28話 癒やしの宴と決起の宣言、シュメールに旗を掲げる
ウルでの歓迎を受けてから数日が経った。壮麗な神殿と落ち着いた街並みの中で、ルガルニル王子は表面上こそ平静を保っていたが、心の内には深い影が差していた。ルガルニル王子――今や父王と敵対する立場に立たされ、シュメール世界で最も困難な立場に置かれた男。その胸中に渦巻くものの重さは、茜にも痛いほど伝わってきた。
「……王子、あまり思いつめないでね」
そう言った茜の声音には、珍しく優しい響きがあった。だが王子は軽く首を振るだけで、黙して何も答えなかった。その様子を見ていたウルカギナ前ラガシュ王は、静かに嘆息をつきながら、隣にいたウルの神官将エル・ナンナに声をかけた。
「このままでは、王子の心が折れてしまいかねん。どうだろう、身内だけで気軽な宴でも設けては?」
「良い考えですね。神殿の手を借りれば、ささやかながらも心の籠もった場が作れましょう」
その提案を受けた茜は、目を輝かせて乗り気になる。
「宴? いいじゃない。せっかくだし、ウルらしい料理でやりたいわ。神官将さん、料理人の協力ってお願いできる?」
「もちろんです、風神の巫女殿。あなたには我がウルも多くの恩がありますから」
こうして、宴の準備が始まった。
エル・ナンナはウルの料理人たちに命じて、茜の使用人であるナムティやイルシュに、川魚を使ったウルの郷土料理や、香草をふんだんに使った煮込み、デーツを重ねた甘味など、ウルならではの味を丁寧に教えた。調理の合間にも、釜の香りが漂い、宴を前にした空気が徐々に温まっていく。また、王子の神とは異なるものの、ウルの神殿エギシュヌンナからは、ナンナ神の巫女たちが舞を捧げる準備を整え、王子の心を癒すための演出を手配していた。
リュシアは、料理の準備に余念がない茜を見ながら小さくうなずいた。
「いいですね、主殿。少しでも王子の心が晴れるなら」
「私も賛成です」ガルナードも珍しく柔らかい表情を見せる。「武器を置く時間があるのなら、それもまた力の源となる」
その様子に、ユカナがひょっこりと顔を出した。
「ねえねえ、宴っていいよね~。こころを休めるのって大事だよ。……私も参加する!」
「……何もしてないくせに」と茜が即座に突っ込みを入れた。
「え~、でも見てるのも仕事のうちだし?」
「都合が良すぎるわよ!」
そんな軽口のやりとりが交わされる中、夜の宴の灯が静かに準備されていく。ウルの柔らかな夜風に包まれる中、茜の呼びかけで開かれた小宴が、神殿近くの離れ屋敷にて静かに始まっていた。席に並ぶのは、ルガルニル王子の他に、茜、シャラ・ドゥム、ナムル、それにリュシアやガルナードら、ごく近しい者たちばかり。
テーブルの上には、ナムティとイルシュがウルの料理人と共同で作り上げた料理が美しく並べられていた。香草とタマネギ、そしてビールでじっくりと煮込まれた川魚のスープ――『シフル・ナブー』が湯気を立てていた。茜はまずその香りを鼻先に吸い込み、ふっと目を細める。
「……わ、すごくいい香り。香草の香りで川魚の癖がまるっきり消えてる。これ、すごく食べやすいかも」
匙でひと口すくい、ふうふうと冷まして口に運ぶと、滋味あふれるスープの旨味が広がる。茜は満足げに頷いた。次に、蜂蜜で固められた『デーツタワー』に目を移す。幾層にも重なったデーツとナッツが艶やかに輝いており、見た目にも豪奢だ。
「この断面、芸術品ね。しかも甘いだけじゃなくて、ちゃんと歯ごたえがある……うん、これは癖になる味」
最後に、濁った麦芽ビール――『シカル』、葦のストローを手に取る。くい、と吸い込むと、ほのかに甘く、少し酸味のある香ばしい味わいが舌を打つ。
「……これこれ、シュメールの味って感じね。何度飲んでもこれいいわ」
口元に笑みを浮かべながら、茜は料理を見渡した。
「……あのダ女神が出てこなければ、もっと幸せなんだけどなぁ」
ご機嫌なその声に、場の空気が少し明るくなるのだった。その様子を見ていたリュシアは、シカルをすする傍らでくすりと笑った。
「……本当に癒されているのは、王子より主殿なのではありませんか?」
