30話 風の決戦、父と子が剣を交えるとき
朝の霧が晴れ、陽が昇り切る頃――ギルスの平原に両軍の陣形が完成した。
東に連なるのは連合軍。風神の巫女・茜が指揮する斜線陣が右翼を突き出し、ルガルニル王子、キシュ、旧ラガシュ、そしてウル・ウルクの各軍が隊列を整える。西には、ウンマ王ルガルザゲシが率いる総力戦の布陣。三段構えの密集陣、その背後に控える親衛隊。砂塵の向こうで軍旗が揺れている。
その中央、静まり返る戦場の只中へ――二騎の影が進み出る。一方は、重厚な金具を身に着けた老王。もう一方は、まっすぐ前を見据える若き王子。父と子、かつては同じ王都にいた二人が、今や敵将として向かい合った。先に口を開いたのは、王だった。
「……まさか、本当に反乱を起こすとはな」
その声に宿るのは怒りでも悲しみでもない。
むしろ、長く見誤っていた相手が、今こうして真正面から自分に剣を向けて立っているという皮肉混じりの驚き。かつては従順で臆病とさえ思っていた息子が、自ら旗を掲げてここまで来た――それを目の前にしてもなお、王は感情を明かさず、ただ低く呟いた。
ルガルニル王子はまっすぐ父を見据え、静かに言葉を返す。
「父上。もはやこの後に及んで言い訳はいたしません。これは――私が神に託された役割です。この戦い、私は勝たせてもらいます」
老王の顔がゆがむ。
「増長したか。貴様に正義などない。ただの野心にすぎん。正義は、わしが守ってきたこのウンマにある。わしがシュメールの守り手だ」
王子は一拍、呼吸を整えてから答える。
「……ですが、あなたの時代は終わりました」
その瞳には、決して揺るがぬ覚悟が宿っていた。
「神々も、民も、新たな導きを望んでいます。もはや、道を譲っていただく時です」
老王は鼻で笑い、顔をわずかに上げた。
「ふん……あの気弱で、ただの文人のようだった貴様がな。王になる顔になったかと思えば……」
そして、少しだけ口元に皮肉を滲ませる。
「だが――この座は、渡さん」
言葉が終わると同時に、両者は手綱を引いてそれぞれの陣へと向き直った。静寂の中、両者の背が離れていく。
そして。
両軍が鼓を打つ。旗が振られる。太陽が高く昇りきったその瞬間――戦の火ぶたが、切られた。はじめに動き始めたのは風神の巫女・茜の軍勢であった。
「全軍、前進」
茜の号令と同時に、数百の槍が一斉に前進を始めた。彼女の部隊は中装槍兵と早期版の弓兵によって編成された“次の時代”の軍勢だった。それを支えるのは、茜が率いる二人の英雄――リュシアは早期弓兵の攻撃能力を引き上げるように、雨のような矢をウンマの前列に叩きつけた。一方、ガルナードは中装槍兵の密集隊形を構築。彼の“防御補正”により、前面からの打撃にもびくともしない安定した前進力を実現していた。
「突撃!」
茜の声と同時に、彼女の手が高々と風の指揮棒を掲げ、まっすぐ前方を指し示した。右翼、斜線陣の尖端――その中核を担う茜軍が、一糸乱れぬ動きで突撃を開始する。先陣に立つのは中装槍兵たち。彼らは重厚な盾を構え、横一列に展開すると、まるで鋼鉄の壁のように押し寄せていく。その陣形の後方、第二線にはリュシアの指揮する弓兵部隊が控えていた。
「目標、敵左翼前列。斉射……開始」
リュシアの指示に従い、弓兵たちは流れるように弦を引き、矢を放った。強化された命中精度と矢速が、敵の頭上へ精密に降り注ぐ。突撃と矢雨、両方が同時に襲いかかったウンマ軍左翼は、開戦直後からその形を保てずにいた。
「第一列、崩れかけています!」
「前線が……もう持ちません!」
茜軍の突破力は凄まじく、特にガルナードの補正を受けた中装槍兵たちは、前方からの攻撃を受けながらも全く怯むことなく突き進む。
「崩すよ、一気に!」
茜が再び指揮棒を振り下ろすと、前列がさらに加速するように突き上がる。ウンマ軍は混乱の中、前線間の伝達を用い、近隣の部隊を左翼へ回す命令を発する。
