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102話 記憶の石と神のスタンダード

 ぺル=ラムセスに陽が沈みかける頃、神殿の空間にふたつの光が舞い戻る。淡い金の光をまといながら、茜とエンへドゥアンナが、再びアカーネ神殿の中枢に帰還したのだった。


「ふぅ……なんとか戻ってこれたね」


茜が息をついた瞬間だった。


「主、えらく遅かったですが……」


静かで冷えた声音が、神殿の柱陰から飛んできた。


「その品物を取りに行っていただけでは、ありませんよね?」


声の主はリュシア。服の裾をきっちり整え、腕を組んだまま、じっと茜を見据えていた。


「ゔっ……」


茜は思わず足を止め、顔を引きつらせた。


(やっぱり、こうなると思ったんですよね……)


と、エンへドゥアンナはそっと頭を振る。観念した茜は、軽く肩をすくめて白状した。


「えーと、実は……作戦会議室から直接、アッシリアとヒッタイトに降臨してたの。ちょっとね、顔出してきただけなんだけど」


「……やはり、そうでしたか」


リュシアは大きくため息をつくと、眉をひそめて詰め寄った。


「主は本当に無鉄砲といいますか。ヒッタイト王国は主を恩人と見ているため大事には至らなかったでしょうが、アッシリアにおいては、主によからぬ感情を持つ者が居ても不思議ではないはず。最悪、敵意ある行動を取られてもおかしくなかったと思いますよ」


「でもさリュシア、結果的に良かったんだから……ね?」


茜は苦笑混じりに言葉を返すが、リュシアの顔はなお呆れたままだ。


「とりあえずさ、アッシリアとヒッタイトの直接衝突は、しばらく回避できそうな感じにしてきたから、ヒッタイト側にも余裕ができたのよ。で、そのおかげでね――」


茜は、自信満々に続ける。


「ヒッタイト製の武器や防具、一個軍団分、私たちに売ってくれるって! 私の言ったとおりになったでしょ?」


「……たしかに主の最初の言葉どおり、一個軍団分の武器供給の話が通ったことは理解しました。交渉は私が続けて行いますが」


リュシアはそう言いながらも、腕を組んだまま少し目を伏せ、思案顔になった。


「しかし――」


言葉を切ったその口調が、少し変わる。


「主が成されたことは、ただの武装調達の成功に留まりません。結果的に、オリエントの東と西の二大国を調停し、戦力を分散させ、バランスを取った形です。つまり、主の介入により、両国は互いに睨み合うよりも、それぞれの外縁に戦力を割けるようになりました」


「ふむふむ?」


「これにより、このオリエント世界全体として、外部からの侵攻への備えに余裕ができた――とも言えましょう。……感情はともかく、戦略的には非常に有効な介入だったと認めざるを得ません」


その言葉に、茜はすっかり上機嫌になり、胸を張った。


「でしょ? 私のおかげだよ!」


と、いつもの調子で指を立てて得意げなポーズを決めた――が、次の瞬間、リュシアの鋭い視線が突き刺さる。


「すぐそのように調子に乗るのが、主の欠点です」


リュシアの一言に、茜は「ぐっ……」と小さく呻き、ぴたりとポーズを止める。勢いよく上げかけた手をおろし、気まずそうに視線をそらした。


挿絵(By みてみん)


そのやり取りを見ていたエンへドゥアンナが、肩をすくめながら柔らかく笑う。


「ですが、今回だけは茜にも調子に乗る資格がありますね。それは、今回の件で正式に中位神へと昇格されましたし、至高神テラ様からも『上位神に匹敵する働き』との評価を頂いたのですから」


「えっ……主、中位神に神格があがったのですか? そして上位神評価まで?」


リュシアの目が珍しく見開かれ、驚きの色が浮かぶ。だがすぐに、その表情は納得へと変わる。


「……主、作戦会議空間で至高神様にお会いになられたのですね。そして中位神に昇格……確かに、切欠はどうあれ、主が介入したことで、オリエント世界の大国同士の均衡が形成され、東西の戦線に安定がもたらされた。それを神の行いとするならば、昇格もまた理のうちかと」


