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100話 ヒッタイト再編、ミケーネに備えて

神界の作戦会議室。その静寂は、あらゆる時代を見下ろす高みにある空間ならではのものであった。先刻までアッシリア王国の神殿に降り立っていた茜とエンへドゥアンナの姿が、ゆるやかな光と共に戻ってくる。


「さて…次はヒッタイト、だね」


茜は言いながら、会議卓の一角に置かれた一振りのスタンダードに目を向けた。黄金の棒の先には、黄金の太陽円盤と三叉槍が取り付けられている。それはかつて、ヒッタイト王スッピルリウマ一世が自らの名において茜に託した、神と王の誓約の証。隣に立つエンへドゥアンナが、腕を組んで問いかける。


「茜、次はヒッタイトへ…ですか? また、王の前に直接?」


その口調には、少しだけ呆れと興味が混じっている。アッシリアの神殿に現れたときと同様、神の降臨は政治的にも宗教的にも大騒ぎを招く――そのことを、シュメールの王妃である彼女は重々承知していた。だが、茜は軽く肩をすくめて笑う。


「ムワタリ王とは、もう顔見知りだし。ほら、カデシュの戦いの時にちょっとね。だから話が早いと思うんだよ。面倒な儀礼とかもいらないし、直接行っちゃった方が楽かなって」


エンへドゥアンナは、やれやれといった表情を浮かべるが、やがて静かに頷いた。


「確かに…顔を知っているというのは、神話でも重要な縁ですね。納得です」


茜は頷きながら、スッピルリウマ王のスタンダードへと手を伸ばす。


「じゃあ――行こっか」


その金属装飾が神光を受けて輝いたのと同時に、会議室の床に組み込まれた転送陣が淡く光を放ち始める。幾重にも重なる光の輪が二人を包み、時間も空間も捨て去るようにして、その場から姿を消した。その行き先は――かつて訪れた、ヒッタイト王国の王都ハットゥシャ。


****


ハットゥシャの王宮。広間では、ムワタリ王と将軍たちが周囲の地図を囲み、王国の防衛線や補給路について真剣な議論を交わしていた。王の額には汗がにじみ、将軍たちの表情も固い。エジプトとの和平が成立したとはいえ、アッシリアの動向やミケーネ方面の不穏な気配が、彼らの心に重くのしかかっていた。


そのときだった。


突然、広間の中央にまばゆい光が走った。誰もが声を失い、武器に手を伸ばす将軍すらいた。だが、次の瞬間――光が静かに収まると、そこには二つの影が浮かび上がっていた。ひとつは、青と金に彩られた神装束を纏い、手にはスッピルリウマ王のスタンダードを掲げた女性。もうひとつは、気品ある身のこなしで静かに佇む、神秘的な女性。どちらも、この世界の存在とは思えぬ威容と気配をまとっていた。


挿絵(By みてみん)


ムワタリ王は、その姿を一目見るなり、息を呑んだ。


「……アカーネ様!」


王は即座に膝をつき、地に頭を垂れた。将軍たちも驚きの声をあげながら次々と従い、膝を折った。王たる者が最初に跪いたことで、軍議の場は一瞬にして神殿のような荘厳な空気へと変わった。茜はその光景に、ほんのわずか目を細めたあと、苦笑しながら言った。


「王様、そんなに堅苦しくしないで。ちょっと用事があって来ただけなんだし、そんなに畏まられると逆に落ち着かないよ」


だが、ムワタリ王はすぐには顔を上げなかった。そのまま深く頭を下げたまま、敬意のこもった声で応じた。


「アカーネ様の御力により、我がヒッタイトは大きな転機を得ました。カデシュの地で戦乱が収まり、エジプトとの和が結ばれた今、我が国に訪れている平穏と繁栄は、まさに神の恩寵にほかなりません。この恩、決して忘れてはおりませぬ」