「応援部隊、左翼へ展開させろ!」
「中列を再構成して持ち直せ!」
――だが、それは叶わなかった。
「進軍開始!」
茜の軍が突出し、敵左翼を激しく揺さぶるその刹那、彼女の左隣――すなわち斜線陣の第二波が動いた。ルガルニル王子の軍勢が、満を持して接敵する。王子軍の進撃は、茜軍の怒濤の突入に続く第二波の衝撃として、敵の防衛線へ重なるように襲いかかった。
その軍勢の多くは、かつてウンマで王子を慕い、命懸けで脱出してきた兵士たちだ。
彼らは今、再び“真の主君”のもとで剣を握る。指揮は高く、王子軍の中央に配置された旧親衛隊だった部隊などは、ルガルザゲシ王の直属親衛隊と同等の重装を誇る。動きに一切の迷いがない。また民兵の武装は質素ではあるが、王子の傍で戦う誇りに満ちていた。その士気は、硬い装甲に劣らぬ力として戦線に加わっていた。
「王子軍が来るぞ――第二波だ!」
ウンマ軍は、茜軍の突入による破綻を抑えるべく、近隣部隊の再配置を急ごうとしていた。
だが、その矢先に、王子軍が茜軍の左隣から真っ直ぐぶつかってくる。
「くっ、これでは応援が出せない!」
指令が混線し、陣形の再構築は完全に阻まれた。突破の刃となったのは茜軍。その後を断ち切る盾となったのは王子軍。そして斜線陣は、着実にその威力を発揮しはじめていた。
「隣接部隊、ルガルニル王子の部隊からの攻撃を受けて応援に出せません!」
「ルガルニル王子も来ているだと……!」
指揮系統が乱れ、前線の再編が不可能と化す。
茜軍は、その隙を逃さない。
中装槍兵の密集陣が、圧倒的な重さと密度でウンマ左翼に急進し、リュシアの弓兵がその背後から絶え間ない支援射撃を浴びせる。斜線陣の威力は、右翼における正面突破の一点に凝縮され、瞬く間に戦場の均衡を破壊していった。
茜軍の中装槍兵は、ウンマ軍左翼の第一線をついに突破した。激戦の余波で一帯は荒れ果て、兵の姿もまばらな地帯を抜けた先には――投槍兵を中心とする第二線が待ち構えていた。
「接触! 第二線に接触しました!」
伝令の報が上がるのと同時に、茜は風の指揮棒を振るい、指揮を前線に飛ばした。
「全軍、そのまま突入! 押しきるよ!」
第二線は投槍兵達で構成されていたが、既に戦場は理想的な防衛環境を失っている。さらに、先ほど第一線から撤退した軽槍兵たちも混在しており、混乱の中で辛うじて陣形を維持しているような状態だった。
「耐えろ……!まだ持ちこたえられる!」
そう叫ぶウンマ軍の指揮官の声とは裏腹に、兵たちの足取りは鈍り、盾の重さに息が上がる。茜軍の密集した中装槍兵陣が、ためらうことなく迫る。その背後からは、リュシアの弓兵が引き続き精密な射撃で第二線の布陣を削っていた。
ルガルザゲシ王は、自軍の中央司令部から戦場を睨みつけていた。その顔に焦燥が浮かんでいるのは、将兵でなくとも一目で分かる。
「……まさか、あの風神の巫女がここまでの戦をするとはな」
乾いた口調で呟いたが、瞳はただならぬ熱を帯びていた。
だが――王は迷わなかった。
「ここが勝負所だ」
声が低く響く。すぐに副官が駆け寄り、王の命を仰ぐ。
「親衛隊、3部隊を左翼に回せ。目標は風神の巫女の先端。ここを抜かれれば全てが終わる」
さらに続けて、祭官長を振り返る。
「神官戦士2部隊を前線へ。支援ではない、戦場そのものへ出す。敵を止めよ」
「はっ!」
命令は即座に伝達され、王直属の親衛隊――鋼鉄の規律を持つ兵たちが、動き出した。その頃、戦場の中央部。斜線陣の第三波が、中央に展開するウンマ軍とついに接触する。先陣を切るのはキシュ軍。その左には旧ラガシュ軍が続く。
「押せ、押し返せ! 敵中央に隙はない、だが怯むな!」
キシュ軍の指揮官が叫ぶ。動員された民兵も多く含まれてはいたが、彼らは思いのほか善戦していた。茜軍や王子軍の勝利を目の当たりにしたこと、そして何よりこの戦いがシュメールの命運を分けることを、彼ら自身が理解していた。
