16話 風神の導き、ギルスに勝利の轍を刻む
出撃の日、朝の光が差し込む作戦室で粘土板の地図が石卓の上に広げられていた。ルガルニル王子は地図の一角――ウンマの東境に位置するギルスの周辺に指を滑らせ、静かに言葉を発した。
「ギルスは、ただの農地ではありません。我らの水の命脈です」
その言葉には、静かだが確かな熱があった。
地図の中には、灌漑路の交差、農耕地帯、そして都市間の交易路が描かれていた。ギルスはそれらが重なり合う要衝。ラガシュに押さえられている今、ウンマの水利と領土は常に圧迫されている。
「なるほど……」
茜は地図を覗き込みながら、感心したように呟いた。
「地政学的に見ても、水源を押さえるってのは超重要だよね。農業国家なら、なおさら。水が止まれば、都市が死ぬ」
「……正しくは、“都市ごと奪われる”です」
リュシアが淡々と付け加える。
「古来より水を奪う者が王となる。それは、変わらぬ真理です」
その言葉に、王子も小さく頷いた。
「ギルスを取り戻せば、ラガシュの膝は折れるでしょう。だが、そこを踏み越えてこそ――“統一”の道が見えてきます」
その時、部屋の窓を通して、ウンマの町から太鼓の音がかすかに聞こえてきた。出撃の刻が、迫っていた。
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ウンマ城門前――。
空は澄みわたり、城壁の上には太鼓が鳴り響いていた。石畳の前には整然と整列した槍兵と荷役部隊、そしてその列の中心には、シュメール式戦車が一台、厳かに待機していた。戦車の前方にはがっしりとしたロバが二頭つながれ、車輪には泥除けの布が巻かれている。車上に立つのは、銀縁の装束を纏ったルガルニル王子。風に揺れる白の軍旗が彼の背でたなびき、民衆の歓声と共鳴するようにたゆたっていた。その周囲には市民がひしめき、焼きデーツや花冠を手にした子どもたちが柵越しに身を乗り出している。
歓声、太鼓、祈りの言葉。すべてが王子の出撃を祝福していた。
「……王子、意外と人気あるんだね」
茜は戦列の後方に並ぶ歩兵たちの間からその様子を見つめ、素直に感嘆の声を漏らした。
「この街の人、ほんとに“未来”を王子に預けてるみたい」
「だからこそ、危険なのです」
リュシアが横で冷静に言った。
「王にとって“都合の良すぎる民の信頼”は、脅威です。今の軍勢規模を考えれば、これは王子の戦死を前提にした“名誉ある勝利”かもしれません」
茜は王子の背を再び見つめた。
――シュメールの神の名を借りて戦う、自分たちが、今ここにいて。
「なら、勝たせてやればいいだけよ。うちの軍でね」
そのひと言に、ガルナードが思わず笑った。
「主は実に豪胆ですな。頼もしい」
「戦争ってさ、勝てば官軍じゃん?」
茜は金糸の外套を風になびかせながら、堂々と宣言した。そして、ルガルニル王子が戦車の上で剣を抜き放ち、高く掲げた。
「風神の巫女と共に、ウンマ軍、出撃!」
掛け声とともに、軍列が動き始める。王子の戦車がゆっくりと先頭を滑り出し、それに続いて槍兵たちの足が石畳を打った。その背には、ウンマ市民たちの声援――
彼らが目指すは、東――
水の地、ギルス。戦が始まろうとしていた。
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ギルス南方の緩やかな丘陵地帯。朝の陽を受けて輝く大地の彼方から、乾いた砂塵を巻き上げながら一団の影が姿を現した。それは、ただの増援ではなかった。中列を成すのは、軽鎧をまとった槍兵部隊。盾には幾何紋の刻印、槍の穂先はまっすぐに天を突くように立ち、列は寸分違わぬ動きで進軍していた。
