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22話 ラガシュ決戦、剣と慈悲が支配を拓く

アダブを出発して数日、茜とエンリル王子の連合軍は、ついにラガシュの城門を望む平原へと到達した。遠く、陽炎の向こうにうっすらと見えるのは、城壁に守られた都市国家ラガシュの姿。そして、その前面には黒く広がる軍勢――ラガシュ軍が、平原を埋めるように展開していた。


「……あれが、ウルカギナ王の全軍か」


王子がシュメール戦車の上で静かにつぶやく。並ぶ旗印の数、ざっと見て二十以上。そのうちの半数近くは、槍も盾も不統一で、民兵であることは明白だった。


「練度も装備も揃っていないわね」と茜が言う。「民兵をかき集めてる。都市ごと“最後の抵抗”ってわけ」


「我らとしては、正面から力を示す時でしょう」と王子が頷く。


「そうね。正攻法で、押し切るのが一番」


茜は即断した。


「賛成です、主」とリュシアが静かに応じた。「戦力比から見ても、奇策に頼る必要はありません」


「うむ。余計な策など要らぬ。これまで培った槍の壁と、射の力を見せてやればよい」


とガルナードも頷く。王子は小さく微笑みながら言った。


「ラガシュは、ウンマにとっても私にとっても、長年の宿敵――ここで小細工など無粋。堂々と正面から打ち倒し、民に示しましょう。我らが“正義”であると」


こうして、軍勢は布陣を開始した。エンリル王子軍は右翼を担当。茜軍は中央から左翼を受け持つ。各部隊は、前列に槍兵、中列に弓兵・投槍兵を配し、後列には神官戦士と祈祷巫女が構えるという、いわば“古典的密集三列陣”。


ただし――


茜の陣だけは、第三列の一部にシュメール戦車が配置されていた。


「切り札はちゃんと握っておかないとね」


と茜はにやりと笑い、リュシアが小さくため息をついた。


「主は、本当に“正攻法”がお好きでない……」


「違うわよ。今回は正攻法だけど、天秤を動かすための切欠は必要ってこと」


「……詐欺師の論理ですね」


「褒め言葉として受け取っておく」


風は南から吹き上げ、ラガシュの城壁に掲げられた王旗をはためかせていた。その中央には、黄金の円環――ウルカギナ王の印が、太陽を背に、確かに掲げられていた。


「さあ……始めましょうか、最後の戦いを」


茜の瞳が、戦場の向こうに鋭く光を放った。乾いた風が、ラガシュの平原を吹き抜ける。それは、鼓動のように静まり返った戦場に、まるで「始まり」を告げる合図のように鳴った。次の瞬間、茜が風の指揮棒を高く掲げ、振り下ろす。


「――前進、開始!」


それと同時に、茜・王子連合軍の前列が動き出した。重たい足取りが大地を踏みしめ、地面が微かに震える。太陽の光に反射する槍の列が、銀色の波のようにうねった。そして、ラガシュ軍も応じるように前進を開始。前列に展開する民兵たちは、揃って槍を構えるものの、列はやや乱れている。盾の高さがまちまちで、槍先も揃っていない。茜がそれを見て、口元に微かな笑みを浮かべた。


「……乱れてる。なら――押し込める」


彼女の正面には、ガルナード率いる密集槍列が展開していた。整然と組まれた中装槍兵と軽槍兵が、まさに「青銅の壁」として迫る。


「槍、下げ! 列、崩すな! 進め!」


ガルナードの声は落ち着き払っていたが、その一語一語が兵士たちの背中を押す。訓練を重ねた茜軍の槍兵たちは、一糸乱れずに突進を続け、ラガシュ軍前列の不揃いな槍兵たちを、まるで塊のまま押し潰すように呑み込んでいく。突き出された槍が、盾と盾の隙間を正確に突き、喉、腹、脚を穿つ。ラガシュ兵たちは叫びながら後退し、後続とぶつかって更なる混乱を招く。