一方、旧ラガシュ軍の士気は異常なほどに高かった。かつてルガルザゲシによって王都を追われた彼らにとって、これは復讐戦であり、祖国奪還の戦であった。
だが、いかにキシュ軍と旧ラガシュ軍が奮戦していようとも――ウンマ中央軍は、王が最も信頼を寄せる精鋭部隊で構成されていた。その重厚な盾と確かな統率は、連合軍第三波の怒涛の攻勢を受け止め、わずかも退かず持ちこたえていた。激しくぶつかり合い、剣と槍の打ち合う音が響く中、中央の戦線はまるで岩壁のように膠着したまま、動かない。
一方――
茜軍が切り崩したウンマ左翼では、親衛隊と神官戦士の投入により、戦場に新たな動きが生まれていた。王直属の親衛隊3部隊が、瓦解しかけた投槍兵陣の前に立ちはだかり、その背後からは神官戦士2部隊が祈祷と共に突撃を仕掛ける。
「動揺するな! 前線を維持しろ!」
「神の加護は、ここにある!」
撤退して第二線に合流していた軽槍兵の生き残りたちも、親衛隊の姿に再び奮起し、懸命に踏みとどまる。茜軍の突破の勢いは凄まじかったが、ここで初めて、彼らの前に真っ向から立ちふさがる障壁が現れたのだった。戦場には、一時的な静寂すら覚えるほどの抵抗の均衡が生まれた。
「……ここで止まるわけにはいかない」
風の指揮棒を静かに握りしめ、茜が小さく呟いた。戦場のあちこちで、剣戟と叫声が飛び交っている。中央ではキシュ軍と旧ラガシュ軍が精鋭のウンマ中央軍と膠着し、左翼のウル・ウルク軍はまだ動いていない。だが、右翼――茜の部隊は、拮抗中のウンマ親衛隊と神官戦士を正面に、決定的な勝機を掴みかけていた。
「リュシア。準備は?」
「いつでもいけます」
茜は頷くと、指揮棒を風を断つように振り下ろした。
「――戦車隊、突入!」
その号令と共に、彼女のさらに戦場の外側に控えていた200台のシュメール戦車隊が、一斉に動き出す。装甲と車輪が一体となって轟音を上げ、戦場の最右翼から広く迂回するように回り込み、目標は自軍正面で奮戦中の左翼部隊の突破と――敵右翼の背後。
「よし、走れ……“風の刃”!」
茜が呟くように言うと、リュシアが静かに目を細めた。
「この瞬間のために……ウンマ本軍に対して戦車の集中運用戦術を見せてこなかった価値がありましたね」
以前ウンマ本軍と戦った際、戦車は最後まで使わず正攻法で勝利していた。だがそのすべては、この瞬間のための“伏せ手”だった。集中運用された戦車隊の突撃は、まさに雷鳴のごとき破壊力を帯びて、戦場の輪郭そのものを塗り替えていく。ルガルザゲシ王は、自軍左翼から突き上がる轟音に眉を寄せた。
「……何だ、あの数……?」
報告が届くのは遅れ、目視で全容を捉えたときには、すでに戦車群がせっかく戦線を安定させたウンマ左翼を切り裂き始めていた。
「しまった……!」
応答が遅れた。戦場のどこにも、あれだけの戦車隊を受け止める余力は残っていなかった。
――そして、ついに。
茜軍の中装槍兵が、ウンマ軍左翼第二線の親衛隊をも突き破る。投槍兵も、軽槍兵も、神官戦士すらも、その圧力に押し流されるように陣形を崩し、崩れ、後退していく。
「……抜いた!」
ウンマ軍左翼が完全に崩壊したその瞬間、茜の眼が鋭く戦場全体を捉えた。風の指揮棒が再び高く掲げられ、矢のように中央方向を指す。
「進路修正、中央側面へ! ここで決める!」
その号令によって、すでに突破を果たしていた茜軍の先頭陣が、一斉に方向を変える。それまで敵左翼を貫いていた隊列が、中央軍の側面を抉るような構えへと変貌していく。
「全隊、向きを変えろ! 目標は中央軍の側面!」
前線にいたガルナードがすかさず命を受け取り、大声で指示を飛ばした。彼の声に反応して中装槍兵たちは陣形を崩さぬまま、滑らかに方向転換。規律の整った隊列がそのまま、敵中央部の横腹へと斜めに突き刺さるように進撃を開始する。
「王子にも伝令! ここが勝機!」