歩調には乱れがなく、その練度は王子軍に付き従っていた軽槍兵たちを明らかに上回っている。
「――見ろ」
ルガルニル王子の幕僚が、遠くの列を指差して声を上げた。その中を割って前に進み出たのは、金属製の面頬付き兜をかぶり、布地を巻いた槍を小脇に抱えた壮年の将――ガルナードだった。
「主殿!」
ガルナードが声を張ると、その後方の隊列がぴたりと止まった。
「先行しておりました部隊、合流いたします。ご命令通り、予定の拠点での布陣は完了済みです」
茜は、戦車から降りると軽く手を挙げて応じた。その背には、風にひるがえる白金の外套。そしてその足元には、整然とした部隊の姿――王子の軍勢の三倍近い兵力、しかもすべて精鋭と見まがう装備と統率。盾の磨き、槍の鋭さ、そして何よりも“戦う者の静けさ”が、王子の軍にいた将兵たちを静かに圧倒していた。
「……君の部族とは、これほどの勢力だったのか……」
ルガルニル王子が思わず漏らしたその言葉は、驚愕を隠そうともしなかった。それに対して、茜はにやりと口元を緩め、言った。
「任せておいて。今回は敵の中央、私たちが抜くから」
その声に、どこか確信と軽やかさが入り混じっている。戦車の後方、ひらりと白い袖が揺れ、ユカナが顔を出した。
「……私、そんなご利益ないのに……」
小声でぼやいたその一言は、風に紛れて誰にも届かなかった――はずだったが、すかさず茜がツッコミを入れる。
「そういうことは黙っててくれる?」
ふと見れば、ガルナードが表情を引き締めて王子に一礼する。
「ルガルニル王子殿。我らは風の神ユカナの名のもと、この地にて勝利を確約いたします」
王子は数秒だけ黙し――そして、うなずいた。
「頼もしい限りです。では、中央突破は貴女の軍に託しましょう」
「ええ、風の神ユカナの名にかけて、勝たせてみせるわ」
茜はまっすぐ王子を見返し、そして空を仰いだ。
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ギルス平原の南端に、両軍は互いの姿を視認しながら着陣を始めていた。ラガシュ軍の陣形は分かりやすかった。前列に展開しているのは、粗布の鎧をまとった槍兵とこん棒戦士――おそらく周辺の部族兵で構成された軽装の前衛だ。その背後には、背中に長い矢筒を背負い、鋭く整列した投槍兵たち。そして最後方、高台のように設えた祈祷台の上に、白い衣を纏った巫女たちの姿が見えた。
茜は、自らの戦車の上に立ち、懐から取り出した女神の戦況盤を開く。板面には複雑な紋と動く印が浮かび上がっていたが――
「たしかこれ、こちらで視認できている部隊しか映らなかったよね?」
ぼやくように独り言を漏らした茜は、戦況盤を軽くたたいて肩をすくめた。
「やっぱ過信は禁物だね」
「それが良いかと」
リュシアがすぐ隣で、静かに応じた。そして彼女は、そっと目を閉じる。風が一陣、彼女の紐飾りを揺らした瞬間――その身に微かな光の揺らぎが走る。リュシアの「未来視」だった。数瞬の沈黙の後、リュシアははっきりと口を開く。
「……敵は、こちらの中央を突破するつもりです」
「中央?」
「ええ。現在の布陣では、我々の右翼部隊が全体としての“中央”に位置しています。敵はそこを集中して叩き、突破を狙ってくる」
「なるほど……」
茜は戦況盤を閉じ、視線を平野に向ける。
「じゃあ――こちらの右翼に、新しく開発した中装槍兵を集中配置しておこうか」
彼女の口元には、もう不安の色はなかった。
