99話 神と王、約定の再会――アッシリア王国に降る変革の光
ぺル=ラムセスの郊外――陽光の下、乾いた砂を踏みしめながら、約1500名のヌビアとクシュの戦士たちが掛け声を上げていた。日ごとに規模を増していくその訓練場では、アカーネの名を冠する新たな軍団――第五軍団の編成と基礎訓練が始まっていた。編成と統括には、バトラー将軍、ガルナード、アルタイという歴戦の三人が並び立ち、茜から託された新軍団の礎を築こうと動き始めている。訓練場の一角では、アルタイの怒号が響いていた。
「全力で走れ! 息が切れても止まるな! アカーネの名前を背負ってるってこと、忘れんなよ!」
その声に、裸足に近い姿で走り込む部族戦士たちは、荒い呼吸を押し殺しながら黙々と地を蹴る。鍛え抜かれたはずの彼らでさえ、アルタイが課す訓練の厳しさには悲鳴を上げる寸前だった。しかし誰一人として弱音を吐くことはなかった。
「これが…神の軍団ってやつか…」「無様な姿を見せるわけにはいかん…アカーネ様の御名にかけて…!」
苦悶の表情を浮かべつつも、彼らの目は炎のように燃えていた。それを見たアルタイは、ニヤリと口元を緩める。
「ははっ、思ったより根性あるじゃねぇか…これなら化けるかもな」
一方、仮設司令部では、バトラー将軍とガルナードが訓練計画のパピルスを広げて向かい合っていた。軍団の骨格を構築するこの任務に、バトラー将軍は全身全霊を注いでいる。
「ガルナード殿、この重装歩兵の編成という方針…私にはこれまで馴染みのない戦術です。だが、私としてはどうしても成功させたい。ガルナード殿には、その経験と知識をもってこの軍団の中核を担っていただきたい」
そう頭を下げる老将に、ガルナードも真剣な表情で応える。
「将軍、その意志、しかと受け取りました。第五軍団アカーネ――必ずや戦場で名を轟かせる精鋭といたします」
二人の間に静かに交わされた誓い。その決意を裏付けるかのように、パピルスの上には綿密に描かれた隊列編成、戦術パターン、後方支援案が並んでいた。ただ一つ、気がかりなことがあった。
「しかし…」とガルナードが地図を睨みながら言葉を続ける。「装備が届かぬことには、進めたくても進められぬ訓練も多くございます。ヒッタイト製の装備――槍、盾、鎧が届けば、実戦形式の訓練にも移れるのですが」
バトラー将軍も頷く。
「リュシア殿が手配しているはずだが、アッシリアの動きも不穏な折、遅れが出ぬとよいのだがな…」
二人はそれぞれの胸に、見えぬ雲の気配を感じつつも、今やるべきこと――兵を育てるという信念のもと、静かに視線を交わした。それは、かつて誰も見たことのない新たな軍団の胎動だった。
アカーネ神殿の奥、白石で造られた静かな部屋の一角で、リュシアは筆を滑らせながら幾度もパピルスを広げていた。机上には、ヒッタイト王国から購入を予定している各種の槍、盾、鎧、そして補助装備の品名が整然と並び、その横にはそれらを装備する兵士数に応じた数量計算がびっしりと書き込まれている。その端麗な文字を追いながら、リュシアは静かに独り言をこぼす。
「ヒッタイト王国より武器と防具を調達…理論上は妥当ですが……。ただ、現実には厳しいですね。アッシリアとの緊張が高まる中、ヒッタイトもそちらに兵力を割いているはず。さらにミケーネ方面の動きも無視できません……。予備の武器や防具が国内に留め置かれていてもおかしくはないですね」
その声音は、冷静かつ理詰めの分析によるものだった。
「主の御名があれど……過剰な期待は禁物です。最悪、国内調達――すなわち、エジプト軍からの転用案も同時に用意しておかなければ…」
そう呟いた直後、足音も軽やかに茜が現れた。
「あっ、リュシア。ヒッタイトから手に入れたい物、そろそろまとまった?」
陽の光を背に、ひょっこり現れたその声にリュシアは一瞬驚きつつも、すぐに立ち上がって一礼する。
「はい、主。希望する装備のリストはほぼ完成しております。ただ……主が直接交渉に出られるとのこと、恐縮ながら懸念もあります」
「懸念?」
