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20話 風と戦車が貫く、戦術の非常識

アダブの空に星が瞬き始めた頃、野営地の中央に設けられた王子の天幕には、張り詰めた空気が漂っていた。


天幕内の火皿が赤く揺れ、粘土板に刻まれた戦況がその光に照らされている。ルガルニル王子は腕を組み、じっと戦況盤を見つめていたが、やがて顔を上げて茜に視線を向けた。


「明朝、キシュ軍が到達する予定です。いよいよ決戦の時が来ますね」


「ええ。だからこそ、今のうちに全部、準備を整えておきたいの」


茜は戦況盤を広げながら、すでに描いていた配置構想を指差した。


「私は、速攻で終わらせるつもりよ。正面から真正面にぶつかって、消耗戦なんて御免だわ」


王子は静かに頷いた。


「戦力を両翼に展開し、包囲するお考えでしょうか?」


「いいえ。両翼は使うけど、本命は中央なの」


茜の指が中央配置から少し後ろにある第二線をなぞる。


「ここに、王子の持っている“戦車”をすべて貸してほしいの」


その一言に、王子の眉がわずかに動いた。


「……戦車を、すべて貸与、ですか?」


「そう、全部。私の指揮下に置かせて。私の使用している戦車隊と一緒に突破用の主軸に使うわ」


天幕の空気が、わずかに硬直する。


シュメール戦車は、現在の軍編成では主に歩兵隊の指揮官が搭乗する“移動指揮台”として運用されていた。単独で突撃に用いるという発想は、あまりに常識外れだった。


王子はしばし沈黙し、慎重な目で茜を見つめた。


「戦車は、あくまで歩兵の統率を助けるためのものであり、単独運用では効果が限定される可能性が高いかと……ただ、これまでのあなたの戦い方を見ると、それが全てでは無いということは分かっているのです。ですが…」


「でも、それは“今までの使い方”でしょ?」


茜は揺るぎない目で王子を見返した。


「戦車は“走る兵器”よ。突っ込んで、崩して、蹴散らす。そのための足よ。私は、それを使って“中央突破”をやるつもり」


王子の視線が、わずかに揺れる。


「……無謀ではありませんか?」


「無謀じゃない。“計算済み”って言ってほしいわね」


茜はにっこりと微笑んだ。


「見せてあげるわ、戦車の本当の使い方を」


その一言に、王子は目を伏せてわずかに息を吐き――やがて、静かに頷いた。


「……分かりました。これまでのあなたの働きを考えれば、信じるに足るものです。私の軍の戦車をすべて、あなたにお預けします」


茜の顔に勝ち誇ったような笑みが浮かぶ。


「ありがとう、王子。きっと後悔はさせないわ」


「……あなたの“見せてあげる”は、いつも驚きを伴いますからね。今回も、楽しみにしております」


天幕に漂っていた張り詰めた空気が、少しだけ和らいだ。


そして、茜は戦況盤の上に指を置いた。


「明日、戦場に轍を刻むわよ――風の神ユカナの名の下に!」


火皿の炎が揺れ、天幕の影が踊る。

それは、戦いの幕開けを告げる光でもあった。


****


夜明け直前の冷たい風が、アダブの平原を渡っていった。


そして、太陽が地平線を染め始めた頃――遠く北方に、砂煙が立ちのぼった。


キシュ軍が姿を現したのは、まさにそのときだった。


濃い行軍列が、朝靄を裂くように進み、アダブの緩やかな丘を越えて平原へと姿を現す。彼らは遠征の疲れを隠しきれず、陣列はやや乱れ、速度も鈍っていた。


「敵、視界内に入りました!」


斥候の報告が伝えられると、茜は一言、短く告げた。


「配置、開始!」


その号令と同時に、野営地の布幕がはためき、茜軍とウンマ軍が一斉に平原へ展開を始める。


キシュ軍の先鋒が平原の中央に到達したとき、すでに敵が整然と布陣していたという事実に、キシュ側は小さくざわめいた。先んじて待ち構えていた敵。――それは、まさしく伏兵ではない、堂々たる「迎撃の構え」だった。


中央には、ルガルニル王子率いる本隊が整然と並ぶ。前列には軽槍兵が二列に並び、その後方には投槍兵が控えている。さらに奥には、神官戦士と巫女の姿があり、静かに祈りを捧げるように構えていた。戦列の中心にふさわしい、堅実で安定した布陣だった。


右翼では、ガルナードが前線で指揮をとっていた。茜軍の軽槍兵が二部隊、その横には中装槍兵が一列。さらに王子軍の槍兵も一隊編入され、隊列に厚みを持たせている。またその後方には弓兵が待機し、さらに後方では神官戦士が静かに布陣を見守っていた。


左翼では、茜軍の中装槍兵と軽槍兵が交互に配置され、その後方には二部隊の弓兵が並ぶ。さらにその奥、白い装束をまとった巫女が、まるで精霊に語りかけるように風に向かって静かに手を広げていた。そして巫女たちが踊る横には屈強のポプリタイに守られた茜やリュシアそしてユカナが戦場を見渡していた。


