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96話 第五軍《アカーネ》、誕生

ナイルの風が乾いた砂を払い、南ヌビアの地を超えて黄金に輝くアニバの城門へと吹きつけていた。その風の音に混ざって、歓声と角笛の音が地鳴りのように近づいてくる。


「戻って来たぞ、第三軍団だ!」「風の神の軍が帰ってきたぞ!」


街の広場はすでに熱気に包まれていた。第一軍団の将兵たちは整然と並び、青銅の盾と白布の旗が陽光に反射して輝く。その中央、青と白の装束に身を包んだ茜が、バトラー将軍と並んでゆっくりと進み入る。


彼女の背後には、堂々たる第三軍団の兵士たちに加え、戦を経たばかりの南ヌビアの部族兵たちの姿もあった。かつて敵として対峙した彼らが、いまは友として、旗の下に集っている。


「風の神の軍だ!」

「アカーネ様に栄光を!」


賞賛と敬意に満ちた声が四方から湧き上がり、群衆の中には感極まって涙ぐむ者の姿もあった。その声の波の中で、バトラー将軍は凛と背を伸ばし、誇らしげに深く頭を下げた。その誠実な姿に兵たちが再び歓声を上げる。茜はというと、どこか飄々とした表情で空を見上げ、小さくつぶやく。


「……今回は無傷で済んだのが、何よりだね」


誰に向けたでもないその言葉には、深い安堵と、責任を果たした者だけが持つ静かな誇りが滲んでいた。


やがて、一行はアニバの宮殿へと迎え入れられる。石柱が並ぶ謁見の間には、エジプトの偉大なるファラオ、ラムセス二世が自ら待ち構えていた。王の周囲には近衛兵と文官や神官たちが列をなし、厳粛な空気が張り詰めている。茜が進み出ると、ラムセス王はひとつ頷き、堂々と声を響かせた。


「アカーネ、よくぞ反乱を鎮圧した」


その言葉に重みはあれど、押しつけがましさはなく、真の賞賛がこもっていた。茜は少し肩をすくめ、さらりと笑いながら答える。


「うん。とりあえず、敵も味方もほぼ無傷で鎮圧できたよ。これで、ラムセス王が進めてるヌビア全体の平定も、きっとスムーズに進むよね?」


王はそのあまりに軽やかな返しに一瞬まばたきを忘れ、口元に微かな驚きを浮かべた。


「……たしかに、伝令の兵はアカーネの神の力により、ほぼ無傷で反乱を鎮圧したと報告していた。だが、本当に無傷なのか? 敵も含めてか?」


問いかける王の声には、疑念ではなく、確認と驚愕が混じっていた。茜は目を伏せて少し考えた後、肩を軽く上下させた。


「まぁ、リュシアの弓で削ってるから、完全に無傷ってわけにはいかないけどね。でも、南ヌビア…クシュの部族は戦力的にはほぼ無傷。それに、私たち――エジプト側は完全に無傷。反乱鎮圧としては、かなり理想的な形だったと思うよ」


ラムセス王は目を見開き、やがて深く息をついた。


「やはり……そなたは神なのだな。余は、エジプトの王として、改めてそなたに感謝せねばなるまい」


その言葉に、茜は小さく吹き出した。


「いやいや、私のことは後回しでいいってば。……あ、でも感謝はちゃんと形にしてくれると嬉しいけどね?」


そう言って、いたずらっぽく笑った茜の視線が、広間の後方に立つ人物に向けられる。


「それよりも――反乱の首謀者になっちゃったクシュのマアニ族長も連れてきてるの。彼の話、ちゃんと聞いてあげて。私はもう事情を聞いてるけど、族長には族長の立場と誇りがあるみたいだし。……それにね、うまく扱えば、ラムセス王の統治にとって、かなりプラスになると思うよ」