「いやあ、それほどでも~」と茜は得意げに笑い、軽く髪をかき上げるような仕草を見せたが――


「……だからすぐ調子に乗るのです。主のそういうところが油断を招くのですよ」


ぴしゃりとリュシアの鋭いツッコミが飛び、茜はまたしてもぐっと口を噤む。


「……うぅ、なんか褒められてるのか叱られてるのか分かんないよ……」


苦笑混じりにそうこぼした茜だが、すぐに気を取り直して顔を上げた。


「まぁ、でもこれで少しは余裕もできたし、当面はエジプト王国に腰を落ち着けていられそうだよね。ラムセス王とも、もうちょっと色々一緒に楽しみたいしね」


そう言って、茜はそっと手元の荷物――作戦会議室空間から持ち帰った、スタンダードに取り付ける記念の品々に目を落とす。


「ということで、リュシア。ヒッタイトから使節団が来たら、武器や防具の交渉はお願いね。私、明日にでもちょっと王様のところに行ってくるから」


「……了解しました、主。交渉は私が引き継ぎますので、どうか王宮での過剰な振る舞いは控えめに願います」


リュシアの念押しの言葉に、茜は小さく笑いながら部屋の出口に向かった。


その背中には、昇格したばかりの中位神というより、少しだけ羽根を伸ばした令和OLの姿が重なって見えた。


****


翌朝、陽が高く昇る頃。茜は一人で、ぺル=ラムセスの壮麗な王宮へと足を運んでいた。エジプト新王国の栄華を象徴するその白亜の宮殿は、朝日に照らされて金の装飾が輝き、神殿建築の威厳を湛えている。


王宮の衛士たちに案内され、茜は謁見の間へと通される。そこには、金椅子に腰かけるラムセス王と、彼のすぐ隣に並ぶネフェルタリ王妃の姿があった。そしてその両脇には、荘厳な衣を纏ったアメン神殿の大神官たち。王国の精神的支柱たる面々が一堂に会する、やや緊張感ある場であった。


だが、茜はまるで気負いもせず、手を振って元気に声をかけた。


「やっほ、ネフェルタリもいたんだ。久しぶり!」


その親しげな口調に、王妃は微笑みながら小さく頷く。


「アカーネも元気そうで何よりです。」


そのやり取りを見ていたラムセス王は、笑みを浮かべながら声をかける。


「アカーネよ、今日は何の用だ?」


茜は手にした包みを軽く持ち上げて言った。


「この前、話してたでしょ? 私のスタンダードにつけてもらう予定の記念の品々、持ってきたの。今から渡してもいい?あと、いくつかの国の象徴については、エジプトで準備してもらえないかな?」


「もちろんだ。たしかに、そなたはそのように申していたな。それと……いくつかの国の象徴については、余が責任をもって用意させよう」


ラムセス王は力強く頷き、茜の前に歩を進める。


「それで、まずは何を持ってきたのだ?」


茜はゆっくりと包みを解き、一つずつ丁寧に品を取り出す。


「まずは、これ。」


彼女の手のひらには、淡い青緑に光るトルコ石と深紅の艶を湛えたカーネリアンが乗っていた。


「このトルコ石はね、私がシュメール時代に使ってた風の指揮棒についてたもの。いわば、私の戦いの原点。そしてこのカーネリアンは……友人、シャラドゥムの形見なの。小さな石だけど、大切な思い出なのよ」


ラムセス王の表情がわずかに変わる。手に取ったトルコ石の質感と、カーネリアンの鮮やかな輝きに、彼は時代を越えた重みを感じ取っていた。


「……そなたの原点たる戦の石と、友の記憶を刻む聖なる赤き石……これが、古の王国シュメールの遺物か」


王は神妙な顔で頷き、二つの石を自らの手で布の上に丁寧に置く。


「分かった。余が責任をもって、預かろう。必ずや、そなたのスタンダードに相応しい形で仕立てさせる」


茜は小さく笑ってうなずいた。


「ありがとう、ラムセス王」


次に、彼女は懐から、風を象った金枠の中にラピスラズリがはめ込まれた、美しいアミュレットを取り出した。


「それから、これもお願い。これはね――ルガルニル王、シュメール王国の王様だった人の形見。私の……最初の戦友だった人のものなの」


茜は、あっけらかんとした口調のまま、アミュレットを手渡そうとした。


だが――


ラムセス王はその場で一瞬、言葉を失ったように動きを止めた。時が止まったかのような静寂が、謁見の間に流れる。


「……そなたの、最初の戦友の……」


王は小さく息を呑むと、そのアミュレットを両手で受け取った。


「……余もまた、そなたの戦友であるつもりでいたが……そなたは、幾多の時代と王たちを導いてきたのだな。これは……美しい。ラピスラズリの青は、まさに風と空を宿しているな……」