茜は机に置かれたリストを覗き込みながら、片眉を上げる。
「現在、ヒッタイトはアッシリアとミケーネの双方に睨みを利かせており、軍備の備蓄を手放す余裕があるかどうか…正直、交渉は難航するかと」
リュシアの指摘は理にかなっていた。だが茜は、にっこりと笑って肩をすくめる。
「まぁ、確かに簡単じゃないよね。でもさ、私も一応ヒッタイト王国にそれなりの信仰があると思うんだよね」
あっけらかんと語るその言葉に、リュシアはため息をひとつ。
「主のお力や人脈は否定しません。ただ……」
「うん?」
「楽観に過ぎませんように、とだけ申し上げます」
「うぐっ……正論」
茜は頬を指で掻きつつ、笑ってごまかす。けれどその瞳には確かな意志が宿っていた。
「でも、だからこそ私が行くの。現場の状況も見たいし、もし交渉が決裂しそうになったら、ちょっとばかり“神”としての威厳も見せてね?」
リュシアは軽く眉を上げたまま、納得しきれぬ様子ながらも深く頷く。
「…承知しました。では、必要な数量と条件はすべて整えておきます。主が動くのであれば、後は現場での交渉に期待するしかありません」
「うん、頼りにしてるよ、リュシア。交渉の方は私に任せて」
笑顔で手を振る茜の背を見送りながら、リュシアは小さく呟く。
「やはり、主は型破りなのですね……」
しかし、その型破りが時に歴史を動かすことを、彼女は誰よりも知っていた。
陽が傾きはじめた神殿の中庭には、今日も多くの人々が列をなしていた。貧しい者も、病を患う者も、あるいはただ心を疲れさせた者も、誰もが「アカーネ神殿」へと足を運んでいた。その中心で、ユカナとミラナは、額に汗を浮かべながら、施しの食事を配り、簡単な説教めいた言葉を投げかけていた。
「本当にまずい時は逃げても良いけど、日々がんばらないとダメ…だと思うよ」
とユカナが言えば、
「アカーネを信奉するのはもちろんいいけど、明星の神ミラナにも祈ると……えっと……きっと、いい事あるわよ。多分」
とミラナが適当に微笑んで応じる。しかし、そんな“ゆるさ”が逆に人々の心を和ませ、実際に空腹を満たしてもらえる以上、民衆の反応は温かいものであった。
「ありがとうございます、ミラナ様、ユカナ様…」
「アカーネ神殿の神様は本当に親しみやすい…」
と感謝の言葉が続々と返ってくる。
神殿の神官たちも、そんな二柱の神を慕い、自然と手伝いに加わっていた。炊き出しの準備、子どもの世話、負傷者への応急処置――神殿内は今や、祈りと労働が渾然一体となった“信仰の場”へと成長しつつあった。そして、そんな光景を神殿の奥からじっと見つめていたのが茜だった。
(ふふ……あの二人も、なんだかんだ言いながらちゃんと働いてるじゃん)
満足そうに頷いた茜だったが、その視線に気づいたユカナが中庭から手を振って近づいてくる。
「ねぇ、茜? もう私たちヘトヘトだよ……。そろそろ交代してもらってもいいんじゃない?」
口を尖らせて言うユカナに、茜は悪戯っぽく笑った。
「一応、神様で中位神なんだから。がんばりなさいって」
「じゃあさ、茜は今なにやってるの? 私たちだけ働くのは不公平じゃない?」
「私はこれから、自分のスタンダードに付けるために、これまでに回った国の象徴的な物を取りに行くのよ。それに私が行かないとダメな場所もあるしね」
「え、茜一人でどこか行くの?」
ユカナが半ば呆れたように聞くと、茜はふと目を細めた。
「そうよ。……あっ、そういえばさ。あの会議室、例の“作戦会議空間”って、今はこのアカーネ神殿にしか降臨できないの?」
ユカナは少し考えてから、首を横に振る。
「ううん。茜が過去に行ったことがあって、かつ今この時代にも残っている場所なら、降臨可能だと思うよ。だから、カルケミシュとかヒッタイトの王都ハットゥシャとかにも行けるはず」
「へぇ……」
茜は何かを考えているようだったが、すぐに曖昧な笑顔を浮かべて肩をすくめる。
「べつに特に考えてるわけじゃないけど、一応聞いてみただけ。じゃあ、ちょっと行ってくるね。……あとさ、ちゃんと神様業がんばってよ? そもそも、この旅ってユカナの神格上げるための依頼だったんだからね?」