静かに語られたその提案に、王は目を細めて応えた。


「……よかろう。では、話を聞こう。余は王として、民の声を聞く耳を忘れたことはない」


謁見の間の中央に進み出た茜の背後で、一人の若き男が静かに跪いていた。南ヌビアの伝統的な織物をまとい、誇りと屈辱の間で揺れるその姿には、敵将ではなく、民のために膝をつく者としての気高さがあった。


その姿に気づいたラムセス王は、茜に向けて静かに問いかけた。


「……彼が、その族長なのか?」


茜は軽くうなずき、肩をすくめながら言った。


「そうだよ。お膳立てはもう済んでるから、あとはファラオの腕の見せ所。期待してるよ?」


そのあっけらかんとした口調に、王はわずかに眉を寄せる。だがすぐに表情を引き締め、威厳をもって前へと進み出る。


「余がエジプト王国のファラオである。この名において、名を名乗ることを許す」


その言葉が広間に響いた瞬間、跪いていた男――マアニ族長は深く頭を垂れ、震える声で名乗った。


「偉大なるファラオ……私はクシュの族長の一人、マアニと申します。今回の反乱の責はすべて我が身にございます。身命のすべてをファラオの御前に委ねますゆえ、どうか……我が民には慈悲深き沙汰を賜りたく……」


その声には、王に刃を向けた者の開き直りも、保身もなかった。ただ民の未来のために膝を屈する、誠実な祈りがあった。ラムセス王は静かに茜の方を向く。彼女は腕を組んで口元に微笑を浮かべたまま、軽く頷くだけだった。


「マアニよ。アカーネがそなたをここまで連れてきたということは、既にその罪はアカーネの御心によって許されているということだ。そしてアカーネは余に、そなたから反乱の理由を直接聞けと申しておる。余は王として、それを受け入れよう。語るがよい」


思わぬ王の言葉に、マアニは目を大きく見開いた。戸惑いと感動の色が入り混じったその顔は、そっと横を向く――そこには茜が腕をほどき、無言のまま早く話すようにと軽く手を差し出していた。マアニは静かにうなずき、唇を引き結んで語り出した。


「……我ら南ヌビアの奥地の民には、これまでエジプトの繁栄はほとんど届いておりませぬ。飢えと渇きの中で生き、わずかな水と作物を奪い合いながら、どうにか生をつないでまいりました。今回、ファラオの遠征により北ヌビアと南ヌビアの一部に豊穣がもたらされ、祝福されたと聞きました。しかし、南の奥地であるクシュにはその恩恵は届かず、むしろ差が広がっていくばかり……」


そこまで語ると、マアニは堪えきれず、低く頭を垂れた。


「アカーネ様には、既に我が嘆きを聞いていただきました。どうか……どうか、我らにもエジプトの豊穣を……民をお救いくださいますよう……」


広間は静寂に包まれた。誰もが言葉を失い、ただ王の返答を待った。沈黙を破ったのは、茜だった。


「――というわけなのよね。さすがにちょっと気の毒に思っちゃってさ、つい“なんとかなるよ”って言っちゃったの。ラムセス王、お願い。北や南の一部だけじゃなくて、南の奥地まで何とかできるよね? あなたなら、きっとできるって思ってるんだけど?」


彼女の言葉はあくまで軽やかで柔らかだったが、その裏には確かな期待と信頼が込められていた。ラムセスはそのまなざしをじっと見つめ、かつて茜が語った言葉を思い出していた。


「ヌビアの地を潤せば、やがてエジプト本土の命脈も強くなる。食料を、命を、自らの手で生み出す土壌。それが王国の真の礎になる」――あの言葉が、今また胸の奥で甦る。


王は深く息を吸い、視線をマアニに向け直した。


「アカーネの言葉は、余の言葉でもある」


その宣言に、広間の空気が震える。


「マアニ……今は北ヌビアの灌漑事業を進めているところだが、余は必ず、南ヌビア…勿論奥地であるクシュに至るまでエジプトの富と繁栄をもたらす。このファラオの名において、ここに誓おう」