さらに両翼と中央をつなぐ谷間にあたる丘陰――そこには、三部隊のシュメール戦車が息を潜めていた。茜と王子の連携によって集結した戦車部隊は、未だ静止したまま、まるで猛る獣のようにその時を待っていた。


これに対してキシュ軍は、平原の中央へ向けてゆっくりと布陣を始めた。しかし、彼らはすぐに気づくこととなる――眼前の敵が、単なる守りではないことに。


戦線中央前列は軽装歩兵で構成されており、戦術的には“柔らかい”と映る。だが、両翼の配置は異常だった。過剰とも言える重装部隊と弓兵群、さらに地形に溶け込むように控えた戦車隊。


「……中央が“わざと”薄く見せてある」


そう気づいた時には、すでに布陣の最中。撤退するにも、再編するにも遅すぎた。


****


太陽が天頂に差し掛かるその直前、キシュ軍の角笛が、乾いた空に響き渡った。


「敵、前進を開始!」


斥候の叫びに続いて、茜の指先がすっと戦況盤をなぞる。


「――来たわね」


キシュ軍は、正面突破を狙う“平押し”で戦線を押し出してきた。軽槍兵八部隊が横一線に広がり、その背後に投槍兵二部隊、さらに神官戦士と巫女が中央後方に控える。


堂々とした前進、しかしそれは、“重み”ではなく“惰性”に近い。遠征の疲労が全軍に影を落とし、速度も揃いも緩やかだった。


茜は戦況盤に視線を落としながら、静かに腰の横から銀の羽根飾りがついた矢状の木製指揮棒を取り出した。


風を探るようにその棒先をゆるりと動かし、戦況盤の中央に軽く触れる――その瞬間、茜の指先と風の指揮棒が指し示す位置に応じて、盤上の軍駒が反応する。


「中央、現地点で停止。両翼、前進!」


戦況盤の風が動く。茜の命令に応えるように、リュシアとガルナードが同時に指揮旗を掲げる。


次の瞬間、左右両翼の地面が揺れるように動き出した。

先に動いたのは左翼だった。


リュシアの統率のもと、茜軍の中装槍兵と軽槍兵、たった二部隊の前衛が静かに進軍を開始する。その背後――高台に布陣した弓兵二部隊の弦が、すでに引き絞られていた。


挿絵(By みてみん)


「風、北東より微風……問題なし」


リュシアは小さく指を振ると、厳しい口調で命じた。


「第一射、放て。標的は敵左翼の前線列――弧を描いて、正確に落としなさい」


その声に、弓兵たちは一糸乱れず弓を放つ。


風が、矢を乗せる。


リュシアの補正は、単なる技術ではない。風を読み、射程を操るその才は、この時代の兵士たちにとってまさに“魔法”のように映った。


放たれた矢は、通常の投槍の射程をはるかに超え、キシュ左翼の布陣途上の軽槍兵列へと容赦なく降り注いだ。


「っ……な、何だこの距離は……!?」


敵兵が叫ぶ間もなく、矢は防御の隙間を穿ち、盾ごと押し倒す。軽装の兵たちは防御態勢にすら入れず、矢雨の中でなすすべなく崩れていった。それは攻撃ではなく、“裁き”に近かった。


「敵、前衛半壊を確認。射角、三度修正。第二射――放て」


矢の雨が再び走る。敵の士気は、射撃の音と同時に崩れていく。前に出るべき足が、止まった。隣の仲間が倒れるたびに、視線が泳ぐ。恐怖が兵列を伝播し、敵左翼の秩序が完全に失われていった。その光景を見下ろしながら、リュシアは冷静に指揮を下す。


「槍部隊、前進。敵前線、すでに無力化済み」


中装槍兵が動く。


この時代の戦場には明らかに“場違い”な重装備と威圧感をまとい、敵陣へと静かに迫る。脆くなった敵前列を、まるで厚紙を裂くように割っていく。抵抗はわずか。剣ではなく、視線で敵兵が退いていく。軽槍兵もそれに続き、混乱の中にある敵を追い立てるように進んでいく。リュシアは微かに息を吐き、独りごちるように呟いた。


「風は、こちらに吹いているわ。――すべて、計画通りよ」


一方、右翼――ガルナードの陣では、弓兵こそ一部隊のみであったが、戦列はまるで“鉄壁”だった。


「密集槍列、前進。矛先、崩すな。進め!」


低く、だが確固たる響きを持つ号令が戦列に走る。指揮を執るガルナードの声は、まるで鋼を打つ槌音のように、兵たちの心に火をつけた。茜軍の軽槍兵と中装槍兵、そして王子軍の選抜された軽槍兵たち――総じて練度も武装度も、キシュの前線部隊を大きく上回る精鋭たちが並ぶ右翼は、すでに突撃というより“押し潰す”ような進撃を開始していた。槍と盾が連なるその隊列は、まるで動く要塞のようだった。隙間はほとんどなく、どの角度から見ても槍先が密に並び、整然とした歩調でキシュの前列へと迫る。キシュ軍の軽槍兵たちも必死に構えるが、その構えが「必死」である時点で、すでに勝負はついていた。