「そっか…なら、来てよかったかな」


茜はほんのりと笑みを浮かべ、スッピルリウマ王のスタンダードを軽く掲げた。


「じゃあ、王様。ちょっとだけ話、聞いてもらってもいいかな? 今回もちょっとだけ重要な話なの」


ムワタリ王の言葉に応じて、将軍たちが静かに立ち上がる。茜も王と同じように姿勢を正しながら、広間を改めて見渡した。


「……あれ? ここ、軍議の真っ最中だった?」


彼女が首を傾げて尋ねると、将軍たちの間に小さなざわめきが起こる。

茜は少し肩をすくめて照れ笑いを浮かべる。


「そっか、ごめんね。ちょうどタイミング良かったかなーって思ったけど、邪魔しちゃった感じ?」


その気楽な言葉に、さすがに隣のエンへドゥアンナが軽くため息をついて諫めた。


「茜。少しは空気を読んでください。こういう時は、別室での面会が礼儀というものです」


だが、王はすぐにその申し出を手で制した。


「いえ、それには及びません」


ムワタリ王は毅然とした声で言い放つ。


「我らはまさに、ヒッタイトの進むべき道を議していたところ。そこにアカーネ様が降臨されたのは、神意の導きとしか思えませぬ。ぜひとも、この場にてお力添えをいただければと存じます」


「そう言ってもらえると、助かるな」


茜は王の手招きに応じて進み出ると、将軍たちが囲む円卓の中心に目をやった。そこには、ヒッタイトを中心としたオリエント世界の地図が広げられており、各地に兵の駒が立てられている。


「これ……ヒッタイトの現在の軍配置図、だよね?」


茜が指差すと、重装の将軍が頷いて答えた。


「左様にございます、アカーネ様。我が軍は現在、対アッシリア方面――すなわち東方国境に主力を配置しております。さらにカルケミシュには、ハットゥシリ王弟殿下が率いる予備軍を駐留させており、いざという時には即応できる体制を整えております」


茜は目を細め、カルケミシュから東方へと伸びるラインを視線で追いながら頷く。


「なるほどね……対ミケーネの西部防衛は?」


別の将軍が進み出て答える。


「そちらも布陣済みにございます。エジプトとの和平が成立したことで、南部方面からの軍を西方に回す余裕が生まれました。アカーネ様の御導きのおかげで、西方防衛の厚みを持たせることができました」


「うん、それは良かった。エジプト戦線が落ち着いた今、ヒッタイトにとって一番の懸念はアッシリアとミケーネだもんね」


茜は腕を組みながら、静かに地図の東側を見つめる。広間の中央では、再び静寂が戻っていた。茜は卓上の地図を見つめ、しばし黙考したのち、軽く息を吐いた。


「王様。もしアッシリアがヒッタイトに向かわないとしたら――この東部国境の主力、少しは西に回せる?」


その提案に、将軍たちはざわめいた。ムワタリ王も目を細め、慎重に言葉を選びながら答える。


「……それはたしかに理屈としては成り立ちます。だが、アッシリアが本当に動かぬという保証があればの話です。今のままでは、その判断は危険にも思えますが――」


その言葉を遮るように、茜が小さく笑った。


「うん、それね。実は――さっきまでアッシリアに行ってきたんだよね、私」


一瞬、空気が凍りついた。将軍たちは互いに顔を見合わせ、王までもが思わず立ち上がる。


「な、なんと……アカーネ様、今……アッシリアに、直接?」


「そう。ニネヴェのイシュタル神殿で、シャルマネセル王と話をしてきたの。条件付きではあるけど、アッシリアはヒッタイトではなく、バビロニアに向かい東方を完全に安定させることに同意してもらったの」


「……!」


広間に再びざわめきが走る。信じ難い報せに、誰もが息を呑んだ。ムワタリ王は驚愕と慎重さをないまぜにした表情で問う。


「アカーネ様、それは誠にございますか? いや、決してアカーネ様の御言葉を疑うわけではありません。ただ、あまりにも……あまりにも大きな話ゆえに……」


茜は少しだけ苦笑すると、懐から金色に輝く腕輪を取り出した。それは二重環の構造をもち、表面にはアッシリア王家の印章が刻まれている。


「これ。シャルマネセル王からもらった“約定の印”。王家の刻印入り。……さすがに、これを渡しておいて約束破ったら、いくらアッシリアの王様といっても神々に顔向けできないでしょ?」