中装槍兵――厚めの胸甲と広盾を備え、持久と防御に優れる、本来ならばシュメール王国時代には存在しない次の時代の部隊だ。その威圧感は、すでに並ぶ他の兵たちの士気にも影響を与えていた。
「左翼から中央までは、軽槍兵で横陣を組ませて。投槍兵は第二線で前線支援に回すよ。神官戦士は第三線より支援、戦車部隊は――」
茜は、視線の端にある野営地の一角を指した。
「右翼の第二線、あそこで待機。こちらから逆に相手の中央を突破するつもり」
その言葉に、ガルナードが前に進み出て、胸に手を当てる。
「それでは、私が右翼部隊の前線で直接指揮をとりましょう」
「任せるわ、ガルナード」
「はっ」
指示は素早く、しかし無駄なく全軍に伝達された。布陣はすでに完了に近い。
風は、ラガシュ軍の方角から吹いていた。
茜は、腰に差していた風を切るような銀色の羽根飾りがついた、矢状の木製指揮棒を静かに引き抜いた。それは王子から託された“風神の導きの証”。軽やかな外見とは裏腹に、その一振りが軍を動かす力を持つ。彼女は風向きを読むように一度その先端を空に向け、それから真っ直ぐ前線の方向へと突き出した。まるで風そのものに命令を下すような動作だった。茜は、それがまるで“風神の導き”であるかのように感じながら、深く息を吐いた。
「さあ――始めましょうか。風に乗って、勝ちを取るわよ」
その声に応えるように、開戦の合図となる太鼓の音が、大地に響いた。それは一拍、二拍と続き、やがて戦の脈動を告げるかのように速さを増していく。ギルスの平原を照らす陽光の下、まず動いたのはラガシュ軍だった。
前衛の槍兵とこん棒兵――粗布と革だけを纏った部族兵たちが、咆哮とともに突撃を開始する。地面を叩く足音が、まるで一つの獣のように戦場を駆けた。
「来るわね……」
茜がつぶやいたその瞬間、リュシアの予見どおり、敵の主力が真正面――茜軍の右翼、すなわち全軍としての中央へと集中して突入してきた。突撃の背後では、巫女たちが祈祷の舞を始めていた。高台で掲げられた白い腕、揺れる布、そしてかすかな歌声が風に乗って届く。それは、兵の士気を押し上げるための神聖な調べだった。
だが、それを迎え撃つ茜軍の布陣は、すでに整っていた。
「――前衛、構え!」
前線で指揮を執るガルナードの命令が飛ぶ。中装槍兵たちが、盾を掲げて膝を折り、槍を前へと突き出す。青銅と革の鎧に包まれたその壁は、まるで要塞のように敵を迎え撃つ構えだった。
第二線の投槍兵が、合図とともに一斉に槍を放つ。鋭い音を立てて飛んだ槍が、敵前列の軽槍兵とこん棒兵に突き刺さり、数名が倒れ込む。混乱の中でも敵は突き進んでくるが、その足は明らかに鈍っていた。
「鉄壁陣、展開!」
ガルナードの号令が響く。中装槍兵たちは瞬時に隊形を調整し、突入してきた敵兵を左右に押し返しながら密集防御を維持した。槍の森が、突き刺さる。敵の勢いが、中央で完全に止まった。
「……止まった!」
茜は司令部から戦場を見渡し、口元を引き結んだ。右翼で防衛線が安定し、王子軍の戦線でも槍兵たちが押されることなく敵を受け止めている。敵の前衛はほぼ全て拘束され、攻勢の初動はここで封じられた。
「すべての敵の勢いが止まった! ここで勝負!」
茜は銀色の羽根をあしらった矢状の指揮棒をシュメール戦車隊の方向に向け、声を張った。
「――ゴロゴロ部隊を突撃させて!」
リュシアがすぐさま号令を継ぐ。
「シュメール戦車隊、突入しなさい。目標、敵中央突破。その後は、敵の後方を蹂躙せよ!」