「接敵――槍、突け!」


一斉に繰り出された突きが、キシュの前衛を突き刺した。盾の裏から悲鳴が上がり、隊列がよろける。その一歩、茜軍は下がらない。むしろ密度を増して押し進める。


「前へ。下がるな。ここは――押し切れる!」


ガルナードの声が響く。彼の統率のもと、兵たちは一糸乱れず槍を繰り出し続ける。突き、引き、捻り、そして踏み込む。まるで訓練場で繰り返した型を、今この瞬間に実戦へと昇華させているかのように、連携と技術が噛み合っていた。その槍列は“戦っている”というより、“削っている”に近い。キシュ兵たちが抗戦しようとしたその瞬間、すでに数人が盾ごと押し倒されていた。密集した槍兵の波が、それを逃すことなく踏み潰してゆく。


「これが、訓練された槍兵の戦いだ。――舐めるなよ」


ガルナードの声は冷たく、そして静かだった。その一方で、キシュの槍兵たちは、徐々に下がり始めていた。誰の命令でもなく――本能が告げていた。この“壁”は、止まらない。突き崩せない。立っているだけで押し潰される。この右翼の前に、“突破”という言葉は存在しなかった。その様子を後方の丘から見つめていた茜は、風に髪をなびかせながら、満足げに呟いた。


「両翼、予定通り……あと少し。キシュが中央から兵を引き始めたら……次はこっちの出番ね」


彼女の視線の先、丘陰に控えるシュメール戦車三部隊が、なおも静かに待機していた。キシュ軍の指揮官は、焦っていた。左右両翼で相次いで上がる悲鳴と退却の波。その戦況を見た彼は、瞬時に判断を下す。


「中央から二部隊、左翼へ援軍を送れ!右にも一部、再配置しろ!」


伝令が走り、号令が響く。しかしそれは、まさに“その瞬間”を待っていた者たちへの合図にもなっていた。


「……来たわね。中央、空いた」


風に髪をなびかせながら、茜が静かに呟いた。彼女は手にしていた風の指揮棒を構え、空中を一閃――風を裂くように弧を描いて振り下ろす。その動作は、まるで風そのものに命を吹き込むような所作だった。その目の前――丘陰に潜んでいた3部隊のシュメール戦車が、一斉に姿を現した。


「戦車隊、突撃開始!目標、敵中央突破――全力で叩き潰しなさい!」


茜の言葉と、風を裂いたその一振りが呼応するかのように、戦車部隊が一斉に動き出す。轟音が戦場を裂いた。地を砕き、草を薙ぎ、怒涛のように押し寄せる車輪の列。戦場に響くのは、かつて誰も聞いたことのない“質量が走る音”だった。


「戦車……?なんだ、この数……!」


キシュ軍の兵士たちは、目の前の光景に理解が追いつかない。


戦車――それはこの時代、せいぜいが歩兵隊の指揮台。象徴の延長でしかなかった。それが三部隊。しかも、連携を取り、戦術として“突撃”を行っている。


その存在自体が、「戦術の非常識」だった。


「止めろ……止め――ぐあっ!」


叫びが最後まで届くことはなかった。シュメール戦車は、一糸乱れぬ突撃でキシュ中央を両断した。軽槍兵の列は瞬く間に踏み潰され、散った盾が宙を舞う。本来、戦場の裏方であったはずの“車”が、主戦力として眼前に迫る。それは恐怖というより、“常識が破壊される音”だった。敵の第二線――投槍兵部隊にたどり着いた戦車は、その狙撃を受ける前に“到達”していた。投槍を構える隙すら与えず、車輪が兵を弾き、衝角が隊列を分断する。


「後衛、潰されるぞ!下がれ、下がれ――!」


神官戦士と巫女たちが慌てて後方に避難しようとするも、戦車の機動は止まらない。あくまで秩序正しく動いていた神聖職すら、軍事の前には無力だった。


――蹂躙。


それはまさにその言葉が似合う光景だった。後衛を引き裂かれ、司令部に迫る戦車隊の影が地を伸ばす。本陣にいたキシュ軍の司令官は、戦車が目前に迫る中、剣を抜くでも、逃げるでもなく、ただ茫然と立ち尽くしていた。やがて、兵たちの間から白布が掲げられる。


それは――降伏の意志。


崩れたのは陣形ではない。“全軍の戦意”そのものだった。戦車隊が包囲を止めると同時に、茜は大きく息を吐いた。


「よし……終わったわね」


振り返ると、戦場の各所で剣を置き、地に伏すキシュ兵たちの姿が見える。左右の包囲、中央の突破、後衛の蹂躙――その全てが計画通りだった。


リュシアが後方から近づき、静かに呟いた。


「完全勝利です、主」


その言葉に、茜は満足そうに頷いた。

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