茜の指揮棒がさらに一閃されると、左隣を並走していたルガルニル王子の軍も、それに呼応するように速度を上げた。王子はその目で、自軍の兵たちが一丸となって新たな目標へと動く様子を見届けると、短く叫んだ。
「突撃! 茜殿と共に、王道を開け!」
戦場は、音を立てて動いた。連合軍右翼の突破部隊が一体となり、ウンマ軍中央の側面へと全力で突入を開始する。鋼鉄と熱意の波が、まさにウンマ軍の中枢を揺るがそうとしていた。
そして、ほぼ同時に。自軍の最右翼から突入した200台のシュメール戦車隊が、風のように、いや雷のようにウンマ軍第二陣と第三陣の間を疾走していた。
「本営を……避けている……!?」
ルガルザゲシ王の幕僚が叫ぶ。だが戦車群はあくまでも冷静に、王の司令部には目もくれず、弧を描くように進路を変えると、そのまま自軍の左翼、すなわち敵右翼部隊の背後へと襲いかかった。ウンマ右翼軍はすでに、正面からウル軍・ウルク軍と接触しており、激しい攻防が繰り広げられていた。そこへ後方から戦車の車輪と矛先が突き刺さる。
「う、後ろから――戦車が……!」
「陣形を……あっ、第二線が崩れ――!」
シュメール戦車隊は、前衛ではなく、第二線を切断するように突入した。圧倒的な破壊力で横薙ぎに斬り込み、第二線が瞬時に崩壊。混乱の中で、第一線の兵士たちも背後からの衝撃に気を取られ、踏みとどまることができない。それまで劣勢な戦いを強いられていたウル・ウルク軍が、明らかに手応えの変化を感じる。
「……揺らいでいる! 今だ、前進!」
エン・ナンナ神官将たちが指示を飛ばすと同時に、彼らの部隊が一気に前進。左翼側でも全面的な戦列崩壊が始まっていた。その戦場の“波”は、中央へも影響を及ぼしていく。茜軍と王子軍が、右側面から横合いに中央軍を圧迫する一方、キシュ軍と旧ラガシュ軍が正面から猛攻を続けていた。さしもの精鋭で固められたウンマ中央軍も、いまだ持ちこたえてはいたが、左翼での戦いも決着がついた今、左右からの包囲が完成しつつある。
「……まだ、もつか」
中央指揮官の顔に、焦りが滲む。その肩越しには、敵の戦車が、横から突き抜けてくる光景が見えていた。戦線はまだ崩れてはいない。
――だが、その限界は、確実に近づいていた。
その時、ルガルザゲシ王の乗る戦車が中央戦線の丘に静かに現れた。その姿は、敗色濃い戦場にあってなお、威厳に満ちていた。左右の戦列は崩れ、中央も崩壊寸前。ルガルザゲシ王の目に、それらすべてが映っていた。
「ふん……いつの間にか、ここまでルガルニルが育っていたとはな。わしに見る目が無かったということか」
唇をわずかに歪めた王は、空を仰ぐ。
「だが、わしの血脈がシュメールを統べることになるなら……最後くらい華をもたせてやるのが、父としての役割か……」
戦車の横に並ぶ最後の親衛隊の兵たちに、王は振り返らずに言った。
「ついてこい。王の最期を、目に焼きつけよ」
徒歩で随行する親衛隊たちが静かに頷き、王の戦車の後を追う。ルガルザゲシ王の戦車は、轟音と共に中央戦線の最前線へと躍り出る。兵たちの動きが止まり、敵も味方も、その姿に息を呑んだ。そして王は、前方に声を放つ。
「ルガルニル! 出てこい! 一騎打ちを所望する!」
戦場が、一瞬沈黙した。その場にいた茜は即座に表情を強張らせ、叫んだ。
「待って! そんなの受ける理由ないよ! こっちは勝ってるんだから!」
ルガルニル王子に向き直る。
「今さら無駄なリスクを取る必要なんて、どこにもないでしょ!」
王子は静かに、風に揺れる外套を払いながら戦列を進み、彼女の前に立った。
「……彼は、王であり、父です。私が受けねば、未来へ進めません」
茜の口が開くが、言葉が続かなかった。リュシアが静かに歩み寄り、少し肩をすくめながら言う。
「この時代では、こういう一騎打ち――『終わりの儀』が、勝者の証明になるのです」