その言葉は、祝福のように空間を満たした。マアニは顔を伏せたまま、震える声で言葉を絞り出した。


「……我らは、ファラオの手足となりましょう。南の地においても、エジプトの一部として、誠心誠意尽くすことを、ここに誓います」


その言葉は懺悔ではなかった。忠誠の誓いであり、新たな始まりの宣言だった。ラムセス王はしばしマアニの姿を見つめ、そして堂々とした足取りで彼の前に進み出た。片手を伸ばすと、マアニの肩にそっと触れ、低く穏やかに告げる。


「……だが灌漑事業には、莫大な人の手が必要となる。マアニ、余に力を貸せ。余がそなたのクシュにも繁栄をもたらそう」


そしてその手を、跪いたままのマアニに向けて差し出した。


「立て。南の地を共に築こう」


その言葉にマアニは、驚愕と感激を浮かべながらゆっくりと立ち上がる。王の手を取った瞬間、謁見の間の空気が熱を帯びるように変わった。その光景を見守っていた北ヌビアの族長たち、そして反乱に加わらなかった南ヌビアの族長たちが、やがて一人、また一人と膝をつき、そして拳を掲げて声を上げる。


「ラムセス王に栄光あれ!」

「エジプト王国に永遠の繁栄を!」

「ファラオとアカーネに祝福を!」


歓声はやがて渦となり、石造りの広間を満たした。大理石の床が震えるほどのその声は、エジプトの統治が南にも届いたことを示す象徴となった。その様子を見ながら、茜はぽつりと小さくつぶやく。


「……さすがファラオ。人心掌握は芸術だよねぇ……」


するとすぐ隣で、淡く微笑んでいたリュシアが静かに返す。


「ですが、今回の切っ掛けを作ったのは、間違いなく主の手柄です。きっと、あとで主の大好きな褒美がございますよ」


その言葉に、茜は目をぱちくりと瞬かせ――


「……ほんと!? やった!」


とたんに口元がにんまりと綻び、気分はすっかり「神のご褒美モード」に切り替わっていた。リュシアはそれを見て、呆れたように目を細めるが、決してその笑みは消さなかった。謁見の後、歓声の余韻がまだ広間の壁に残る中で、ラムセス王は茜に目線を送り、静かに声をかけた。


「アカーネ、そなた……少し、余の部屋に付き合ってくれ」


それは王命というより、信頼を寄せる者への私的な呼びかけだった。茜もその空気を察し、軽く肩をすくめて応じる。


「いいよ。今日のファラオの手並みは、ちょっと見事だったからね」


王の私室は、外の喧騒とは対照的に静けさに包まれていた。壁にはエジプト神々の浮彫が並び、中央の香炉からは沈香の香りが静かに立ち上っている。金装束を脱ぎ、上着だけを纏ったラムセス王が、椅子に腰を下ろしてふぅと息をついた。


「アカーネ……今回も、余はそなたに助けられたのだな」


言葉は静かだったが、その声には確かな実感が宿っていた。


「これで……ヌビア全土に対して、エジプトの影響力を明確に示すことができる」


茜は壁に凭れながら、膝を組んで座り直すと、ふっと息を吐いて言う。


「まあね。でも――南ヌビアへの灌漑工事…特に奥地であるクシュの工事は、かなりの財政的・労力的負担になるよ? それでも、よくあの場で決断したよね。王としても、かなりの賭けだったと思うけど」


