18話 湿地に眠る道で勝ちを刻む──戦術と信頼の決戦
霧がゆっくりと引きはじめると、グアエデナ湿地の全貌が露わになっていった。湿った草地と浅い水流、膝まで潜む泥――その中に、両軍の兵が静かに並び立っていた。
まずは、ウンマ軍本隊。
中央正面に軽槍兵2部隊が横列に並び、第二線には投槍兵2部隊が控える。さらにその背後、第三線には神官戦士と巫女の姿が見える。兵たちは無言で槍を構え、王子の到来を待っていた。一方、茜軍の布陣はその両翼に展開されていた。
左翼――
前線には中装槍兵1部隊と軽槍兵1部隊。やや後方に投槍兵1部隊、さらに後ろに神官戦士が控えている。
右翼――
前線に中装槍兵1部隊と軽槍兵1部隊、第二線に投槍兵、第三線には新たに採用された祈祷巫女が柔らかく祈りを捧げていた。そして、右翼部隊の前線指揮は、ガルナードが担っている。重い鎧に身を包み、静かに敵陣を見据える姿は、まさに鉄壁の守護者そのものだった。
茜の司令部は、左翼後方に陣取っている。
だが、最も注目すべきは、戦場のさらに右奥――視界の端に隠れるように、伏せられた部隊の存在だ。あの旧運河跡に沿って、茜軍のシュメール戦車2部隊と軽槍兵1部隊が、じっと動きを潜めていた。まだ誰も、それが何を意味するのかを知らない。
そして、対するラガシュ軍の陣容。
前線には軽槍兵7部隊が横一列に並ぶ。湿地に広がるその隊列は、確かに見応えがある。第二線には投槍兵2部隊。第三線――中央に神官戦士と司令部が置かれていた。戦車は歩兵部隊の後方各所に分散されており、中央集約型ではない。
それを見て、リュシアが茜の隣で静かに口を開いた。
「……戦車を分散して歩兵を指揮させるのは、この時代の典型ですね」
茜は鼻を鳴らした。
「やっぱり、戦車のような機動力は集中運用しないと、意味ないじゃん。突破してなんぼでしょ?」
「その発想は、騎馬隊が活躍するもっと後の時代ですからね」
リュシアの冷静な返しに、茜はふっと肩をすくめた。
「じゃあ、未来の人間として、こっちでやって見せるしかないね」
その時――
ルガルニル王子が、前線へ姿を現した。美しく整えられた鎧をまとい、凛とした表情で戦車の上に立ち、剣を高々と掲げる。その姿はまるで戦場の光の柱のようで、兵たちの間に静かに熱を走らせた。
「王子……」
「おい、あれルガルニル王子だろ……俺たちと一緒に前線で戦うつもりなのか?」
「……あの人がいるなら、負ける気がしないな……!」
兵士たちの間から、自然と士気が湧き上がる。茜は、その様子を見て小さく頷いた。
「……これは、“士気バフ”ってやつね。やるじゃん、リアル王子様」
そして、王子が高らかに声を上げた。
「――ウンマ軍、前進!」
その声に応じて、槍の列が動いた。泥を踏みしめ、隊列を保ったまま、ウンマ軍が前進を始める。それと同時に、茜軍の左右両翼も前へ進む。ぬかるむ地面をものともせず、中装槍兵が着実に前に出る。霧が少しずつ晴れていく中、二つの軍勢が、ついに激突の刻を迎えようとしていた。風が、湿地の草を揺らす。静かなる決戦が――始まった。
両軍が前進を始めてから、ほどなくして――戦線はぶつかった。
まず接敵したのは、中央を進むウンマ王子軍。濡れた泥と水たまりの続く湿地の地を、槍を前に突き出したまま踏みしめ、まっすぐに敵前衛へと歩を進めていく。
「――怯むな! 進め!」
王子の凛とした声が、まるで戦列全体に響く鐘のように鳴り渡る。それに応えるように、軽槍兵たちは短く雄叫びを上げ、敵の槍列に突き刺さる。その直後――
「投槍、撃て!」
ラガシュ軍の第二線から放たれた無数の槍が、空をかすめて降り注いだ。ウンマ王子軍の前衛は、それを避ける術もなく、次々と打たれていく。それでも、崩れない。王子が最前線に立つその存在が、兵たちにとって何よりの支えとなっていた。リュシアがやや後方の丘の上から、静かに呟く。
「……前衛の軽槍部隊、すでに15%近く削られています。それでも崩れないのは――王子様の力ですね」
その様子を、茜も遠目に見ながら小さく頷いた。
「士気って、数字じゃ測れないのよね……やっぱ“前に立つ指揮官”って、強いわ」
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左右両翼でも、茜軍の部隊が同時に接敵を開始していた。
まず右翼――
ガルナードが前線に立ち、「鉄壁陣」の指揮を発動。中装槍兵たちは地面に深く足を踏みしめ、盾を密集させた状態で迎撃に備える。
「動くな、崩すな。来る波を、ただしずかに――受けろ」