言葉のひとつひとつが、胸の底から湧いてくるように、重く、そして優しい。ラムセス王は大切にアミュレットを見つめたまま、ゆっくりと頷いた。


「分かった、これも預かろう。余が責任をもって、この記念の品を、そなたの旗印に相応しいものとして仕立てる」


謁見の間には、王と神のあいだに交わされた静かな誓約が、確かに刻まれていた。


茜は次に、手の中から金色に輝く小さな指輪を取り出した。その指輪には、力強く刻まれた印章――アッシリア王国の王印がしっかりと浮かび上がっている。


「これはね、今から60年くらい前のことなんだけど……当時のアッシリアの王様から渡された指輪なの。“約定の指輪”だって言って、ちょっと強引に押しつけられちゃった感じだったけど――」


茜は苦笑しながら、指輪を手のひらで転がす。


「今思えば、これも私にとっては大切な思い出なんだよね。だから、これもスタンダードに飾ってもらいたいなって思って」


その言葉に、ラムセス王はまじまじと茜の手元を見つめ、思わず目を細めた。


「……アッシリア王の王印入りの金の指輪……そなたは本当に、時代と文明を越えて、王たちの信頼を集めてきたのだな……」


その声には驚きとともに、どこか神に対する畏敬の響きがあった。ラムセス王は茜の手からそっと指輪を受け取り、重さを確かめるように手の中で転がす。そして丁寧に布の上に置きながら、深く頷いた。


「了解した。これも責任を持って預かろう。アッシリアという強国との縁を、しかと刻ませてもらう」


茜は満足げに微笑む。


「ありがと、王様。じゃあ次は……ちょっと相談なんだけどね」


そう言って茜は、やや申し訳なさそうに言葉を続ける。


「実はヒッタイト王国って、私にとってかなり思い出深い国なんだけど……向こうの王様からスタンダード自体をもらっちゃってて、改めて“象徴になる品”ってのが、手元に無いんだよね……。王様、なにかヒッタイトらしい印を作ってもらえないかな?」


その問いかけに、ラムセス王はしばし沈思し、やがて静かに頷いた。


「……たしかに、そなたはヒッタイトにおいても神として顕現していて、カデシュの戦いの折には、余もそれに助けられたな。ならば、そなたがヒッタイトを特別に想うのも当然だ」


そう前置きした上で、王は少しだけ表情を曇らせた。


「ただし……ヒッタイトの王のスタンダードは、いわばその国の主権を象徴するもの。さすがにそのまま転用するのは、王への不敬となるかもしれん。だが……」


ここで王の声調が変わる。


「王から与えられたということは、スタンダードの一部を象徴的に引用するくらいなら問題ないはず。ならば――あの王国の象徴の一つである“金の翼”を、そなたのスタンダードの装飾に組み込むのはどうか? 翼は空を翔ける者、そして風と勝利を呼ぶ神の印としてもふさわしいであろう」


「……おおっ、それ、いいね!」


茜は目を輝かせて、大きく頷いた。


「さすがラムセス王! 太陽円盤の部分まで使っちゃうとさすがにヒッタイト王に悪い気がしてたけど、翼だけなら完璧だよ! ありがと、金の翼、お願いね!」


ラムセス王も満足げに微笑む。


「よかろう。ではヒッタイトの金の翼は、我が工房にて厳かに仕立てよう」


茜はふぅと一息つくと、再び王へと視線を向ける。


「あとね……ミタンニ王国と、バビロニア王国の印もまだ決まってないの。王様、悪いけど、そっちもお願いしていい?」


ラムセス王は躊躇なく頷いた。


「もちろんだ、アカーネよ。余が責任をもって、両国の象徴となる意匠を整えよう。ミタンニの風を刻む緑の石、そしてバビロニアの知恵と星の印象を持つ赤と金――そなたにふさわしいものを用意させる」