ラムセス王は、どこか苦笑しながら答える。


「余はファラオである。そなたがこの地を一滴の血も流さず平定し、王国の影響力をヌビア全域に広げる機会をくれた以上、その機会を逃すはずがなかろう」


一拍の間。


「無理をすることにはなる。だが、これは“見せ所”でもあるのだ。――我がエジプトが、力だけではなく、恵みをもたらす存在であると、南の地に知らしめるために」


その言葉に、茜の目が細くなり、どこか楽しげな色が宿る。


「さすがファラオ。魅せ方も心得てる」


そして、視線をラムセスに戻しながら、言葉を重ねる。


「そういえばさ。灌漑工事が終われば、ヌビアにも多少の人員的余裕が出てくるよね?だったら、その人たちを使って、新しい軍団を編制することもできるんじゃない?」


ラムセスは眉を上げて聞き返す。


「……新たな軍団を、ヌビアの民で?」


茜はあっさりと頷き、さらに続けた。


「うん。ヌビアの民と、もっと上流のクシュの民も合わせれば、けっこうな規模になると思うよ。ただ……さすがに“アメン軍団”とか“ラー軍団”とか、エジプトの神様の名前を掲げるのは無理だと思うから、神の名を冠さない軍団って形にはなるだろうけどね」


ラムセス王は腕を組み、静かに沈思する。


「……ふむ。それならば、エジプト本軍の負担も軽減できる。神の名を冠さずとも、軍団として編成は可能……つまり、エジプトの枠を越えた象徴としての軍団、か……」


彼の眼が一瞬鋭くなり、次の瞬間、何かを閃いたように口角を上げた。


「――いや、余に良い考えがある。これについては、余に任せろ」


茜はその反応に、あっさり肩をすくめて笑う。


「分かった。私は軍制とかよくわからないし、どうせ私よりも王の方が向いてるってば。とりあえず、これで収穫量の向上と軍備の増強の目途は立ったね」


その何気ない言葉に、ラムセスはふと表情を和らげ、真っ直ぐに茜を見つめて言った。


「それも、全てそなたの功績と言ってよかろう。――ぺル=ラムセスに戻ったら、そなたにまた何か恩賞を与えねばなるまいな」


茜は目を輝かせて、手を叩くように喜ぶ。


「ほんと!? ラムセス王の恩賞、期待してるよ!」


王はその様子に、少年のような笑みを浮かべて応じる。


「フフ……余を誰だと思っている。余は、黄金の国エジプトのファラオだぞ。アカーネよ――今回そなたが、無傷で反乱を鎮圧して余の度肝を抜いたように、今度は余がそなたの度肝を抜く番だ。――楽しみにしておれ」


その言葉には、王としての誇りと、ひとりの友としての信頼が込められていた。茜も負けじと笑いながら立ち上がり、肩を軽く回して言う。


「それなら……私も、ちょっとくらいは期待しておこうかな?」


そして二人は、静寂の中で視線を交わした。


****


アニバの夜は、静かだった。


遠征の凱旋と王の約束を祝う酒宴の余韻が外の空に響く中、ラムセス王の私室の扉が、控えめに、しかし力強く叩かれた。


「入れ」


低く短いその声に応じて入室したのは、甲冑を外し、正装に身を包んだバトラー将軍だった。老いた体は厳粛に背筋を伸ばし、その顔にはどこか決意の色が浮かんでいた。


「これは、将軍……夜更けにどうした? 反乱鎮圧の件は、アカーネのおかげで、ほぼ無傷で収めたと聞いているが」


ラムセス王は椅子から立ち上がり、珍しい訪問に少しだけ驚いた様子を見せた。だが、バトラー将軍の神妙な面持ちに気づくと、表情を引き締め直す。バトラー将軍はゆっくりと進み出て、王の前に片膝をついた。


「ファラオ……謹んで申し上げます。――どうか、アカーネ様を、決して怒らせてはなりませぬ」


その言葉に、ラムセス王は目を細める。


「……アカーネが、真の神であることは、余もすでに承知している。だが、何があったのだ?」


将軍は一瞬言葉を選ぶように黙し、やがて深く頭を垂れて語り始めた。


「この度の戦、私はアカーネ様のすぐ傍らで拝見いたしました。……アカーネ様は、戦場にて、天空より――真に、炎を降らせました。神の怒りを体現するかのごとく。あの一撃で、クシュの精鋭戦士たちですら士気は崩れ、敵は戦意を失い、退却の声すら上げられずに崩れ去ったのです」