その指示どおり、敵が突っ込んでくるも、部隊の陣形はびくともせず、湿地の粘土質がかえって防壁となる。まさに“鉄壁”。
対して左翼――
こちらはリュシアの冷静な支援のもと、中装と軽槍が並列して敵と交戦。さらに投槍兵が第二線からの射撃を継続。敵陣はじわりと削られていく。だが、リュシアの声が冷静に告げた。
「追わないで。戦線を広げるより、拘束が第一。ここで焦る必要はありません」
その指示通り、左翼部隊は有利を得ながらも一線を越えず、敵の動きを封じる“静の構え”を維持する。
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こうして、全戦線は接敵。湿地の粘りと重さが、激しい動きも派手な突破も許さない。だが、その静かなるぶつかり合いの中で、確かに――優位に立っていたのは、ウンマ側だった。
王子の前線指揮と士気。
ガルナードの堅陣。
リュシアの冷静な局面制御。
そして茜の采配の影が、確実に布陣全体を後押ししていた。
だが、この戦場には、まだ“動いていない”ものがある。湿地の東――王子軍の右翼、さらにその外側の草むらに隠れていた鉄の車輪が、静かに動き出す。茜の奇襲部隊、シュメール戦車2部隊と軽槍兵1部隊が、旧運河跡をなぞるようにして、静かに、だが確実に前進を開始した。
「進行開始、確認」
リュシアの冷静な声が、司令部に控える茜へと届く。茜は応える代わりに、そっと腰の横から銀色の羽根をあしらった矢状の指揮棒を取り出した。その先端が、風を読むように一瞬空を切り、それから静かに草むらの方向へと振り下ろされる。
「よし、これが上手くいけば…」
その言葉と同時に、泥と草を巻き上げて、戦車の鉄輪が転がり始めた。
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ラガシュ軍第三線、司令部高台。
司令官である王弟は、敵の戦車らしき動きを遠目に見つけて、僅かに眉を動かした。
「……あれは?戦車……?まさか……こんな地形で……」
副官が近づき、視線を合わせて答える。
「湿地です。車両は通れません。無謀な突撃にすぎませ――」
その言葉が終わるより先に、何かが空気を裂いた。
「っ……!」
鉄の車輪が泥を跳ね上げ、突き刺すような音とともに突入してきたのは、まさに“神の雷”だった。
「敵戦車、突入してきます!これは……ッ!?止められません!」
王弟が慌てて命令を出そうとするが――
「予備兵力は、すでに前線へ……残っておりません!」
副官の震える声が、戦局の重みを突きつけた。その刹那、第一陣の戦車が神官戦士の陣を薙ぎ払い、続いて第二陣が、まっすぐ司令部の中心に突撃。叫び声。破壊音。倒れ伏す兵士たち。神官たちの祈りは寸断され、信仰の力が消え失せる。そして、同時に進撃してきた軽槍兵が横から投槍隊の横腹に突入――右翼の第二線が一瞬で潰れる。
「止めろ!誰か、止め――」
王弟の絶叫は、鉄の轍に踏み潰された。戦車の車輪が、司令部の壇上を越えて、彼の命を飲み込んだ瞬間、ラガシュ軍全体に異様な沈黙が広がった。そして、それは一斉の混乱へと転じる。
「司令部が……!王弟閣下が……!」
「指示が来ない!どうすれば――!」
崩れる、崩れる、音を立てて、見事に構築された陣形が砂の城のように崩壊していく。誰もが、自分の前ではなく背中の安全を求め始めた瞬間、ラガシュ軍の“軍”は、“群れ”に変わった。司令部の崩壊とともに、ラガシュ軍の前線は、目に見えて瓦解し始めた。
中央に展開していた軽槍兵7部隊――
かつては横一列に整然と並んでいたそれらが、今では指揮を失い、次に何をすべきかもわからぬまま、泥の中で右往左往していた。その様子を、正面で冷静に見据えていた男がいた。ルガルニル王子――槍を手に、戦車の上から沈着なまなざしを前方に向けていた。
「……敵の連携が乱れた。いまだ――突撃!」
王子の剣が振り下ろされた。
その一声に応じ、中央のウンマ軍が一斉に動き出す。傷つきながらも踏みとどまっていた軽槍兵たちが咆哮を上げ、泥を蹴って突き進む。投槍兵たちもその背を追いながら支援射撃を浴びせ、開いた敵陣に楔を打ち込む。
まさに“突破”。
ラガシュ軍の中央部に、王子軍が深く食い込んでいく。戦列は完全に断ち切られ、左右の連携は完全に断絶された。それに呼応するように、茜軍の左右両翼も一斉に前進を開始した。
「今よ、全軍、王子に続け!」
茜の命令が飛び、リュシアとガルナードが各自の部隊に即座に展開指示を送る。左右の中装槍兵と軽槍兵が正面から圧力をかけ、前線を押し込んでいく。同時に、背後に回り込んだ茜軍の奇襲部隊――