茜軍の右翼第二線に待機していた戦車部隊――通称「ゴロゴロ部隊」が、車輪をきしませて前進を始めた。ロバに引かれた二輪戦車が加速し、鉄板で補強された車輪が土煙を巻き上げながら突撃の速度を上げていく。
「行けっ!」
鉄が風を裂いた。
戦車は槍兵たちの密集の間を縫うようにして突入し、敵中央にそのまま突撃。盾を持たぬこん棒兵たちは吹き飛ばされ、槍兵も混乱の渦に巻き込まれていく。ついには敵前線が大きく崩れた。
「ラガシュ軍の前線、崩壊しています!」
リシュアが叫ぶ。
「いい流れね……!」
茜は風を浴びながら、叫んだ。
「完全勝利は目の前じゃない!」
戦車の車輪が悲鳴のような音を立てながら、敵陣を深く貫いた。戦車の突撃を受けた敵槍兵たちは、装備の差もあって文字通りなぎ払われ、倒れた兵の上に次の兵が重なっていく。後方の投槍兵も混乱に巻き込まれ、戦車に接近される前にすでに射撃の手を止めていた。
「戦車、巫女の高台に接近!」
伝令の叫びが上がる。
祈祷を続けていた巫女たちは、突如現れた鉄の車輪と、土煙の中から迫る戦車の群れに視線を奪われた。
数名が悲鳴を上げ、聖域とされたはずの祈祷台を離れて走り出す。祈りの舞が、断ち切られた。
「……もはや勝負は決しています」
戦況を睨みながら、リュシアが静かに呟いた。既に前衛を維持していたラガシュ側のこん棒兵や軽槍兵たちは、圧と恐怖に背を向けて走り出し、指揮系統が崩壊した投槍兵たちも、隊列を保つことすらできずに潰走を始めていた。戦場には、もはや秩序も意志も残っていなかった。
「……うちの軍、ズルいくらい強くない?」
茜がぽつりと呟いた。遠くで逃げ出す敵兵たちの姿を見ながら、戦車の轍がまだ土煙を上げ続けている。リュシアは無表情のまま、少しだけ口元を緩めた。
「やっと気づいたのですか?」
その言葉に、茜は苦笑する。
「うーん……自覚したくないけど、確かにやってることはもう信仰ごっこレベルじゃないかもね」
その時、風が吹いた。ギルスの平原の上を通り抜けたそれは、まるで“風神”ユカナの名が本当にこの地に根付き始めた証のようでもあった。
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ギルス平原に戦の音が止み、風だけが残った。先ほどまで轟いていた車輪も、今は静かに佇んでいる。土煙はまだ空に漂っていたが、勝敗は誰の目にも明らかだった。
ラガシュ軍、壊走。
巫女たちの祈祷は中断され、兵は散り、誰一人として反撃の構えを見せてはいなかった。その静寂の中、ルガルニル王子の戦車が茜の元に近づいてきた。彼は軽く手綱を引き、戦車の上から茜に向かって一礼する。
「……風神の巫女が味方で本当に良かった。貴女たちがもたらす神意を、私は信じます」
その声音には、確かな信頼と敬意が込められていた。戦場という場で、それは最も重い価値を持つ。茜は少しだけ肩をすくめ、しかし悪戯っぽく笑って返した。
「これからも、よろしく。……ユカナの神託、間違ってなかったってことで」
その名が出た瞬間、戦車の後方に腰かけていたユカナが、けだるげな声を漏らす。
「……次は、もうちょっと静かな任務がいいな……」
その言葉に、茜とリュシアは思わず顔を見合わせて微笑んだ。王子は小さく息を整え、剣を抜くと高らかに天へ掲げた。
「ルガルザゲシ王の命により、我らはこれよりラガシュに侵攻する!」
戦場に再び緊張が戻る。兵たちが槍を掲げ、軍旗が風にたなびいた。
「――進め!」
その一言が、次なる戦の扉を開けた。ギルスは制した。次は、ラガシュ――シュメールの覇権を懸けた戦いが、いよいよ始まろうとしていた。