王は静かに息を呑む。伝令からも天空より火柱が落ちたとの報告はあったが、それを実見した者の言葉は重みが違った。


「……報告でも、炎が天より落ちたと聞いたが……まこと、神の業であったか……」


バトラー将軍は顔を上げ、真っ直ぐに王の瞳を見据える。


「はい。ファラオ、あれは……人の軍ではありません。あれは、神の軍勢です。アカーネ様の弓隊も、歩兵隊も、統率・機動・打撃、全てが常識の外にございます」


王が思わず黙する中、将軍はさらに声を潜め、言葉を重ねた。


「……普段、あの方は気楽に、人間のように振る舞っておられます。冗談も言い、笑いもします。ですが、私は確信いたしました。あの気楽さは、我ら人間に、恐怖を抱かせぬように――あえて演じられているものです。アカーネ様が、今なお我らに味方してくださっているのは、王国が、その意思を真摯に受け止め、尊重しているからに他なりませぬ」


ラムセス王は深く息をつき、静かに頷いた。


「……あの者は、確かに我が国に繁栄と希望をもたらしてくれた。しかし――怒らせれば、その恩寵は刃となり、破滅へと転ずる。そういう存在なのだな」


その瞳に、ファラオとしての責任と重圧が宿る。


「バトラー将軍」


「はっ」


「老骨に骨を折らせるのは、心苦しいが……そなたはアカーネとの縁も深い。今後もその傍にあり、そなたの目と耳で、アカーネの意思を余に正しく伝えてくれ」


その命は、信頼に基づく王命だった。バトラー将軍は再び深く頭を垂れ、力強く答える。


「お任せください、ファラオ。――アカーネ様との間に、より深き信頼を築き、必ずや陛下へ正しくお伝えいたします」


部屋に沈香の香りが再び漂い、夜の静けさが戻ってきた。


****


アニバの朝は、赤金に染まった空のもと、静かな熱気に包まれていた。


数日間の滞在を終えたマアニ族長と南ヌビアの部族たちは、故郷への帰還の準備を進めていた。だがそれは敗者の帰還ではない。ファラオの信任と未来への契約を携えた、誇りある旅立ちだった。広場には数名のエジプト技師たちが控え、彼らは王の命により、マアニの地で灌漑の測量を開始するよう命じられていた。その光景を目にしたマアニ族長は、目頭を押さえながら、そっと呟いた。


「……ファラオは、約束を守られるお方だ。我らを見捨てることなく、共に歩む道を選ばれた」


その感動の言葉に、傍にいた若い戦士たちも深く頷いた。やがて、一行の前に再びラムセス王が姿を現す。その姿は威厳に満ちていたが、どこか柔らかな親しみをも湛えていた。


「南ヌビアの灌漑事業には、時間がかかろう。しかし、余は必ず最後までこれを成し遂げるつもりだ」


そう宣言した後、王は一歩前に出て、マアニ族長の目をまっすぐに見つめて言葉を続けた。


「それと……そなたがアカーネに膝をついたあの地に、神殿を建てることにした。エジプトの神々、そしてアカーネを祀る神殿だ。あの地を、信仰と未来の拠点にする」


驚きと敬意が入り混じった顔で、マアニは深く頭を下げた。


「この身の全てをかけて、神殿建設に尽力いたします。ファラオのお言葉は、我らの誇りにございます」


王は満足げに頷いた後、視線を少し逸らし、まるで誰にも聞かれたくない秘密を打ち明けるように、声を低めて言った。


「……ところで、族長。灌漑を始めるとなれば、そなたの部族も多くの人手を必要とすることは理解している。だがそれとは別に――そなたの部族から、ある程度まとまった数の戦士を出してもらいたい」