そう言われ、ユカナは苦笑を浮かべる。
「といっても、今じゃ茜の方がずっと信仰も神力も高いしね……。でも、わたしももうちょっと頑張ってみるよ。茜に負けっぱなしじゃカッコ悪いし」
「うん、その意気その意気。期待してるから!」
軽やかに手を振る茜を見送りながら、ユカナはふっと微笑んだ。アカーネ神殿の奥、帳簿とパピルスが積み上げられた静かな一室に、エンへドゥアンナの整った筆致がリズミカルに響いていた。既に何十枚もの報告がまとめられ、彼女の手際の良さが伺える。その部屋の扉が軽くノックされ、次の瞬間には茜が顔をのぞかせる。
「おつかれー、シュメールの腹黒王妃様。ちょっと出かける予定なんだけど、あんたも来る?」
突然の言葉に、エンへドゥアンナは筆を止め、視線だけで茜を睨む。
「出かける?また面倒ごとを押し付けようとしてるのではありませんか、茜?私、ここ数日ずっと、あなたの無茶ぶりに応える形で神殿の組織改革に全力投球しているのですが」
「いや、押しつける気はないってば。まぁ、神殿の組織づくりの話はありがたいけど、これはちょっと別件。……スタンダードにつける象徴を集めに作戦会議空間に戻るんだけどさ、どうせなら、こういうの好きそうなあんたも一緒に来る?って話」
茜がそう言いながら微笑むと、エンへドゥアンナはしばし口をつぐみ、それからゆっくりと椅子から立ち上がる。
「なるほど。あの空間ですか。……それは良いですね。神話に記されるべき旅の続きを、しかと見届けましょう」
「また“神話”とか言ってるし……」
茜は苦笑を浮かべながらも、「まぁ、やっぱり来ると思った」とばかりに頷いた。二人は連れ立って作戦会議空間に戻る準備を行い、光と共に神殿からその姿が消えた。
作戦会議空間。静謐な空間に漂うのは、時を越えた記憶と神威の残滓。そこに佇むエンへドゥアンナは、深く息を吸い込むと静かに呟いた。
「……久しぶりに戻ってきた感じですね。エジプト王国には、もうかなり長い間滞在していますから」
その隣で茜は軽く伸びをしながら答える。
「うん、でも今回は少し特別なんだよね。ここに保管しておいた“これまでの私の旅の証”を取りに来たんだよね。ラムセス王に、私のスタンダードを作ってもらうことになってるから、それに付ける象徴をいくつか持ってこようと思ってさ」
「なるほど、で、何をお持ちになるのですか?」
そう尋ねるエンへドゥアンナを横目に、茜はふと目を細め、独り言のように呟いた。
「まずは……そう、シュメール時代の――ルガルニル王子の『風のアミュレット』。あれは戦友の形見だから、絶対に外せない。それから、アラッタ王国の『聖石』。私が最初に受け取った、神聖な象徴……あれも必要だよね」
茜が棚の奥から丁寧に宝物を取り出すと、エンへドゥアンナも思わず目を見張った。
「……それらは確かに、茜がかつてシュメールの地に立っていたという証。その象徴としては、あまりに相応しすぎる宝ですね」
頷きつつ、茜は次なる棚へと手を伸ばす。
「ヒッタイト王国の象徴は……うーん、スッピルリウマ王からもらったスタンダードはさすがに使えないしなぁ。ヒッタイトに関しては、ラムセス王に新しい印を作ってもらうしかないか。ミタンニやバビロニアも、王様から色々もらったけど象徴という物じゃないから、これもラムセス王に何か作ってもらおうかな」
そう言いながら、彼女の手が一つの金の指輪を取り出した。
「でも、アッシリアの……これは、いいよね。アッシュール・ウバリト王からもらった、王印付きの金の指輪。これは、私の歴史の中でも意味のあるものだから、スタンダードにつけておこう」
小さな黄金の指輪を手に取ると、エンへドゥアンナは感心したように頷いた。
「王印――なるほど、それはまさに国家と神の間に交わされた盟約の証。そのような宝をスタンダードに組み込むならば、神話的な意義も完璧ですね」
しかし、その言葉の後に続けられたのは、冷静かつ鋭い問いだった。