「……始まりとしては、上々ですな」


ガルナードはその戦況を冷静に見つめ、声を張る。


「列を維持せよ! 敵、動揺あり!」


その横、少し後方の高台では、リュシアが弓兵隊を率いていた。


「風、右から。角度五度修正。第一射、放て」


ピン、と張り詰めた弦の音がいくつも響き、鋭く空を裂く矢がラガシュ軍の第二列――投槍兵の列に降り注いだ。


「っ、うわあっ……!」


盾を構える間もなく矢に貫かれ、投槍兵たちは倒れ込む。その混乱の中で、リュシアは即座に次の命令を下す。


「第二射、前列中心に。槍先を削れ」


再び弓が唸り、今度は前線の民兵列に矢が突き刺さる。矢が肩を貫き、盾を跳ね、混乱した叫び声が戦場を包む。


「戦線崩壊はまだですが、士気は確実に落ちています」


リュシアが茜の横へ報告に現れた。


「いい感じね。……このまま、こっちの“圧”で押しきる」


一方、右翼の王子軍もすでに敵と接触していた。


「槍を突け! 列を保て! 動じるな!」


ルガルニル王子の声が戦場に響き、部隊を鼓舞する。王子軍の軽槍兵たちは整然と突撃し、ラガシュ軍の右翼を少しずつ押し込んでいた。投槍兵の支援も的確で、前線を崩す力は確かにある。


しかし――


「……崩れぬか」


王子の額にうっすらと汗がにじむ。ラガシュの兵たちは、たとえ練度が劣っていても、王都を守るという覚悟を背負っていた。なかなか決定打が出ない。


「ふむ……中央、茜殿の戦線は?」


王子は一瞬目を細め、中央の戦況を見やった。そこでは――すでに、茜が率いる槍列が、敵の戦列を圧していた。しかしラガシュ軍の陣形が、全体として大きく後退を始める――かに見えたその瞬間、突如、中央後方から重厚な詠唱の声が響いた。


「神ニンギルスよ、汝の守護をこの地に与えたまえ……!」


声の主は、ラガシュの神官戦士たちだった。第三列に控えていた彼らは、すでに何人かが戦線に送り出されており、残る者も傷ついた兵士のもとへ駆けつけ、祈りと共に応急の治療を施していた。香煙が立ち昇り、神殿で使われる癒しの香油が砕けた兜の下へと注がれる。


「立て、今はまだ死ぬ時ではない!」


その声に応えるように、倒れ伏していた槍兵の一人が呻きながら立ち上がり、再び盾を構える。そのすぐ傍らでは、祈祷巫女たちが両手を天に掲げ、無言の祈りを捧げていた。風が、彼女たちの白衣を揺らす。どこか透明な力が流れ込むように、前列の兵たちが再び体勢を整える。


「ラガシュを――この地を、守れ!」


誰とも知れぬ声が上がり、やがてそれが兵士たちの連呼となって戦場に広がっていく。茜軍の槍兵たちがじりじりと間合いを詰めるなか、敵の陣形は簡単には崩れなかった。民兵と侮った兵たちによって、突き出した槍の勢いが受け止められ、逆に押し戻される。


「……まだ粘るか」


ガルナードが低くつぶやき、眉を寄せる。


「王都の民は、ただの兵ではない。……土地を守るために戦う者は、命よりも誇りで動く」


後方に控えるリュシアも、弓の射角を調整しながらつぶやく。


「士気の持続時間、予想より長いですね。……巫女と神官、あの王都では軍と精神の両柱ということですか」


「どちらにせよ、いずれは崩れるわ」と茜は小さく息を吐いた。「でも、思ったより、心は強い……」


前線では、茜軍の槍が敵の盾を弾くたびに、ラガシュ兵たちが反撃の一歩を試みていた。傷ついた者が後ろへ退き、神官戦士に引き渡され、代わりに新たな者が前へ出る。まるで、都市そのものが“生きて”いるかのような、有機的な防御の波だった。


