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25話 逃げてもいい神と、守りたい日常

数日後、茜たちはラガシュへと移った。


同行したのは、リュシア、ガルナード、ユカナ、そして忠実な従者であるイルシュとナムティ。彼女らは、かつて短期間滞在していた旧貴族の館――ラガシュ市内の中心にある格式ある邸宅――に再び腰を据えることになった。ラガシュの町は、戦の傷を見せることなく平穏を保ち、市場には再び活気が戻りつつあった。


そして、変化は静かに訪れた。


茜と王子の妻――シャラ・ドゥムの出会いは、意外なほど自然だった。二人はすぐに打ち解け、特に「女性だけで気兼ねなく話したいこと、たくさんあるわよね」という茜の一言で、女たちの宴会が企画された。


挿絵(By みてみん)


その日、館の奥の庭に、長い織布の卓が設えられた。


低く据えられた卓の上には、ラガシュの料理人たちが腕によりをかけた品が並ぶ。発酵させた魚のペーストで味付けされた大麦パン、オリーブと豆を和えた前菜、スパイスを利かせた羊肉の煮込み。そして、干し果実のデザートと、蜂蜜入りのビールが陶器の杯に注がれる。


「このビール……味、濃いけど、あと引くねぇ」


「でしょ? ラガシュ産よ。ちょっと苦みがあるけど、それがまた癖になるのよ」


シャラ・ドゥムと茜は並んで笑い合い、杯を合わせる。リュシアは苦笑いしながらも一口だけ飲み、ユカナはいつの間にかおつまみの干し無花果を独占し始めていた。


挿絵(By みてみん)


「ちょっとユカナ、それ私の分――!」


「これ美味しい、全部私のもの…」


「何言ってるのよ!」


一方、王子の息子であるナムル――まだ八歳の少年は、宴の間も館の中をうろちょろしながら、いつの間にか茜の後ろにぴたりとくっついていた。


「ねぇ、また弓の練習教えてよ、叔母様!」


「叔母様はやめなさいって……でもまぁ、いいわよ。リュシア直伝のやつ、ちゃんと覚えてる?」


「うん! ちゃんと腕の角度も!」


茜は思わず笑みを漏らした。いつの間にかこの少年にとって、自分が“身近な大人”になっているのだと実感する。シャラ・ドゥムがその様子を横目で見て、やわらかく微笑んだ。


「あなた、本当にあの子に懐かれてるのね。あの子、人見知りなのに」


「まぁ、風の巫女は誰とでも仲良くなれるのが特技だから」


「たしかに主は、そういう事は上手ですよね」とリュシアが割り込む。「それより、子どもに間違った神話植えつけるのはどうかと…」


「風の神は自由なのだー!」とユカナが無責任に叫び、また場の笑いを誘った。


ラガシュに訪れた新しい日常。それは戦の喧騒とは無縁の、柔らかく、穏やかな時間だった。宴の最中、焚かれた香木の煙がゆらゆらと漂い、庭にくつろぐ女性たちの笑い声が絶えなかったその時、ふと茜が口を開いた。


「……ねぇイルシュ、ナムティ。今日の料理も最高だったけど――」


「はい?」


「甘いもの、もっと“焼き”にこだわってみたらどうかしら」


二人の従者が同時に振り向いた。


「焼き、ですか?」


「大麦粉と羊の乳はあるわよね。それに蜂蜜と干し果実を加えて……あと、石板の窯を使って火加減を調整すれば、外はパリッと香ばしく、中はふんわり――」


「それは……一度試してみましょうか」とイルシュが反応する。


「やってみます! すぐに!」とナムティが目を輝かせ、さっそく館の厨房へ駆けていった。


数時間後、宴も終わりかけた頃。


「お待たせしました!」


ナムティが持ち出した陶器皿の上には、香ばしい香りを漂わせる菓子が並んでいた。大麦粉と羊の乳を練った生地に、干しデーツとイチジクを刻んで混ぜ、蜂蜜を塗ってじっくりと焼き上げたものだ。


