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74. お母さん

(……え……っ)


 強い力で押されたような衝撃が、心臓に走った。


 微力な治癒術。


 レドーラ王国の、男爵家の、メイド────


 微動だにせず自分を見つめる私の姿に、話に聞き入っていると思ったのだろう、コレット先生はクスリと小さく笑うと、続きを語りはじめた。


「私の実家には、多くの使用人がいたわ。メイドの仕事も見慣れていたから、それなら自分にもできるのではないかと思って。何人もの人に話を聞いて、道を尋ね、私はその男爵家を訪れたわ。家令の人と話していると、奥から当主の男爵が現れたの。彼はしばらく私の姿を見た後、声をかけてきた。多少誤魔化しつつ事情を説明したら、すぐに採用されたわ。……今なら分かるの。その時点で、おかしいと思うべきだったのよね。何の経験もない、家族もいない、紹介状さえ持たない小娘。そんな子を大して話も聞かず、よく調べもせずに採用するなんて。……こんな話、聞かせるのも申し訳ないのだけど」


 コレット先生はそこで言葉を区切り、ユーリの様子を確認した。息子はまだ真剣な面持ちでクレヨンを握り、向こうで黙々と絵を描いている。

 その姿を見た先生はほんの少し目を細め、小さな声で話を再開した。


「すぐに男爵に手籠めにされたわ。最初から、それが目的だったかのように。私は愚かな世間知らずだった。どうしていいか分からず、誰にも相談する勇気もなく、他に身を寄せる当てさえなくて、ただただ男爵の視線に怯えながら働き続けたの。……数ヶ月が経って、ようやく多少貯まってきたお給金を持って屋敷を出ようとした時には、体調が悪くなってしまって……。その後しばらくして、自分が妊娠していることに気付いたの」


 心臓が激しく脈打っていた。淡々と過去を語るコレット先生を見つめたまま、私は身動き一つできなくなった。喉が干からびたようにカラカラになり、声が出せない。

 一言も聞き漏らすまいと、私は彼女の言葉に全神経を集中させた。


「その時点で逃げておくべきだったわ。でも、本当に恐ろしくて……。たとえ一人で赤ん坊を産んだとしても、ここを辞めてお金も稼げなくなってしまったら、一体どうやって育てていけるんだろう。いっそこの子と一緒に死ぬべきなのか。……そんなことを悩んでいるうちに数ヶ月経ってしまい、私の見た目は大きく変化した。屋敷中の使用人の知るところとなったわ。その中の誰かが報告したようで、男爵夫人も私の妊娠を知ったの。男爵にされたことをようやく打ち明けたら、ひどくぶたれたわ。聞くに堪えない暴言の数々も浴びせられた……。恐ろしくて恐ろしくて、出ていきますと泣きながら言うと、さらにぶたれた。「外聞が悪いからここで大人しくしていろ」と怒鳴られたわ。……当時男爵夫人は、二人目の赤ん坊を産んだばかりでね、私のお腹の子を、自分が産んだ三人目の子ということにする、と。でも、そんなの無理だったのよ。もうすでに屋敷中の使用人が私の妊娠を知っていたんだもの。人の口に戸は立てられないわ。私が男爵家で赤ん坊を産んでからすぐに、その醜聞が社交界に広まったそうよ。狂ったように私を打ちながら、男爵夫人がそう叫んでいたわ」


 コレット先生は一度言葉を区切り、ふぅ、と息を吐いた。そしてゆっくりと紅茶を飲み、苦しい記憶を辿るように言葉を続ける。


「実家で言われたように、ここでも私はまた「国外に出ていけ」と言われたわ。当然、自分が産んだ子を連れて行くつもりだった。ところが、荷物をまとめて出て行こうとする私に、男爵夫人が言ったわ。「メイドと赤ん坊を屋敷から追い出したと思われれば、外聞が悪い。お前が赤ん坊を置いて失踪したことにするから、一人で出て行け」と。……私は涙を流して懇願したわ。どうか赤ん坊だけは連れて行かせてほしいと。今までいただいたお給金を全てお返しする、他には何もいらない。だからどうか、この子だけは……って。どんなに蹴られても、ぶたれても、あの時だけは男爵夫人を恐ろしいと思う余裕もなかったわ。赤ん坊を失いたくなくて必死だった。彼女の足元に縋りついて頭を下げたわ。……母親って不思議ね。あの瞬間、先の不安なんて何一つ考える余裕もなかった。子どもを守るためなら、全てを捨ててもいいと思えた。……けれど……結局私は、身一つで男爵邸を追い出されたわ。気が狂うほどに、辛かった」


 絞り出すような声でそう言いながら、遠くを見つめるコレット先生。その少しくすんだ翡翠色の瞳が、まるで失った我が子を探し求めているようで。

 私はもう、涙が止まらなかった。


 だって、全てを悟ってしまったから。


 コレット先生はふと我に返ったように私の方を振り向くと、あらあら、と苦笑しながらハンカチを取り出し、私の頬にそっと当ててくれた。


「変な話を聞かせてしまったわ。ごめんなさいね、レイニーさん。……それからもいろいろあったけれど、結局私は、おそるおそるこのセレネスティア王国に戻ってきたってわけ。実家や王都から遠く離れた街で、いくつかの店で働きながらどうにか暮らしていたわ。……月日が経って、実家の話も全く聞かなくなったから、王都に出て来たの。そしたら、エイマー治療院併設の保育園で保育士を募集していたものだから、訪れてみたってわけ。……小さな子どもたちと接する仕事は、楽しくてたまらなかった。まるで我が子の子育てができなかった分を、埋め合わせているようで。自分の心が、慰められたわ」


 コレット先生が過去を語るたびに、私の瞳からはとめどなく涙が溢れた。先生のハンカチを握りしめ、しゃくり上げながら、なんとなく私は腑に落ちた。

 この人に心を開いて、頼ってしまう自分。ユーリがなぜだか、他の誰よりもこの人に懐いた理由。


 追放され続けたこの人の人生は、私の心を締め付けた。


 彼女は雰囲気を変えるかのように、明るい声を出す。


「ふふ。こんな人生だったものだから、私は子どものお世話が大好きなんだと思うわ。ユーリくんも他の子たちも、皆可愛くて仕方がないのよ。保育士は天職ね。気付けてよかったわ。おかげさまで、今は毎日が楽しい。本当よ。……だからもう、そんなに泣かないで、レイニーさん。ね? 気を遣わせてしまって、本当にごめんなさい。……あなたは優しい人ね」


 私の背を撫でる温かい手に、ますます涙が溢れる。まま、どーしたのー? というユーリの声が、少し遠くから聞こえた。

 私は必死で気持ちを落ち着け、呼吸を整えると、彼女に尋ねた。


「……その、男爵家の、名前は……」


 背を擦ってくれる彼女の手の動きが、ピタリと止まった。

 しばらくして、静かな声が聞こえた。


「……シアーズ、といったわ。忘れられないものね。……私の産んだ娘がどうなったのか、元気に過ごしているのか、いつか知れる日が来るといいのだけれど。……名前さえつけさせてもらえずに離れてしまったから、ずっと心残りだわ」

「……ティナレインです」


 自然とそう答えた瞬間、また涙が堰を切った。

 え? と戸惑った声が、隣から聞こえる。


 私はたまらず彼女の方を振り向き、背中を擦ってくれるその手を握った。


「私の本当の名前、……ティナレイン・シアーズです」


 身動き一つせず、私を見つめるその人に向かって、大きくしゃくり上げながら私は言った。


「……お母さん……っ!」





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