マアニは驚いた顔で王を見たが、王はすぐに続けた。


「もちろん、ただの徴発ではない。これはエジプト軍としての編成だ。そなたの戦士たちが正式な軍団として、北と南を繋ぐ存在となることを望んでいる」


さらに目を細めて言葉を重ねる。


「そなたはクシュの他の部族との繋がりも深いと聞く。そちらからも協力を仰いでくれ。北ヌビアの族長たちにも声はかけてある。これは、王国の未来を見据えた軍制改革の一環だ」


その言葉に、マアニは深く息を吸い込み、静かに頷いた。


「……御意。ファラオがそのようにお考えならば、我ら南の民も、喜んで力をお貸し致します。我らが軍となりて王国に仕えること、これ以上の誉れはございません」


王はその返答に満足し、軽く右手を掲げた。


「だがマアニ、そなたの部族をはじめ、南の民や北の民から提供される戦士たちを正式に軍団としてまとめるにあたり、ひとつ問題がある」


マアニは立ち止まり、やや緊張の面持ちで王を見る。


「そなたたちに“アメン”や“ラー”といった我らの神々の名を冠した軍団を背負わせることは、信仰上も抵抗があるであろう」


マアニは静かに頷く。「……はい、ファラオ。我らの民もエジプトを敬いはしますが、神々の名を背負うことにはためらいがあります」


ラムセス王はその返答を受けて、再び歩き出しながら言った。


「だが……完全に無名の軍団にしてしまえば、今度は北ヌビアの族長たちが納得せぬ。象徴となる“名”が必要なのだ」


マアニは少し首をかしげるように考え込み、王の言葉の続きを待った。王は足を止め、マアニの方を振り返る。そして、まるで長い思索の果てにたどり着いた結論を語るように、ゆっくりと言った。


「アカーネ――あの名ならば、エジプトの神々とは異なる。だがその力と威信は、南北問わずヌビアの民に浸透している。そなたも見たであろう。あの者の戦いぶりを」


マアニの目が見開かれた。


「……その名を……“アカーネ”の名を、軍団に?」


王は静かに頷いた。


「うむ。第五軍団『アカーネ』――ヌビアとクシュの民を束ねる新たな軍団とする。神ではなく、守護者としての名。そして、そなたたちにとって誇りとなる象徴であろう」


その瞬間、マアニの目には涙が浮かんだ。


「……その名でしたら、我らクシュの部族も、そして――北の部族たちすら、誇りをもって従うことでしょう。ファラオ、心より感謝いたします」


彼は深々と頭を下げた。これは忠誠ではなく、信頼への返礼だった。ラムセス王は満面の笑みを浮かべると、やや声を張って宣言した。


「であるな……ならば、余はここに命ず。ヌビアとクシュの部族兵を集め、第五軍団『アカーネ』を編制する。余はこれより北ヌビアの族長たちとも会談を行う。南と北――分け隔てなく、この軍団は新たなる絆となろう」


マアニは顔を上げ、力強く頷いた。


「そなたたちクシュの戦士の派遣、よろしく頼むぞ。これは、余とそなたたちの、そしてアカーネを戴く我らの未来のための軍団だ」


そして朝の陽光のもと、“アカーネ”の名が、新たな軍の象徴として、歴史に刻まれようとしていた。


アニバの城門前には、朝の光が白く差し込み、南へ帰還する部族の列がゆっくりと動き出していた。馬のいななき、車輪の軋み、そして別れを告げる兵たちの声が入り混じる中、茜とその仲間たちは、マアニ族長らを見送るために門前へ立っていた。マアニ族長は茜の姿を見つけると、すぐに一行から離れ、砂塵を踏んで駆け寄る。そして彼女の前で膝をつき、深々と頭を下げた。


挿絵(By みてみん)


「アカーネ様……貴方様の御言葉は、まさしくファラオの御言葉でありました。貴方様の配慮あってこそ、我らは許され、そして――エジプトの繁栄のみならず、その名誉までも抱くことが叶いました。改めて、深く感謝申し上げます」