その威厳ある宣言に、謁見の間の空気が少しだけ柔らかくなる。


ネフェルタリ王妃もそっと微笑を浮かべながら、「アカーネの記憶の旅は、まるで星々の光を編んでいくようですね」と小声で呟いた。そして茜は、スタンダードに刻まれるその“記憶”の重みを改めて感じながら、小さく「ありがとう」と礼を述べたのだった。


「これで全部か、アカーネよ?」


ラムセス王が改まった口調で尋ねたとき、茜はなぜか少しだけ目を伏せた。そして、しばしの沈黙の後に、言葉を探すように口を開く。


「……それがね、実はもうひとつだけあるんだ。でも……うーん、どうしようかな。これは、私が“神様の仕事”を始めた最初に受け取った、大事な……すごく神聖なものなんだよね」


そう呟くように言いながら、茜はゆっくりと懐へと手を伸ばした。


静寂に包まれる王の謁見の間。茜の指が触れたそれを取り出した瞬間――


場の空気が一変した。


彼女の手の中にあったのは、拳大にも及ぶ深い青のラピスラズリの石。まるで夜空を閉じ込めたような瑠璃色の光に、金色の星粒のような輝きが沈んでいる。それはただの装飾品ではなかった。石自体が静かに、しかし確かに“語って”いた。遥かなる神聖な歴史と、崇敬の念を――。


「……ア、アカーネ様……これは……」


アメン神殿の大神官が、まるで息を詰まらせたように呻き、椅子からわずかに身を乗り出す。その顔は蒼白に近く、目は驚愕と畏怖に見開かれていた。茜は少しだけ申し訳なさそうに、しかしどこか誇らしげに語り出す。


「これはね、アラッタ王国というシュメール時代の、とある王国に伝わる“聖石”なんだ。あの時代、あの王国で、私がその王国の信仰を保障する代わりに受け取った――そういう約定の証だよ」


その言葉が、謁見の間に深く染み込んだとき、今度は王妃ネフェルタリが静かに立ち上がった。そして、そっと歩み寄りながら、信じられないものを見るようにその聖石を見つめた。


「アカーネ……いえ、アカーネ様……」


その口調は、もはや人間が神を呼ぶ時のそれであった。


「私はこれまで様々なラピスラズリを見てまいりました。エジプトの王家に献上されたもの、カナンの商人が携えてきたもの……けれど、これほどまでに――“神聖”という言葉が相応しい石は、今まで一度も見たことがありません」


その声は震えていた。それは恐れではなく、ただただ心の奥に届く、敬虔さによる震えだった。謁見の間の空気が、静かに、だが確実に張り詰めていく。そして、誰もがその石の前で沈黙していたとき――ラムセス王が、重々しく口を開いた。


「……余はファラオであるが、このような聖なる石を、一時的とはいえ余のもとに預かること……これは正直に申して、恐怖を覚えるほどだ」


王の声には、決して虚勢ではない重みがあった。


「だが、ファラオは王であると同時に、神と契約を交わす者……約束を違えることはできぬ。アカーネよ。余がこの聖石を、全責任をもって預かろう。そして、必ずそなたのスタンダードに取り付け、必ずそなたに戻すことを、ここに誓おう」


その言葉に、王の周囲に居並ぶ廷臣や神官たちも、一斉に頭を垂れる。まるで、聖石の前に自らの誓いを示すかのように。茜は静かに笑って、そっと頭を振った。


「そんなに大げさにしなくても、王様のことはちゃんと信じてるよ?」


その軽やかな一言が、張り詰めていた空気をほんの少し和らげた。ラムセス王も、肩の力を抜いたように小さく息を吐き、微笑を浮かべた。


「……そうか。しかし……これは……スタンダードに装着する職人たちも、きっと極度の緊張に晒されるであろうな……」


王の言葉に、謁見の間に小さな笑いが生まれた。だがその笑いの底にも、揺るがぬ敬意が流れていた。そしてアラッタの聖石という時代の記憶がひとたび布に包まれ、王の手元に収められると、その場の空気は少しずつ、現実の時間へと戻り始めた。