金環が光を受けて淡く輝く。その瞬間、ムワタリ王の顔色が変わった。


「それは……アッシリアの王が使う金製の二重環……たしかに王印が刻まれている……。なるほど、アカーネ様との約定が結ばれた証に相違ありません。アッシリアがバビロニアへ向かう……と」


「うん。ただし条件付き。――“ヒッタイトの対アッシリア圧力を下げてほしい”って言われてる。今のヒッタイト軍の東部集中は、あの国にとっても相当な脅威なんだって」


将軍の一人が一歩進み出る。


「アカーネ様。東方の軍を下げることは確かに可能ですが……もしアッシリアがバビロニアを滅ぼせば、我らはより強大な敵と向き合うことになりましょう。それでも、引くべきと?」


茜は頷き、ゆっくりと地図の上に指を滑らせた。


「そうね。その通り。でも――今のヒッタイトには別の脅威が迫ってる。最近、ミケーネ方面の動き、激しくなってるでしょ? ヒッタイトは“オリエント世界の西の盾”。防壁としての役割を担ってる。だから、今はそっちを厚くするのが先決なのよ」


茜の指先が、地図上の西方沿岸部に留まる。


「アッシリアにはもう伝えてある。あの国がオリエントの覇権を担うためにヒッタイトと雌雄を決するなら、その時はアッシリアがオリエン世界の西の盾の役割を担う事……それが、今回の約定」


ムワタリ王は静かに目を閉じた。


「……アカーネ様のお言葉を聞く限り、我が国が“オリエントの西の盾”としての責を果たす限り、アッシリアは簡単には侵攻してこない……と。つまり、我らが滅ぶ時こそ、アッシリアがその責務を継ぐ時、というわけですな」


茜は軽く笑ってうなずく。


「そういうこと。だから、無理に東で睨み合っても消耗するだけ。今は、ミケーネのアカイア人からの侵攻に備えて再配置した方がいいと思う」


一瞬の沈黙ののち、王は深く息を吸い込み、まっすぐに茜を見た。


「……アカーネ様。私は、以前カデシュであなたの言葉に従いました。その結果、我が国は戦を終え、エジプトとの和を得た。今、再びあなたが我らの前に立たれたということは――再び、我らが岐路にあるということなのでしょう。……分かりました。アカーネ様の導きに従いましょう」


その言葉に、将軍たちは一斉に敬礼した。そして茜は、その姿を見ながら、ほっと微笑む。


「それでいいと思うよ、王様。……多分、そう遠くないうちに西から“大きな波”が来るから。それに備えてね」


ムワタリ王は厳かに頷いた。


「承知しました。西方に軍を展開し、来るべきミケーネのアカイア人達からの侵攻に備えましょう。……アカーネ様、再び我が国をお導きくださったこと、心より感謝申し上げます」


軍議の緊張がひと段落した空気の中で、エンへドゥアンナがふと茜に問いかけた。


「茜? そこまで断言して大丈夫なのですか? “ミケーネからの大侵攻がある”と、あれほど明言してしまって……。確実な根拠でもあるのですか?」


その声は穏やかだが、彼女なりの知性と責任感に裏打ちされた懸念がにじんでいた。茜はオリエント世界の地図から視線を外し、ちらりと横目でエンへドゥアンナを見る。


「……うん。たしかに、絶対にあるって言い切れるわけじゃないよ。けど――」


と、そこまで言ったところで、ふっと顔をゆるめ、半ば独り言のように続けた。


「私が知ってる限りだとね、この時代のあたりに、ヒッタイトの従属国家――イリオス…たしかヒッタイトではウィルサと呼んでいる筈だけど…そこに、大規模なミケーネ方面からの侵攻があるって話が残ってるんだよ」