「ですが、茜。……あなたが出かけると言ったのは、これらの宝を取りに来るためだけではないでしょう? もしそうであれば、私を同行させる理由はありません。あなたはいつだって、自分だけで動けるはずですから」
茜は少し苦笑して肩をすくめる。
「やっぱり、あんたには誤魔化しがきかないな……シュメール王国の腹黒王妃だけのことはあるよ」
そう言いながら、茜は棚から王印の指輪だけを手に取り、奥の部屋へと姿を消した。やがて姿を現した茜は、既にエジプト王国の神装束を脱ぎ、かつてヒッタイトやミタンニにいた時の神装束――重厚な紺と金の布を纏った、ヒッタイトの女神の姿に戻っていた。その装いに、エンへドゥアンナは思わず目を細める。
「……まさか、エジプト以外の地にこれから降臨するつもりですか?」
「うん、行き先はアッシリア王国。王都ニネヴェよ。もちろん、あんたも一緒に来るよね?」
その言葉に、さすがのエンへドゥアンナも驚きを隠せなかった。
「アッシリア……あの国での茜の立ち位置は……。いえ、同行します。あなた一人を向かわせるわけにはいきませんから」
「ありがとう。大丈夫、ちゃんと勝算はあるから――……たぶん」
茜は笑って、アッシュール王から渡された王印の指輪を胸元に収めると、エンへドゥアンナとともに会議室の中央へと歩を進める。二人が円環の中央に立った瞬間、床の魔法陣が淡く光を放ち始めた。やがて作戦会議空間が揺らぎ、二人の姿は静かに霧のようにかき消えていった。
****
オリエントの覇を狙うアッシリア王国。その中心、王都ニネヴェのイシュタル神殿では、荘厳なる香煙が天へと昇っていた。神殿内には即位後間もないシャルマネセル1世が自ら姿を見せ、神官、高官そして将軍たちが一堂に会し、静かに神託を待ち受けていた。
そのときだった。
天井から光が溢れ、神殿の中心にまばゆい光柱が走る。神々への祈りの場に突如として現れたのは、重厚な紺と金の装束を身に纏い堂々と立つ一人の女神と、その傍らに静かに佇む女司祭――茜とエンへドゥアンナであった。
「神…? 何が起きた!?」
「これは神罰か?それとも神託か!?」
神官たちは狼狽し、将軍たちは腰の剣に手をかける者すら現れ、神殿内は一瞬にして混乱と緊張に包まれる。茜は肩をすくめながら小声で呟く。
「残念神の奇策じゃないけど、王の前に現れるのが早いと思ってここに降りたのに……こんなに人が集まってるとは想定外だったなぁ。……まぁ、なんとかしないとね」
少し苦笑しつつも、茜は堂々とした足取りで神殿の中央に立ち、声を張った。
「今のアッシリア王は誰?私はアカーネ。あなたたちの記録にも残ってるはずよ? かつてこの地を訪れ、アッシュール王と直接言葉を交わした神よ」
その名が放たれた瞬間、神殿内の空気が一変する。中央にいた男が、鋭い眼光を茜へと向けた。
「余がアッシリア王、シャルマネセル1世である。アカーネ……その名は我が王国に、嵐の如く現れ、偉大なる曾祖父アッシュール王の時代に変革をもたらした神として確かに残っている。だが、貴様が今ここに現れた真意は何だ。アッシリアに再び干渉せんとするか!」
その凄まじい威圧に、さしもの茜も一瞬だけ表情を引き締めた。
(さすがアッシリアの王様ね……ラムセス王とはまた違う、純粋な支配者としての圧がある)
それでも、茜は一歩も引かずに言葉を返す。
「アッシリア王国でこれだけの人々が、神に向かって祈ってるってことは、よほど大事な決断が迫ってるってことでしょ? 戦勝祈願? あるいは災厄回避? どちらにせよ、私の言葉に耳を貸して損はないと思うけど?」
茜の言葉に、王の眉がわずかに動く。その声には、ただの神話の遺物ではない、確かな存在感と力があった。
「……我がアッシリアは、二度とアカーネには屈せぬ。たとえそなたが神であろうと、我が民の意志を曲げることは許さん。だが……神であるそなたが、自らこの場に姿を現した。話くらいは聞いてやろう」
「へぇ、話を聞いてくれるなんて、アッシリアもちょっとは柔軟になったわけね。少し安心したよ。アッシュール王との約束、一応は守ってくれてるみたいだし」