シュメール戦車と軽槍兵が、崩れかけたラガシュ軍前衛の背中を突いた。
「敵の背後に突撃を! 一兵たりとも逃がすな!」
ガルナードの号令が響き渡る。こうして、各所で小規模な包囲が形成されていく。敵兵たちは前からは王子軍、左右からは茜軍、そして背後からは戦車の鉄輪――もはや逃げ道はなかった。ラガシュ兵の多くは武器を捨て、濁った泥の中に膝をつくか、散り散りに逃走するしかなかった。誰もが理解していた。
――戦は、終わった。
戦場に響いていた叫びと喧騒は、やがて風と共に消え去った。もはや泥を踏みしめる足音すらない。残されているのは、退却の痕と、勝者の静けさだけだった。湿地の西端、丘の上に構えられた茜の司令部。そこから戦場を見渡していた茜は、静かに息を吐いてから言った。
「今回は地形的に不利だったけど……まあ、作戦勝ちってとこね」
戦車が使いにくい湿地――それでも道を探し、敵の背後を突いた一撃。その選択が、勝利を引き寄せたのだ。
「被害が抑えられたのは作戦のおかげでしょうね。主も、役に立つことがあるのですね」
背後からのリュシアの言葉に、茜はぴたりと振り返る。
「ちょっと! 今の褒めてるの?けなしてるの!?」
「どちらでもありません。事実を述べただけです」
涼しい顔で言い切るリュシアに、茜は軽く頬を膨らませる。
「私は楽ができればそれでいいんだけどね~」
その隣、箱の上に腰をかけていたユカナが、飄々と口を挟む。ポプリタイの衛兵たちは黙々とその横に立ち続けているが、守るべき神がこの調子では、少しだけ不安も混じる。
「……まあいいや。リュシア、今回の損耗、出してくれる?」
「はい。まとめました」
リュシアが取り出した粘土板を手に、簡潔に読み上げていく。
戦闘損耗報告(グアエデナ湿地戦)
ラガシュ軍
軽槍兵:75%
投槍兵:70%
戦車・神官戦士:80%以上
王子軍
軽槍兵:25%
投槍兵:20%
神官+巫女:10%
茜軍
中装槍兵:10%
軽槍兵:15%
戦車:8%
投槍兵:5%
神官戦士:0%
「完全な勝利とはいえ……流石にこっちも少しずつ消耗してるね」
茜が指で額を押さえるように言うと、リュシアは即座に返す。
「王子の人気はさらに高まり、義勇兵が増えるはずです。継戦能力は十分です。むしろ、勢いを利用するには好機でしょう」
「……そう」
茜は視線を遠くに移した。戦場の向こう――まだ見ぬ、ラガシュの城壁を思い浮かべながら。
(次は、都市の攻略戦。野戦より、もっと複雑で厄介――)
「あと一歩。ここからが正念場ね」
風がまた、湿地の草を揺らした。だが、その風は、勝利の香りを確かに運んでいた。
戦後処理も一段落し、戦場を見渡す風が少しずつ落ち着いてきたころ。茜の司令部に、一人の影が近づいてきた。その人影は鎧の音も高らかに、堂々と天幕の前に立つ。ポプリタイの衛兵がすっと道を開け、茜の目の前に現れたのは――
ルガルニル王子だった。
泥と汗の跡が残る鎧をまといながらも、彼の姿勢にはまるで曇りがなかった。
「……やはり、風神の巫女が味方で良かった」
真っ直ぐな瞳で、王子はそう言った。茜は一瞬驚いたようにまばたきをした後、にんまりと笑みを浮かべる。
「でしょ? こっちも頑張ったもんね。これでラガシュの野戦部隊は壊滅。あとはラガシュ本体の攻略戦だけ……あと一歩だから、ここからが本番だよ。頑張ろう!」
王子は静かに頷き、少し柔らかい声音で言葉を続ける。
「茜殿。貴女は、私にとって大切な戦友です。これからも……どうか力を貸してほしい」
その言葉に、茜の口元がにやりと釣り上がる。
「もちろん協力するけど……戦友とか友情とか、そういうのって、“ちゃんとお礼する”ってのが大事だと思うんだよね?」
王子が目を細める。
「お礼……?」
茜は得意げに両手を腰に当てて言い放った。
「恩賞、期待してるってこと! ね、王子様?」
一瞬の沈黙――
そして、王子が吹き出すように笑った。
「ふふっ、なるほど。期待してよいですよ」
そのやりとりを背後から見ていたリュシアが、やや呆れた顔でぼそりとつぶやいた。
「……主の欲望は、やはり戦場の後でも隠せないのですね」
ユカナも椅子代わりの木箱から体を伸ばしながら、くぐもった声で付け加える。
「私は……楽ができれば、それでいいんだけどね~……」
茜はそんな二人を振り返り、ふふんと胸を張る。
「欲があるのは、生きてる証ってことで!」
天幕の中に、どこか平和な笑いが広がった。戦いは終わり、だが戦火の向こうには、まだ最後の大戦が待っている。それでも、風は確かに――味方に吹いていた。