「イリオス……?ですか?」


「うん。そのイリオスが、ミケーネを盟主とするアカイア諸王同盟軍に包囲されて、長い戦争の末に滅ぼされるって伝えられてる」


茜はそこで言葉を区切ると、天井の見えない高みに目を向けた。どこか遠くを眺めるように。


「でも、それが残ってるのは“歴史書”じゃなくて、“叙事詩”なんだよね。つまり、伝説の枠にあるってこと。――“イーリアス”って叙事詩にね」


エンへドゥアンナはゆっくりと目を細めた。古代シュメールの王家にして詩人でもあった彼女には、その言葉が意味するものをすぐに理解できた。


「……なるほど。茜は、神々と人々の物語を、“これから記されるであろう詩”として知っているのですね」


「いやいや、だから私は神じゃないってば。知識がちょっと未来寄りなだけで……」


茜が慌てて否定すると、エンへドゥアンナは淡く微笑む。


「あなたがそう言っても、神とは“時に生まれ、時に忘れられ、時に再び語られる”もの。茜が過去にいて、未来を語るなら、それだけで充分に神性です」


「……なんか、うまく言いくるめられた気がするなあ……」


ぼやくように言いながらも、茜の表情はどこか覚悟を帯びていた。


「とにかく――イリオス、私がよく知っている名前だと“トロイ”が陥落するかもしれないって話は、今のヒッタイトにとって現実的な脅威。西側が崩れると、オリエント全体にミケーネからの侵攻の波が来るかもしれない。だから“盾”としてのヒッタイトの役割が、今、本当に大事になるんだよ」


エンへドゥアンナは静かに頷いた。そしてその言葉を聞いていたムワタリ王も頷く。


「アカーネ様の予言、しかと受け取りました。また、これまであまりそのような事を考えてこなかったのですが、オリエント世界を守る西方の盾として、我が国はその任を果たしましょう」


茜はスタンダードの先を軽く握り直し、再びオリエント世界の地図に目を落とした。


「いや…予言って訳じゃないんだけどね。とにかく、王様よろしくね。西からオリエント世界に風が吹き始めるわ。だから今のうちに、壁を厚くしておいてね」


ヒッタイトが西方へ主力を展開する方針が固まったことで、軍議の空気にはやや安堵の色が広がっていた。将軍たちの間にも、現状に即した戦略転換がなされたことへの満足と、茜から得た予言への信頼が滲んでいる。


その様子を眺めながら、茜はふと思い出したように声を上げた。


「王様?実は――今、私、エジプトに居候してるんだけどね。ファラオにお願いして、私の名前を冠した軍を編成してるの」


その言葉に、将軍たちの間に驚きが走った。


「…それは、なんとも名誉な話でございますね……」


と老将が呟いたのを皮切りに、ムワタリ王が問い返す。


「アカーネ様、その軍とは、エジプト軍とはまったく違う編成になるのでしょうか?」


「うん。ナイル上流地域の部族戦士を集めてるんだけど、まだ武装が全然足りなくてね。それで――もしヒッタイトに余剰の武器や防具があるなら、譲ってもらえないかな?」


王と将軍たちは顔を見合わせたのち、王が応じる。


「アカーネ様のご助力で、我が軍の配置に余裕ができました。一個軍程度の装備を融通する余地はございます。ただ……本当に、我が国の装備でよろしいのですか?エジプトの軍は軽装が主流。我が軍の装備とは思想が異なりますが……」


茜は力強く頷く。


「ラムセス王からは、この軍の編成や方針は私に一任されてるから問題ないよ。今後の敵――ミケーネ方面のアカイア人達による侵攻に対抗するには、素早さより防衛線の安定性が重要になると思ってるの。そうなると、ヒッタイト式の歩兵装備の方がずっと適してるからね」


将軍の一人が頷きながらつぶやいた。


「なるほど……アカーネ様の軍が我が国の装備を採用するというのは、我が国にとっても誇りですな。」


ムワタリ王も続けた。


「エジプト王国が同盟国である以上、共に戦う日が来るやもしれません。そのときに備え、装備思想の共有がなされることは、国家戦略上も極めて有意義……。アカーネ様、お任せください。我が国が用意いたしましょう」


「ありがとう。でも――」


と、茜は言葉を切ってから、何気なく続けた。


「ちゃんとその対価は払うから安心して……それに、もし手持ちが足りなかったら、その時はスッピルリウマ王から預かってたこのスタンダード、ヒッタイトに返してもいいからさ」