そう言って茜が微笑むと、王の顔にごくわずかに緊張が解けたような色が走る。そして、王は神殿に居並ぶ者たちに命じた。
「……アカーネには、余が直々に相対する。皆の者、下がれ」
「王よ、それは危険では……」
神官の一人が心配するも、王は手を挙げて制した。
「余にはアッシュール神とイシュタル神がついておる。余が神と対話せねばなるまい。下がれ」
その一言に誰も逆らえず、神官、高官、将軍たちは次々に頭を下げ、神殿の大広間から静かに退出していった。
広い神殿には、シャルマネセル王と茜、そして静かに佇むエンへドゥアンナの三人だけが残された。王宮の大広間に、神と王だけの静寂が訪れる。側近たちの気配が消えたその瞬間、シャルマネセル王はゆっくりと茜の前に膝をつき、深く頭を垂れた。
「アカーネ様。先ほどは、無礼をお許しください。アカーネ様のお名前と、そのご威光については、曾祖父アッシュール王の残した記録にて存じております。貴女から賜った恩義、そのすべてに、私は感謝を申し上げます。こうして直にお会いできたこと、この上なき喜びにございます」
茜はその言葉に目を瞬かせ、一瞬驚いた表情を見せた。
「え…あぁ、そういうことか」
横にいたエンへドゥアンナが静かに頷きながら呟く。
「茜。王にも、立場というものがあるのでしょう。アッシリアの公式な記録では、アカーネの名は“変革をもたらせし恐るべき神”とされているでしょうが……王家内部には、貴女から受けた恩義を秘かに継承していたのではないでしょうか」
茜は小さく息を吐き、懐から金の指輪を取り出した。
「アッシュール王は、ちゃんと約束を守ってくれたんだね……」
指輪の金に浮かぶ王印を見たシャルマネセルの目が、大きく見開かれる。
「それは……曾祖父が、アカーネ様に贈ったと伝えられる、あの“約定の王印”……」
「うん。でも正直、私は最初いらないって断ったのよ。だって王印だよ? でもアッシュール王、絶対に譲らなかったんだから。『これは約定の証だ』って言ってさ。だからまあ……仕方なく、ね」
茜は苦笑しながら指輪を見つめ、ふと視線を王へ戻す。
「さて、王様。こうして直接会いに来たのは、ちょっと話があったからなんだけど……少しだけ、聞いてくれる?」
王は無言で頷いた。茜は背筋を伸ばし、少しだけ真剣な声音で言葉を継いだ。
「まず、誤解がないように言っておくね。私はアッシリアがこれからどの国に侵攻しようが、それ自体には口出しするつもりはない。アッシュール王との約束の通り、アッシリアが征服地の文化や信仰を破壊しない限り、私はあなたたちを非難しない。だから私が例えアッシリアの相手国にいたとしても、アッシリアとの戦争には直接出ない。神様が人間の政治にあまり介入したら、ややこしくなるからね」
その言葉に、王は明らかに安堵の息を漏らした。
「……アカーネ様には、かつて我が国は痛手を負いました。しかし、それでも貴女が我が国を赦し、今も約定を尊重されていると知り、心から安堵いたしました。ですが、そのうえで話と仰いましたが、それはいかなることでしょうか?」
茜はふっと目を細めた。
「王様、あなたの国は今、再び版図を広げようとしているよね? 東のバビロニアを完全に従えるか、西のヒッタイトと雌雄を決するか、で迷っている……違う?」
シャルマネセルの目がわずかに鋭くなった。
「……さすがアカーネ様。私の胸の内を、まるで見透かしておられる。であれば、ヒッタイトには手を出すなというご託宣を賜るのかと存じますが――」
「それはないわ。私はそういうことを言いに来たんじゃないの。選ぶのはあなた。私はここでは神様という事になってるけど、国を治めるのは人間の役目だもの。私はただ、前提として知っておいてほしいことがあるだけ」
茜はゆっくりとした口調で続けた。
「アッシリアがヒッタイトと雌雄を決して、オリエント世界の覇権を手に入れたいというのは、あなたたちの悲願よね。でも、もしあなたたちがヒッタイトを滅ぼしたら、そのときは――ヒッタイトが担っていた“オリエント世界の防壁”の役割を、アッシリアが代わりに背負うことになるのよ」