ガルナードがにやりと笑い、ナムルも「叔母様、楽しそう」と小さく頷いた。
やがて、庭の石畳に舞台が整えられ、ナンナ神の巫女たちが登場する。軽やかに風をすくうような手の動きと、柔らかな衣の揺れ。まるで夜そのものが舞っているかのような幻想的な舞。その様子に、ルガルニル王子も見入っていた。
「……あまり他の神の巫女に心を奪われないでくださいね」
とシャラ・ドゥムがそっと声をかければ、王子は慌てて手を振り、
「い、いや、ただその……舞としての完成度が高いというか……」
「父上、久しぶりにうれしそうですね」
とナムルが微笑む。その言葉に、王子はようやく肩の力を抜いたように笑った。焚き火の明かりに照らされた顔には、重荷を忘れたひとときの安らぎが滲んでいた。人々の笑顔と笑い声の中で、王子一家の傷がゆっくりと、けれど確かに癒えていく――そんな、静かで温かな宴だった。
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翌朝、茜とユカナは連れ立って、ウルの大神殿――エギシュヌンナ神殿を訪れていた。
「ここ……本当に私が、祀られてるの?」
ユカナは戸惑いを隠せない様子で、神殿の片隅に設けられた小さな祠を見つめていた。そこには香油が供えられ、清らかな布が捧げられており、民たちがそっと祈りを捧げている姿もある。
「本物は私のような神なのに……ちゃんと供え物まで……」
困惑しながらも、ユカナの声はどこか感動に揺れていた。
「ほら、あんたの“逃げてもいい神”って教義が、今の人たちに響いてるのよ。だからこそ、ちゃんと信仰が根づくの」
そう言いながら、茜は堂々と神殿の前に立ち、即席で巫女として語り始める。
「皆さん、風の神ユカナは――逃げることも選択肢のひとつと教えてくれる神です。自分を守るために、時には退くことも勇気なんです」
その言葉に、集まっていた民が深く頷く。静かだった神殿に、あたたかな空気が広がった。少し離れた場所でその様子を見ていたリュシアが、隣にいたガルナードに苦笑まじりに言う。
「……主殿は、将軍よりも神官の才能があるのではありませんか?」
「確かにな。あの立ち振る舞い、なかなか様になっておる」
やがて茜は布教を終え、ユカナのもとへと戻ってきた。ユカナは満面の笑みを浮かべて茜に声をかける。
「ねぇ茜?この旅が終わったら、私の神官長になってくれない? そうすれば楽できそうだから」
茜は肩をすくめてため息をつき、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「待遇次第だけど、怠け神の神官長なんて絶対嫌。」
二人の軽口に、リュシアたちからも笑いがこぼれた。神殿の祠に揺れる香煙と、集う人々のあたたかい眼差し。その場には、確かに新たな信仰が芽吹きつつあった。
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数週間後、エギシュヌンナ神殿内にて重々しい空気の中で神官会議が開かれた。出席したのは、ウルの大神官ルガル・ナンナム、神官将エン=ナンナ、ルガルニル王子、茜、リュシア、そして旧ラガシュ王ウルカギナ。ルガルニル王子は温かく迎えられ、まずはルガル・ナンナム大神官が王子の労をねぎらった。
「王子殿下、心も癒されたようですね。そして…よくぞこの地まで辿り着かれました。あなたの誠実な統治、そして風神の巫女殿による守護に、我らは深く感謝しています」
そして視線を茜に移すと、深々と頭を下げる。
「風神の巫女殿、ウルに対する多大な配慮、まことに感謝いたします。ユカナ神の信仰について、今後もウル神殿で引き続き祀らせていただきたい」
茜は軽く会釈して笑う。
「もちろん。祭ってくれるなら、それだけでありがたいわ」
やがて会議の話題は本題へと進む。
「ルガルザゲシ王の圧力がシュメール中の都市国家に及びつつあります。また王子が統治したルガシュでは、かなりの圧力が民たちに加えられています。そのため各地で不満も高まり、我々は都市連合を組んで抗う構想を練っています。ですが、その旗振り役となる人物が必要なのです」