「これは……!」とシャラ・ドゥムが目を見張る。


一口かじった瞬間、甘く広がる香りとパリッとした食感に、全員の動きが止まった。


「何これ、すっごく美味しい……!」とシャラ・ドゥムが頬をゆるめる。


「外は香ばしいのに、中は柔らかい……甘さもちょうどいいし、これ、もっと欲しい!」


「ユカナ、半分返しなさい。あれ私の分!」


「これはユカナのもの~」


その横で、シャラ・ドゥムが、もう一つ手を伸ばしながらぽつりと呟いた。


「……最近ルガルニルったら、政務で忙しいってばっかり。全然構ってくれないし……これはもう、独り占めするしかないわね」


「奥様、それは寂しい八つ当たりでは……?」とリュシアが苦笑するも、焼き菓子を頬張る手は止めなかった。


ナムルも満面の笑みでかじりつき、叫んだ。


「これ、毎日食べたい!!」


茜はそんな皆を見渡しながら、ふふんと胸を張った。


「でしょ? “食”は世界を変えるのよ」


「食欲も欲ですからね……」とリュシアが冷静に突っ込むが、茜は得意げに鼻を鳴らす。


風の巫女がもたらした、新たな味の革新。それはこの夜を、一層甘く、記憶に残るものに変えていった。


****


ラガシュに暮らすうちに、茜はふとあることに気づいた。


(……この街、思った以上に“寛大な神”が受け入れられる土壌がある)


戦と敗北を経験し、それでも街を守ろうとしたウルカギナ王の姿勢は、今も民の心に深く刻まれていた。その王を処刑せず、命を救ったという事実――それを“神の慈悲”と語ることに、誰も反論はしなかった。


茜はそんな民の空気を感じ取りながら、自然に言葉を紡ぐ。


「ユカナ神はね、ただ強い者を称えるだけの神じゃないの。……本当に大切なのは、生き延びて、また歩き出すこと。そのために“逃げる”という選択肢がある神なのよ」


「逃げることが……正しい?」と、年配の女性がぽつりとつぶやく。


「正しいかどうかは状況によるわ。でも、逃げることを“罪”だと決めつける神ではないの。追い詰められても、命を捨てずに生き延びようとした者を、ユカナ神は見捨てない」


その言葉に、不思議な沈黙が広がった。


“逃げること”――それはこれまで恥とされてきた考え方だ。だが、敗北を経験した民にとっては、それでも家族を守り、生き残った者こそが今を築いているのだと、心のどこかで感じていた。


「……そういう神が、いてもいいかもしれないな」


「ウルカギナ様だって、命を繋いだからこそ、あの言葉を我らに残せたんだ」


誰かがつぶやき、それが人々の中にゆっくりと染み込んでいく。


子どもたちが「逃げてもいいんだって!」と無邪気に口にし、大人たちが少し照れたように笑いながらも「ふむ……まぁ、そういうのも“信仰”か」と頷いた。


――不可思議だが、妙にしっくりくる。


そうして、風のように掴みどころのないそのユカナの名は、ラガシュの路地裏や市の片隅、そして家庭の香炉の前で、少しずつささやかれ始めた。


****


「ね? 前王を処刑せずにウルに送ったのも、“ユカナ神の慈悲”ってことにしておけば、筋が通るでしょ?」


茜が茶をすすりながら、さらっと言う。


「主殿…それはあくまでも結果論ではありませぬか?」と、ガルナードが肩をすくめる。


リュシアはすかさず真顔で詰め寄った。


「全くです。それはもう完全に後づけの詭弁です。詐欺です」


「後づけ上等。信仰なんて、最初から完璧な物語があるわけないのよ。むしろ“必要になったから意味づける”のが一番広がるの。こういうのはね、言った者勝ちなのよ。それに、これでまた神力ゲットできるわよ」