王の眉が動く。
「オリエント世界の……防壁、ですか?」
「ええ。あなたも聞いているでしょう? 最近、ミケーネ方面――地中海からの侵攻が激しくなっているわ。ヒッタイトは、それを最前線で受け止めている。つまり、オリエント世界の盾になっているってこと。あなたの国がヒッタイトを滅ぼせるだけの軍事力と国力を持っているのなら……その“盾”を、あなたの手に取って持つ覚悟が必要になるの」
王は長い沈黙ののち、重々しく言葉を発した。
「……つまり、今のアッシリアには、その盾を持つ覚悟と余力があるのかを見極めろ、と。そう申されるのですね」
「私はあなたの国の国力を把握してないから、判断はあなたがするのよ。ただ、ひとつだけ言っておくわ。覇権を望むなら、その覇権の責任もまた背負わなきゃならない。オリエントを治めるということは、オリエントを“守る”ってことでもあるの」
しばしの沈黙の後、シャルマネセルは真っ直ぐ茜を見据え、静かに宣言した。
「……私は、まずは東を完全に平定しようと思います。バビロニアとの問題を片付けるために。西にはまだ……防壁が必要なようですね」
茜はふっと口角を上げた。
「うん、それが賢明だと思うよ、王様」
静寂の中、シャルマネセル王は再び姿勢を正すと、茜へと慎重な口調で語りかけた。
「アカーネ様。此度の貴女の寛大なる助言と御心遣い、心より感謝いたします。……しかし、ひとつ私からもお願いがございます」
茜は「何?」と眉をひそめ、王の言葉を待つ。
「アカーネ様のご助言に従えば、我が国の国力では今はまだヒッタイトを討つべき時にあらず。まずは東のバビロニアに全力を注ぐべき、という結論に至りました」
王の声音が一段と真摯になる。
「ですが、その間にもヒッタイトからの圧力が加われば、我が国の作戦に支障をきたします。つきましては、アカーネ様がもしヒッタイトに一定の影響力をお持ちであれば――その圧力を少しでも和らげるよう、ご配慮を賜れないでしょうか?」
茜は小さく唸りながら、腕を組んで思案する。そしてやがて、静かに頷いた。
「……わかったわ。それくらいのことなら、私の方で手を打ってみる。ヒッタイトにとっても損はない話だから、ヒッタイトの王様には私が説得するよ」
王が深く頭を垂れる。
「かたじけなく存じます」
「でも、こっちからも二つだけお願いがあるの」
茜は、ぴしりと人差し指を立てながら、笑顔を崩さずに続けた。
「ひとつ目は、ミタンニ王国のこと。もう国としては力もないけど……私はあの地に少し想い入れがあるの。しばらくそのままにしておいてくれない?」
シャルマネセルは考えたのちに、素直に頷く。
「承知しました。ミタンニには手を出しません。あの地はすでに我が国の支配圏に近くとも、滅ぼすほどの意味はない」
「ありがと。で、もうひとつ……これは私情だけど」
茜はふっと目を細め、静かに語り出した。
「バビロニア王国の王都バビロンにあるイシュタル神殿。あそこにね、昔ある“詐欺師”が私の名を使って残した神話の粘土板があるの。……恥ずかしいけど、私の物語が書かれてるのよ。できれば、他の文化財と共に破壊せずに、そのままアッシリアで管理してくれない?」
シャルマネセルは一瞬、目を瞬かせるが――やがて笑みを浮かべて頷く。
「そのような宝があるとは存じませんでしたが……我が国のイシュタル神殿にて、必ず保護いたします。貴女の物語と信仰は、我が国にとっても価値あるものでありましょう」
「そう。ありがとう。……じゃあ、これで“約束”ってことで、いいわよね?」
茜がそう言うと、シャルマネセルは神妙な面持ちで頷き、腕に着けていた金製の二重環の腕輪を外す。
「では……アカーネ様。此度の約定の証として、我が名とともにこの腕輪をお受け取りください」
彼が差し出したそれは、王家の象徴たる重厚な造りの装飾品であり、玉座に座す者の権威を象徴するものだった。茜は驚き、すぐに首を振る。
「ちょ、ちょっと待って。私はもうアッシュール王から王印の指輪をもらってるのよ? これ以上は流石に…王様が困るでしょ?」