その一言が、宮殿の空気を一瞬で凍らせた。


将軍たちは息を呑み、エンへドゥアンナが眉を寄せて茜を横目で睨む。


「……茜。あなた、自分が今、何を口にしたのか分かっていますか?」


「え?……え、いや、その、スッピルリウマ王のスタンダードって大事なのは分かってるけど、対価が足りなかったら、それで払うしかないでしょ……」


そのとき、ムワタリ王が静かに膝をついた。顔を伏せ、その声は真摯にして震えていた。


「アカーネ様……それは約定の破棄を意味します。そのスタンダードは、偉大なる祖父スッピルリウマ大王が、貴方に差し上げた、我が国との永き友誼の証。どうか――どうか、祖父との約定を終わらせないでいただきたいのです」


その姿に、茜はようやく自分の失言の重大さに気づいた。目を見開き、慌てて手を振る。


「あっ、ああ、王様、ごめん! そんなつもりじゃなかったんだって。スタンダードを返すっていうのは、単に物理的な代償って意味で……うん、たしかに軽率だった。ちゃんと支払いはするよ、銀でも金でも…ただ、ちょっとまけてもらえると嬉しいかな…」


エンへドゥアンナが小さく息を吐きながら、ぼやくように言う。


「神が“まけてくれるとうれしい”はないでしょう、茜……」


だがムワタリ王は安堵の表情を浮かべ、立ち上がった。


「アカーネ様のご意志、しかと受け取りました。であれば、我が国としては正式な取引とし、軍備一式を用意いたします。対価については、誠意をもって応じましょう」


茜は笑って頷く。


「ありがとう。それなら私の仲間と後で交渉してくれるかな。そのときはよろしくね」


こうして一触即発にもなりかけた神と王国とのやり取りは、無事に収束した。軍議の場に静けさが戻ると、茜はふっと息をつき、ムワタリ王へと向き直った。


「王様、とりあえず今回の目的は全部果たせたから、私は一度エジプトに戻ろうと思ってるの。アッシリアとの話も伝えたし、武器の件も交渉成立。だから、これ以上長居しても迷惑になっちゃうでしょ?それに、近いうちにまたここに来るからさ」


その言葉にムワタリ王は寂しげな表情を浮かべた。


「アカーネ様……もうお戻りになられるのですか? せめて今宵は我が国にとどまっていただき、正式に歓待をお受けいただければと願っていたのですが……」


茜は苦笑いを浮かべ、首を軽く振った。


「気持ちは嬉しいよ、王様。でも、今は本当に時間がないの。こっちにも色々と事情があってね……それに、さっきも言った通り、たぶん近いうちにまたヒッタイトには来ることになると思うんだ。だからその時に、あらためて盛大に歓迎してくれると嬉しいな」


そして、茶目っ気のある笑みを浮かべながら、付け加える。


「次に来た時は、美味しい料理とか用意しておいてね? あ、あとできればヒッタイト名物の串焼き肉に蜂蜜やオリーブオイルをかけた料理もお願い」


ムワタリ王は一瞬目を瞬かせ、すぐに破顔した。


「ははっ、かしこまりました。アカーネ様。次にお越しの際には、我が王国の威信をかけて、最上の料理ともてなしをご用意いたします。どうか、それまでご健勝で」


王と将軍たちが一礼する中、茜はエンへドゥアンナに小さく頷き、足元の転移陣の中央へと進んだ。金属の床に刻まれた環状の紋様が静かに光を帯び、淡く、しかし確かに二人を包み込んでゆく。


「それじゃ、またね。王様も元気でね」


手を軽く振る茜の姿は、光の渦に飲まれ、やがて完全にその場から消えていった。ヒッタイト王ムワタリ二世はしばし沈黙した。光の残滓が床から消え去ったのを確認すると、深く一礼し、ゆっくりと顔を上げる。


「――アカーネ様は戻られた。だが、我らに託されたのは、決して軽い言葉ではない」


その声に、将軍たちは一斉に姿勢を正す。ムワタリ王の眼差しは力強く、静かな決意に満ちていた。


「この場において、アカーネ様は我が祖父スッピルリウマ王との盟約を変わらず重んじ、我が国に再び道を示された。であれば、我らも応えねばならぬ。全軍に告げよ。アッシリア国境に展開していた主力部隊を、段階的に西部国境へ再配置せよ。ミケーネのアカイア人達からの侵攻に備え、我が国の西を守るのだ」