茜は少し目を瞬かせ、頬をかきながら答えた。


「え、えっと……うん。いや、そういうのはいいから。それより、これから灌漑工事も始まるし、色々大変だと思うけど頑張ってね。……っていうか、エジプトの名誉を抱くって、どういう意味?」


マアニ族長は微笑を浮かべ、ゆっくり顔を上げる。


「はい。先ほどラムセス王より、我が部族を含めたクシュの戦士たちを集め、新たにエジプト軍を編制するとのお言葉を賜りました。我らの戦士の一部は、すでにこのアニバに残ることとなっております」


「……あぁ、もうそんな話が行ったんだね」


茜は感心したように頷き、軽く笑う。


「灌漑工事が一段落してからだと思ってたけど……やっぱりラムセス王、行動早いなぁ。その話、数日前の夜、私と話してるときに決まったばっかりなんだけどね?」


マアニは目を見開き、息をのむ。


「まさか……アカーネ様もこの件に関わっておられたとは。――やはり、この恩恵は神の導き。改めて感謝申し上げます」


「いやいやいや、そこまで大げさに言わないでよ」


茜は苦笑しながら両手を振る。


「純粋なエジプト軍じゃないから、たぶんエジプトの神様の名前を掲げるような軍団にはしないと思うよ。でも、正式な正規軍として扱われるんだから、それは良いことだと思うけどね?」


しかし、マアニ族長は静かに首を振った。


「いえ、アカーネ様。――先ほど、ラムセス王から正式にお言葉がありました。我らヌビア・クシュの軍団にも“神の名”が与えられると」


茜は一瞬、言葉を失う。マアニの目は真剣だった。


「アカーネ様……我らは、貴方様の御名を掲げた軍団として、エジプトの第五軍団に編入されます。この名は誇り。ヌビアとクシュの戦士たちは、決してその御名を汚すような戦いはいたしません」


「…………は?」


茜は固まった。風が吹き、彼女の髪とマントを揺らす。頭の中は真っ白だった。


「ちょっ……ちょっと待って。私の、名前? “アカーネ”って、あの……軍団名になるの!?あの…ファラオ…やりやがった…」


思わず声を上げると、後ろからリュシアが落ち着いた声で言った。


「まぁ、新たな軍団の話を聞いた時から、なんとなくこうなると思っていました」


続けてガルナードが胸に手を当て、誇らしげに言う。


「主殿の御名が軍団の象徴になるとは、まさしく至上の名誉!」


「名誉じゃないから!!」


茜は顔を真っ赤にして叫ぶ。


「これからラムセス王に抗議しに行く!私の名前を使うなら、使用料払えって」


横で聞いていたユカナが吹き出す。


「使用料さえ払えば許すって……茜らしい落とし所ね」


「まぁ、あれだけやったんだから、これは避けられないでしょ」


ミラナは呑気に笑いながら続ける。


「でもさ、第五軍団アカーネって、名前の響き、神格爆上げフラグじゃない? 間違いなく伝説になるよ~♪」


「伝説とかいらないからぁぁぁっ!」


茜は頭を抱え、全力で叫ぶと、そのまま宮殿の方へ走り出した。その背中を見送りながら、ユカナとミラナは肩を寄せて笑い合う。


「やっぱり茜らしいわね」「うん、たしかに」


そんな喧騒をよそに、マアニ族長は城門の前で静かに立ち上がり、南の空を仰いだ。

その眼差しは、信仰と誇りに満ちていた。


「アカーネ様……貴方様の御名のもと、我らクシュの民は最後まで勇敢に戦います。決して、その御名を汚すことはいたしません……」


その言葉は誓いのように風に乗り、ナイルの流れに溶けていく。そして、その光景を後に残して、エンへドゥアンナの筆が静かに走る。


“南の風、再び吹く。

第五の軍、アカーネの名にて立ち、

その旗の影に、ヌビアとクシュの民が結ばれん――”

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