だがシャルマネセル王は、毅然とした眼差しで言い放った。
「いえ、アカーネ様。貴女は曾祖父から王印を受け取られ、それを今も大切にされておられる……それは、曾祖父の名がアカーネ様の歴史と共に刻まれているということ。であれば、私もまた……この時代の王として、アカーネ様と共に歴史に名を残したい。どうかこの腕輪を、我が誓いの象徴として受け取ってください」
茜はわずかに言葉を失い、手にした腕輪を見つめる。そのとき、傍らにいたエンへドゥアンナが柔らかく囁いた。
「茜。これは王の名誉と誇りです。受け取ることは、あなたが王を認めたという証でもあります。王にとって、それは栄誉なのです」
茜は息をひとつ吐き、にこりと笑った。
「……うん。じゃあ、ありがたくもらっておくよ。王様の覚悟と誇り、しっかり受け取ったからね」
そして、改めて王に向かって深く一礼した。
「短い時間だったかもしれないけど、私は約束を守る。だから、王様もお願いね?それと……私が直接アッシリアを助けられるわけじゃないけど、あなたの国の未来が繁栄に向かうことを、ちゃんと願ってるから」
その言葉に、シャルマネセルは深く頭を下げ、重々しく応じる。
「我が国は、貴女の言葉を守り、そしてその信頼に応えると誓います」
そうして、約定は成立した。茜は腕輪をそっと懐に収め、エンへドゥアンナと視線を交わす。
「……帰ろっか。作戦会議空間に」
「ええ、茜」
光が神殿の大理石の床を満たし、次の瞬間、二人の姿は神々の世界――作戦会議空間へと消えていった。
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イシュタル神殿の中心――。
神のような光が完全に消え去るその刹那まで、シャルマネセル1世は深々と頭を垂れたまま、動こうとはしなかった。その背中にあった威厳と緊張は、まるで一本の弓のように張り詰め、やがて静かにほどけてゆく。やがて完全に神々の気配が消えたと確認すると、王はようやく顔を上げ、小さく息を吐いた。そして、誰に向けるでもない言葉をゆっくりと紡ぐ。
「……まさか、余が即位して間もない今この時にアカーネ様が降臨なさるとは……。これは余もついておるな」
その声音は驚愕と敬意の入り混じった、率直な心情の吐露だった。彼はゆっくりと広間の奥に進み、祭壇前に立って、さらに言葉を重ねる。
「アカーネ様よりの助言がなかったとしても、我が国の現状ではヒッタイト王国との正面衝突は得策ではないと余は判断していた。だが、軍に古くから居る者の中には武を尊ぶ者も多く、ヒッタイトとの戦いこそ覇道であると主張してやまぬ将もいた」
王は静かに首を振り、続ける。
「だが今や、神託の場にて直接降臨された神が、我が国の情勢に助言を与えた。これこそ、神意と呼ばずして何と呼ぶ? アカーネ様のお言葉と姿は、あの強硬な将軍たちをも黙らせるに足る証であろう」
イシュタル神殿の天井を仰ぎ見るその目には、慎重な王としての判断力と、未来を見据える者の光が宿っていた。
「そして、ヒッタイトからの圧力までも抑えてくださると……。これは、もはやアカーネ様のご加護に他ならぬ」
言葉にしたことで、王の胸中にあった迷いと不安が一つずつ溶けていくのが分かった。彼は玉座の横に飾られた祭具のひとつ――かつて祖父アッシュール王が使っていたとされる古びた香炉に目をやる。そして、ふと漏らした。
「……たしかに、アカーネ様の名は我が国では嵐をもたらした神とされてきた。だが、それは変革の嵐でもある。余は……いや、我が国は、この変革と共に歩むべきなのかもしれぬ」
王はしばし黙考したのち、再び呟くように語る。
「アカーネ様は、表立って我が国で祀られることを望まれぬかもしれぬ。だが、この恩は忘れてはならぬ。密かにでも良い……アカーネ様を祀る祠を王宮内に設けよう。祭官にも命じ、王家の守護として記録にも残さねばならぬ」
王のその決意は、静かに、しかし確実にアッシリア王国の未来へと布石を打つものとなった。