「ふぅん……王様の人気、思った以上ね」


ラガシュの前線は、確かに押されていた。しかし、崩れなかった。巫女の祈りと神官の治療、そして“この地を守る”という兵たちの覚悟が、陣形を支え続けていた。


「……これは、ちょっとした“意地の壁”ね」


後方から駆け寄った伝令が、焦りを帯びた声で報告する。


「王子軍右翼、戦線維持していますが、突破には至らず。敵の粘り、予想以上です!」


茜はわずかに目を細めた。王子の軍は鍛えられている。戦意も高い。だが、それをもってしても突破に至っていないという事実は、明確な警告だった。


――均衡を今崩すべきだ。


茜は踵を返すと、背後に控えていた第三列の奥へ目をやった。そこには、未だ動かぬ三つの影――シュメール戦車隊。塵に覆われた陽光の中、その鈍い金属の板張りが静かに輝いていた。


「……出番だよ」


彼女の声に、戦車の御者たちが動き始める。リュシアが傍で反射的に言った。


「投入するんですか? たしかに戦線は拮抗していますが、あと少しでこちら側に一気に流れは傾きます」


「だからこそ、今その切欠を与えるの」


茜はぴたりと断言する。


「今、押せば、ラガシュは折れる。特に……王子の戦線。あそこに入れれば、全体が崩れる」


「……戦車を“援軍”として使う、ですか」


リュシアは一瞬驚いたが、すぐに理解の色を宿した目で頷いた。


「合理的ですね。“主らしい”です」


茜は口元に笑みを浮かべながらも、戦況盤から目を離さなかった。


「ガルナードの圧とリュシアの射で、うちは充分。なら、主役の援軍として使ったほうが効果的よ」


そして風の指揮棒を一振りし、伝令に命じた。


「シュメール戦車隊、右翼に展開! 王子軍の側面から敵を穿て! ――撃ち抜きなさい!」


伝令が駆け出し、丘の下で待機していた戦車部隊が轟音とともに動き始める。土を砕き、車輪が火を噴くような勢いで回り出す。ロバたちが嘶き、前方の敵へと一直線に突進していった。


「これで、勝負が動くわ」


茜は静かに呟いた。その目には、もう勝利の光が、確かに宿っていた。土煙が舞い、戦場の最右翼から敵陣を貫くようにして、シュメール戦車隊が突撃した。


「……来ましたね」


ルガルニル王子が目を細めた。前面に展開しているラガシュ軍の側面――槍列の端を青銅と木で構成された車輪の軍勢が襲う。第一波は突撃というより“衝突”だった。青銅板で補強された車体が、民兵たちの盾と槍を無視して突っ込み、列をなぎ払う。人が跳ね飛ばされ、槍が折れ、混乱が一気に広がった。


「ぅわあああっ!」


「側面だ、側面が……!」


突如として現れた“予想外”の兵器に、民兵たちの士気は崩壊した。敵は正面からではない。横から襲い掛かってきたのだ。それも、“怒れる獣”のような轟音と共に。


「第一線、崩壊!」


リュシアが報告するより早く、ラガシュ軍の前列は瓦解していた。統制を失った槍兵たちは、互いにぶつかり合い、戦車の車輪に押し潰され、散り散りに逃げていく。その波は第二列にも伝播し、投槍兵たちは隊形を維持する間もなく混乱に巻き込まれていく。


「戦列、全体的に崩壊進行中!」


リュシアの声が高まる。しかし、その混乱の中――ラガシュの本陣から、新たな旗が上がった。金と赤で染められた王旗。その下には、統一された装備を身にまとった軽槍兵の部隊が駆け出していた。