ルガル・ナンナム大神官は王子を正面から見つめた。
「ルガルニル王子殿下、お立場は理解していますが、あなたこそが、その役目を担うにふさわしい」
この提案に、王子は即答できず、黙して視線を落とす。
「ウルはすでに参加を決めています。ウルクも神官長エン・イナンナズィが同意してくれました。キシュも傷は深いですが、援軍を出す意志を示しています」
静かな声でウルカギナ王が語りかける。
「これは、神の意志です。ルガルニル王子、あなたはこの時代に選ばれた者なのです」
その言葉に、王子の瞳が揺れる。
「……だが、私にその資格があるのだろうか。私はそのルガルザゲシ王の長子です」
そんな彼の背中を、明るく押す声が響く。
「王子が勝たなきゃ、私も反逆者のままじゃない。お宝も手に入らないし、ユカナ信仰も先細る。信仰の本質は“逃げてもいい”だけど……いざという時に逃げなくていいように、普段は逃げてもいいという事なんだよね」
茜が軽口めかして笑うと、王子はその言葉に、ゆっくりと顔を上げる。
「……ありがとう。皆の想い、確かに受け取った」
そして静かに頷いた。
「私が旗を掲げよう。ルガルザゲシ王の暴政を終わらせ、シュメールに真の平和を取り戻す。そのために、ここウルを起点とする」
その場にいた全員が、深く頷いた。数日後、朝霧がゆっくりと晴れていくなか、ウルのエギシュヌンナ神殿前の大広場には、民衆と兵が所狭しと集まり、その中心には玉座にも似た高壇が築かれていた。そこに立ったルガルニル王子は、神殿の荘厳な装飾と群衆の期待に包まれながら、深く息を吸い込んだ。
「民よ、聞いてほしい。私は、ルガルニル――かつてルガルザゲシ王の子としてウンマに仕え、ラガシュの太守として皆に迎えられた者です」
その声は、静かに、だが確かに全員の耳に届いた。
「本来ならば、私は父に背を向ける立場ではありませんでした。しかし……私は見たのです。都市を、民を、ただ力で屈服させようとする王の姿を。そして、信じてくれた民の笑顔が奪われていく現実を」
王子の目が、集まった民衆と兵士たちをしっかりと見据える。
「ウルを始めとする都市国家の皆が、私を信じて手を差し伸べてくれました。そして私は、神の前に誓います。この地に再び平和をもたらすと。民が笑い、都市が繋がり合う――そんな未来を取り戻すと」
そして、言葉に力を込めて叫んだ。
「私は、ルガルザゲシ王の圧政を終わらせ、シュメールに平和を取り戻すために立ち上がります! 皆の力を貸してほしい! 共に未来を切り拓こう!」
その瞬間、広場を包んでいた緊張が歓声へと変わった。兵たちも槍を掲げてそれに応える。シュメールの空の下、希望の叫びがウルの街に鳴り響いた。やがて、ウルの大神官ルガル・ナンナムが高壇に上り、厳かな声で語った。
「ウルは、女神ナンナの御名のもとに、この決起を支持する。どうか、この軍が正義の道を歩み、栄光を掴まんことを――」
その声に背中を押されるように、王子のもとに集った者たちが次々と城門から進軍を開始する。ウンマを逃れてきた旧家臣や義勇兵、エル・ナンナ神官将のウル軍、ウルカギナ前王が率いるラガシュの旧軍――そして、茜の軍。出陣の号令と共に、各部隊が粛々と都市門をくぐる。その最前列、王子の隣に立つ茜は、風の指揮棒を肩に掛けながらにやりと笑った。
「……王子が頑張ってくれないと、私はずっと反逆者だからね。しっかり頼むよ」
その言葉に、ルガルニル王子は口元を引き締め、まっすぐ前を見据えて答えた。
「分かっています。私は神から求められた自分の役割を果たしましょう。そして――茜殿、戦友としてよろしくお願いします」
「ふふ、よろしく」
そう応えたものの、茜はふと小声でつぶやいた。
「……多分、私にちょっかいかけてきたあのダ女神は、この様子を見てたら悔しがってそうね。でも王子にこの役をまかせた神様は、あのダ女神とは違う存在ね」
風が茜の髪をかすかに揺らした。その視線の先、進軍の列が地平線の彼方へと続いていく。ウルの人々の熱狂的な歓声が、彼らの背中を押し続けていた。