「それにしても、あの石……まるで夜空の神話が閉じ込められているようでしたね」


と、ネフェルタリ王妃が柔らかに語りかける。

その声音には、まだどこか夢を見ているかのような甘さが残っていた。


「ねぇ、アカーネ。また近いうちに、王宮の外に出かけませんか? この前の市場巡り、楽しかったですし」


「あっ、それいいね! 私もそろそろまた、あの串焼き屋さん行きたくなってたところ!」


茜はぱっと笑顔を弾けさせると、王妃の袖を少しだけ引いた。先ほどまで神々の誓いが交わされていた場所で交わされる、他愛もない女性同士の会話。けれどその時間こそ、茜にとっては何より貴重な日常だった。それを見ていたラムセス王も、どこか微笑ましげに目を細めた。


「アカーネよ、そなたの遺物の数々……余が責任をもって、最も信頼できる職人たちに託そう。すべては慎重に、そして心を込めてスタンダードに組み込ませる。完成の折には、必ずそなたに報せよう」


王の厳かな口調に、茜はにこりと笑いながら、胸の前で軽く手を合わせた。


「うん、ありがとう王様。楽しみにしてるからね! どんなふうに仕上がるか、今からすごくワクワクしてるんだよ」


すでに足元には、陽が傾きかけている。王宮の回廊を照らす金色の光が、茜の輪郭を優しく縁取っていた。


「それじゃあ、私はこれで戻るね。ネフェルタリも、また誘ってね?」


「ええ、必ず。また近いうちに、アカーネ」


茜は軽く手を振ると、静かに王宮の階段を下りていく。そして、その姿を見送る者たちの胸には、彼女という“風の神”が遺していく軌跡が、いつまでも静かに刻まれていた。王宮での謁見を終え、茜はゆるやかな夕暮れの風に吹かれながら、神殿への帰路をたどっていた。ぺル=ラムセスの街路は、陽が傾くにつれて琥珀色の光に包まれ、祭壇の煙や市の喧騒も、どこか柔らかく溶け込んでいくように感じられた。


その時だった。神殿近くの街角を曲がったところで、ひとりの男が静かに立っていた。簡素な衣をまとい、落ち着いた眼差しを湛えた彼の姿に、茜の表情がぱっと明るくなる。


「あれ、モーゼ? 最近神殿で見かけなかったけど……久しぶり! 元気だった?」


茜の気さくな声に、モーゼは驚いたように目を見開く。


「アカーネ様……お久しぶりです。はい、私は元気にしております。貴方もお変わりないようで、何よりです」


「うん、まぁね。ちょっと最近色々あったけど、ようやく一段落ついてさ。――そうそう、ちょうど良かった」


茜は足を止め、少し身を乗り出して言う。


「モーゼ、もし良ければ、あなたを“約束の地”に案内してあげようか?」


その一言に、モーゼの表情がわずかに揺れた。驚きと、戸惑いと、そして胸の奥に押し込めていた祈りのような何かが、ふっと顔を覗かせる。


「アカーネ様……それは……とても光栄なお申し出ですが……」


モーゼは言葉を選びながら、慎重に口を開いた。


「我らヘブライの民も、このぺル=ラムセスの都では、今やそれなりに穏やかな生活を送れるようになっております。これはひとえに、アカーネ神殿のお力添えのおかげと、深く感謝しております」


「別に普通の事やってただけだから、あまり気にしないでいいよ」


茜は遮らず、ただ穏やかに頷く。


「ですが我らには、我らの神が居りますゆえ、貴方を神として祀ることはできません……それでも、恩義ある存在として敬意を抱いております。――“約束の地”への想いも、私たちの心から消えたわけではありません。ただ……今の生活に慣れてしまった者も多く、すぐに出立できる状況でもなく……」


その言葉に、茜はふっと笑みを浮かべる。


「別に、今すぐ移住しろって話じゃないよ。私はただ、あなた自身が“約束の地”の場所を知っておくことが大事だと思ってるの。あなたが自分の目で見ておけば、将来その地を目指す時に、皆をちゃんと導けるでしょ?」


モーゼの目に、一瞬光が差した。


「つまり、今回は……見に行く、という形で?」


「うん、そんな感じ。だから、今回は少人数で行こう。大人数での移動なんて無理だし、疲れるし。10人前後までの同行者で十分だと思うよ」


茜の軽い口調に、モーゼは少しだけ肩の力を抜き、深く頭を下げた。


「ありがとうございます、アカーネ様。たしかに……今のうちに私が“約束の地”を知っておくことが、我が民の未来のためになるかもしれません。では、10名ほどの仲間に声をかけ、準備いたします」