「親衛隊か」


ガルナードが低くつぶやいた。


――ウルカギナ王が、自らの“最後の矛”を放ったのだ。


親衛隊は混乱の渦中に強引に突入し、壊走しかけた前線に楔を打ち込むように配置された。号令が飛び交い、秩序が少しずつ戻っていく。


「立て直しを図る気ね。だけど――」


茜はすでに、次の展開を見据えていた。


「止まらないわよ、こっちは」


戦車隊に続いていた茜軍の槍兵たちが、戦車が作った突破口に流れ込み、分断されたラガシュ軍の隊列を一気に両断する。前から、横から、後ろから――ラガシュの兵たちは次々に包囲され、成す術もなく崩れていく。ラガシュ親衛隊は確かに勇敢だった。整った装備と訓練された動きで、押し寄せる連合軍に一時は抗い、退却路を守る壁となった。だが、茜の部隊は、止まらなかった。


その動きは、もはや“戦術”ではない。“流れ”だった。


戦車と槍と矢と祈りが、一つの意思のもとに動き、ラガシュの最終防衛線を飲み込んでいった。戦場の中心で、風向きが変わった。中央突破、左右崩壊。ラガシュ軍はその主軸を断たれ、もはや部隊間の連携は完全に失われていた。混乱に次ぐ混乱、退却しようにも列は崩れ、誰がどこにいるのかもわからない。


伝令は届かず、命令は届かず――戦場は静かに、確実に“崩れ落ちて”いた。だが、その中に、なおも旗を掲げる一角があった。


挿絵(By みてみん)


ウルカギナ王。


王は退かなかった。剣を手に、敵軍の進軍をその眼で見据えながら、司令部で踏みとどまっていた。だが――その王の周囲にいた将たちが、次々に倒れ、側近たちが口々に叫ぶ。


「陛下、もはやこれまでです!」


「市門まではまだ距離があります! このままでは包囲されます!」


「……我が身はどうなってもよい。だが……ラガシュを燃やしてはならぬ」


王は、天を仰いだ。そして、一瞬だけ目を閉じ、静かに命じた。


「退く。……ラガシュを残すために、退く。私が死ねば、民の盾はなくなる」


王の背に控えていた親衛隊と巫女部隊だけが、王に従って後退を開始する。しかし、その退却はあまりに遅かった。追撃の槍が、戦車が、迫る。その時――無数の残兵たちが、自ら王の退路に身を投じた。


「陛下を、お守りしろ!」


「王を逃がせ!」


「ラガシュの意志を繋げ!」


名もなき兵たちが、盾を持ち、槍を構え、身を盾にして茜軍の追撃に立ち塞がる。崩壊したはずの戦場に、そこだけ“誇り”が立ち上がっていた。


茜は、その様子を丘の上から見つめながら、呟いた。


「思っていた以上に……民に慕われてる王ね」


リュシアが隣で静かに頷く。


「王を逃すために死ぬ……それは、臣民としての“証”かもしれません。あの民たちにとって、王とは、自分達の土地と同義なのでしょう」


茜は小さく目を細めた。追撃の手を止めることはなかったが、その中で一人ひとり倒れていくラガシュ兵の姿を、確かに胸に刻んでいた。


ガルナードは深く頷いた。


「敵ながら、見事なものですな。あれは……“死に様”ではなく、“生き様”でしょう」


陽が傾き始め、ラガシュの城門の影が伸びていく。その影の中に、王とごくわずかな供回りだけが、かろうじて消えていった。そして、それを守った者たちは、誰も戻らなかった。ラガシュ平原での戦いが終わり、夕陽が西へ傾きかけた頃、ルガルニル王子はすでに次の命令を発していた。


「――破城槌、前進!」


その声が響くと同時に、連合軍の後方から巨大な木製の破壊槌が押し出されてくる。鉄で補強された頭部は、すでに幾度かの戦いで使われた痕跡を残しており、そのままラガシュの南門へと進み始めた。