将軍たちはその命を受け、神託を受けた者のように静かに、しかし確かな決意で頷いた。


「また、カルケミシュに駐留している我が弟、ハットゥシリには、王都へ軍を伴って帰還するように命じよ。今後の中央軍の再編に向け、直ちに準備を開始する」


「はっ!」


鋭く返された答礼の後、将軍たちは一礼し、次なる命を果たすべくその場を去っていった。武官たちが退出した後、ムワタリ王は残っていた行政官へと視線を向ける。


「次だ。アカーネ様が仰っていた通り、我が国の武装を一個軍分、エジプト王国へ送る手配を行え。そして、それに必要な外交交渉のため、王族あるいは高官の中から信頼のおける者を選び、至急エジプト王国の首都――ぺル=ラムセスへ向かわせよ」


行政官は深く頷き、「畏まりました」と声を上げかけたそのとき、王は声を低めて付け加えた。


「ただし――よく聞け。アカーネ様は銀や金での対価を支払うと仰っていた。だが、決してそれを全面的に受け取ってはならぬ。あくまで“象徴的な形”にとどめよ」


行政官は困惑の色を浮かべつつも、躊躇いながら問うた。


「王よ、アカーネ様は確かに、正当なる対価を支払うと……。それを受け取らぬとなれば、かえってご不快を招くのでは……」


ムワタリ王の表情に、わずかに苦笑が浮かんだ。


「だからこそ“象徴的”にするのだ。我らが過剰な恩恵を求めぬことを示すために。アカーネ様はエジプト王と交渉し、我が国とエジプト王国の友好を取り持ってくださった。今こそ、その絆を形にする時。アカーネ様の名を冠した軍に、我らの武装が使われる――それこそが最大の外交的示威であり、我らの矜持なのだ」


しばしの沈黙の後、行政官は深く頭を垂れた。


「……王の御意、深く理解いたしました。浅慮な発言、誠に申し訳ございません。武装の輸送と使節団の派遣、直ちに取りかかります」


「うむ、頼んだぞ」


軍議の間はすでに静まり返り、重厚な扉の外には、将軍や行政官たちの足音も遠ざかっていった。残されたのはただ一人、ヒッタイト王ムワタリ二世。かすかに揺れる油灯の光が、深く沈思するその表情を照らしている。王はゆっくりと歩みを進め、まだ地図と文書が散らばる軍議卓の前に立つ。しばらくその場に立ち尽くし、ふと息を吐くと、静かに言葉を漏らした。


「アカーネ様は……我らヒッタイトのみならず、エジプト王国にも、そしてアッシリアにさえ直接降臨され、各々に応じた道を示しておられる……」


その声音には、神への畏敬と、人としての感嘆がないまぜとなって響いていた。


「我が国がカデシュで全面的にエジプト王国と戦わず和を結べたのも、そして今こうして西方の脅威に備えられるのも、すべてはアカーネ様の導きによるもの……」


ムワタリ王は静かにため息をつく。


「偉大なる祖父は……見通していたのだな」


小さく、しかし確かにその声が響く。


「アカーネ様との約定は、ヒッタイトという国の枠を超えた……。もはやそれは、オリエント世界の平和と秩序を守るための、我らの文明との盟約と言ってもよい」


言葉を重ねるたびに、ムワタリ王の瞳には揺るぎない光が宿っていく。かつて祖父スッピルリウマが、神と向き合い、神と並び立ち、そして神を信じたように――自らもまた、その道を歩もうとする覚悟が、確かにそこにあった。


「アカーネ様。貴女は我らの守護であると同時に、我が祖父の友であった。そのご縁を我らもまた継ぎ、今後のヒッタイト王国は、貴女が望む秩序と平和の一柱として、歩みを進めてまいりましょう」


一歩、また一歩、王は軍議の間をゆっくりと歩きながら、その決意を胸に深く刻み込んでいった。

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