「うん、それじゃ――1週間後、ぺル=ラムセスの正門前に集合ってことで!」


茜が指を立てて明るく告げると、モーゼは厳粛に頷く。


「かしこまりました。1週間後、正門にてお待ちしております。……アカーネ様、本当に、感謝いたします」


その言葉を最後に、モーゼは静かに背を向け、夕陽に染まる街路の中へと姿を消していった。茜は、その背を見送りながら、心のなかで小さく呟いた。


「この人数なら、“出エジプト記”は回避だよね?」


冗談めかして笑いながら、茜もまた神殿へと歩を進めていった。


****


夜のぺル=ラムセスは、昼の喧騒が嘘のように静まり返り、王都の灯りも次第に揺らぎへと変わっていた。


アカーネ神殿の一角、淡い燭光に照らされた中庭で、茜たちは簡素な夕餉を囲んでいた。パンに干し果実、ヤギ乳のチーズ、そして王宮からの差し入れと思しき上等なワイン――その穏やかな時間のなか、茜は気負いもなく、先ほどの“ある出会い”を口にした。


「でさ、今日モーゼに偶然会ったんだよね」


それだけで、場の空気がぴりっと引き締まった。


「そういえば、最近あまり神殿では見かけていませんでしたね」


リュシアが箸を止め、慎重な声で確認した。


「うん。最近神殿でも見かけなかったけど、街のほうにいたらしいね。――で、ちょっと誘ってみたんだ。1週間後に約束の地を見に行ってみない?って」


「……1週間後、ですか? 主」


静かに目を閉じたリュシアは、次の瞬間にはお約束の台詞を吐いていた。


「主は本当に、油壺を抱えて火に飛び込むのが……お好きですね」


「やっぱそう見える?」


茜はにやにやと悪戯っぽく笑いながら、果実をつまんだ。その様子にユカナがそっと首をかしげる。


「茜…本当に大丈夫? 今は良くても、後で何か大きなことになるんじゃないかな……」


曖昧に言葉を濁す彼女の背後から、ずいとミラナが入り込む。


「後で? というか、どう見ても、これ後の時代でキリスト教と派手に対立するフラグしか立ってないじゃない。……まぁ、アカーネがやるなら、面白くなりそうだし。私は肯定派」


無責任にグラスを傾けるその姿に、茜は半目で睨みつけた。


「こら残念神、本当に私に感謝してる? それと、あんたに頼んだこの神殿での信者への対応、ちゃんとやってる?」


「そこは任せて!私への信仰も拡がってるし」


「……はぁー。もういいや」


肩をすくめた茜は、ちらりと周囲を見渡し、話題を戻す。


「ともかく、今回は“出エジプト記”にならないように、少人数。10人前後って決めたし、モーゼにもちゃんと伝えたからね?」


「主、それは“火の粉は立たない程度に放つ”という意味ですよね? どちらにしても、将来には大きな影響を及ぼす行動だと思いますが……」


リュシアの声は、いつも以上に真剣だった。


「主の戦いは、連続的な世界の中で行われているのです。ここで起こした小さな揺らぎが、何百年も先の歴史にどう繋がるか――分かりませんよ」


「まぁまぁ、リュシア。そんなこと言ってたら、何にもできないでしょ? 思い出作りも、人生の一部だよ」


茜はあっけらかんと笑い、ワインを一口含んだ。


「それにね、ずっとやってみたかったんだ。映画でよくあるじゃん? 杖を海に向けて“われよ!”ってやつ。あれ、きっと現実は、ただの干潮タイミングだったんだろうけど……でも、ちょっとその現場に立ってみたいと思わない?」


「……呆れてものが言えません」


リュシアは心底疲れた表情で頭を抱えた。一方、黙って聞いていたエンへドゥアンナは、そっと手を上げた。


「茜、私も同行しますが、よろしいですね?」


「うん、あんたは絶対ついてくると思ってた。いいけどさ、1週間後までに神殿の制度整備、ちゃんとやっておいてね?」


「そちらは任せてください、茜」


やり取りを見ていたユカナは、ぽつりと小さく呟く。


「これ……絶対にヤバいやつだよね……」


その言葉に皆が苦笑をこぼしながら、夜の空気はゆるやかにまた静けさを取り戻していった。

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