「王子、準備万端だったのね」と茜が苦笑交じりに呟く。


「平原で決着がつくとは限りませんから」とリュシアが淡々と返す。「この展開は、彼にとっても“予定通り”でしょう」


ラガシュの城壁は高く、堅牢だった。だが、守備兵の数は多くはなく、すでに野戦での敗北による動揺が色濃く残っていた。


「……敵兵、再編に時間を要していますね」とリュシアが報告する。


「じゃあ、今が突き崩すチャンスってこと」


茜は静かに合図を送る。リュシアの指揮下にある弓兵部隊が、再び弓を構え、高所に立つ城壁の敵兵へ一斉に矢を放つ。矢は風を裂き、城壁上に雨のように降り注いだ。


「伏せろ! 伏せ――ぐっ……!」


守備兵たちが倒れ、交代要員のいない壁の上は次第に空白が広がっていく。その間に、破城槌が城門に到達し、第一撃が響いた。


「どん!」


鈍く重い音が、ラガシュの石門に震動を走らせる。


「第二撃、準備完了!」


「撃て!」


「どん!」


振動が重なり、門のつなぎ目に亀裂が走り始めた。三撃、四撃――そして五撃目で、ついに音が変わった。


「ぱきぃっ――」


「割れた!」


「門、崩れるぞ!」


「下がれ、構え直せ!」


ラガシュ兵の悲鳴が重なる中、木片と土煙が空を舞い、門が破砕音とともに内側へ倒れ込んだ。


「突入!」


茜が風の指揮棒を振り下ろし、槍兵たちが一斉に駆け出す。続いて王子軍も突撃を開始し、連合軍は怒涛の勢いで都市内へなだれ込んだ。


だが――


「略奪を禁ず!」


ルガルニル王子の声が、明瞭に、全軍へ届いた。


「住民に手を出すな! 家屋を荒らすな! この都市は、我らのものになるのだ! 壊すのではない!」


その言葉に、兵たちは混乱なく、整然とした進軍を保った。誰一人として店に手を出さず、逃げる住民を追うこともない。


「ふふ、ちゃんと教育してるのね、王子」と茜が満足そうに笑った。


「……指導者としての誇りでしょうね。征服ではなく、“継承”を意識しています」


リュシアの分析に、ガルナードも頷く。


「恐れながら、主もたまには見習ってはいかがかと」


「ん? 今なんか言った?」


「……いえ、なにも」


都市ラガシュは――その門を破られ、されど血に染まらず――静かに、新たな支配を受け入れ始めていた。しかし市門が破られ、ラガシュの街路に連合軍が入り込んだ後も、ただ一つ、白く沈黙を保つ建物があった。


エアンナ神殿。


都市ラガシュの精神の中心にして、王権と神権を一身に集めるその聖域に、ウルカギナ王は最後の拠点を築いていた。王の周囲には、もはや数えるほどの親衛兵と祈祷巫女のみ。市街の守備兵はすでに壊滅し、残るは信仰と忠誠だけで成り立つ静かな防衛線だった。ルガルニル王子は、混乱の収束と民の保護を最優先とし、正面から神殿を囲んだ。そして、使者を通じて降伏を勧告する。