ガルナードも続けるように言った。
「今は、あの王子を信じてください、主殿」
渋い顔のまま沈黙していた茜の傍で、ユカナがふと口を開いた。その声は、いつものようにのんびりとしていて、どこか夢見がちな響きすらあった。
「……うーん。なんかね、今回の戦いは……うまくごまかして逃げるって、たぶん無理そう」
茜が目を瞬いた。
「……何それ。いつもみたいに“なんとかなるなる~”って言わないの?」
「んー? そういう時もあるけど……今回は、ちゃんとぶつからなきゃいけない気がするの。えへへ、なんでだろうね~?」
笑いながら言ったその言葉には、不思議と余韻があった。空気のどこかがふっと静まるような、そんな感覚。茜はわずかに眉をひそめてユカナを見たが、その顔はいつもどおりの、ぽやっとした微笑みにしか見えなかった。
「……じゃあもう、信じるしかないってわけね。王子……本当に、負けないでよ」
風が、戦場の匂いを運んでいた。そして、ルガルニル王子は剣を抜き、父が待つ戦場の中心へと歩を進める――。中央戦線の一角に、風が止まった。それまで激しくうねっていた戦場が、まるで時を止められたかのように静まり返る。剣を構えて対峙するふたり――ルガルザゲシ王と、ルガルニル王子。
誰も動かない。誰も声を発しない。すべての兵が、息を飲んでその一対を見つめていた。沈黙の中、最初に踏み出したのは、王だった。
「……ようやく、王になる顔になったか」
静かに、しかし確かに、息子の眼を見据える。ルガルニル王子は、構えを緩めぬまま応える。
「父上、もはや勝敗は決しています。降伏を」
王の瞳がわずかに細められる。
「王は、降伏などせぬ。お前も王になるというのなら――覚悟を決めろ」
「……くっ……」
その一言に、王子の剣がわずかに揺れた。剣と剣が交錯する。火花が散り、甲高い金属音が空を裂いた。数合――剣戟の音が交錯する中、先に血を流したのは、王子だった。ルガルザゲシ王の太刀筋は、今なお鋭く正確だった。その剣は幾度となく王子の肩や脇腹をかすめ、布を裂き、皮膚を切った。
「……まだまだだな、ルガルニル」
だが、王子の動きは鈍らなかった。むしろ、徐々に――確実に、王の剣筋に追いつき始めていた。防御が洗練され、足運びが滑らかになり、切り返しの速さが一合ごとに増していく。そして、王は気づく。かつて自分の影にいたはずの若き息子が、今、真正面から自分と渡り合っていることに。
「……そうか。お前は、もう“こちら側”に来ていたか」
戦いの最中、ルガルザゲシ王の口元がわずかに緩んだ。
「ならば、お前に託すしかあるまい……。私の後は、お前が……シュメールを統べるのだ。守れ、その未来を」
「……はい。覚悟は、できています」
そして――その瞬間が訪れた。ルガルニル王子の剣が、王の防御の隙を突いた。鋭く、深く、ためらいのない一閃が、王の胸を貫く。
「……っ、見事だ……」
王は膝をつき、はじめてその場に崩れ落ちた。血が飛び、王の身体がわずかによろける。ルガルザゲシ王は膝をつくと、手にしていた剣をゆっくりと持ち上げ、王子に差し出した。
「……とどめを刺せ。それが、お前の始まりだ」
王子は動かない。剣を握ったまま、苦悩の色を浮かべたまま、ただ父の顔を見つめていた。
「……父上、あとは……私にお任せを」
言葉は震えていた。だが、剣先は迷わず――
一閃。
ルガルザゲシ王の身体が、深く崩れ落ちる。その瞬間、まるで風が戻ってきたように、戦場の音が蘇る。それは勝利の音であり、別れの風でもあった。誰もが言葉を失い、ただその瞬間を見つめていた。
そして――
沈黙を破るように、茜のそばに立っていたユカナが、そっと口を開く。その声は人のものではなかった。響き渡るように澄み、まるで空から降る風そのもののようだった。
「血は継がれ、意志は託された。
風は流れを変え、次の時代を運ぶ」
その声を合図に、戦場に幕が下りた。




