまだ……ここで叩き潰せば……!」


風の指揮棒が、ぐっと強く握られる。表情には、王を喪った怒りと無念が滲んでいた。


「サルゴン王……よくも、ルガルニル王を……!」


その足が、追撃の指示を出そうと前に出る――その時。


「主、それ以上は――危険です!」


リュシアの声が遮った。彼女は既に新たな記録板を握り締め、戦況を鋭く見極めていた。


「敵は崩れていますが、完全に無力化されたわけではありません。今、無理に追えば、こちらの戦列が乱れます。王の遺志を継ぐのでしたら、戦の終わり方を誤ってはなりません」


すぐにガルナードも続ける。


「追うべき時と、退くべき時は見極めが肝要。今は、勝利を確実なものとすべきでございましょう、主殿」


茜は口を開きかけたが――その時、すぐ傍らから、ユカナがぽつりと囁いた。


「茜、ここで復讐しても……王様は、喜ばないと思うよ」


その声に、茜の動きが止まる。


「……ッ……」


怒りと悔しさに揺れる目が、わずかに伏せられた。


「……そうだね。私は、“風の大巫女”。復讐者じゃないわ」


風の指揮棒が、そっと下ろされる。その瞬間、茜の視線の先――アッカド軍の後方で、王旗が翻った。サルゴン王の身にまとう朱色の外套が、退却の指示と共に戦場を離れ始めていた。


勝敗は、決した。


戦が終わった後の静寂は、歓喜ではなく、深い喪失の色を帯びていた。茜は戦場の中央――崩れた王直轄軍の陣地に歩み寄った。そこにあったのは、沈黙の中、静かに横たわる、金の縁取りを持つ肩鎧だった。彼女は膝をつき、震える指でその顔を覆っていた布をそっとめくる。


「……ルガルニル王……」


ルガルニル王は、安らかな顔をしていた。最後まで戦い抜いた者の誇りと、それでもなお届かなかった未来の重さが、その顔に滲んでいた。


「もっと……もっと、強く言っていれば……。私が、あなたを引き留めていれば……」


茜の声は、かすれていた。


「こんなことには……。私のせいだよ……私が……」


その場に崩れるように伏した茜に、そっと寄り添う影があった。


「主……」


リュシアが、静かに肩に手を置いた。


「主が止められなかったのではありません。王は、自らの意志でこの戦いを選ばれたのです。だからこそ、主がその遺志を受け継がねばなりません」


その隣で、ガルナードも無言でひざをつき、深く頭を垂れた。


「主殿。王は、貴女の背に“未来”を見たからこそ、信じて突き進まれたのです。後悔ではなく、決意を」


他の都市国家の将たち――ウルのエン・ナンナ神官将や、ラガシュのウルカギナ王もまた茜の周囲に集まり、頭を垂れる。


「風の大巫女殿、我らが今こうして生きているのは、貴女のおかげです」


「その王の遺体を、シュメールに戻せるのは、貴女しかおられぬ」


その言葉に、茜は涙をぬぐい、顔を上げた。ユカナがそっと隣に腰を下ろし、小さな声で告げる。


「茜のせいじゃない。でも――次はもっと守れるように。ね?」


茜は静かに頷いた。


「……うん。そうだね……。次は、こんな結末に絶対にさせない…」


彼女はそっと王の亡骸に手をかけた。その手には、もはや震えはなかった。こうして茜は、ルガルニル王の遺体と共に、再びウンマの地へと戻っていった。その背に吹く風は、重く、そして――確かな“覚悟”を帯びていた。

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