「開き直りましたね……!」


リュシアが頭を押さえる隣で、茜はユカナに振る。


「それに、ユカナも“逃げるのは正義”って思ってるでしょ?」


「もちろん! つらいときは逃げる! 生きてればまたチャンスがあるんだもん!」


「神様公認いただきましたー!」


「……この国の未来が心配です」とリュシアはため息をついたが、顔はどこか苦笑していた。


実際のところ、茜の語る「逃げてもいい神」「生き延びる選択肢を与える神」という教えは、敗戦と不安を抱えるラガシュの民に静かに、しかし着実に染み込んでいった。不可思議だと首を傾げながらも、「そういう考え方も悪くない」と受け入れる者は多く、町の香炉の一角には“ユカナ”の名が記され、巫女の祈りの中にも自然とその名が上がるようになっていた。


風のように掴みどころがなく、されどどこかで心に触れるその教義。


気づけば、風の神ユカナは、ラガシュに“逃げ場のある”信仰として根を張り始めていた。


****


エアンナ神殿の奥、政務の間。


書簡が積み上げられた長机の前に座るルガルニル王子は、数名の側近に囲まれながら、今日も変わらぬ政務に向き合っていた。だが、扉が開かれると同時に空気が変わった。


「失礼しまーす。お菓子もってきたわよ」


「まったく、主は公務の場だという意識が足りません」


茜の明るい声と、それに続くリュシアの半ばあきれた声。続いてガルナードが腕を組み、いつもの調子で「甘味は思考力を高めますからな」と言いながら堂々と入ってくる。さらに、その後ろにはシャラ・ドゥムとナムルまで連れて来ていた。


「父上! わたしも報告あります!」


「おや、ナムルも視察に同行したのですか?」


「うん! 茜叔母様と一緒に市場を見てきました!」


王子は苦笑しつつ、執務の手を止めた。


「では、まず市中の様子から聞こうか」


茜が一歩前に出て、小さく肩をすくめながら言った。


「全体的には落ち着いてるわ。前王を殺さなかったっていうのが、民衆にはすごく効いてる。『あれなら新しい王も悪くないかも』って声も出てきてるくらいよ」


リュシアが横から補足する。


「交易も順調です。特にウル方面との物流は以前より活発に。ラガシュの倉庫にも余剰が見られました」


「民衆のあなたへの支持は高めです」とシャラ・ドゥムが穏やかに続けた。


「……ただし」とリュシアが言葉を引き取る。


「王子、あまり上手くやりすぎると、ルガルザゲシ王に目をつけられます」


政務机の前で、リュシアの言葉が静かに響いた。ラガシュの行政は順調すぎるほどに整い、王子の統治は“成功例”として記録されつつあった。ルガルニル王子は、机上の文書に視線を戻したまま、頷いた。


「だからこそ、報告書は調整してある。“兵力増員”は“既存戦力の再訓練”と記載し、“交易拡大”は“補助的地域支援”に置き換えている。実績は伏せても構わない」


リュシアが目を細め、皮肉交じりに言う。


「報告の曖昧化、だいぶ手慣れてきましたね」


「生き延びるための技術です。王を欺くためではありません、必要な護身術ですよ」


王子の答えに、茜がくすりと笑いながら加える。


「もちろん、私のほうからも抜かりなく、ルガルザゲシ王に書状を出してるわ。“王子と共にラガシュの地を治めております。民は穏やかで、ユカナ神の加護もあって病も少なく…”とかね。具体的なことはなにも言ってないけど、“安定してる”という印象だけは、しっかり与えたつもりよ」