「もはや城門は破られ、都市の大半は我が軍の手にあります。無益な流血を防ぐためにも、降伏を」


神殿の石階段に現れたウルカギナ王は、血に濡れたマントを纏いながらも、毅然とした姿を崩さなかった。


「民を守るために命を賭けよ」とは、王が長く掲げてきた信条。今日、それが真に問われる日だった。


沈黙ののち、王は低く、だが力強い声で語る。


「――我が命をもって、三つの保障を願いたい」


その言葉に、周囲が静まり返る。


「第一に、我が血族すべての命を守ること。第二に、ラガシュの民へ報復を行わぬこと。第三に、神殿と信仰を汚さぬこと」


王子は王の眼を見据え、深く頷いた。


「すべて、受け入れましょう」


静かに返されたその言葉に、ウルカギナ王の眉が微かに動く。だが王子の表情に、打算や誇示はなかった。


「あなたの命を奪えば、民は怯え、血族は地下に潜み、信仰すら復讐に変わる。……私は、征服者ではなく、治める者でありたいのです」


しばしの沈黙のあと、ウルカギナ王は、ふっとわずかに笑った。


「……なるほど。父君の御意ではないな」


「はい。だからこそ、お願いがあります」


王子は声を低め、慎重に言葉を選んだ。


「王をこのままウンマへ連行すれば、私の父、ルガルザゲシ王はおそらく貴殿を“見せしめ”として処刑するでしょう」


「見えるな。よく、見える」


「ですから――王とご親族は、都市ウルにお移しする。保護という名目で、神殿に近く、外交の監視下に置く。それが、最も平和な道です」


ウルカギナ王は、深く頷いた。


「理解した。……その配慮、しかと受けた。これより私は、剣を置こう」


そして、王はエアンナ神殿の石階段を降り、軍と民の前へ姿を現す。ラガシュの民は、その姿に驚き、また安堵した。彼は敗れてなお、王であった。ウルカギナ王は声を張る。


「民よ。我が民よ!」


彼の声が、廃墟と化しかけた街に反響する。


「私は敗れた! だが、命と引き換えに、汝らの未来を守った! そして、私は見た。――この方、ルガルニル王子は我と同じく、“民を想う王”である!」


王子は一歩、前に出る。


「今日よりこの方を、汝らの守り手とせよ。剣ではなく心で治める、真の“王”として受け入れてほしい!」


民の間に沈黙が流れたのち、やがて一人、また一人と膝をついた。それは忠誠ではなかった。感謝でもなかった。


――ただ、信頼だった。


敗れた王の命を賭けた願い。そして、それを受け入れた敵の王子の慈悲。それは、ラガシュという都市が、新たな支配者に心を開くに足る、十分な“儀式”だった。


****


夜のラガシュは、まるで疲れ果てた獣のように静まり返っていた。


戦の余韻を残しながらも、都市は落ち着きつつあり、灯火がゆらめく街並みの中、茜たちは城の西側に割り当てられた貴族屋敷の一室で、束の間の休息を取っていた。外からは風鈴のような神殿の鐘の音が、夜気にまぎれて遠く聞こえる。


「ふふっ、これで――風の神ユカナがつけこむ隙、しっかり出来た!」


茜が大の字になって寝椅子に寝転びながら、天井を見上げて笑う。その脇で書簡の整理をしていたリュシアは、手を止めてため息をついた。


「……王子が勝手に決めたこと、後で問題になるでしょう。特にウルカギナ王の処遇、父君に相談なしで通したのは危険です」


「うん、知ってる。でも、結果としてはうまくいってるでしょ?」


「外交・政治的には。しかしウンマの国内事情的には…不穏です」


「むぅ……細かいなぁ」


リュシアがふっと小さく肩をすくめたその隣で、ガルナードが器用にワインを注ぎながら静かに口を開いた。


「ですがまあ、その時は――また主が何かやるのでしょうな」


「えっ。ちょ、待って、なんで私なの?」


茜が寝椅子から半身を起こして抗議の声を上げる。


「主ならどうにかするだろう、という将兵たちの信頼は厚いのですよ。善きにつけ、悪しきにつけ」


「信頼って、雑に丸投げするための免罪符じゃないからね!」


「それでも、どうせやるんでしょう? 戦友のために」


リュシアの冷静な指摘に、茜は口をつぐむ。しばらく沈黙のあと、天井を見つめながらぽつりとつぶやいた。


「……まあ、あの王子、がんばったしね。民の前で頭下げられたら、そりゃ、ちょっと手助けくらいは……ね」


「それが“手助け”で済めば良いのですが」


リュシアが机に視線を戻しながら、ぼそりと付け加える。


「うぅぅ……先のことは、先の茜が考えるってことで……」


その声に反応するように、部屋の隅でごろごろ転がっていたユカナが、掛け布の下から顔を出した。


「また何か、神の仕事ふえたりするのかな……」


「ユカナはもうちょっと“神らしい”動きしたら?」


「むりー……今日一日で信仰広がりすぎたぁ……」


「そこは喜んでよ、そこは!」


部屋の中に、小さな笑い声が広がる。戦の夜――だが、そこには、ささやかな静けさと確かな信頼があった。その静けさの中に、次の波紋が広がっていくことを、彼女たちはまだ知らなかった。

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