リュシアは即座に反応した。


「……さすがは主。こういう時の抜け目のなさは尊敬に値しますね」


「褒め言葉として受け取るわ」


ガルナードも腕を組んで頷く。


「以前、王に直接恩賞を求め、信頼の一端を得た布石が今こそ活きておりますな。“忠誠ではなく、欲で動く者”と見せかけたのが、まさに功を奏した」


「欲深く見せるのも、戦略の一つよ」


茜は涼しい顔でそう言ったが、その口元はどこか自信に満ちていた。


王子はその様子を見て、軽く微笑んだ。


「あなたがいるだけで、政務が少し気楽に感じられますよ」


「それは良いのか悪いのか……まあ、喜んでおくわ」


政務の場に、ささやかながら笑いが生まれる。だが誰もが、その裏にある綱渡りの緊張を理解していた。


(この“静けさ”は、長くは続かない)


誰も口には出さなかったが、そう感じていた。神殿の隅では、ユカナが焼き菓子をつまみながら、香炉の煙を指でくるくると弄んでいた。


「ねぇ茜、私のこと“逃げる神様”って、最近すごく広まってるけど……本当にあれでいいの?」


「いいか悪いかなんて、信じる人が決めるのよ。神の本質なんて、時代が決めるものだから」


茜が肩をすくめて答えると、ユカナは菓子を口に放り込みながら、ふわっと笑った。


「じゃあ私は――逃げる自由を授ける神の預言者、ってことで!」


「自由すぎる神様の預言者だこと」


茜が笑いながら応じると、リュシアはこめかみに手を当てて深いため息をついた。


「……もう少し“預言者としての威厳”を持ってください、ユカナ様」


「えっ、威厳? そんなの私に似合わないよ~」


「ですよね……」


リュシアはがっくりと肩を落とした。


(――にもかかわらず、そんな神が、なぜか人々に愛されている)


ふと広場の香炉の煙を思い出す。そこには今、確かに“ユカナ”の名が刻まれている。


「……とはいえ、主の布教、もう少し節度があってもよいかと……」


呆れと苦笑が入り混じった声音だったが、王子は首を横に振った。


「いいえ、むしろありがたいくらいです。ユカナ神の名が広まることで、街に“もう一つの救い”が生まれた。茜殿の自由な立ち振る舞いが、市民を安心させている」


「ふふん、ありがたいなら、エアンナ神殿でも香炉くらい焚いてもらっていいのよ?」


「それは検討しましょう。検討だけですがね」


そのやりとりにシャラ・ドゥムとナムルも笑い声を上げ、政務の間の空気は少しだけ緩んだ。しかし、場の空気が一段落したその時、リュシアが低く呟いた。


「……もう“試す”段階ではありませんね。あの王は、次に“潰すか否か”を選びます」


神殿の一室に、急にひやりとした沈黙が落ちる。茜は、頷きながら静かに言葉を継いだ。


「いずれ来るのは、対立――それも、避けられない正面衝突」


誰も否定はしなかった。あの王の冷ややかな目、その奥にある絶対の支配欲を、皆が見ていたからだ。


「……でも、それが来るまでは――せめてこの平穏を守り抜きましょう」


ルガルニル王子の目が、神殿の高窓の向こう、赤く染まるラガシュの空に向けられる。


「この地を、無益な戦に巻き込むわけにはいきませんから」


その言葉に、茜も小さく笑みを浮かべてうなずいたが――その後ろで、シャラ・ドゥムがふと視線を落とした。膝の上にいたナムルが無邪気に「今日の市場、楽しかったよ」と話しかけているが、彼女の表情には母としての迷いが滲んでいた。


「……この子に、また戦の時代を見せたくありません」


その言葉には、誰よりも深い重みがあった。


「ですが戦うことになるのですね。いずれは、父王と」


「うん、避けられないだろうね」と茜が答える。「でもその時までは、子どもたちに少しでも長く“穏やかな日常”を見せてあげたい」


王子は頷いた。


「それが我らの役目です。剣を振るう日が来るとしても――それが今日ではないのなら、私はその日を一日でも遠ざけたい。ラガシュの民が、穏やかな日々を享受できる時間を少しでも延ばすこと……それこそが、今の私の使命です」


エアンナ神殿の静謐な空気の中、未来に向けた決意と、守るべきものへの思いが、静かに交錯していた。

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